【六・京慎太】
京が狭間のもとにやってきたのは、鞍馬が去ってから一ヶ月ほど経ってからのことだ。
「俺に……剣を教えてくれ……ください」
狭間の前に現れた京は、全身青あざだらけ、こぶだらけで顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。それだけで剣を習う理由は察しがついた。もっとも、修行をしているうちに考えが変わっていくのは珍しくないので、狭間は入門の動機についてはあまり気にしなかった。
京は真面目に修行をした。飲み込みも早く
(これは、ものになるかも知れない)
とその姿勢を狭間は評価し、楽しみにしたが、京が剣を振るときに見せる恨みの目つきが一向に消える気配のないのが気になった。
入門から三ヶ月ほど経った頃、京を三人の学生が尋ねてきた。竹刀を手にし、一目でどこかの高校の剣道部員だとわかる彼らは、
「部活辞めて逃げ出したと思ったら、こんなとこで竹刀振っていたのか」
道場を雑巾がけしていた京を笑い、そばに置いてあった水の入ったバケツを蹴飛ばした。中の水が道場に広がり、膝をついていた京の足を濡らした。
明らかに京を小馬鹿にした態度に、木刀を手にした狭間が割って入ると
「なんだ、おっさんがここの道場主かよ」
「どうせ有名どころじゃ相手にされないからこんなところにいるんだろ。大会出りゃ一回戦負けだ」
ケラケラ笑う態度に、狭間は気にすることもなく
「おまえさんたちも剣道を習っているようだが、人としての礼儀は教わらなかったのか」
学生の一人が狭間を値踏みするように見ながら背後に回ると
「隙あり!」
竹刀で殴りかかった。
しかし、狭間はひょいと体をかわし、手にした木刀でその部員の足を叩いた。部員は転倒し、足を抱えて悲鳴を上げた。
「隙ありというのは隙を見つけたときに言うものだ」
「てめえ!」
もう一人の部員が挑みかかるが、狭間にたやすく小手を打たれ、半泣きになって倒れ込んだ。打たれた手首が青く腫れている。
最後に残った一人も袋のまま竹刀を構えるが、狭間を前に震えていた。
「京、こいつはお前が相手をしろ」
「え?」
京は相手の部員と狭間を見比べ
「でも、僕はまだ基本しか」
「それで十分。こいつは雑魚だ。ただし油断するな。油断は力を半分以下にする」
「はい」
京が狭間から木刀を受け取って構えた。しかし勝負はなされなかった。残った部員は
「こっちは竹刀なんだぞ。木刀なんて卑怯だ」
と逃げるように出て行ったのだ。痛みに苦しむ二人の部員を残して。
後で京から、この三人は彼の高校の剣道部員で、最後に逃げた部員は呉里といって大会のレギュラーだと狭間は聞いた。もっとも、大会の練習よりも後輩をいびる方が好きというタイプで、剣道部に入部した京は彼らに目をつけられた。雑用ばかりで入部以来一度も竹刀を握らせてもらえなかった。
誰もいないときなら良いだろうと、京は日曜の早朝に道場で竹刀を振っていたところ、彼らに見つかり「許可なく勝手に竹刀振ってるんじゃねえよ」とこっぴどく痛めつけられた。
全身の痛みに半泣きになりながら、彼はその足で狭間を訪れたのだ。狭間の道場のことは知っていたが、大会にも出られない弱小道場で、一人いた弟子にも逃げられたということで、行く気にもならなかったという。
そして京は狭間に弟子入りし、翌日剣道部に退部届を出したのである。
逃げ帰った呉里が他の部員たちを十人ほど引き連れて狭間道場に来たのは、彼らが狭間に叩きのめされた次の日曜の昼過ぎだった。今度は呉里も木刀を携え
「一手御指南願いたい!」
と薄ら笑いを浮かべながら一礼した。剣の練習にかこつけて狭間を叩きのめすつもりなのが見え見えだ。先日逃げ帰ったのは何かの間違いだと本気で思っているようだ。
「懲りない奴だ」
狭間は呉里と京の一騎討ちを提案した。先日の続きというわけだ。
