第326話
侍女と一緒に待合室を出た信康は、何も言わず侍女の後を付いて行く。
そうして暫く侍女とプヨ王宮内を歩いていた信康だったが、不意に足を止めて立ち止まった。
「?・・・ノブヤス様、如何なさいました?」
侍女は信康が立ち止まったのを察して、信康の方に振り返った。
「いや、挨拶が遅れたと思ってな・・・リリィだったな。久し振りだな、元気そうで良かった」
信康に名前を呼ばれた侍女もといリリィは、一瞬だけ両眼を見開いた。
「これは何と御丁寧に・・・私こそ、ノブヤス様への御挨拶が遅れました。先ずは無事の御帰還、御喜び申し上げます」
リリィは閉眼すると裾を掴んで、信康に向かって一礼した。
「ありがとう。では改めて、アリスの下へまで案内してくれ」
「畏まりました」
信康は改めてリリィの案内により、プヨ王宮内の通路を歩き始めた。
すると間もなくして、目的地である部屋へと到着した。
「こちらです。この部屋に、姫様がおられます」
「そうか、この部屋にアリスが居るのか」
信康がそう言いながら扉を見ていると、リリィは部屋の扉をノックした。
「どなたかしら?」
「姫様、リリィです・・・」
「入りなさい」
「失礼致します」
対してリリィも不満など覚える事無く、そう言ってから扉を開けて入室した。部屋に入室したリリィに遅れて、信康も部屋に入室する。
信康は部屋に入室すると、其処は小さくした謁見の間みたいな部屋であった。
幾つもの白い柱があり、その一つ一つに見事な花の彫刻が彫られていた。その白い柱との間には、赤い毛足の長い絨毯が敷かれていた。
絨毯の先には幾つかの石段があり、その石段の上には座具が設置されていた。
その座具にはアリスフィールが座位しており、アリスフィールの背後には近衛師団の制服を着用している一人の美女がいた。
「・・・・・・」
信康は一瞬で二人に視線を一度向けた後、アリスフィールの前で仰々しく跪いて頭を垂れた。
「アリスフィール殿下の御尊顔賜ります事、恐悦至極と存じます。そして私の為に御手を煩わせてしまった事を、心から感謝すると共にお詫び申し上げます」
信康は慇懃な態度でそう言い終えると、改めてアリスフィールに頭を垂れた。
そんな信康らしくない態度を目の当たりにして、アリスフィールは一瞬だけ面食らう。
するとアリスフィールは隣に居る美女に一瞬だけ視線を向けると、何故か納得した表情を浮かべた。
「ああ、そう言う事・・・ノブヤス。彼女なら私達の仲を知っている一人だから、普段通りの態度で大丈夫よ。立ってくれて良いわ」
アリスフィールが口調を改め立ち上がる様に言うと、信康は顔を上げて全員の様子を伺った。
すると全員が首肯して頷いたので、信康はアリスフィールに言われた通りに立ち上がる事にした。
「ラティナ、ノブヤスに自己紹介なさい」
「はっ」
アリスフィールの命令を受けて、美女は一歩前に出て信康に敬礼した。
「アリスフィール姫様の専属護衛官を担当している、ラティナ・フォン・エトラゴルン准将だ。見て分かる様に、近衛師団に所属している」
ラティナの自己紹介を受けた信康は、改めてラティナの容姿を凝視した。
髪型は金髪のセミロングをしており、女性の平均身長を軽く超える長身を誇っていた。
猛禽類を連想させる鋭い目付きをしており、瞳の色は青玉石を連想させる碧眼の持ち主だ。
胸は制服がはちきれんばかりに大きく臀部も大きかったが、それ以外は腰を筆頭に引き締まった身体をしていた。
「ラティナは私の乳母の娘なのよ。つまり私にとっては、四人目の御姉様って訳なの」
「成程、有り体に言えばアリスの乳姉妹と言う訳だな?」
信康がそうアイリスフィールに指摘すると、アリスフィールは力強く首肯した。
「アリス姫様にそう仰って頂けるとはこのラティナ、恐悦至極と存じます」
両頬を赤くしながらラティナは、アリスフィールに向かって仰々しく一礼した。
「・・・乳姉妹、か・・・」
「ノブヤス様? 如何なさいましたか?」
何故かアリスフィールとラティナのやり取りを見て、惚けた様子を見せる信康にリリィが声を掛けた。
「・・・いや、何でもない」
信康は何故か遠い目をしていたが、リリィに声を掛けられた事で何かを振り払うみたいに頭を振った。
「ノブヤスと言ったな?・・・先ずは姫様のお忍びでの護衛の件、心から感謝する」
ラティナはそう言うと、信康に向かって一礼して感謝した。そんなラティナの態度を見て、信康は右手で後頭部を掻いた。
「いやぁ、別に良いですよ。自分にとっても楽しい一時でしたから」
「そうか、ならば良い・・・それから我々しか居ない時は、私にも敬語は不要だ。姫様にその様な不遜な言動をしておきながら、私に対しては変わらず敬語なのもおかしな話だからな」
「・・・では、御言葉に甘える事にするよ(こいつ、典型的な堅物かと思ったが・・・意外と話が分かる奴なんだな)」
ラティナの話を聞いて信康は敬語で話すのを止め、更に心中でラティナに対してそう評価を下していた。
「そうだわ。ノブヤスが帰って来たら私、やりたい事が有ったんだった」
アリスフィールが何か思い出した様子でそう言うと、信康の方に顔を向けた。
「ノブヤス。ちょっと屈んでくれる?」
「何?・・・分かった」
アリスフィールにいきなりそう頼まれた信康は、怪訝そうな表情を浮かべつつも言う通りに屈む為に跪いた。
「それで良いわ。それから両目も閉じなさい。良い? もし途中で開けたら、両目を抉るからね?」
「お、おう・・・っ」
アリスフィールに睨まれながらそう警告されたので、信康は何をする心算だと思いながらも言われた通りに両眼を閉じた。
「よろしい」
アリスフィールが望んだ体勢を信康がしたのを見て、アリスフィールは座っていた椅子から立ち上がって信康に接近して行った。
「・・・・・・」
アリスフィールは信康と触れ合える程にまで接近すると、そのまま立ち止まって制止した。
信康の真ん前でアリスフィールが立ち止まって制止した所為で、アリスフィールから漂う香水の匂いが信康の鼻腔を擽った。
(な、何だ?・・・っ・・・もしかして、他の奴等みたいに俺を抱き締めてくれるとか?)
