0-0話 四年前 海辺にて
潮の香りが強い。
カモメが鳴きながらテトラボットの周りを飛んでいる。
冬の海、それも夕方のためか浜には人影がなく寂しいものだった。
それどころか、サーファーすらも波間に見えない。
当たり前だ。数週間前、ここでバラバラになった死体が発見されてからというもののここを訪れるのは野次馬とマスコミぐらいだ。
それも時がたつと別の話題へと流れていく。誰も責められない。それは自然の条理だ。
亡くした人間と関わりのある者たち以外にとっては。
今ここにいるのは城野と百子だけだった。
ふたりの上司が惨殺死体として見つかった場所に花を供えに来たのだ。
「…引っ越しするって聞いたけど。いいの? ずっとあそこで暮らしてたんでしょ?」
「そうだけどさ、暮らせねえよ。おばさんも、あのクソもいない一軒家なんて広すぎる」
「そっか…」
「『鬼』に所在がばれているのもあるが…今のところ何もしてこないから、危険度は低く見られているんだろう」
城野は靴が濡れてしまうのも構わず波に足を踏み入れる。
女性用の喪服を着た百子は心配そうにその背中を見つめた。
「おらよ、クソ野郎。あんたの大っ嫌いな菊の花だ」
菊の花束を投げた。波に攫われては戻るを繰りかえす。
おそらくは満潮あるいは干潮になるまでずっとここに揺蕩い続けるだろう。
「ずっと死ねばいいのにって思ってたのに、いざ死ぬと寂しいな」
けらけらと笑う所長は、しかし顔を百子に見せない。
弱みを見せてくれないことにひっそりと百子は唇を噛んだ。
分かっていた。
あの日彼らの上司が首だけで帰宅して以来、城野は何度も何度もしつこく手を洗い続けていること。夜眠れていないらしいこと。物を食べては吐いていること。爪を噛み過ぎて指が赤く染まっていること。
分かっていたが、百子にはどうすればいいか分からない。
気を紛れさせてやる方法も、救いとなる言葉も思いつかない。
ただただ傍にいることしかできなかった。
「…これからどうするの?」
「ん? 事務所は続けていくよ。俺はこれ以外知らねえし」
「そっか」
「モモは? ここ辞めるなら渡会のジジイに都合してもらおうか?」
まさか、と百子は首を振る。
「勝手に仕事を変えたら実家に殺されちゃうし。それに、」
お前を一人に出来るわけない。
そう言いかけて、別の言葉に直す。
「ケンちゃんは経理できるの? あたしがいないと困っちゃうでしょ」
「…いいのか」
「なにが」
「あいつみたいに『鬼』に殺されるかもしれないんだぞ」
「でも、お前は逃げないつもりなんでしょ。だったらあたしも逃げない」
「モモまで巻き込みたくない」
「あのなぁ、あたしは男だ。それなりに度胸は据わってるつもりだぜ」
口調が荒くなっていることに気付きはっと百子は我に返った。
別に二人きりであるし、彼の実家の監視下でもないので気にする必要はないのだが長年の培われてきたものがストップをかけたのだ。
咳払いをして、続ける。
「…『鬼』に、喧嘩売るつもりなら、あたしの力だって必要でしょう?」
「なんだ。分かってたのか」
「当たりまえだよ」
城野は微かに笑って振り向いた。
彼の表情は夕日の逆光で定かではなかった。
「後悔しても遅いぞ。地獄の底まで付き合え」
「よろこんで。落ちよう、一緒に」
そうして、ふたりは振り返らずに海を後にした。




