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アンティーク姫のいる探偵事務所  作者: 赤柴紫織子
間章 グランギニョル
207/278

二十六話『さようなら、今日。こんばんは、明日』

「…ケンくんは本当に、自分の身の回りの人になにかあるとすぐ狼狽えるよね」

「うるせえ」


 ソファに横になってふてくされてみるが、最高に格好悪いのは変わりがないと思った。

 ケンイチの転移発言に俺は何を言えばいいのか、いや、何を思えばいいのかすら分からなくなって反射的にモモに助けを求める連絡をしていた。

 何事かと顔を青くして駆けつけてきたモモは、一通りの事情を聴いて驚いたものの俺よりはまだ冷静だった。


「それにしても…所長、なぜそんなになるまで放置していたのですか?」

「個人経営だとどうしても先延ばしにしちまうんだよなあ、人間ドッグって。おれの場合、正規の会社に勤めたこともなかったから忘れていた、のほうが正しいな」


 まるで正規ではない会社には務めたことがあるような口ぶりだな。

 俺もよく考えれば仕事はここしか知らない。万が一にも探偵業ができなくなったら何ができるのだろう。


「お前らもちゃんと受けておけよ。ただでさえ人が集まらない事務所なんだからいなくなると補填に困る」

「いや、今はそういうのはいいんだよ。あんたの癌が治るか治らないかって話だ。手術はするんだろ?」

「手術は出来ない。転移した部分は切除できるだろうが、大本は顔の深く――上咽頭だ」

「上咽頭?」

「説明がめんどくさいな。のどちんこの裏っかわらへんだ。そんな部分にできるのはレアらしい」

「嫌なレアですね…」

「手術できないって、どうにもならないってことか…?」

「ケンジ、実はな、世の中には放射線治療とか抗がん剤っていうのがあるんだぞ。うかつに触れるとやばいところがごっそりあるから手術は出来ないけど対処はちゃんと出来るんだよ」


 あまり絶望的な状況ではないということは分かった。

 それでも俺とモモは楽観的なことも、上手な慰めも言えないままにケンイチの次の言葉を待っていた。


「おいおい、今から神妙な顔になるなよ。まるでおれが死ぬみたいな空気じゃないか」

「当たり前だろ…あんたはどう思ってんだ、今」

「おれとしては医師に禁煙を言い渡されたほうが死活問題だ」

「そういう問題かよ」

「そういう問題だよ。どんな大事件が起きたって飯は食わなきゃならないし娯楽だってほしくなる。日常と非日常は切り離せねえよ」

「何かっこつけてんだ」


 ぶんなぐられた。思ったより元気じゃねえか。



 それからは、今までのように変わりのない日々が流れた。

 ケンイチがどこかキツそうな様子だったり、通院で事務所に俺とモモだけになる日が多くなるなど、なんとなく変化しつつある生活に戸惑いを感じながらも上手くやりくりしていた。


