第十話 『ユネとアルフレド』
ヒビキとコンラッドの会談から数日後。
リィベルラント北区。その一角にある邸宅にアルフレドはいた。
地上二階、地下一階の洋風建築。今のエヴァーガーデンよりも何世代か先の建築技術で立てられた邸宅は、とある人間の住処である。
二階分のスペースをぶち抜いた大広間の壁には一面に本棚が設えられていた。部屋の中は少し暗く、採光用の天窓から広間中央のテーブルに降り注ぐ光の帯の中に、小さな塵が漂っているのが見えた。
「これですか……ようやく見つけました」
アルフレドの手の中には大判の書物。埃を払ってタイトルを露にすると、それが目的の物であると確認できた。
「アルフくーん、どうですかぁー!?」
「ええ、ありましたよ。魔物関係ではなく、地理関係の書架が正解でした」
階下から投げられた朗らかな声にアルフレドが答える。
彼は長い脚立から降りると、ユネにその本を渡した。
「『フォルセニア大陸北部 魔物分布図』! やたっ! これでマスターから頼まれた本は全部回収しましたね!」
天窓より垂らされた光の筋が、彼女の不思議な色合いの長髪を撫でていた。紅い眼を細め、本を抱えたユネがにこにこと笑う。
二人は普段より大分ラフな格好である。
ユネは紺色のスカートに白いブラウスと浅葱色のサマーカーディガンを羽織っており、アルフレドも通りを歩く亜人達と大して変わらない普通の格好。剣を佩いていないこともあり、彼らの間に漂う空気はいつも以上に穏やかだ。
「リィベルラント近郊の地図は分かるとして、『魔物分布図』や『龍脈経路図』なんて何に使うんでしょう?」
「ヒビキ様の頭の中は普通の人間に推し量れるものではないですからねぇ。頭の中の回路が繋がってはいけない形で繋がってると言うか……まかろん様とは別の意味で」
「むぅ……もしかしてマスターのこと悪く言ってます?」
不機嫌そうなフリをするユネに、いやいやとんでもないとアルフレドが苦笑して見せた。
「うーん、マスター、昨日まかろん様と大陸北部について難しいお話していたのでその関係だとは思うんですけど……リィベルラント近くの龍脈や魔物がどうとか……」
ユネが『魔物分布図』と刻印された書物をめくる。その中にはリィベルラントから大陸の北端にかけての詳細な地図と、それに合わせた魔物の詳細な分布図が、細かい注釈を添えて記載されていた。
「わぁ、この街の北側ってあまり行ったこと無かったんですけど、こんなに沢山の魔物がいるんですね。湖水地帯に海水浴? 湖水浴? に行ったことはあるけど、本格的な狩りに行ったことは無かったです」
「ええ、大陸の中部と北部の境界にあるリィベルラントは、人界の果てです。この街から大陸の北端に行くに連れて、高レベルの魔物が生息しているようですよ」
書物には彼の言葉の通りの内容が記述されていた。
この街に比較的近い所ではゴブリン族、コボルト族、オーク族が大規模な集落を作っており、もっと深い所だとドラゴン族やグリフォン族等が生息しているらしい。
丁寧な筆致で書かれたそれは、著者の深い知性を伺わせる内容である。
『魔物分布図』と共に広間の中央に置かれたテーブルの上には、何冊もの本。
全て同じ連名での著作である。
著者の名前は『ジョン』と『イナバ』――この邸宅の主である二人の名前だった。
風見鶏のとまりぎの設立メンバーの一人であるジョンは現在、館の礼拝堂にてリィンベルと共に死の淵にある。
「……もう二年になるんですね」
そして、彼のフェローであるイナバは既にこの世にはいない。
あのヒビキとどこか似通う飄々とした雰囲気の少女――イナバは、西アカーナ大陸からフォルセニア大陸への撤退戦の折、クォーツの侵攻を塞ぎ止めるためたった一人で戦いに赴き、その命を散らしたのだった。
「いけません、しんみりとしちゃいました。こんな様子だと、天国のイナバさんに『君たちも大概馬鹿だねぇ』って怒られちゃいます」
ユネが頭に浮かんだ懊悩を振り払うように首を振る。
微妙な空気になった場を改めようと、ユネはお茶を淹れることにした。