「俺はかまわない。準備運動にもならないだろうがな」
薄ら笑う呉里に狭間は
「で、ルールはどうする。剣道の公式ルールに則るか、それともこだわらず相手を叩きのめせば勝ちとするか?」
「別に、叩きのめせば良いだろう。面や胴で一本とって終わりなんて味気ないしな。ま、目と急所攻撃ぐらいは禁止にしとくか。それと、防具はなしだ」
「防具なしなら面も禁止にしたらどうだ。頭を木刀で力一杯打たれたら死ぬぞ」
「打たれなきゃ良いだけだ」
呉里は京を完全になめきっていた。ルールをうやむやにしたのも、相手を叩きのめすためだ。彼はこの試合で京や狭間の腕の一本も叩き折るつもりでいた。
二人が向き合って木刀を構えた。呉里は上段の、京は下段の構えである。部員たちは薄ら笑いを浮かべながら壁際でそれを見ている。みな呉里が京を叩きのめすと信じて疑っていない。ただ、先日狭間に打たれた二人だけが不安を混じらせていた。
気合いと共に呉里が打ち込む。それに対し、京は横に体を躱すと同時にすくい上げるように木刀を振るった。
道場に呉里の悲鳴が上がった。打ち込んだ彼の腕を京の木刀がすくい上げる形で迎え撃つように叩き、彼の腕の骨を叩き折ったのだ。
「それまで。いいな」
右手を挙げて宣言した狭間が他の部員たちを見ると、彼らはみな言葉もあげられず頷くばかりだった。
呉里は返事もせず、折れた腕を押さえてうめき声を上げている。
部員たちに抱えられた呉里が逃げ帰るのを見送った狭間が道場に戻ると、京は木刀を手にしたまま棒立ちとなっていた。
まだ実感がわかないのかと声をかけようとして狭間は思いとどまった。
京が笑っていた。勝利の笑みではない、相手を叩きのめした快楽に浸る笑みだった。
(これは……)
ここで初めて、狭間は自分が大きなしくじりをしたことに気がついた。
それから京が道場に来る回数がめっきり減った。まるでもうここには用はないとでもいうように。
(京にとって、花鳥風月流はあくまでも呉里たちを見返すための道具に過ぎなかったと言うことか)
呉里を倒した今となっては、わざわざつらい修行をする理由はどこにもない。狭間にとって、一人っきりの生活がまた始まった。
それから一ヶ月後。狭間の道場に一人の老婆が泣きじゃくりながら押しかけてきた。
「よくも、よくも美也ちゃんを」
皺だらけの顔をさらに涙でしわくちゃにした彼女の腕には、黒猫の死骸があった。かなりの年寄りだったが、老婆にとっては十年以上一緒に暮らした家族だった。
「ちょっと待ってくださいよ。わしはそんなこと」
「あんたじゃなくて、あんたの弟子だよ」
話を聞くと、食事にしようと猫を呼んでも一向に姿を見せない。探すと無残に撲殺された死体を見つけたというのだ。
「近所の人が見てたんだよ。あんたの弟子が美也ちゃんを棒で殴っているのを」
京だった。
ひたすら頭を下げて老婆に帰ってもらったあと、狭間は京の家を訪ねた。ずっと京の方から道場に通っていたせいで、狭間が彼の家を訪ねるのは初めてだった。
京の家は古い二階建てアパートにあった。呼び鈴を鳴らし
「はい……どちら様で」
出てきた母親らしい女の顔を見て狭間は驚いた。痣だらけで、頭には大きな包帯が巻いてある。狭間が名乗ると、彼女は憎しみと怒りと恐怖を変わる変わる顔に出し
「……なんで、あの子に剣なんて教えたんです」
愕然としたときだった。
「あれ、先生じゃないですか」
その声を聞いて京の母は明らかにおびえの色を見せた。京が帰ってきたのだ。
帰ってきた京の顔を見て狭間は驚いた。確かに京だが目つきがまるで違う。それに狭間は見覚えがあった。初めて彼の道場にやってきたときの呉里と同じ目だった。
話があるというので近くの駐車場に連れて行くと、狭間は京に猫の件を聞いた。
「そうですよ。それがどうかしました?」
京はあっさりと猫殺しを認めた。