 俺たちに癌だと告げた日から一月ほど経った晩、俺が風呂から上がると自宅のリビングでケンイチはノートパソコンの画面を眺めていた。

 パソコンに刺さっているUSBはどこかで見たことのあると思ったが、ついている根付ストラップからモモのものだと思い出す。


「モモからパクったのか?」

「あ? 何が?」

「USB」

「ああ…おれがあいつ相手にそんなことできるわけないだろ。ソフトウェアぶっ壊されるに決まってるじゃねえか」


 良心からではなく報復が怖いと。実にケンイチらしい理由であった。


「第一ケンジが椎名の携帯弄って激怒していたのいまだに覚えているからな。無駄に喧嘩を売りたくない」

「その話はもうやめてくれ。思い出したくもない」


 一昔前にいたずらでモモのスマホを弄ったら切れたモモがハッキングして俺のスマホが、その、いろいろと大変なことになってしまった。

 思い出すのもトラウマなのであまり語りたくない。


「モモのUSBで何しているんだよ?」

「エロゲ」

「あのさぁ…」

「嘘。調べものだよ、『鬼』について」


 さらりとあの名前を出すものだから俺は飲んでいたお茶を噴き出した。

 まさか漫画みたいなことを俺がすることになるとは思わなかった。


「きったね」

「うっせえ。…いきなりその名前がでてびっくりしただけ」

「最近特に触れてもなかったしな。向こうも優秀な情報屋がいるのかだいぶ椎名がてこずっていた」

「あいつに手こずるってものがあったんだ…」


 なんでも出来てしまうように思っていた。

 モモも一人の人間だからそういうこともあるのだろう。でもちょっとイメージにないというか。


「もう少し深く調べてほしかったんだが、これ以上は椎名がハックされてヤバくなるからいったん手を引かせた。今見ているのはそれまでの成果ってわけだ」

「ちょっと待てや。モモがヤバくなるってなんだよ」

「…おまえ、親しい人間のことになると途端に余裕がなくなるぞ。それ致命的な弱点だからなんとかしておけよ」

「別にあんたのこと親しいとか思った事ねーし」

「おれのことだとは一言も言っていないだろこのクソガキ」


 ケンイチはため息をついて言う。


「椎名も引き際は分かっているし身の守り方も知っている。お前はもう少し仲間を信じたほうがいいんじゃないか? 誰もかれもそんなにヤワではないんだから」

「…らしくもない説教だな」

「ここは大人として一発言っておかないといけないだろ?」

「よく言うよ」


 唇を尖らせた俺にケンイチは苦笑いをする。

 ふと、そういえば最近あのむかつくような笑いを見ていないことに気づいた。見ないなら見ないで精神衛生にとてもいいのだが、少し気になってしまう。

 それどころか、最近のケンイチはどこかピリピリとした空気をまとっているように思えた。うまくうまく隠しているけれど。


「…いつ頃だ?」

「は?」

「『鬼』。襲撃に行くんだろ? いつかは知らないけれど遠い先ではないって分かるよ」


 ケンイチはぽかんとした。


「え、なに。知ってるの? おまえに面と向かって言った覚えないぞおれ」

「バーカ、何年あんたの部下やってると思ってんだ。こんなに執念深く調べておいて何もしませんは逆に変だろ」

「…ケンジ、付いてきてくれんの」

「あんた一人で行ったってどうしようもないだろ。どのくらい相手が強いか知らないけれど背中を守るぐらいならできる」

「ヒューッ! イカしたこと言えるぐらい生意気になったのかよおまえ!」

「や、やかましい!」


 殴ってやろうかこいつ。

 本当にこいつは人の覚悟を茶化しやがる。だんだん恥ずかしくなってきた。


「…有難くその覚悟を使わせてもらおうかな。万里江さんがいたら激怒だろうけど」

「分かる」

「ま、少なくとも襲撃それは今日ではない。だから安心して眠るがいい」

「今日だったら困るどころの騒ぎじゃないんだよなあ…。じゃ、おやすみ」

「ああ、おやすみ。我が息子よ」


 調子のいいこと言ってる。

 何か色々言い返してやろうかとも思ったけれど、どこか憑き物が落ちたような顔に何も言えなくて、俺はただ「おやすみ」とだけ返した。

 やはり『鬼』に一人で行くつもりだったのだろう。気づけて良かった。

 俺だって怖い事は怖いけれど、ケンイチがいるなら大丈夫だろうという根拠のない自信があった。あいつといれば大体のもめごとには負けたことがなかったから。




 聞きなれた音がずっと流れている。

 それが着信音であることに気づき、俺の意識は覚醒した。いや、強い眠気が泥のように身体を覆っており気を抜けば今にでも寝てしまいそうだ。


「くそ…なんだ…」


 ディスプレイにはモモの名前。

 時間は――午前三時。

 こんな時間に意味もなく連絡してくるような奴ではない。何かあったのだ。

 一気に目が覚めて通話ボタンを押す。


「もしもし、どうした」

『開けて、今ケンくんの家の前にいるの』


 メリーさんみたいなことを言う。


「俺の…?」

『いいから! それに、所長は今そこにいる!?』


 焦燥に満ちた声だった。

 俺は体を起こし、起き抜けでふらつく足取りのままケンイチの寝室をノックした。どうせすぐには起きないだろうとドアを開け電気をつける。


「おい起きろ、モモが今そこに…」


 ケンイチの部屋は、もぬけの殻だった。

 布団をめくっても誰もそこにはいなかった。

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