第十九話 『他に何もいらない』
北の遠くから空鳴りのような音が聞こえた。
防衛部隊と魔嘯の戦いが始まったのだろう。
亜人達の避難は既に完了している。普段多くの人々が行き交う目抜き通りはしんとした静寂に包まれていた。通りに響くのは僕の革靴が石畳を打つ音だけ。
南門から外に抜けると、以前はただ平原が広がるだけであったそこには、多くの天幕が張られていた。
先程アルフに言った『野暮用』とはただの方便ではない。実際、彼に用事があったのだ。
「おお、来たか長殿! いったい何時来るのかと待ちくたびれたぞ! 尻に苔が生えるかと思い申した!」
「その様子だと、もう用件は察しているみたいですね」
着物の上に和風の甲冑を着込んだ鬼人族――戦闘準備万端のフウライさんが豪快に笑った。
「ああ、小鬼やら猪頭が大挙してやってきて大変そうじゃないか。一宿一飯では片づけられない程の恩を受けた身だ、加勢するぞ?」
「そう言っていただけるのなら話は早いです。敵集団に押されて、自警団が担う左翼が崩壊する可能性があります。そこへの救援をお願いできますか?」
「相分かった!」
力強く頷いたフウライさんが傍らに置いた刀を佩いた。
彼の率いる武士団が参戦してくれるのなら、戦線の再構築は容易だろう。もっとも、戦いの趨勢を左右するにはあと数手足りないが――。
「戦いに赴く前に、ひとつだけ聞いてもよいか?」
「私にお答えできることなら」
フウライさんが居住まいを正し、僕に向き直った。
彫りの深い顔に埋められた黒い瞳。それが僕を見据えて問いかけてくる。
「なあに簡単なことよ。そなたが戦う理由、それを聞かせてほしいだけだ」
僕が戦う理由。そんなのは簡単だ。
彼へと返す、一番耳障りの良い答えはこれしかない。
それは――。
「それはこのリィベルラントの皆を守るため――」
「違うな」
僕が示した偽りの答えをフウライさんが即座に否定した。
「たかが小鬼の集団と言うがその規模はでかい。某達にもそれなりの数の死者が出るだろう。武士団を率いる者として、偽りの答え――不義の理由で彼らの背中を押し、黄泉路へと旅立たせるわけには参らぬ」
「ですから――」
僕が象った表情も、声音の質も、調整は完璧のはずだ。
しかし、フウライさんには通用しないようで、彼は首を横に振った。
現実世界の僕と同じ黒い瞳。宿る光はまるで違う。数多の戦いを乗り越え、強靭に鍛造された意志の光だ。
それを湛えた瞳が、僕の姿をしかと見つめた。
「死んだ婆様が言っていた。真心から生まれた言葉には『言霊』っちゅう物が宿ると。善いとか悪いとかは関係なく、何かしらの質感を秘めた言霊が宿る、そう言っていた――しかし、そなたの言葉にはそれが欠片も感じられぬ」
フウライさんの言葉が続く。
「そなたが紡ぐ言葉は薄い。どれもが薄く、軽く、空疎で希薄だ。打算と計算に塗り固められた言葉に言霊は宿らぬのだから当然のことよ。それが悪いと言っているのではない。にっちもさっちも行かぬこの世界。己が願いを通すため、そうせざるを得なかったということも承知している」
そして、真摯な表情で再び僕へ問いかけてきた。
「だから聞かせてくれ。そなたの本心を。それが仮に悪辣なる性に濡れたものだとしても、それが真実であるのなら、死者の国に旅立つ者達への手向けと足りえるだろう」
この男はやはり正しい――それ故に面倒臭い。
言葉の表面に通う論理を一足で飛び越えて、本能だけでその本質を突いてしまう人種だ。この手の輩は本当に始末に負えない。りっちゃんと同じ類の――本当に面倒臭い人種である。
