一話『夢の中』
目を開けると、僕は砂浜に立っていた。
どうしてこんなところにいるのか。普通に布団にもぐったはずだが。不思議に思いながら足元を見ると、小さい足が目に入った。
驚いて手の平を広げるとやはり見慣れたいつもの大きさではない。まるで僕が縮んでしまったかのようだ。
――これは小学校の頃の僕だ。
理由はなかったけど、そう確信した。
ここは夢の中らしい。
その証拠に足の甲に被さる波の感触は一切ない。潮の香も、海の音も。
海の情景だけがはっきりとしているのはそれほど僕にとって印象深いということか。
状況確認が済んだところで目線を上げると女性が前をゆっくりと歩いていた。
『お母さん』
僕が呼ぶと、女性は立ち止まり、振り返ってほほ笑んだ。
美しいひとだ。自慢の母親だった。
いたずらを思いついてはすぐに実行して、たまに父親に怒られていた。
『夜弦』
両手で僕の頬を包み込む。
温もりも感触も感じない。
だけど僕を映す瞳の優しさは確かにそこにあった。
『生きて』
海は消え去り、周りは暗い。僕は窮屈なところに居た。
時間がなくて、そこにしかお母さんは僕を隠せなかったのだ。
お母さんが扉を閉めようとする。それを止めようとした僕に、珍しく厳しげな視線を送って、僕は動けなくなってしまった。
扉を閉める直前、彼女の首がごろりと落ちて転がった。
…ああ、きっとダイジェストで過去を見ているのだ。
そして僕は傍観者で、なんにもできない。
夢の中ですらお母さんを助けることはかなわない。もう死んだと分かってしまっているから。救うことが出来ないと諦めているから。
暗闇から抜け出そうとして不意に周りが広く、そして明るくなる。
ここは…病室だ。記憶を失った僕が目覚めたところ。
よほどひどい傷を負っていたのか僕は隔離された病棟にいた。変にセキュリティも厳しかったことが印象的だ。
結構長い間入院していたのにあまりはっきりと覚えていないようで、あちこちぼやけた造りをしている。
出口にたどり着き、扉を開けると探偵事務所の真ん前に繋がっていた。どこでもドアか。
事務所に入ってみようかと思っていると、甲高い音をたてて鍵が足元に落ちてきた。
なんの鍵だろうと持ち上げるとコインロッカーのものだ。認識するとさらさらとそれは崩れて消える。
『夜弦』
声のする方向に顔を向けると姫香さんが事務所の来客用ソファに座っていた。
対面する僕も同じようにソファに身を沈めていた。
『助けてくれる?』
抑揚のない声と共に耳たぶと首筋から血が溢れ出る。
咄嗟に彼女に伸ばした手が止まる。
そこに座っていたのは姫香さんではなく神崎だったからだ。
『母親との輝かしい思い出、別れ、死体。偏りはあるけどずいぶん思い出してきたじゃないか?』
ウェイター服の姿の彼は我が物のようにソファにふんぞり返っている。
『それなのにどうしてお前は、記憶を思い出しつつあることを所長に言わない?』
「…それは」
あまり声を覚えていないこともあってか、よく聞くニュースキャスターの声をしていた。
こんな話し方だったかもわからない。短い時間でしか会話を交わしていないし、それも一方的だったからイメージでどうにか脳がひねり出したのだろう。そんな努力しなくてもいいのに。
『信用できないからだろ? あの男がお前に本当のことをしゃべったことはどのくらいあるのかな』
「やめろ」
『これは夢で他者からの干渉を受けるはずがない。なあ、夜弦くん? だとしたら、この言葉の真実は分かるはずだよな?』
「やめろっ!」
分かっている!
だけど、それを言うな――言わないでくれ!
『おれは神崎ではない。神崎の形をしたお前の心なんだよ。都合の悪いことを敵であるおれに擦り付けて否定しようとしている。そうだろう?』
神崎は立ち上がる。
夢でもなんでも一発ぶん殴ってやらないと気が済まない。僕はそう考えて腰を上げる。
が、何度目かの場面転換が起こった。
どこかの家、アパート、事務所、病院、書類に埋もれた部屋、死体だらけの通路。
テレビのチャンネルをせわしく変えるように何度も何度も景色は変わっていく。
僕の記憶。僕がいるところ。僕がいたところ。懐かしさを感じさせるところ。何とも言えぬところ。
そうして、僕は最初の浜辺に立ち尽くしていた。
誰もいない。
先ほどの瞬間的な怒りも冷め、どうしようもなく寂しくなって足元に落ちていた巻貝を拾い耳に当てる。
お母さんは波の音がすると言っていた。貝が海の声を覚えているのだと。
『どこに帰ればいいんだろうね』
聞こえたのは波ではなく人の声だ。誰の声なのか分からない。
でも、なんとなく小さなころの僕のような気がした。
僕に帰るところはあるのだろうか。