この邸宅の主が秘蔵していた高級な茶葉であったが、彼女の腕前はその風味を見事に殺し切っていた。
「苦いです……これがオトナの味ってやつですか……」
「相変わらず下手ですねぇ。だから私が淹れると言いましたのに」
アルフレドの苦言にユネは露骨に目を逸らした。
調理系の技能でもあれば一発で美味しいお茶を淹れられるのだが、スキル構成が戦闘系一辺倒のユネは茶葉の取り分けから全てを手動でやるしかない。彼女を初めとする戦闘スキル極振りのフェローは、所謂メシマズの者が多かった。
「いえ……マスターに淹れてあげる前にアルフ君で練習しようかと……」
「さらりと酷いことを言いますね。まぁ、ユネ殿が淹れてくれたのなら、あの方ならどんな出来でも喜びそうな気がしますが……」
「喜んでくれるとは思いますけど、マスターは不味いものは不味いと言う人ですし……この前オムレツ作ってあげたら『嬉しいよ。でもあんまり美味しくないね!』って、すごい良い笑顔で言われちゃいましたし……」
件のオムレツは甘いのか塩辛いのかはっきりしない味付けに、焦げと半熟が同居した独創性の高い一品だった。一皿の中にこの世界に揺らめくカオスを表現した芸術性の高い一品と評することもできる。まぁ、端的に言えば不味かったのだ。
それでもヒビキに、まだ救いようのあるメシマズと判定されたユネは彼の指導の下、料理の練習中である。ヒビキとの共同作業で嬉しい反面、花嫁修業を当の本人に教えられながらやるというのは如何なものかと悩むあたり、乙女心の複雑さが垣間見れた。
「戦闘も、頭脳労働も、料理も何でもできるアルフ君がすごすぎなんですよぅ……」
「フフフ、リィ様に侍るフェローとして、戦闘、知略、料理に裁縫、お召し物の着付けから歯磨きのお手伝いまでパーフェクトにこなすのは当然のことです」
「マスコンですねー……」
シスターコンプレックス――シスコンならぬ、マスターコンプレックス――マスコン。EGF時代から続く一種のスラングである。
「それ、ユネ殿だけには言われたくないんですが」
「あまりにもベタベタしすぎて、おこのりっちゃん様にお家の窓ぶち破って外に叩き出されたの、私忘れてませんからね」
「いや、マスターの身の回りのお世話こそフェローの存在意義と言いますか……ユネ殿だってヒビキ様に求められたら嬉々としてやるでしょうに」
「そりゃやりますけど……やりますけども……むぅ……」
顔を赤らめたユネが不味い紅茶を啜る。
「……しかし、またこうやって、ユネ殿とゆっくりとお茶を嗜む日が来るとは思っていませんでした」
「はぇ? アルフ君とのお茶ならいつでも付き合いますよ? 」
ユネの言葉にアルフレドが深い溜息を吐いた。
「あのですねぇ……これまで前線に出ずっぱりだった貴女がどの口で言いますか。今まで帰ってきたと思えば、消耗品補充してすぐに前線にUターン。家に居場所のないお父さんですか貴女は」
「……で、でも、クォーツいっぱい倒しましたし……単独討伐数三万オーバーとか私だけですよ?」
彼女の弁明にアルフレドがジト目になる。
フェローとして生成された当時からの付き合い故、二人の関係は友人よりも、兄妹や幼馴染に近い。基本的に誰にでも優しく丁寧なアルフレドであるが、ユネに対してはそうではなかった。
「『部位欠損』百八十回、『昏睡』五十八回、『散魂』三回、使用した治癒薬は五千本以上――ヒビキ様とリィ様に託されたお身体なのにあんな無茶をして……そんな貴女がその口を聞きます?」
「それは……その……ごめんなさい……」
ヒビキが帰還してからの数週間、件の巣の掃討作戦から今まで、ユネとアルフレドは前線に復帰していない。
『風見鶏のとまりぎ』所属以外のフェロー達は未だ前線で戦っている。その事実に心苦しさを覚え、ヒビキには復帰を何度も具申したが『絶対だめ』と、有無を言わさない笑顔で却下されていた。
その空いた時間の中でこれまでの戦いを振り返ることも多くなり、ユネはアルフレドにどれだけの心配をかけていたか理解した。
それ故に、その謝罪の言葉はすんなりと出たのだ。
