二十二.五話『おじいちゃん』
夜弦が帰った後、姫香は何食わぬ顔で出て来た。
しっかり話を聞いていたのに知らぬ存ぜぬの態度は清々しい。
聞かれていることを城野は知っていたし、おそらく夜弦も同じだろう。彼が気にしなかったので城野は特に注意はしなかった。
感覚的に姫香が『鬼』の関係者だと気付いているのかもしれない。
ただ、はっきりとしたものではないだろう。もしそうならば夜弦が城野から少し身を引いたのと同じように姫香からも距離を置いているはずだ。
「にいさん」
窓の外を眺めていた姫香が振り向く。
てっきり先ほどの話をするのかと思ったら、違った。
「渡会、来る」
「…今、十一時だぞ。夜の」
姫香は言われても困るといった顔で肩をすくめた。
階段を上る音。一人だ。
依頼が終わったことを連絡してからそこそこ経ってはいた。連絡を受けてこちらにすぐ向かってきたのだろう。
「……ヒメ。先に帰っていてくれ」
こんな夜間に一人帰らせるのは保護者失格だろうが、幸いここらは治安はいいほうだ。
そして住んでいる家も十分足らずで着ける。
姫香はただ頷いた。そして、ドアを開ける。そこには渡会がいた。
「おっと」
今まさにドアを開けようとしていた男が驚いた声を上げる。姫香はリアクション一つ起こさず、頭を一つ下げて出ていってしまった。
それを茫然と見送り、男は…渡会は城野に目をやる。
「夜に一人は危なくないか?」
「あいつは悪運が死ぬほど強いから大丈夫だろ。…データをわざわざ取りに来たんですか」
ソファに招き、対面に座る。
機嫌悪そうに取り出したのはサングラスと小型の録音機。
サングラスには超小型のカメラがついており、パソコンと接続することで画像が見れるすぐれものだ。
ただし値段もそこそこするので、先代所長と城野が揉めたことは言うまでもない。先代所長はいつか役に立つか分からないものを買ってしまう性格だったのでしばしば殴り合いが起きていた。
結果的に役に立ったのだが。だが購入した本人の先代所長が使うことはついになかった。
記録機器を丁寧に回収する渡会。
万が一この内容が漏れたら百子の怒りは今度こそ手が付けられなくなるだろうとぼんやりと城野は思った。
二度も同じ轍は踏まないと信じたい。
「ねぎらいの言葉ぐらい必要だろうと思ってな」
「いらないっすよそんなもん」
渡会が煙草をくわえる。
ライターを取り出すと火をつけて、それを渡会の煙草に近づけた。
灰皿は無いので簡易のもので我慢してもらおう。
「…なんだか、パーティー会場は大変なことになったようだが」
「早いですね。そっちにももう情報が?」
「断片的だがね。椎名の実家の情報収集力に比べれば微細なものだ」
城野は自分の煙草にも火をつけた。
事務所で吸うのは久しぶりな気がする。
「…あんたが追うような事件じゃないだろ」
「まあ、一戦からは退いているからな。しかし情報を抜かれたことといい、気になることが多すぎる」
「後続に任せておけばいいのに…いや」
姿勢を正し、城野は渡会を睨みつけんばかりに見た。
「ジジイ。もうさっさと引退なりなんなりしろ」
威圧的な言葉だが、渡会は苦笑いしただけだった。
「お前までそれを言うか」
「年の問題じゃないぞ。いつまであの組織ーー『鬼』の残骸をおっかけまわしているつもりだ」
「……」
「出てくるのは埃しかない。『鬼』は壊滅した。それでいいだろ」
「砂山を崩したところで、砂そのものが消えるわけではなかろう?」
和やかに、彼は言う。
その表情を、達観したような顔を見て城野は一瞬言葉を失った。
「やめろ。やめてくれよ。そんなに重箱をつついていると、残党やら生き残りやらに――殺されるぞ」
事務所の仲間と話した内容が頭の中を回る。
『鬼』。見せしめ。関係者。殺人。
そして、偉そうに『鬼』に関わるなと言っておきながら、城野も城野でなおも関わろうとしている。
矛盾しているのだ。関わるなと懇願しながら、自分は積極的に探ろうとする。
死ぬかもしれないということは重々承知で。
それはもう、殴られても怒鳴られても自分から終わることが出来ない呪いなのだろう。
「止まるわけにはいかない」
「……」
「娘とその旦那を殺された父親としてごく当然の思考だ。違うか」
「……間違えているとは言わねえぞ。ああ、言わない。だけどな、あんた、あんたには、人としての死に方をしてもらいてえんだよ」
城野は煙草を乱雑に簡易灰皿に押し込む。
あまりに噛みしめすぎてフィルターが千切れかけていた。
「おばさんは事故だったのかもしれない。だけどその死体は弄ばれた。あのクソ上司は…あいつだって分解された」
「……」
「あんたまで『鬼』の残党の手にかかって死んだなら、もう気が狂いそうだ。やめてくれよ、本当に」
「…危険な仕事ばっかり押し付ける老人にそんなことが言えるんだな」
「今俺が話しているのはどっかの警察のクソジジイじゃねえ。おばさんの父親に話しているんだ」
渡会と目が合う。
城野の記憶の中の育て親と顔は一致しなかった。恐らくは母方に似たのだろう。
落ち着いた喋りかただけは、育ての母親にそっくりだ。
「素直におじいちゃんと言えばいいものを」
「血のつながりがちょっとしかねえよ。遡って曾祖父ぐらいの血だって聞いた」
「ああ、そうだったな」
城野は二本目に火をつけた。
「俺は、クソ野郎が死んでからのことと、あの晩『鬼』が壊滅して以降の面倒を見てくれたからあんたの依頼を聞いてるだけだ。
ほんとうに、血のつながりから言えばあんたにはさっさと引退して呑気に暮らせと思う」
「そっくり同じことを言えたらいいんだが。『探偵業をやめて真っ当に暮らせ』とな」
「……」
「だが、わしは結局お前のことを孫ではなくビジネス相手としか思ってないのかもしれない。心配する気持ちこそあるが…お前の存在は便利すぎる」
へっと城野は鼻で笑った。
分かり切っているとでもいうかのようだ。
「んなもん、最初から分かってんよ。今更気にしちゃいねえ」
「すまない」
「謝らないでくれ。惨めになる」
二人はそれきり言葉を発しなかった。
日付が変わる前になって渡会は立ち上がる。
「データは貰っていくぞ」
「サングラスは中身保存したら返してくれ。高かったんだよそれ」
「分かった。ではな」
「ああ」
簡単に別れの挨拶を済ませ、それ以上に何を言うこともなく、渡会は事務所から消えた。
窓から迎えの車が来るのを見送ってから城野はその場にズルリと座り込む。
「薄々気づいてたけど…面と向かって孫じゃないと言われるのはキツイな…」
生みの親は城野を生んだころより経済的に豊かになり、弟が何人かいると聞いた。
育ての親は死んだ。兄弟はいなかった。
実の祖父は知らない。義理の祖父はビジネス相手だ。
家族と言えるものがいない。そのことが、あまりにも重くのしかかった。
「いや…」
ひとり、いた。
血も繋がらない、付き合いも浅い、不愛想な少女が。
親の仇の娘が。
「帰らないとな…。ああでも煙草くせぇし換気しないと」
もしも姫香が『鬼』として生きる道を選んだらどうすればいいのか、城野は考えたくはなかった。