「なんで殺した。猫といえども生き物だ。その猫を大切に思う人もいる」
「たかが猫でしょ。それだけなら帰りますよ。今度試合があるんで」
これ見よがしに竹刀の袋を見せた。
「部に戻ったのか」
「当然でしょ。俺以外はクズばっかりなんだから」
「すっかり、呉里とか言う奴の後を引き継いだな」
「弱い奴が引っ込んだだけですよ」
狭間の言葉の意味もわからなかったらしい。当然のことのように言う京に、狭間がため息交じりに首を横に振った。
「お前、強さを示すのはどういうことだと思う?」
「禅問答ですか。答える義務なんてないですけど……強さを示すなんて、勝つ以外に何かあるんですか?」
「勝つとはどういうことだ」
「相手を叩きのめすことでしょ。叩きのめされた方が勝つなんてそんな馬鹿な話はない」
(こいつ……)
今まで狭間が教えてきた弟子たちの中には、精神的に未熟な者達も多くいた。しかし、力をつけるに従い精神的にも強くなっていったものだ。それが京にはスッポリと抜け落ちている。今の京には何を言っても無駄だった。
その時はただ「親に剣を向けるな」とだけ言って帰った。
道場で一人、狭間は京をどうすべきか考えた。京があれでおとなしくなるとは思えない。
強さを見せつけると言ってもいろいろなタイプがある。勝つことの快感に浸り、そのために自分より弱いものを攻撃する。または自分より強いものの存在を極端に恐れ、自分が強いことを確認するために戦いを挑む。
どちらにしろ、その攻撃を向けるのは自分よりも弱いものだ。
(あいつ、技を磨くことばかり考え、心を磨くことをしなかったらしい)
自分より弱い奴と戦うのに技はほとんどいらない。力を振るうだけでいい。技を使うとき、それは自分より強いものを相手にするとき、前に進むのに障害となるものを打ち破るときである。だからこそ、技を磨くものは自分より強いものに挑み、前に進む心構えを持つ。それが狭間の考えだった。
もちろん、そのことは弟子たち全てに伝えている。京も例外ではない。
(一番簡単なのは、わしが京を叩きのめすことだが)
そうすれば、京は今度は打ちのめす相手として狭間を見るだろう。狭間を倒すために技を磨き、その攻撃性を他に向けることはほとんどなくなるだろう。
だが、それも憎しみの対象を他に移すだけで、根本的解決にはならない。
(わしもまだまだ人として未熟ということか)
しかし、狭間が迷っている間に事態はさらに悪い方向に向かっていた。
翌朝、早い内に狭間は杖を手に京の高校に出かけた。実際に彼がどのように部活動をしているかを確かめるつもりだった。ほんのわずかでも期待を持ちたかった。
彼の高校へ行き、剣道部が朝練をしているという体育館に行くと、いきなり中から悲鳴が上がった。
考えるよりも早く狭間は体育館に行き、いきなり扉を開け放った。中にいた部員たちが何事かと一斉に狭間を見る。
彼らの中央に京がおり、その足下に呉里が倒れていた。頭をたたき割られ、体育館の床を血に染めて。すでに息のないのは一目でわかった。
「先生」
血のついた木刀を手に京が笑みを浮かべたが、さすがにこの事態はまずいと思っているのか、口の端が引きつっていた。
「事故ですよ。これは」
狭間は片膝を突いて倒れている呉里をよく見た。怒りの形相で固まっていた。おそらく自分の頭がいつ打たれたのかもわからなかったろう。
「すぐに救急車と」
ゆっくり立ち上がると狭間は京と対峙した。
「警察にも連絡しろ」
部員の何人かが何度も頷いて出て行こうとするのを
「待て!」
京が止めた。
「警察は止めておけ。学校も迷惑だろう」
「そんな場合ではない。お前の仕業か」
「向こうから言い出したんですよ」
肩をすくめる京を狭間は睨み付け
「言い出すよう挑発したのではないか」
周りの部員たちが小さく頷いた。半ば推測だったが、正しかったようだ。
