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ふりちりすべる  作者: ぱじゃまくんくん男
12/15

長島の戦い

 本多弥八郎は願福寺にいる。

 泥まみれの足で床が汚れていくのもいとわず、牛太郎が弥八郎の居候部屋に押し掛けると、新三がいた。

「な、何やってんだよ、お前」

 息を切らしながら牛太郎が入ろうとすると、「ああっ、足っ!」と、新三はすかさず駆け寄ってきて牛太郎を一度廊下へ追い出し、寺のどこかへ出かけていってしまう。

 牛太郎は手持無沙汰にぜえぜえとしているだけ。

「どうされました。そんなにあわてて」

 弥八郎の膝元と、新三がいたところには書物が置かれてあって、どうやら新三が弥八郎に物を教えてもらっていたらしい。

「武田が高天神城に攻めたって報せが」

 まだ、肩で息を切っている。

 弥八郎は声を驚きで跳ね上げさせ、瞼を大きく見開いた。

「もうですかっ」

「まあ、それもそうなんですが実は重大なことに気付きまして――」

 新三が濡れ手拭いを片手にして、もう片手には湯呑み茶碗を携えて戻ってきて、牛太郎に一方を渡すと、一方の手で主人の足を拭いていく。

「実は火縄銃は雨だと――」

「ちょっと、こっちの足をあげてくださいっ」

 新三に掴まれた右足を上げる。

「雨だと火縄に点火できないということですか?」

「そ、そうです。つまり、梅雨時を狙い目にしていますけど――」

「こっちの足もっ」

 新三に掴まれた左足を上げる。

「梅雨時では火縄銃は役に立たない。大きく矛盾しているのではないかと」

「そ、その通り」

「ふむ」

 と、弥八郎は腕を組んで、じっとうつむいた。新三が丹念に脛やふくらはぎをこする。

「もういいだろっ。お前は本当にもう」

 牛太郎は部屋の中に入り、弥八郎の前に着座した。新三が戸を手に取ってよそよそしく帰ろうとしているので、お前もいろ、と、言って中に入れた。

「いつまでも女々しくしやがって。たかだか連れていかなかったぐらいでよ」

「御約束だって守られていないではないですか」

「約束?」

「ほらっ。おやかた様に湿田の開拓を申し入れる旨ですよっ」

「そんなの、この前、京に行ったときに言ったよ。相国寺で会ったし。まあ、そんな余裕はないから駄目だって言われちゃったけどね」

 新三は恨めしそうに牛太郎を睨みつけると、鼻を背けた。

「もういいです。フン」

 弥八郎は眠ったように目を瞑っている。

「何がもういいですだ。お前、小姓なら小姓らしくちゃんとしろ。さっきだって盗み見していただろ。呼んだって逃げちゃうし。なんであんなコソ泥みたいな真似をしていたんだ。ん?」

「別にたまたま見ていただけです」

「たまたま? ははあ。お前、おれがおたまと話していたから気になって見ていたんだな」

「違いますっ。たまたまですっ」

「フン。エロガキが。どうせ、おれが岐阜を離れている間、おたまに近づいたんだろ。んで、おれがおたまに手を付けないかどうか心配で盗み見してやがったんだ。そうだろ。当たってんだろ。んー?」

「そんなんじゃありませんってばっ。殿がおたまさんに手を付けるだなんて奥方様がいるのですもの、絶対にないではありませんか」

「そ、そりゃ、そうだ」

「ただ――」

「なんだよ」

「七左殿や治郎殿がいるし」

 新三は視線を伏せながらも、ちらと牛太郎を伺い見る。牛太郎はこの色恋小僧を冷ややかに見つめる。

「どういうことだよ」

「おたまさんは若様の従兄妹に当たるのですから、やはりまだ殿は七左殿か治郎殿を一門衆にしようとしているのかなって」

「んなわけあるか。おたまをあんなごろつきにくれてたまるか。もちろん、お前にもなっ!」

 牛太郎は本気で言っていた。また、新たな独占欲に毒され始めた牛太郎の瞳孔の開きように、新三は唇を尖らせて見つめ返す。

「でも、おすえさんは鉢巻き殿と仲良くしていますよ」

「?」

「おすえさんとねじり鉢巻き殿ですよっ」

「お、おす......、ん? んーと――、え? お、すえって、おたまのお姉ちゃんのお化け女のことか?」

「お化けではありませんが、おたまさんの姉上ですよ」

「おいおい」

 牛太郎は思わず笑ってしまう。

「勘違いもほどほどにしとけって。馬のことしか考えてないねじり鉢巻きが女に興味を持つわけないし、あのお化け女だって鉢巻きと仲がいいんじゃなくて、クリツナとかクロときゃっきゃしているだけだろ。まあな、簗田家っていう狭い中で生きているから、お前もそう言いたくなるんだろうけれど、おれは別にいいさ。鉢巻きとすえなら。でも、中年おっさんとお化け女の恋話だなんて気色悪くて聞きたくもないからもうやめろ」

