二話『幻』
次に目を覚ました時には窓の外はすっかり暗くなっていた。
僕が覚醒した理由である、頭の上で鳴り響く携帯に手を伸ばしてディスプレイを確認すると咲夜さんだった。
「…はい」
『こんばんは、夜弦さん。私があなたの部屋を出てだいたい六時間経過しましたが、お加減はいかがですか』
時計を見ると七時だった。
夜と言っても差し支えのない時間だ。そんなに寝ていたのか。
喉はカラカラで、頭は変わらず痛い。
ぼんやりとした頭で言葉を絞り出す。
「いままで寝てた…」
『そうですか。もう一度そちらに行った方がよさそうですか?』
僕のところに見舞いに来た時の咲夜さんの顔を思い出す。
どこかやつれたような、そんな顔をしていた。
そんな人をわざわざ引っ張り出すのはいくら病人とはいえ気が引けてしまった。
「いいよ…もう一度寝るし…。明日の朝もこんな状態なら助けを呼ぶかも…」
『はい。いつでも呼んでください――薬と水分補給は、忘れずに』
「うん」
電話を切ると傍らにあったペットボトルのふたを開けて中身を一気に煽った。
三分の二ほど飲んだ後、薬を口に入れてのこりの分で飲み下す。正しい薬の飲み方とはとても言えないが、何も食べる気になれなかったし今回だけは大目に見てほしい。いったい誰に許しを乞うているのか分からないけれど。
僕はもう一度布団にもぐるとすぐに夢のない眠りに落ちていった。
それからどのくらいだったのだろう。
僕は夜の間に再び目を覚ました。
…歌が聞こえる。歌のせいで起きたのか、起きたから歌が聞こえるのか。誰の声だろうとうつらうつら考える。耳になじみはないけれどなんだか最近聞いた覚えがある。
少女の声。高い、澄んだ音。何の歌だろう。聞き覚えのないものだ。
もっと聞こうとして身じろぎをすると、ふいに歌が止む。惜しいな、と頭の片隅で残念に思う。もう少し聞いていたかった。
「おきたの? おにいさん」
そう言って僕の顔を覗き込んできたのは赤い目だ。部屋は暗いはずなのに彼女の姿だけははっきりと見えた。
――白い少女は僕の目を見て微笑んだ。
一瞬で眠気が吹き飛ぶ。自分が具合悪いことも忘れて掛け布団を引きはがし距離を取る。
にわかには信じられない事だ。なんで彼女がここにいて、しゃべって、笑っているんだ。そんなことあってはならないはずなのに。
メセウスの会の、かみさま。その少女がここにいることは絶対あり得ない。
だって、僕の前で胸を突かれて死んでしまったのだから。
「…君は昨日か一昨日死んだばかりだろ。化けて出るにしてもせっかちすぎるよ」
激しく打つ鼓動と荒くなる息を無理やり押さえつけながら僕は平坦な声音を意識する。
生前の彼女にあまりいい感情を持っていなかったのもあって辛辣な言葉を投げつけてしまった。
「わたしは、かみさまだもの。いつでも出てくるし、どこにでも行くよ」
僕の言葉を理解しているのかしていないのか、柔らかな笑みを浮かべたままにそんなことを言う。
…なるほど。
混乱する思考の中でひとつ、たったひとつ確かな答えが出た。
幻覚か。僕の中で作り出された何かしらの感情が人の形を取ったのだろう。
頭痛と熱から作り出した幻覚はこうも悪趣味なのか。なんで死んだばかりの少女を――それも姫香さんを庇って死んだ子を僕の脳みそは再現しようと試みたのだろう。
「なら、姫香さんのところに行ってやりなよ。彼女も体調不良なんだって。八割がた君の責任だろ」
胸の傷と、心の傷。どちらも一生残るだろう。
姫香さんに重すぎる置き土産を押し付けていったのだ、この少女は。死ぬ前に生者に荷物を残していく行為がいかに相手を苦しめるのかを分かっていない。
生きて、だとか。愛してる、だとか。
