第413話
プヨ歴V二十七年十月二十二日。朝。
プヨ王国最北端、城郭都市アグレブ。 灰色の石畳に朝日が斜めに差し込み、冷たい空気の中に紙吹雪が舞っていた。
「プヨ軍、万歳! 万歳!!」 「カロキヤから解放してくれてありがとうっ!」
市民たちは歓喜に沸き、色とりどりの布を振り、兵たちに花を投げかけていた。 その熱気の中、先頭を行くグイルは鼻を膨らませ、誇らしげに馬上から手を振る。
行軍の最後尾、信康とリカルドは、やや距離を置いてその光景を見つめていた。
「本当に解放されたとはね」
「……ああ、そうだな」
リカルドの言葉に、信康は短く応じた。 だが、その声にはどこか釈然としない響きがあった。
「当初は罠かと思って、何度も偵察を出したけど……まさか、本当に真紅騎士団が姿を消しているとは。あっけないというか、拍子抜けだよね」
「敵がこの城を放棄したことにか?」
「そう。アグレブに籠もれば、月単位で持ちこたえられたはずだ。なのに、なぜ……?」
信康は頷きながらも、視線を遠くにやった。 本当に、敵はカロキヤまで退いたのだろうか。何かが引っかかっていた。
「ノブヤスは、連中が完全に撤退したと思うか?」
「さあな。だが、用心するに越したことはない」
その言葉に、リカルドは顎に手を添え、黙り込んだ。
信康はそれ以上言葉を重ねず、前方に目を向けた。
やがて、アグレブの中心にそびえる城館が視界に入る。 プヨ五大貴族の一つ、クルシャシス辺境伯の城館。 軍はそこへ向かい、城館前で整列した。
門が静かに開き、黒服の執事が姿を現す。 彼はグイルの前に進み出て、深々と一礼した。
「ようこそお越しくださいました。我が主が謁見の間でお待ちです」
「出迎えご苦労。軍はどこに置けば良い?」
「城館東の兵舎をご利用くださいませ」
「相分かった。モルート」
「はっ、団長」
「レダイム卿と聖女様方を呼んでこい。私とお前と御三方でクルシャシス卿と話をしに参る。他の者は兵舎に向かわせろ」
「承知」
モルートが去ると、グイルは一人、口元を歪めた。
「……ふっふふ。敵の罠で兵力の大半を失ったが、目的は果たした。これで本家の連中も、私に文句は言えまい」
その笑みは、勝利の誇りというより、長年の鬱屈を晴らすような、ねじれた満足に満ちていた。
アグレブの兵舎に到着したプヨ王国軍には、城館前での整列の後、短い自由時間が与えられた。
兵たちはそれぞれの寝所に荷を下ろし、売店で酒や干し肉を買い込み、束の間の安堵に身を委ねていた。
傭兵部隊も例外ではなかったが、信康だけは静かに兵舎を離れた。 モルートには事前に事情を伝え、許可を得ていた。
向かった先は、プヨ王国軍が管理する市内の施設。
カルレアから、レズリーの両親がそこに勤めていたと聞いていたのだ。 彼女の近況を伝え、どんな人物だったのか、直接会ってみたかった。
施設の門をくぐると、職員たちは一瞬、警戒の色を浮かべた。
だが信康の顔を見て、すぐにその表情が和らぐ。 彼が名のある聖騎士であることに気づいたのだ。
信康は気に留める様子もなく、近くの職員に声をかけた。
「すまない。ここにパレッリーナという職員はいるか?」
その問いに、職員の顔がわずかに曇った。
「……失礼ですが、パレッリーナ夫妻とは、どのようなご関係で?」
「直接の知り合いではない。ただ、娘のレズリーと友人でね。彼女の近況を伝えたくて来たんだ」
職員はしばし口を開きかけては閉じ、言葉を選ぶように沈黙した。 そして、意を決したように静かに告げた。
「……パレッリーナ夫妻は、今から一年と二ヶ月ほど前に亡くなられました」
その言葉は、信康の胸を貫いた。 周囲のざわめきが遠のき、時間が一瞬止まったように感じた。
「……そうか」
それ以上、何も言葉が出なかった。 レズリーの笑顔が脳裏に浮かび、彼女がこの事実を知っているのか、知らないのか、それすらも分からなかった。
同日。
カロキヤ領の都市『マドリーン』
撤退した真紅騎士団と独立鷲獅子騎兵隊が駐屯する都市。 その一角、仮設の指揮所で怒声が響いた。
「何だと⁉ もう一度言えっ!」
ルディア副隊長の声が、壁を震わせる。 目の前には、頭に包帯を巻いた副官が立っていた。
「……ゲオルード隊長は、敵の手にかかり、戦死なさいました」
その言葉に、ルディアは膝から崩れ落ちた。 床に手をつき、信じられないというように首を振る。
「……嘘だ」
「副隊長……」
「嘘だと言ってくれ。頼む……」
副官は唇を噛みしめ、頭を下げた。
「申し訳ありません……自分が砦に着いた時には、すでに……。せめて部隊の者たちだけでも救おうと、ここに連れて参りました。自分が、もう少し早ければ……!」
悔しさに顔を歪める副官。 その姿を見て、ルディアはゆっくりと立ち上がった。
「……誰だ?」
「はっ?」
「誰が、ゲオルードを討った?」
「……自分の目で見た限りですが、恐らく、傭兵部隊の東洋人かと……」
「東洋人……あの者か」
ゲオルードが語っていた。自分の愛騎を殺したのは、東洋の傭兵だったと。
「……とうようじん、か……」
その言葉を呟いたルディアの顔には、もはや感情の色はなかった。
「副隊長……?」
「下がっていい。治療を受けろ」
「は、はい」
副官が去った後、ルディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。 そして数日後、誰にも何も告げず、彼女は姿を消した。