「ちょっと待ってください。なんで、おすえさんならよくておたまさんは駄目なのですか。明らかに殿の趣味ではありませんか」

「黙れっ! おれは簗田家の旦那なんだから、女中も趣味で囲うのも当然だろうがっ! 悔しかったらお前も出世してみろっ!」

「あ。今のお言葉、殿の口から出たとは思えませんね。奥方様がおられる殿のお言葉だとは」

「やめろ。今の発言は撤回する。やめろ」

「奥方様が聞いたらどうなることやら」

「やめろっ! 脅してんのか、この野郎っ! お前、いつもなら主人だ家来だって気にしているくせに、なんで、女が絡むとそんなに悪者なんだっ! ガキのくせにっ! チンコの皮とか剥けてねえだろ、どうせよっ!」

「脅してなどいませんよ。ただ、私は奥方様が聞いたらどうなることやらと心配になっただけです。ねえ、本多殿。殿は言いましたよね、女中も趣味で囲うのが当然だと」

「い、いや、新三殿。そ、その前に少々よろしいかな」

 弥八郎は両の手を前にかざしながら、熱くなりすぎている牛太郎と新三をなだめるように微笑を浮かべつつ、少しの間、黙った。

「なんスか、弥八さん。言っておきますけど、弥八さん、あっしのあの奥さんってのはとんでもない凶暴な奥さんなんスからね。ほ、ほ、本当にとんでもないんだからっ! だから、本当に、お願いします。変なことは言わないでください。本当に」

「いや、簗田殿」

 弥八郎は苦笑するしかない。

「奥方のことではなく、火縄銃のことなのですが」

「あ。あーっ。そ、そうね。そういえば、そんな話もしてた。雨に濡れちゃうと撃てなくなるだろってことね」

 自分から押し掛けてきたくせに、別のことに捉われて他人事になってしまっている牛太郎に、弥八郎は疑うような眼差しだったが、清く貧しいこの男はすぐに軽蔑の色を顔から消して言った。

「鉄砲隊を主力とした決戦を梅雨時に仕掛けるのは確かに矛盾しておりますが、梅雨時でなければ秋から冬にかけてとなります。その場合、簗田殿の言う例の湿田はわりと乾いてしまっており、武田の主力としている騎馬隊に大いに活躍されてしまうでしょう」

「どうだ?」

 と、牛太郎は同じく設楽ヶ原を調査した新三に訊ねる。新三は先程の余韻から、目つきがまだ悪者だった。

「あの場所が乾ききるということはありえませんが、今日みたいに雨が降り続いていると溜め池も出来るでしょうし、人馬が進軍できる場所はごくごく限られてくるでしょうけど」

「この小僧が言うにはそういうことらしいです」

 最初に押し掛けてきたときの切迫感がまるでない。

「つまり、そういうことです。梅雨時のほうが勝機が存分にあるということ。確実に近いのです。あとはいかに晴れ間を狙って時間を調整するか。それしかありません」

 時間を調整するという言葉がいまいちぴんと来なくて、牛太郎はどうでもよくなった。弥八郎が言っているのだから大丈夫だろう。あとのことは半兵衛、十兵衛にやらせておけばいいだろう、と。

 おれは司令官じゃないし。

「そんなことよりだ、新三。お前、もう元服しろ」

 簗田牛太郎という男は猪突猛進というか、こらえ性がないというか、無責任というか、あれだけあわてていたのに、すでに頭の中は厄介な新三を追い出すことに専念されてしまっている。

「なんでですか。私はお払い箱というわけですか」

 新三はその辺りの牛太郎の人間性をよくわかっている。

「そういうわけじゃない」

「私は頑として簗田家から出ません」

「なんでだよっ! お前は元々おれの家来じゃないだろうがっ! お父さんのところに戻って、一緒に五郎左殿に仕えろっ!」

 弥八郎は苦笑しながら首を傾げ、二人をいっさい相手にしないで書物を捲った。


 徳川三河守の要請を受けて、上総介は京に駐在させていた軍を自ら率いて東進させ、遠江援護への体勢を取ったが、速攻を至上としている織田軍なのに明らかに進軍は遅かった。

 こんなときのために琵琶湖に大船を浮かべている。だが、それに見向きもせずに陸路を取り、しかも、岐阜に帰陣するまでに十日もかかった。

 本圀寺の変のときは岐阜から京まで一日で駆け抜けた織田軍である。

 こうしている間にも武田軍二万五千は高天神城を包囲。ただし、小笠原与八郎はすぐに降伏しなかった。浜松の徳川本隊の援軍を待つが、三方ヶ原以来、武田の大軍にすっかり恐怖してしまっている三河守は織田軍が来ないかぎり出ていかない。そうこうしているうちに武田軍は攻撃を開始。上総介も嫡男勘九郎とともに軍勢を率いて岐阜を出立するも、遠江国に入り浜松城を目と鼻の先にしたとき、小笠原与八郎降伏により高天神城開城の一報が届けられ、上総介は仕方なくといったふうに三河へと馬首を返した。