信康は鼻をヒクヒクと動かしながら、内心ではアリスフィールの次の行動に期待感を寄せていた。
「「・・・姫様?」」
リリィとラティナの二人もアリスフィールが信康に対して、これから何をしようとしているのか心配になり始めた。
しかしアリスフィールが次に行った行動は、信康達の予想を遥かに上回るものであった。
バシッ!!
「ふごっ!?」
何とアリスフィールは、信康の両頬を両手で挟んだのである。アリスフィールに両頬を挟まれた信康は、火男みたいな滑稽な表情となった。
そしてアリスフィールの奇行は、この後も続いた。アリスフィールは信康の両頬を掴むと、思い切り左右に引っ張ったからだ。
「いでででででっ!?」
アリスフィールに両頬を引っ張られて、信康の顔は忽ち鰩の如く左右に伸びる。その痛みにより目尻に涙を浮かべ、信康は涙目になっていた。
「「・・・・・・」」
アリスフィールの奇行を目の当たりにして、リリィとラティナは唖然とした様子で見守っていた。
「ぷっ、あははははははっ!」
そんな信康の反応を見たアリスフィールは、信康の両頬を引っ張ったまま爆笑し始めた。信康の両頬を引っ張って居なければ、アリスフィールは抱腹絶倒していたに違いない。
「あ、ありしゅっ! にゃにをしひゃがるっ!?」
「あはははっ! ノブヤスッ! 人語になってないわよっ。あははははははっ!」
涙目で抗議する信康だったが、アリスフィールは構わず両頬を引っ張り続けていた。そしてアリスフィールは笑いながら、吐息が当たる程に信康に顔を近付けた。
「ノブヤス、貴方。私が目を瞑れって言った時に、もしかして抱き締めて貰えるとでも思ったでしょう?」
「ぎぐぅっ!?・・・にゃ、にゃんのことらぁ?」
アリスフィールの鋭過ぎる指摘を受けて、信康は思わず視線を反らした。しかし信康の反応が却って、アリスフィールの指摘を肯定しているも同然であった。
「全く。王族の私は、そんな易い女じゃないんだから・・・この高貴な私に抱き締めて貰いたかったら、私の婿にでもなる事ね。貴方なんて、この程度で十分よ。おほほほほほっ!」
アリスフィールは勝ち誇った様子で、信康の両頬を引っ張ったまま高笑いをした。
そんなアリスフィールの態度を見て、信康は思わず額に青筋を浮かべた。
「このっ!?・・・」
信康は両頬を引っ張られた状態で、アリスフィールの両手首を掴もうと両腕を動かした。
しかしアリスフィールの両手首を掴もうとした瞬間、左右からリリィとラティナがそれを阻止した。
「ノブヤス様、流石にそれはなりません」
「姫様の玉体に触れようとは、不届き千万っ! 無礼であるぞっ!?」
リリィとラティナはそう言うと、信康の手首を掴んでいる手の握力を高めた。
「あいだだだだだぁっっっ?!」
信康は両手首を強く掴まれた事で生まれる痛みに、思わず悶絶する。
しかしそれ以上に、信康はある事実に驚いていた。
(な、何だぁっ!? このラティナって奴よりも、リリィの方が力があるじゃねぇかっ!? やっぱりただの侍女メイドじゃねぇのかっ?!)
信康は心中でリリィの強さに驚いていたが、両手首に掛かる圧力は増す一方であった。
(くそぉっ!? シキブを出す訳にはいかないし、最早打つ手無しかっ!・・・っっ!!)
アリスフィール達に対して、勝てないと悟った信康。
「わゃ、わゃりぅかったっ! わゃりぅかったひゃらっひゃなしてくれぇっ!?」
勝利する方法も逃走する方法も無いと判断したその結果、無条件降伏する信康の声が室内に響き渡るのであった。