そういうたった一言ですら残された人間を一生縛り付ける呪いになるのだ。ならば「自分の身代わりに死んだ」という事実は――どれほどの重りになるのだろう。
「うーん。わたしと同じところに連れて行っていいなら会いに行くけど」
しれっと少女は恐ろしいことを口にした。
でもそのようなことは言っていた。ドアを挟んで。あれが僕たちの交わした最後の話だった。
僕が言葉を失っていると少女は口に手を当ててくすくすと笑う。あの時はもう少し抜けている雰囲気だったのに今は得体のしれない存在だった。本当に僕の脳から作り出されているのか疑ってしまう程に。
「でも、おにいさんと約束したから。あなたがあの子を殺すまで待ってるつもりだよ」
「……、」
月を背に立つ少女は神々しく、ぞっとするほど冷たい輝きを放っていた。足元には影はなく、彼女がこの世のものではないということを示していた。
幻覚にしてはあまりにも――。ならば、これは夢だろうか。
僕は彼女に質問しようとして言葉に詰まる。
おかしいな、彼女はなんていう名前だったっけ。確か姫香さんが言っていたような――そこだけ切り取られたかのように思い出せない。
「かみさまでいいよ。かみさまにはねえ、名前はないからだいじょーぶ」
まるで僕の思考を読んでいたかのように彼女は答える…いや、僕の思考か。能天気にぶいっと少女はピースを作る。おおよそ『神様』らしいとは言えない行動であった。
それにしても優しい脳内設定だ。自分の頭の中の処理は変わらず優秀だと再確認した。まあ導き出される答えが優秀かと聞かれるとそうでもないのだが。
「…かみさま」
「なんでしょう、おにいさん。いいや、迷えるこひつじちゃん?」
「僕は、姫香さんをほんとうに殺さなくてはだめなのかな」
「殺したいくせに?」
嘲るでもなく、ただ、ほんとうにきょとんとした顔でかみさまは言う。
「そんなに殺したいのに?」
「…違う」
「ふうん」
かみさまは小首をかしげる。風もないのに彼女の白くて長い髪が揺れた。
夢のように幻想的だったが、冷汗の出ている僕はそれどころではない。
どうして、どうしてあの時僕は姫香さんを殺したいと口走ってしまったのだろう。なんで今の今までそう言ったことに疑問を持たなかったのだろう。だって、彼女を殺したい理由なんて僕にはないはずなのに。
「今のおにいさんには殺す理由はないねえ。でも昔のおにいさんにはあったんだよ」
何もかもを見透かしたような目で神様は続ける。
「あとね、殺すのはひめかちゃんだけじゃないよ」
「なに?」
「おにいさん自身、今のために過去のじぶんを殺すか、過去のために今のじぶんを殺すか。どっちかだよ」
「…随分ひどい二択だな…。精神衛生があまり良くないということが分かったよ…」
かみさまは声もなく笑った。その含んだ笑いが何を意味するのかは知らない。
ずきんと電流を流したような頭痛を感じ、僕はそのまま布団に倒れる。いったいどこからが僕の夢で、どこからが現実なのか分からないのが気持ち悪い。
とりあえず、眠ろう。今日よりはましな明日でありますようにと祈りながら。
〇
ひんやりとした手が僕の額に触れる。
重い瞼を開けて目の前の手から腕へ、腕から肩へと視線を辿らせていく。
「おかあさん?」
僕がぼやけた輪郭に向かって聞くと、苦笑いが返ってきた。
「ごめんね。あたしだよ、ヨヅっち」
「ああ…百子さん」
優し気な笑みに僕はほっとする。
前髪を撫でる感触が気持ちいいけれど、同じぐらい気恥ずかしい。
百子さんをおかあさんって間違えたこととこうして撫でられていること、成人男性としてどうなのだろう。
こっそりとあたりを見回す。
かみさまの気配は、朝日の差し込む部屋にどこにも見つけることは出来なかった。