 上総介は三河吉田城に入り、援軍の謝礼にやって来た三河守と面会した。このさい、上総介は援軍要請を受けたうえでの鈍重な進軍に後ろめたかったのか、それとも、狙いがあってのことだったと三河守に悟らせないためか、兵糧代として革袋二つにぎっしりと詰まった黄金を馬につないで浜松に贈った。

 贈られた浜松では、ためしに革袋を持ち上げてみた。すると、二人がかりでやっとこさ上げられる重量だった。あまりの黄金の量に徳川家の人々は驚き、将から下人まで上下の関係も構わずぞろぞろと見物に集まってきて、

「こんなことは、古今東西聞いたことがねえよ!」

 と、遅滞な織田軍の不満もどこへやら、素朴な三河者たちらしく喜々として大騒ぎであった。


 牛太郎は、おたま恋しさに反逆心が見え隠れする新三を家から追い出すことにがむしゃらになっている。新三の父親である大蔵安芸守に会い、新三を元服すさせるべきだと強く説得した。

「でも、新三の奴は簗田様にお仕えしたいって申しておりますし。あと一年ぐらいは勉強させてやってもらえませんか」

 どうやら安芸守は息子の意向を尊重している親馬鹿で、牛太郎が齢も齢なのだからといくら言っても、新三の好きにさせたいと言って聞かなかった。

 かといって新三自身を説得しても、新三は牛太郎の魂胆を読んでいるので意地でも小姓で居座り続けようとし、それどころか、いつのまにか梓に取り入っており、

「新三が摘んできてくれたのじゃ」

 と、床の間には初夏の花が活けられていた。梓がそうした素朴な贈り物を素直に喜ぶ性格だということを新三はまったく心得ており、それを利用する姑息さまで見せ始めた。

 可愛いところもあったのに、おたまが絡んだ途端に恐ろしいやつだ。牛太郎は寒々しい思いをしながら、最後の手段、太郎に相談した。

「大蔵殿も新三自身ももう少しは父上の世話をしたいと言っているのならよいではないですか。新三は少々小生意気なところはあるかもしれませぬが、なかなかどうして細かな気配りができる者ではありませんか」

 駄目だ。太郎まで洗脳されている。牛太郎は早々にあきらめて自室に戻る。

「お前は寄生虫だな。いや、家に居座るダニとかノミだ」

 と、布団を敷いている新三に言った。新三は澄ました笑みを浮かべて意に介さない。

「皆さま、私を正当に評価されておりますから。そのように私を罵るのは殿だけです」

「おれをあんまり見くびると痛い目に合うぞ」

 翌日、牛太郎は三河吉田城から織田軍とともに帰陣した丹羽五郎左衛門の屋敷を訪ねた。

「あっしのところに大蔵殿の子供が小姓としているんですけど、十五歳になりましたし、元服させようかと思って。主人の五郎左殿の許可で元服させてやり、丹羽家に奉公させてもらえませんか」

 もちろん、五郎左衛門は新三と牛太郎のいさかいも知らなければ、新三が元服をしないと言い張っているのも存じていない。なので、牛太郎が善意で新三を元服させたいと申し出ているように誤解した。

「左様だな。子供をいつまでも子供のままにさせておくわけにはいかんな」

 と、四十を前にして鬼五郎左の鬼の字などどこかに消えた五郎左は、垂れ下がった眉を緩ませながら、にこにこと笑っていた。

「ありがとうございます。新三もいっぱしの将になれて喜びます」

 牛太郎はしたり顔で頭を下げていた。

「いやあ、めでたいめでたい。可愛い新三の元服だから簗田家を上げてお祝いしなくちゃな。あ、送別会も兼ねてな。元服して大人になったら、簗田家家臣というわけにはいかないからな」

 大人の力学を行使した牛太郎は、夕飯の食卓で上機嫌にそう言った。

 その魂胆はともかく、牛太郎と新三が元服するかしないかで揉めていたことを知っている家の者たちは、丹羽五郎左衛門まで引っ張り出してきた牛太郎をいつものように怪しんだ。

「新三自身が元服はまだ早いと言っていたのに、そこまでする必要はなんだったのじゃ」

「梓殿。これはですね、新三自身だけの問題じゃないんですよ。大蔵殿を召し抱えている丹羽家の問題、しいては織田家全体の問題なんですよ」

 太郎以下、家の者たちは納得しなかったが、牛太郎の言っていることはあながち間違いじゃない。新三の本来の主人筋は五郎左衛門であり、彼が元服をしろと言ってしまった以上、簗田家の人間がとやかく言える立場ではなかった。

「いやあ、残念だ。新ちゃんがいなくなると寂しくなるなあ。でも、こればっかりは仕方ない。あ、そだ。お祝いに新ちゃんに太刀を買ってやろう。あと、袴も買ってやる。餞別にな」

 新三がむすっとしている中、牛太郎は高らかに笑い上げた。

 追い出したい側と居座ろうとする側の仁義なき主従の戦いは牛太郎の強権によって幕が下ろされるかと思いきや、おそらく牛太郎ゆずりであろう狡猾さと奇策で新三は挽回に転じた。

