十八話『神様だって』
殺せ。殺せ。
僕の耳元で誰かが叫ぶ。『虎』を殺せ。『龍』を殺せ。『鬼』を殺せ。
邪魔するものみな排除しろ。ただ前に進むのみ。
そんなもの、分かっている。
天井を見上げながらぼうっと誰かに返す。
言われなくてもやってやるさ。
ずっと前から目的は変わらない。そうだろ?
ふっと目の前が暗くなり、足底が見えたので慌てて回避する。
まったく空気の読めない野郎だ。
いや、読めていないのは僕のほうだったか。生死をかけている時に他のことを考えている場合ではないな。
「どうした。随分動きが鈍ってきたようだがこれで終わりとは言わないだろうな?」
「まさかぁ」
挑発とも呆れともとれる言葉に僕はにへらと笑う。
鈍ってはいないさ。殴られたり防御しきれなかったところが痛いけれど、それも動けないほどではないし。
ただ、こんな時に思い出してしまっただけだ。
「お母さんは、たまに教会に行ってミサに出ていたんだ」
かみさま。白い服。白い壁。
それらが僕の水底に揺蕩うひとつぶの記憶を掬った。
「ミサヴェールを被って、一心に祈りを捧げる横顔を僕はいまだに覚えている。いや、思い出した」
突拍子もない話題に眉をひそめたものの、ハ、と三澤は笑う。
そのこぶしは皮がずる剥け赤に染まっていた。後先考えずに僕を殴ろうとするからだ。避けられた時に壁や床に叩きつけ、結果的に自分を痛めつけている。まあ、その威力がそのまま僕に向かっているということだが。
「マザコンかよ」
「そうかもしれない。僕の世界には彼女しかいなかった」
もちろん父もいた。お手伝いさんもいたし、同級生も、先生もいた。
だけど当時僕の世界は狭くて、その中で長く時間を共有していたのは母だけだったのだ。
僕らは鳥かごの鳥。大事に大事に守られて、孤独に死にそうで。
あの生活の中でお母さんを救っていたのはなんだったんだろう。
「何に祈っていたのか知らないけど、でもきっと大事なことだったんだ…」
きれいな横顔だった。
窓から差し込む光が教会の白い壁に反射し、いっそう母の横顔を輝かせていたように思う。
「お母さんは死んだ。心臓に銃弾を受けて即死だ。あげくのはてに、首を切り取られた」
「碌な死に方じゃねえ」
「そうだろうさ」
瞬きを繰り返す。
これ以上過去に浸っていればお母さんの幻影を探してしまう。
そんなもの、どこにもないのに。
「どの組織も死体をめちゃくちゃに損傷させるもんだから結局途中まで『虎』『龍』『鬼』のどれの仕業なのか分からなかった」
「…だから、片っ端から壊していったというつもりじゃないだろうな」
「その通りだよ」
僕は唇に笑みを浮かべる。
本当に、物分かりがいい。物分かりのいい奴は好きだ。
ひとつひとつ段階を踏まないでも僕の言わんとすることを分かってくれる。
言葉での脅迫は結局両者がそれなりに頭が回る者でないと意味のないものなのだ。
「…キチガイめ」
「自覚はしているよ。…笑えるよな。生き残ったのは熱心な母親より祈りの真似事をしていた息子のほうだ。神様なんてのは何にも見ちゃいない。盲目なんだ、きっと」
重心を前に傾ける。倒れこむ直前に足を踏み出し、力強く床を蹴る。
三澤との距離が一気に縮まる。彼は腹を腕でかばう。
でも残念、そこじゃないんだ。
つま先で地面を押す。僕の身体が重力からつかの間解き放たれる。空中でくるりと前転。
かかとを、三澤の仮面の中心部分に叩きつけた。
勢いがなくなると同時に床に転がり、二回転して距離を置いた。すぐに体勢を立て直して相手の動きに注意する。
驚くべきことに、かかと落としを食らってもなお三澤は立っていた。
仮面ってすごいな。防御力あったのか。
当の仮面は中央からひび割れており無残なありさまだった。
三澤は仮面をつかむ。力を籠めると、ひびが大きくなり、はじけた。
その下にあった顔は鼻はひしゃげて血が噴き出し、長年のものだろうクマが目元を彩っている。
だがその瞳はらんらんと輝いていた。
神崎を思い出させる。殺しを楽しむ目だ。
質の悪いクスリやアルコールのように、一度は断っても味を忘れられない。
闘争から逃げられないんだな、僕たちは。
でも、三澤はそれを一時期でも忘れられたのだ。『かみさま』という存在で。
「なあ、教えてくれ。あの『かみさま』は、お前にとってなんの価値がある?」
「神の価値?」
三澤は馬鹿にしたように口元をゆがめた。
口の中も切ったのか、鼻から口から血が流れていて凄惨な眺めだ。
「神の価値を問うか。水をつかむよりも難しい問題だな、それは」
「問いを変えよう。…何のために戦った。何のために死んでいく。あの少女に何を捧げた! どうして…」
「…なんでなんでってうるっせえんだよガキ…」
笑みは瞬く間に消え、苛立たし気に三澤はつぶやいた。
「期待しすぎなんだ。そうして勝手に絶望していい迷惑だろうよ」
「……」
僕は言葉を詰まらせる。
むかついたけれど、確かにその通りだ。
救ってくれるはず、助けてくれるはずと望んでいたのは僕の勝手な考えで。
そんな都合よく物事が動くわけはないのだ――。
「俺の『かみさま』は、俺の存在を認めてくれた」
「それだけ?」
「そうさ、おめおめと逃げて流れ着いた俺を、『かみさま』は認めた。それだけで十分なんだよ…」
そんなの、ただの人間でもできることじゃないか。
反論しようとして言葉が止まる。こいつには認めてくれる存在は居なかったんだ。
足りないところを埋めたのがあの白い女の子なのだろう。
あの子のそばにいるためにずっとここで生きてきた。自分を隠して。静かに。
僕が崩すのだ。その生活を。ためらいはあるか?
「…何と言おうと、どう笑おうと、貴様みたいなやつに『かみさま』へ手出しさせるわけにはいかない……ここで死ね!」
三澤から『虎』の構成員の片鱗が見えた。
ああ、殺さないと。ためらいなどない。
『龍』も、『虎』も、『鬼』も、全部殺さないと。
そのためになら神様だって殺してやる。




