二十二話『もしかしたら後手の話』
ここに及んで『鬼』の名が出てきたために事務所内に微妙な沈黙が降りた。
この中で一番組織と関わっている所長は「そうか」と言って机の上に行儀悪く足を乗せた。
「『鬼』かぁ。『鬼』絡んでくるのか。めんどくせえな」
「で、でも、もっと違う理由があって殺されたかもしれないよ? だってそんな、『鬼』の関係で殺されたというなら――」
百子さんはそこで言葉を止めた。
あまりに恐ろしい予想を、口に出来なかったのだ。
代わりに咲夜さんが繋ぐ。
「『鬼』はまだ生きているということになりますね。その残党、といいますか」
「『龍』だって生き残りが居たぐらいなんだから珍しくもないけどな」
「いえ。生き残りは生き残りでも、行動力のある生き残りでしょう。
私たちの間ではすっかり日常茶飯事になりましたが――殺人は、かなり労力を使うものですよ」
そんな日常茶飯事嫌だ。と思ったが確かにその通りなので口ははさめない。
「隠れているだけならまだいい。しかし、殺しました。理由は不明。タイミングも不明」
「…『鬼』が絡んでいるならば、ここからまた何かが起きる可能性があるってことですかね?」
「さぁ。それは私にも」
まあ、何も起こらないわけがないだろう。
それまでじっと会話を聞いていた姫香さんが小さく手を上げた。僕らの注目が集まる。
「あの中に、『鬼』の、関係者、いたとしたら?」
「あの中?」
「パーティー、参加者。関係者への、見せしめ、だと思う」
所長が顔を険しくした。
まさか連中も『鬼』殺しの張本人が混じっているとは考えていなかっただろうが…。
あのアウトローな集まりだ。ほんの数年前まで存在していた組織と繋がっている人間がいたとしてもおかしくない。
神崎が『鬼』の一員で、見せしめの為に殺したというのなら…いったい誰に向けて?
僕の知らない『鬼』の関係者があそこにいたということになる。
今回は殺人以外はしていないということは、まだ様子見の段階だったのかもしれない。そんな奴に運悪く巡り合ってボコボコにされた僕は一体なんなの。
「力、つけているって。ここに、いるって。そういう、ことじゃないか、思う」
「……なるほどな」
ふ、と所長は目を閉じて息を吐いた。
「モモ」
「なに?」
「悪いがもう少し何が起きたのか探っといてくれ」
「…うん」
所長は机から脚を降ろし、立ち上がってパンパンと手を打った。
「引き留めて悪かったな。なんかとんでもないことになってきたが、今日は各々ちゃんと休むように。解散!」
もう少し話し合いたい気分もあったが、疲労のせいで頭がまわらない。潮時だろう。
僕たちはのそのそと帰り支度を始めた。
○
咲夜さんと百子さんは先に帰宅し、事務所には僕と所長、それから姫香さんが残っていた。
忘れ物がない事を確認してバッグを背負った僕に所長が呼びかけた。
「ツル」
「なんでしょう」
「これから何かが起きる。それはなんとなく分かっているだろ」
「ええ、まあ…」
それまでコップが触れ合う音がしていた給湯室の物音が止まった。
姫香さんが耳を傍立てているのだということは分かった。所長も一瞬そちらへ目を向けたから同じことを考えていたのだろう。
「あんた、例えば今の状態で階段に勝てるか」
「…勝てないでしょうね」
やっぱ嘘はバレているか。
深く追及してこないのは所長にもなにか考えがあってのことだろう。
「俺は残念ながら相手になってやれん。モモもだ」
「……」
「このメンバーで強いのはサクだな。あいつに少し鍛錬してもらえ」
「殺されそう」
勘違いで戦ったことはあったが、それまでの敵よりも強かった。
僕の動きを気持ち悪いほど予想して動いていたというのもあるんだけど。気持ち悪いは言いすぎか。
何度か手合わせしたような感触だった。僕たちがタイマンしたのはあれが初めてだったはずなのだが。
「殺しかけていたあんたが何を言ってるんだ。ツルが強いのは知っているが、もう少し身体がどこまで動くか試したほうがいいと思ってな」
「…再戦を勧めているような口ぶりですけど。いいんですか?」
「止めてもやるだろ」
「やりますね」
力強く頷いた。
パコンと頭を叩かれる。所長の方から言ったんじゃないか。
「サクには明日ぐらいに話しておこう。あいつの同意が必要だし」
「お願いします。あ、あと、あの、お聞きしたいんですが」
そうだ、一番聞かなくてはいけないことを忘れていた。
「ん?」
「血ってクリーニングで落ちます?」
「落ちないだろ」
そんなきっぱり無慈悲に言わなくても。
その場に崩れ落ちた。
「どどどどうしましょう。汚してしまった…」
「なんだ、ちゃんとモモの話聞いてなかったのか。それやるってよ」
「え?」
「あー、『はいどうぞ』って簡単に渡していたからな。五十鈴がいらないから譲るって」
「それは僕が着たからではなく?」
あいつの袖を通した奴なんか着ないからなっていう反抗がありそう。
五十鈴君がどういうキャラなのか分からないけど。
「どんだけネガティブなんだよ。それ、裾のあたりがほつれているらしいじゃねえか」
「ああ、確かに…ズボンの中に入れるから気になりませんでしたけど」
ああ、あと袖のボタンが緩んでいるとも聞いた気がする。
「だから、いらないって」
「いらない…?」
なにも知らない僕でさえわかる、上等な布を使ってきめ細やかに縫われているシャツ。
それを裾がほつれているとか、ボタンが緩いだけでいらないって――どんな金持ちだ!?
驚いていることがモロに出ていたのか所長はため息をついた。
「…あのなぁ、『鴨宮』には椎名百子という人間の人生を捻じ曲げても世間にバレない程度には権力とカネがあるんだぞ。たかが一着のシャツぐらい気になりもしないだろ」
「ま、まあ…そうなのかもしれませんが…金銭感覚が僕たちとずれているんですね…」
とりあえず安心していいんだな。
良かった…内臓売る羽目になったらどうしようかと思った。
「それだけか?」
「それだけ…あ、いえ、もうひとつ」
ついでだから聞いてしまおう。
給湯室からの視線を感じながら、僕はあえて軽い調子で言う。
「所長。本当に、今後まで引きずりませんから、これだけは答えてもらいたいです」
「それ絶対引きずるパターンだよな分かる。…なんだよ」
「所長は…僕の事、怖いですか」
まるで未熟な男女の別れ話みたいだと自嘲した。
もちろん、そんな素振りは今まで見たことはなかった。
毎回のように馬鹿なことをされたりしたり、言いあったり、時には庇われたりもして。
だからなぜこんなことを突然聞きたくなったのかは、当の本人たる僕にもわからない。
…もしかしたら。
僕は所長が怖いのかもしれない。
かなり失礼な質問をした自覚はあったが、彼は怒らなかった。それどころか口元を吊り上げた。
普段よりは幾分元気がないように見えたけど、それでもいつもの人を食ったような笑みだった。
「怖い」
簡潔な答え。
そうですか、と僕は頷く。
ショックではあったけど、そうだろうなとも同時に思った。
「あんたが敵だったら、多分怖くて動けない」
「嘘だぁ」
「マジマジ。ちびる」
社交的な笑いを互いに漏らす。
「所長が僕によほど酷いことしなければそんなことにはならないと思いますよ」
「――そうだな」
……まだ手遅れでなければ。
五章『シークレットパーティー』了