 牛太郎が有頂天になって市の相手に登城している最中、新三は太郎に今後も簗田家に世話になりたいという無理を願い出た。太郎は気持ちは有難いがと渋ったが、新三が丹羽五郎左衛門を説得してくれと強く迫った。

「無理だとは思うが、一応は話をしてみよう」

 新三は太郎を連れて丹羽宅へと押し掛けると、

「丹羽様にはまことに不忠なことかと思いますが、私は簗田家に仕えたいため大蔵の家を出ます。幸い、私には弟がおりますし、父上も了承してくださいました」

 太郎も五郎左衛門も唖然とした。むしろ、そこまで牛太郎に従いたいのかと感動した。

「いや、別に家を出なくてもよかろう」

 五郎左衛門がそう言うと、太郎も、

「左様。元服しても借り受けているという格好でよいではないか」

「いいえ。それでは示しが付きませんし、殿が絶対に許してくれません」

「わかった。そこまで言うならお主は簗田家に仕えよ」

 ということで、新三は大蔵家を出た形となり、元服と同時に姓を出身村の長束村から、名を利兵衛に改め、諱を当てつけのごとく牛太郎の政綱ではなく太郎の広正から一字取って、長束利兵衛正家とした。

 主従の戦いは新三改め、利兵衛の勝利であった。丸顔の頬をほころばせて主人の牛太郎の前にひれ伏し、

「太刀と袴の品、有難き幸せ。これからも神明に誓って簗田家にお仕えする所存です」

「お前はそこまでして......」

 新三が長束利兵衛に変貌したのを牛太郎が知ったのはこの日だった。してやられた牛太郎は悔しさのあまり拳を握って震えたが、そこまでたまが恋しいか、とは、梓やあいりがいる手前発せられなかった。

「どうしたのじゃ、真っ赤な顔をして」

「い、いや。新三の忠義さに感動してしまって。よ、良かったな、新三。五郎左殿が許してくれて。良かったな」

「もう元服したので、新三はやめてもらえませんか」

 と、憎たらしい顔だった。

 絶対にたまは渡さない。


 七月十三日。

 上総介は伊勢長島を討伐するべく、嫡男勘九郎とともに岐阜を出立、同日、木曽川下流に面する尾張西部の津島に着陣した。

 尾張津島から南西方向にかけての伊勢長島一帯には美濃から流れ出る川が幾条にもなって集まっており、大きな川だけでも岩手川、大滝川、今州川、牧田川、一之瀬川、木曽川などなどがあり、これらの大河に加えて周辺の山々から流れ出る谷水もこの地で合流している。

 これらの流れは長島の東西北を幾重にも囲みながら南の海へとそそがれており、この中に位置されている長島は四方を天然の要害に囲まれた難攻不落の地であった。

 およそ五十年前、この地に本願寺中興の祖である蓮如の六男蓮淳によって浄土真宗本願寺派願証寺が立てられた。願証寺は地元の国人、地侍を取り込んで地域を教義支配し、さらには賊や罪人を囲いこんで門徒衆十万人、石高約十八万石という大教国を作り上げた。

 かつては尾張の国人領主たちばかりではなく、美濃の斎藤道三でさえ、まったく手出しのできない存在であり、上総介も上洛のときにこれを避けており、願証寺側も介入してこなかった。

 沈黙に火花が落ちたのは、織田と三好三人衆とのいくさに宗家石山本願寺が参戦したためである。願証寺はこれに習って北伊勢の豪族たちや紀伊の雑賀衆などに檄文を飛ばし、これらがぞくぞくと集結。

 数万に膨れ上がった軍勢は織田方であった長島城を一気に攻め落とすと、次いで上総介実弟、彦七郎信興が城主を務める尾張小木江城に進軍。

 彦七郎は兄の上総介に援軍を要請するが、織田本隊はこのとき琵琶湖西岸を京に向けて南下してきた浅井朝倉勢に対応せねばならず、さらには比叡山に立てこもられてしまい、動くに動けない状況であった。

 北伊勢桑名城の滝川彦右衛門も一向宗に攻め立てられており、完全に孤立してしまった彦七郎は、六日間奮戦し耐えたが、多勢に無勢、小木江城は落城し、彦七郎は八十人の家臣とともに自害を果たした。

 上総介が長島一向門徒衆に向ける憎悪は浅井長政への比ではなかったが、長島への侵攻を二度失敗している。

 一度目は東西各地の中洲に築かれた砦を攻めるも、河が容易に進軍をさせず、さらには数千から万単位が立てこもった砦からは鉄砲、弓矢が雨あられと飛んできて、河上の要塞と化した長島になすすべがなく、撤退。この退却戦において柴田権六郎がしんがりを務めたが、氏家卜全、犬の夫であった佐治八郎などが討ち取られた。

 二度目は一度目の失敗を反省し、海上からの進軍を目論んだが伊勢大湊での船の調達の交渉していた上総介次男、北畠三介具豊の動きが芳しくなく、本隊は北伊勢のある程度は攻め入れたものの本拠長島の攻略まではいかず、撤退。そこを一向宗はしたたかに待ち伏せして狙いうち、織田軍にとっては再び惨憺たる退却戦となった。