お互い理詰めで勝負できるコンラッドさんの方がまだ相手にし易いと思う。
この手の輩を納得させる手段は二つある。
ひとつは、彼の本能ですらも騙す嘘で言葉を塗り固めること。
もうひとつは、心からの本心で彼と向き合うこと。
そして、僕が選んだのは――。
「――ユネが幸福なまま明日を迎えられるように」
それは彼女本人にさえ言っていない僕の根源に通うもの。
まさかこんな鬼人族の男に話すなんて思ってもいなかった。
ああ、もう仕様が無い。ここからは本音だ――ひとつだけを除いて。
「僕自身はこの街のこと、ましてやこの街に住む亜人のことなんか、どうだって良いと思ってる。でも、ユネがこの街を好きだから――今のこの街が進む未来に彼女の幸せがあると信じているから――それ以上の理由なんて他に無い」
「……ユネ殿の幸せだけがそなたの望みであると? 彼女だけではなく、この街にはそなたと長い時を過ごして来た人々――副官殿や魔術師殿もいるはずだ」
男の言葉通り、この街には長い付き合いの友人がたくさんいる。
真面目だけど、どこか抜けた苦労人なアルフ。
無表情だけど、たまに僕の隣に寄り添うように立つまかろん。
能天気で気の良いユーゴさん、傲岸不遜で知的な咲耶、元気印のラシャに、物静かだけど優しいクゥちゃん。シェリーさんやヤトにおかゆさん。もちろん他のフェローも。
今は深い眠りについているが、漆黒さんも、ピーターさんも、ジョンさんも――りっちゃんだっている。
言葉だけでは語り尽くせない思い出が、彼らとの間にはあった。
――それが一体何だと言うのだろう。
僕はユネさえいれば良い。
ユネだけでいい。
だから――。
「他には何もいらない」
そう言い切った僕に男は問いを重ねる。
「……仮に、数多の命と彼女一人だけの命――それを天秤にかける状況にあっても、そなたは同じことを言えるのか?」
何を言っているんだろうこの男は。
馬鹿なことを聞くな。そんなの決まっている。
「当り前じゃないか、ユネの命は百万の命よりも重い」
僕が形作った表情は如何なるものか。僕本人にもそれは分からない。
ただ、少しだけ目を見開いた男の様子を見るに、あまりよろしくない表情をしていたのは間違い無いだろう。
「なるほど……なるほどな……」
無骨な右手で顔を覆い、男がくつくつと小さな笑い声を上げ始める。
「喉に引っかかっていた違和感がようやく取れた……この状況、そう言うことか……」
一体何が分かったというのか。
その呟きは誰かに向けられたものではない。
呟きの後、男――フウライさんは僕に狂暴な笑みを向けて大きく頷いた。
「委細承知した! 皆の者、轡を並べい!」
彼の号令によって、武士団の面々が整列した。
洗練されたその動きは、自警団や義勇兵と比べるべくも無い。異郷の地であるこの大陸で、数多の戦場を潜り抜けて来た猛者達の成せる業である。
騎兵30、歩兵250、術師20から成る集団――アキツ皇国カザン領武士団の雄姿である。
「確かに今のが本心なんですけど……そんなので良いんですか?」
自らも騎馬に跨るフウライさんに僕は聞いた。
「言っただろう、物事の良し悪しではないと。真実か偽りか、今の我らにはそれだけが重要なのだ。話の中身がどうあれ、それが真と違わなければ、それだけで我等には十分戦う理由足りえる」
見据えるは北の彼方。リィベルラントの街の向こうに広がる戦場だ。
戦端が開かれてしばらく経った。左翼に展開する自警団の戦列の維持が厳しくなってきている頃合だろう。果たして間に合うか、時間との勝負だ。
