九話『借り物』
ひとまず嵐は去ったので本来の目的だった添田君と打ち合わせをする。もちろん僕じゃなくて所長が。
彼が今分かっている範囲内でいろいろと決め、現段階で不透明な個所は判明したら連絡するということで話は一旦終わる。
「それでは、また」
「おう。気をつけて帰れ」
添田君はぺこりと頭を下げて事務所を出ていった。
うーん…こんな短時間で話がまとまるとは。
乱入さえなかったら彼はもっと早く帰れたであろう。その運の悪さには涙するばかりである。
「で、相談があるんですが」
「なんだ」
「僕スーツないんですよね」
探偵事務所の給料は決して高いとはいえない。というか閑古鳥が鳴いているのが常なのにちゃんと給料が出るあたり所長の律義さというか、百子さんの経営管理が光るというか。
記憶喪失がゆえに将来の見通しが見えずこつこつ貯金はしているとはいえ――そんないきなり高いスーツとか靴を買えと言われると、死ぬ。
あわよくば買ってくれたりしないかなーなんて期待を持ってちらっちらっと所長を伺うがあからさまに目を逸らされた。ちくしょう。
小切手あるじゃないかとも思ったがさっさとデスクの奥にしまったところを見ると使うつもりはないらしい。遠慮というよりは反抗しているようにも見えた。
「お古でよければ、貸すように言おうか?」
「え? 誰のをですか?」
「あたしの弟の五十鈴。真っ黒なスーツを持っていたはずだから」
確かに背丈はおんなじぐらいだったけど。
あまりいい顔しないんじゃないかな。僕の顔を見た時何故か怯えていたし。
いまだにあの時の反応がショックだったりする。
僕の顔色から察したのか百子さんはけらけらと笑う。
「大丈夫だって。なんだかんだあたしのお願い聞いてくれるし」
「それはあいつらが超ブラコンだからだろ」
所長がものすごく小さな声で呟いた。
それには同意である。
鴨宮弟妹は百子さんを敬愛――いや、溺愛しているような印象がある。当の本人はそれに気がついていないようだが。
愛が行きすぎてヤンデレ化しないように願うばかりである。いくらお兄ちゃんでも愛さえあれば何でも許されるわけではない。
「靴はどうにかしないとね~。ある意味スーツよりも大事だから」
「どうしてですか?」
「たかが侮ることなかれ、ホテルマンは靴を見る――ってね。あたしはそういうところに足を運ぶ機会がないから本当にそうなのかは分からないけど。結構人って足元を見るから」
「それは…精神的に?」
「もうちょっと文脈を読んでほしいかな~。物理的に。どんなに立派な格好をしていても履いているのがサンダルだったらそれだけで台無しでしょ?」
なるほど。
じゃああまり手抜きして選べないってことか…。めんどくさいな。
たしたしとスマホを弄っていた咲夜さんが顔を上げた。
「…夜弦さん、前に中古のブーツを渡したじゃないですか」
「ああ、そうですね」
そうだ、あれも返さなきゃ。
履き心地はいいけど持ち主がいるならいつまでも持っているわけにはいかない。
「サイズ、合っていましたよね」
「合ってましたね」
「…あれと同じ人物の、今回の依頼に適した靴があるそうなんです。状態もいいそうですし、良かったら履きませんか」
「えーと…」
それは、嬉しいけど。
いいのかな。持ち主さんは自分の靴をホイホイ貸されているけど、怒らないだろうか。
こうやって提案してくれているということは大丈夫なんだろうけど――事後承諾だったら僕の立場が危ういのでは。絶対怒られる。
迷っている僕を見て所長は鼻を鳴らした。
「いいじゃねえか。貸してくれるっていってんだから」
「なんか借り物寄せ集めで申し訳ないんですけど。その、乞食っぽくて」
「人の好意には甘えとけよ。どうせ買う金もないんだろ」
「所長が給料上げてくれたらどうにか」
「ん?」
「なんでもないです」
冗談だってば。
どうにかこうにか、僕の負担は一気に軽くなった。
良いのかなとも思うけど――もともと記憶喪失でなにも持っているものがなかったしな。甘えられるなら甘えさせていただこう。
あとは汚さない様に気を付けたいけど、大丈夫だろ、多分…。うん。何も起きなければ。
僕の話が終わると、次に百子さんはにこにこと咲夜さんを振り向いた。
「で、さっきゅんは」
「私もボディーガードの格好をしますね。ええ。絶対に」
「ドレス着てみない?」
「嫌です」
「なんで?」
「無理です」
じりじりとした攻防戦が始まっていた。
姫香さんは興味なさげにチョコのお菓子を頬張っていた。かわいい。