 三度目の正直かどうか、上総介は長島討伐を号令し、織田総所領から軍勢を津島へとかき集めた。

 その数、八万。明智十兵衛と羽柴藤吉郎は、京、越前、と各々の業務のために参戦していない。にも関わらず、この大軍勢であった。



 武田攻略に専念しているので今回の長島侵攻も不参加であろうと高をくくっていた牛太郎であったが、上総介からの下知は参戦。

 まともな出陣ともなると玄蕃允や勝蔵とともに浜松へと向かった一昨年までさかのぼるので、牛太郎は出陣といえば何をしたらよいものだったか考えてしまった。

 さらには宿屋兄弟や弥次右衛門の新たな配下もいるし、新三こと利兵衛も元服を果たし一将兵である。貞やかつ、あいりなどのこなれた女たちが整然と男どものいくさ支度を整えていく中で、たまはその辺をあっちにこっちに駆け回るあわただしさ、曇天の庭先に落ち着いている新参者の男たちといえば、無駄に息巻いている若者が一人、青ざめている中年と少年、被った陣笠の下で眼差しを泰然とさせている者は治郎助ぐらいであった。

 あと、たてがみを編み込まれた栗綱の姿にすえが大喜びしていて、

「すえも髪の毛を編んだほうがいいんじゃねえか」

 と、栗之介が気色悪い笑みを浮かべて言っている。確かにすえと栗之介は仲が良い。が、広間で座り込んでいる牛太郎はそれを見なかったことにして、黙々と湯漬けをかきこんでいく。

 ちなみに堺でわざわざ造った胴丸と陣羽織は痩せてしまったので用無しとなり、結局その辺の足軽雑兵の格好に毛が生えた程度でおさまってしまった。

 太郎がお気に入りの赤黒縞の鞭を腰に差して縁側に現れた。すえと栗之介以外の一同は平伏する。広間から太郎の後姿を眺めながら、長篠の戦いまでには将校らしい鎧兜を揃えなければなどと、牛太郎の頭の中に長島の戦場はない。

「各々、初めての戦場だが無理はするな。父上を守っていればそれでよろしいからな」

 そう言いつつ、太郎は牛太郎に振り返ってくる。

「とはいえ、父上がまたしても一騎駆けをしてしまったら誰も守れません。なので、父上こそ無茶な真似はやめてくださいよ」

「そうじゃ」

 牛太郎の脇に座っている梓がそう言った。膝の上に抱えている駒の小さな手を持ち上げながら、

「駒からも言っておやり。無茶な真似はよせと」

 駒は頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。父の太郎も、祖父の牛太郎も、鎧兜を着込んだその日からなかなか戻ってこなくなることを幼い心で理解しているらしい。

「駒。駄々をこねるでない。しゃんとしてお見送りするのじゃ」

「大丈夫ですよー、駒ちゃん。おじじはすぐに帰ってきますからねー」

 牛太郎は駒の頬を革手袋越しの人差し指で触れたあと、腰を上げた。太郎は無言で駒を見つめる。男が人前で赤子をあやしたりするのを恥だと思っている堅物の太郎である。精一杯の未練を残している太郎の肩をぽんぽんと叩いて、牛太郎は玄関へと向かった。

「御武運をお祈りしております」

 と、あいりが女中たちを従えて上がりかまちに平伏する。

「くれぐれも無理はせんようにな。亭主殿も太郎も」

 牛太郎と太郎は梓に目礼すると、門前へと出て、それぞれ栗綱と黒連雀に跨った。栗之介が口輪を引く。利兵衛が牛太郎の脇を、七左衛門と治郎助が栗綱の背後を、弥次右衛門は――、くっ付いてきてしまったすえをあたふたと追い返し、駆け付けてきたたまに預けて落着した。

 沓掛勢は新七郎が清州を経由して直接津島へと率いることになっており、九之坪勢は三方ヶ原で全滅してしまったので、率いる兵のない玄蕃允がどこからともなくやって来て合流する。

「話によると織田の総兵は十万だというではないか」

 と、馬を並べてきた玄蕃允が言う。今回の大軍勢の侵攻に岐阜城下は盛り上がってしまっていて、少し大袈裟な風説が回っていた。

「我らの出番はないだろうから、オヤジ殿は十分に眠っておられるぞ」

 言われなくてもそのつもりの牛太郎だった。十万の大軍勢ならたかだか三百人そこらの沓掛勢の出る幕はないであろう。ただ、相手は織田軍を相当苦しめてきた長島一向一揆衆である。下手を打てば命の危険も有り得るので、無視、静観を決め込むつもりでいる。