「我らの手勢は三百――全員が手練れな故、焼け石に水と卑下するわけではないが、戦況を決するには依然として力が足りぬだろう――策はあるのだろうな?」
「ええ、もちろん」
僕がそう答えると、フウライさんが満足そうな表情で頷いた。
馬上のフウライさんが刀を天高く掲げると、それに呼応して武士団の面々が続く。
地面を揺らす雷鳴のような音の響きを伴い、彼らは進軍を始めた。
リィベルラント北部の戦線は焦燥の中にあった。
真夏の午後の暑い風の中を、戦場を彩る数多の音が響き渡る。
森の奥から湧き出て来る魔物の圧は依然として強い。アルフレドの目論見は完全には成されなかったものの、椀形に組み替えられた戦列は七割程度は機能しているようだった。
問題なのは、自警団が担う左翼端から少しずつ魔物が流出していること。
それが多少の数であるのなら問題は無いが、戦闘終了時までそれが続いたのなら、ロスフォルの大叢海の秩序に多少なりの影響を与えることは間違い無い。
クォーツ戦線の戦力維持を目的としたこの戦闘から考えれば、それは敗北を意味していた。
「ユーゴ殿! 少数の手勢を率いて左翼の援軍に行けますか!?」
「無理ィ! 今、俺っちが離れたら『底』が抜けちゃうっすよ!?」
ユーゴが悲鳴を上げた。日焼けした浅黒い肌は汗と返り血に塗れていた。
前衛の先で尋常ではない速さで魔物達を斬り伏せて行くユネの方にも目を向ける。彼女に援軍指示を乞うかと迷ったが、すぐにそれは諦めた。中央部隊にかかる圧を和らげているのは彼女に他ならないからだ。
「もう一度戦形を組み替えるしか策はありませんか……!」
戦形の再編にもリスクはある。
隊列変更の途中で魔物からの圧が更に高まった場合、戦列自体が瓦解する恐れがあるあるからだ。
再編に必要なのは、その時間戦列を維持する手勢。
もう少し戦力があれば、と言うアルフレドの願い。
その願いが天に届いたのか――あるいは、誰かの手によって無理矢理手繰り寄せられたのか、今の彼には分からない。
しかし、現実としてアルフレドの願いは叶えられた。
左翼から漏出する魔物達の集団が天高く弾け飛んだのだ。
血の赤に塗れた魔物達の残骸が雨の様に降り注ぐ中、その下には武者甲冑を身に纏う三百名から成る集団。
その先頭を駆る大柄な荒武者が刀を突き上げ、大きく吼えた。
「我が名はフウライ! アキツ皇国カザン領に封ぜられし八代家が頭首、八代ノ風雷である!」
戦場に鳴り響く音の全てを貫き、男の剛毅な声が響き渡った。
「我ら一党――鬼人族が精兵三百名。一宿一飯の恩義にて助太刀仕る!」
男と同じように騎馬に跨る騎兵がいた。
鍋のような黒鉄の兜を被った歩兵がいた。
東方島嶼域古来の呪師を装った者もいた。
彼らに共通する特徴は、黒髪を湛える額から生えた角。
それは、鬼人族――強大な戦闘力を持った生粋の武芸者であることを意味している。
かつて東方島嶼域に範を広げていた亡国――アキツ皇国カザン領が武士団の一党。
国を喪った彼の戦士達が、恩義あるリィベルラントの危機に立ち上がったのだ。
「参るぞ皆の者! 握り飯の恩を返す時ぞ!!」
『噫!!』
戦闘を駆ける武士の頭領――フウライの檄に武士団の皆が応える。
鬨の声を重く戦場に響かせながら、武士団は穴が開いた左翼に突っ込んだ。
純粋な戦闘員から構成された武士団の力は凄まじく、左翼の穴から更に漏出しようとする魔物の群れを瞬く間に駆逐して行く。
彼らの力があれば戦列瓦解の心配はもう無いだろう。
『左翼の補強』という勝利への絶対条件のひとつが成された。
しかし、雌雄を決するには、あと二手必要である。