人々を守るためだけに戦い続けたユネと、それにプラスして彼女の命も守るために心を砕いたアルフレド。その心労の重さは比べるべくも無い。
「心配かけてごめんなさい……もう大丈夫ですから」
「意外とあっさり今までの無茶を認めましたね。まぁ、昔のユネ殿に戻っていただけたのなら『兄』としては嬉しいです。これまでのユネ殿は非常に危うい戦い方をしていたので……」
紅茶の水面に目を落とし、アルフレドは微笑んだ。
「ヒビキ様とリィ様に託された大切なお身体、と言うのは半分建前です。私達フェローに血の繋がりはありません。私達の間に通っているのは、フレンド登録と言う電子データ上の関係性だけです」
ですが、とアルフレドは言葉を続ける。
「これまで共に剣を揃え、生を共にしてきた年月は偽りのないもの。ユネ殿はかけがえのない私の『妹』なのですから……『妹』の身を案じるのは『兄』として当然のことです」
端正な顔に湛えられた碧眼が、優しい輝きを以ってユネを見つめた。
そんな彼の言葉に、ユネはきょとんとした表情で言った。
「……アルフ君はお兄ちゃんじゃないですよ? 私がお姉ちゃんです」
「えぇ……この雰囲気で、そこに喰い付くんですか?」
例によって、妙な方向に話のハンドルを切るユネ。基本的に温厚で誰にでも友好的な彼女ではあるが、空気の読めなさに関しては彼女のマスターも保証済みである。
「だってだって、私の方がフェローとしての作成時間五分も早かったですし、私の方がお姉ちゃんなのは確定的に明らかです!」
「いや、それは正式サービス開始時の話でしょう? 私はベータテストの時点でリィ様が外見と性格パラメータ設定していましたし」
そもそもヒビキがEGFを始めた理由が、ベータテスト版をプレイしたリィンベルの誘いがあったからである。ここはアルフレドに軍配が上がるだろう。
「それに、リィ様とヒビキ様、マサキ様の合意で、長子が更紗殿、私が真ん中で、ユネ殿が末っ子って設定になっているじゃないですか。それが不服ならヒビキ様にお願いしてはいかがですか?」
「ぐぬぬ……」
さすがにマスターの名前が出て来ると引かざるを得ないらしい。
ユネが尖らせた口で紅茶を啜った。
やれやれとアルフレドは身体を伸ばした。最近は前線を離れデスクワークが主だったためか筋が固まっており、伸ばすと存外気持ちが良かった。
午後の太陽は中天にあり、まだ夕暮れには程遠い。
ヒビキから依頼された文献の捜索は早々に片付き、彼の今日の仕事はもう終わり。連日のハードワークを見透かされての実質的な休暇だったのかもしれない。
ヒビキ様も回りくどいことをする、とアルフレドは苦笑した。
さてこの後は何をしよう。本格的な休暇など何年ぶりだろうか。
マスターとは正反対の無趣味なアルフレドではあったが、考えを巡らせてみると、意外とやりたいことがたくさんあることに少し驚いた。
まず最初にリィンベルの前に花を供えに行こう。大広場に設けられた屋台は、最近になってますます数を増しており、彼女が目覚めた時に案内できるようリサーチもしなければならない。一段落着いたら食堂で茶を飲み、自宅の掃除でもしようか。
頭の中で予定を組んでいると、邸宅のドアが大きな音を立てて開かれた。
二人が振り向くと、そこには少年の姿。
漆黒の髪と、髪と同じ色を湛える両眼。線の細い体に少女と見紛うばかりの可憐な容姿の少年は『風見鶏の館』の管理人であるヤトだ。
「ヤトさん、そんなに急いでどうしましたか?」
「はぁっはぁっ……大変です! 街の外に亜人の武装集団が現れました!!」
ヤトの言葉にアルフレドは眉をひそめた。
「野盗の類ですか? この規模の街を略奪しようなんて無茶な輩がいるとは思いませんが……」
「と、とにかくそういう雰囲気じゃないみたいで……ヒビキ様とまかろん様が出向いていますが、何か間違いがあってはいけないのでお二人も!」
ヤトが担いできた装備を身に着け、アルフレドとユネは席を立った。
やはりこのご時世、穏やかな休暇を堪能とはいかないようである。