 伊賀の忍びもどこからか守ってくれていることだし。

 ところが、本多与八郎がずたぼろに擦り切れた具足を着込んで現れた。

「拙者も行きます」

 刃の欠けた槍を携え、まったくの雑兵で、見るからに眉根をひそめたくなるみすぼらしさであったが、弥八郎は健気に馬上の牛太郎へ濁りのない瞳を向けてくる。

 牛太郎はどうしたものかと唇を噛んだ。仕方なしに馬から下りて、太郎や玄蕃允、従者たちを先に行かせる。

「弥八さんが参加してくれるのは心強いですけど、でも、相手は一向宗ですよ。弥八さんは一向宗じゃないですか」

 弥八郎は口許を引き結びながら目を落とす。

「確かに、正直、心は迷っておりますが、拙者の中には信仰とともに、自分でも反吐が出るほどの野心があります」

 両の手を突き出すと、それを見つめながらぎゅうっと拳にした。

「拙者とて天下を相手にできるのではないかと」

「だからといって、いくさに出てこなくたっていいでしょう。まして、一向宗を相手にするいくさに」

「いえ、簗田殿」

 弥八郎は視線をじいっと上げてきた。

「簗田殿は今回のいくさに呼ばれないだろうと言っておりましたが、それでも下知があったのは、鉄砲隊のことではないですか?」

 牛太郎は首を傾げる。

「長島を占拠するのが真の目的でしょうが、しかし武田を相手にした場合の想定もし、鉄砲戦法を実戦で試す側面もあるのではないかと拙者は思うのですが」

 だから、自分も出たいのだと弥八郎は言う。

 そんな訳ないと牛太郎は思った。自分まで駆り出されたのは、蟻の子まで徴兵するという上総介の本気度からだ。

 牛太郎までが駆り出されるとき、それはたいがい上総介が修羅のいくさをするときである。だから、弥八郎は連れていきたくない。今はどうなのか知らないが、かつては一向宗に染まっていたのだ。

 でも、何を言っても聞かなそうなので、牛太郎は黙って鞍に手をかけた。栗之介の介助で栗綱に跨る。

「弥八さん。あっしに付いてくる時点で弥八さんは織田軍ですけど、それでいいんですね」

 弥八郎は頷いた。

 雨がぽつぽつと降ってくる。



 夥しい数が木曽川岸を埋め尽くした。小雨が景色をかすませている中で数えきれない織田永楽銭の黄旗が派手な色彩を放っている。

 いつのまに織田軍はこんなにも巨大化したのか。牛太郎は今さらながら気付かされる。

 桶狭間ではたった三千しか集められなかったのだ。

 昔を思えば夢でも見ているかのようだ。ただし、それはどちらかといえば悪夢。平和時には厳しい規律を課せられる織田軍だが、戦時になれば解き放たれた小魔物のように狂い走る殺戮集団。しかも、この集団、兵卒一人一人に至るまで危機と見ればすぐに逃げ出すようなまったく下衆な心意気の持ち主たちだが、反対に、勝利を確信すればするほど牙は強力になっていくという下衆な集団なのである。

 そして、この下衆な悪魔の軍団は、理性と感情の交錯の魔王に統率されている。

「九鬼と滝川が水軍を率いて川を上がってくる。佐久間と権六は西へ攻め立て、本隊は小木江から、奇妙は東から、最後には船団で長島一帯を包囲する。敵は誰一人とて逃がすな。女子供まで容赦するな。長島のすべてを極楽浄土の土くれへ還してやれ。毛髪一本まで我らが目の前に残すな。わかったか」

 口調は静けさに淡々としており、瞼の中は光のないただの無機質な黒と白。短気とか悪戯好きとか、そういう上総介はここにはいない。司令官の理性と君主の感情を微妙な具合で昇華させた織田軍の統率者がここにいる。

 織田家を勃興させた上総介は、創造性豊かな君主であり、珠玉の作戦家でもあるが、外交や内政で派手な一面がある一方、いくさについては地味だった。いや、陰湿であった。よほどのことでないかぎり舌を巻くような奇策で戦線を打破するという考えは念頭になく、たいがい戦場に馳せ参じているころには勝利における可能性を九割九分としてきている。

 前二回の長島侵攻はこの点がいけなかった。一度目は相手を把握しきれていなかった。一向一揆衆というのはただの土一揆とは違って、本願寺宗家石山御坊から派遣されてきた僧衣をまとう将が指揮を取っており、武器も農具ではない。刀や槍、弓矢から火縄銃までが、全国の本願寺門徒からふんだんに送られてきており、もはや軍隊であった。

 しかも、ただの軍隊よりも遥かに強力であるのは、南無阿弥陀仏と唱えれば死んでも極楽浄土が待っているという根幹の教えが本願寺門徒にはあり、ゆえ、端から端に至るまで死を恐れていなかった。

 織田軍は上総介から一兵卒まで、長島が強烈な軍隊であることを認識していなかったのがある。このときは総兵数五万で、大軍に間違いなく、いつものように圧倒的物量で押し切るという織田軍の戦い方であったが、善戦どころか川向こうの長島に到達すらできなかった。

 二度目は焦りが出てしまったことにある。上総介は一度目の侵攻で長島を取り囲む大河には大量の船舶が必要不可欠と判断していて、次男の三介を大湊へ交渉に当たらせていたが、交渉が一向に進まないままに出陣を決めてしまった。

 というのも一度目の侵攻以来、織田軍の対長島に関してはまったくいいところがないままであり、一方で一向一揆衆はさらに北伊勢の豪族を取り込んでいき、膨張は止まらなかった。