「先生は、大事な弟子を殺人者として警察に引き渡すつもりですか?」
「自分がしたことの責任は取れ」
「悪気があったんじゃない」
「責任というものは、いつでも自分の望まない結果になったときに取るものだ」
「嫌だ」
ゆっくりと木刀を青眼に構えて京は
「こいつは死んだ方が世の中のためになる。こんなクズ」
部員たちが驚いて京から逃げ出した。
一人になった狭間も杖を構える。こちらは八双だ。
「わしも、お前に剣を教えた責任は取らないといかん」
部員たちは二人から逃げるように離れ、それでいて二人から目をそらさない。
気合いと共に京が狭間に挑みかかった。
誰もが京の木刀が狭間の脳天をたたき割ると思った。だが、木刀が振り下ろされたとき、そこに狭間の姿はなかった。
京の視界から狭間の姿が消えた。どこだと思う間もなく、右肩に衝撃が走り京は木刀を落としてその場に倒れた。
間髪を入れず、狭間の第二撃が京の右足に見舞われた。さらに左肩にも。
「これでお前は当分剣を持てん」
狭間の杖で両肩と右足の骨を砕かれ、京は道場の床でただ体をよじらせ苦悶する。その様子に
「こいつ、もう動けないのか」
なんと部員たちが木刀を手に近づいてきた。みんな先ほどまでの京と同じ目をしていた。
「馬鹿者が!」
狭間の一喝で部員たちがハッとしたように足を止める。
「お前たちもこうなりたいのか!? それよりも早く救急車を呼べ。先生も呼んでこい」
だが、部員たちはおろおろするだけで一向に動く様子がない。
「わしがやる! 職員室まで案内せい」
「は、はい……」
おろおろする部員の一人に案内をさせ、狭間は職員室に向かう。部員の後に付きながら、狭間は無性にイラついた。
(わしに偉そうなことを言えるのか。あいつに力を与えたのはわしなのだ)
職員室で先生と押し問答の末、何とか警察と救急車を呼び終えたときだった。道場からすさまじい悲鳴が聞こえてきた。
「しまった!」
狭間は駆けだした。部員たちが動けない京にリンチをかけたのだと思った。
道場に着いた狭間は、むせかえる血の匂いに
「なんだこれは?!」
部員たちがみんな血まみれで倒れていた。みんな鋭い刃物のようなもので切り裂かれている。
道場の壁が綺麗に切り裂かれ、外の景色を見せている。漫画やアニメで剣士が壁などをバラバラに切り刻んで出口を作って逃亡。という演出があるが、そんな感じの切り方だった。
「京はどこだ?」
床に倒れているはずの京の姿はどこにもなかった。
「あいつだ……京がやった……」
血まみれの部員が一人、絞るように言った。
幸いにも部員たちはほとんど重傷ではあるものの、死んだものはいなかった。ただし、手足を切り落とされ、再び剣道をすることは出来ない体にされていた。
一体何があったのか?
手当を受け、落ち着いた部員たちが語ったところによると……、
やはり狭間の心配したとおり、彼がいなくなると、部員たちは一人、また一人と木刀を手にして京に近づいた。呉里の部員いびりは相当なものだったが、京はそれ以上だった。殺すとまでは行かなくても、誰もが一太刀浴びせなければ気が済まなかったのだ。
京の怯えた表情も彼らの良心に訴えかけることは出来なかった。むしろ今は立場が逆転していることの証明であり、部員たちに今なら勝てると確信させた。狭間の言葉もすぐに頭から消えた。
部員の一人が、今、正に木刀を京に振り下ろそうとしたとき、京の体が撥ねるように飛び上がり両腕を振るった。途端、木刀を振り下ろそうとした部員の体から血しぶきが上がった。
それからのことをハッキリ語れる部員はいなかった。ただ、両腕と片足の骨を砕かれ、動けないはずの京がすさまじい動きで部員たちの間を駆け回り、その腕を振るう度に部員たちは斬られ、周囲を血に染めて倒れた。
そして部員たちの意識が途切れ、気がついたときは病院のベッドの上だった。