 それにちょうど浅井朝倉を滅ぼした直後であった。上総介は三介の交渉が間に合うものだと、半ば息子に期待しつつ見切り発車してしまったのだった。

 軍議から戻ってきた牛太郎は、陣中の床机に座って、太郎や玄蕃允、新七郎などと長島一帯の見取り図を眺めながら、今までの経緯を太郎から聞いていると、いつからくっ付いてきていたのか、於松が隅のほうにこっそりと座っており、

「三介様は庭の小松なんですよ」

 と、にたにた笑っていた。玄蕃允が顔を上げる。

「庭の小松とはどういうことだ、じいさん」

「盆栽ってことですわ」

 三本だけの歯を出して得意げでいる。牛太郎は呆れて鼻で笑う。

「うまいこと言っているつもりなのかもしれないけどよ、三介様ってのはまだ十六か十七だろ。子供じゃねえか。子供を船着場の商人たちと交渉させるなんて酷だろ。だいたい、三介様の面倒は誰が見ているんだよ。信忠様には紀伊守殿がくっ付いているだろ。誰が助けてやっているんだ?」

「父上も世話になった掃部助殿ですよ」

「カモン?」

「甲府にご一緒したではありませんか」

「ああ。あの掃部助殿か」

 織田家でもっとも弁の立つ男として武田家への媚中外交には大いに重宝されていた一門衆である。ただ、これといって特色するべき点は、口達者以外にはなさそうであった。

「掃部助殿じゃなあ」

 牛太郎の失言を誰も咎めないので、そういうことだった。

 二度目の失敗により、上総介は三介を見限り、対長島におけるすべての差配を自らが取ることにした。長島に影ながら物的支援を行っている勢力を大小徹底的に調べ上げ、長島への補給路を遮断。さらに大湊の船舶調達に失敗した一因を、大湊の会合衆が長島に肩入れしていることであると政務方の奉行である塙九郎左衛門が察した。

 塙は大湊の船主たちが長島の将の要請で、足の弱い門徒衆の女子供たちを「頻繁に」船で運んでいるとし、長島に味方した者は必ず成敗するとの書状を会合衆に突き出した。

 実際、福島という親子が、真実なのかどうか長島の協力者であるとされ、上総介の命により処刑された。

 恐怖支配によって海路を手に入れた上総介は、滝川彦右衛門、九鬼右馬允、次男三介に二百隻の船舶を与え、これに伊勢湾から木曽川をさかのぼらせ、長島を水上から封鎖攻撃することとする。

 兵糧攻めだった。

 上総介は合理主義者だ。いくさの華など知ったことではない。地味であろうと陰湿であろうとただただ勝利のために、九割九分の可能性を作り上げてから戦場にやってくる。

「若殿様の部隊に配された我らはとりあえず木曽川東の兵を駆逐していくことになりましょう。本隊や叔父上たちの部隊に比べれば過酷ではありません」

 太郎には沓掛勢に足して、初めて二千の岐阜兵が分け与えられた。上総介の口からそれが発せられたとき、牛太郎は太郎が興奮のあまり馬鹿みたいな突撃を繰り返すのではないかと、息子をまったく信用しなかったが、太郎は普段通り落ち着いていた。

 むしろ、疑われたのは牛太郎のほうで、玄蕃允に、

「兵が与えられたからといって調子に乗るのではないぞ、オヤジ殿」

「それはおれがお前に言うことだ」

 と、三方ヶ原で共にしていたせいか、互いが互いに猪武者だと決め付けている。

 太郎はこの様子だと危ない真似はしないと牛太郎は思った。ただ、荒くれ猪の玄蕃允もいれば、簗田勢が統率を頼む勘九郎の傘下には森勢、つまり勝蔵が付けられたのだった。

 牛太郎は何か余計な悶着が起こるのではないかと気が気ではない。

 勘九郎隊の陣容は、まず上総介の弟たち、三十郎信泡、半左衛門秀成、又三郎長利に上総介の叔父である孫十郎信次、従兄弟の市之介信成、そこに森勝蔵、簗田左衛門太郎、姉川で死んだ坂井久蔵尚恒の弟坂井右近という若武者などなどで、重臣級は池田紀伊守ぐらい。

 ほとんどが一門子弟と若者たちで固められた部隊である。実に心細い。

 翌日、七月十四日。

 織田軍は東西北から一斉に攻めかかった。勘九郎隊の先陣を切るのは関小十郎右衛門のはずだったが、森勢の鶴丸紋が抜け駆けした。勝蔵率いる森勢は迎え撃つ一揆勢と激突すると、簗田勢が十八番の斜行突撃で傘も被っていないような連中たちを粉砕する。一揆勢はそれでも応戦するが、次々と押し寄せて来る勘九郎隊の兵卒にさんざんに蹴散らされていき、牛太郎はといえば栗綱をのんびりとさせたまま遠目に見てた。

「旦那様っ! 俺らも行きましょうよっ!」

 七左衛門が騒いでいるが、牛太郎は打ち鳴らされる押し太鼓の響きを聞くだけ。

「旦那様っ!」

「黙ってろっ! このすっとこどっこい! 格さんの役目は御隠居のお守りなんだから、黙ってじっとしてろやっ!」

 今回、牛太郎はまったくやる気がない。

 勘九郎隊は一揆勢を打ち破っていき、小さな集落や砦といった東岸の一揆勢の拠点を焼き払っていき、ついに一揆勢は川向こうの中州へと避難していく。

 北方では本隊が小木江城下の村の防備線を突破し、一気に飲み込んだ。そのままの勢いで河川へと足を踏み入れ、北近江から派遣されてきている木下小一郎隊が篠橋という中州の砦に攻め入った。さらにこだみ崎という中州の河口に船をこぎ着け、兵を集結させていた一揆勢に丹羽勢が襲いかかり、一気に撃破。

 勘九郎隊も川を渡って中州へと踏み入れ、本隊と合流。上総介はここに陣幕を張り巡らせ、一夜、野営し、水軍の到着に備えた。



 七月十五日。

 一転、雲一つない晴天であった。伊勢湾から立ち昇ってきた太陽が血の匂いが漂う河口をまばゆく照らし出し、地上に残っていた湿り気は一気に蒸発した。

 織田水軍は朝日が昇るのとともに河口へとやって来た。牛太郎は川岸から従者ともども、額の上に作った手庇で陽光を遮りながら、その姿が確かになってくるごとに声を失くした。

 蒸気の粒が光を反射する眩しいもやの中に浮かび上がったのは、数えきれないほどの黒い影。上流に来れば来るほどその数は多くなっていき、やがては甘露に群がる働き蟻の増殖のように水軍は河口を埋め尽くした。

「す、すげえや」

 七左衛門が瞳をときめかせていた。

 二百隻のうち、十数隻の安宅船(戦艦)が隊列の中心となって関船(巡洋艦)と小早(駆逐艦)従えている。

 安宅船(あたけぶね)はさながら水上の要塞であった。敵を恐れず暴れ回ることをあたけると言い、安宅船の由来はそれにあやかっている。見てくれは大きな木箱。ただ、木箱で形容するには巨大すぎる。長さは四十から五十メートル、幅は二十メートル余、最大乗員は百人余、二層の矢倉から成っており、最下層は兵糧、武具などがぎっしりと詰められた倉庫、二層目で四十人の水夫が櫓を漕ぎ、三層目に鉄砲隊、弓矢隊がひしめきあっており、さらには北畠三介、神戸三七がそれぞれ乗船しているものには大鉄砲が備えられている。

 さながら水上の要塞であった。これを小型化したものが関船で要塞の安宅船よりも速力に優れている。安宅船と関船を囲みながら進んでくるのが小早で、こちらは足軽兵卒たちをすし詰めにしている乗員船である。

「終わったな」

 牛太郎は呟いた。上陸するだけの船団ならともかく、水上の要塞で封鎖されてしまうのだから、一向一揆衆になすすべはないだろう。しかも、二百隻というのは、聞くのと見るのとでは感動が違う。一言で言えば恐ろしい。旗指し物が河口を埋め尽くしたさまは、なんだろう、どこまでやっても気が済まない上総介の性格の表れというか、人間の向上の果てしなさとえげつなさというか、とにかく絶句から始まる光景である。

 無論、牛太郎は琵琶湖に浮かんでいる安宅船を見たことがある。だが、これは違った。長島にぞくぞくと集結しているのは輸送船団ではなく、水軍なのだった。

 川岸に待機する勘九郎隊の兵卒たちが歓声を上げている中、弥八郎が陣笠の下から船団をじっと見つめている。

 丸い顔の利兵衛が言う。

「多分、誰もおやかた様にはかなわないのです」

 弥八郎は何も答えない。

「旦那様っ! 俺らも船を出しましょうよっ! 船の上なら俺たちだってひけを取らねえですよ。なあっ、治郎」

 治郎助は兄を相手にせずに船団の進行を眺める。

 銃弾が轟いて、水軍はまず勘九郎隊の対岸の砦を攻めた。安宅船と関船が弾丸や火矢を撃ちかけ、煙をもうもうと立ち昇らせると、小早を漕ぎつけて兵卒が上陸、圧倒的物量になすすべない一揆勢は駆逐され、逃げ切れた者は命からがら長島へと船を出した。

 そして、この二百隻の船団は列になって中州をびっしりと包囲した。

 半径一キロメートル弱内の河口に浮かぶ島々に十万人近い門徒衆たちが閉じ込められた。夕刻、織田本隊は渡河して更に進軍し、包囲網の中、前線にほどなく近く、長島を西に望む殿名という島にある伊藤某の屋敷を本陣とした。

 燃え盛るかがり火が蒸し暑い夜をいっそう鬱陶しくさせる。将校の牛太郎には息子の太郎ともども門徒衆を追い払って空き集落となった内の一軒が割り当てられたのだが、牛太郎はあまりの暑さで屋外に出、地面に敷いた御座の上にふんどし一丁で仰向けに寝そべって利兵衛に扇子をあおがせ、治郎助に汗を拭わせているという体たらくであった。

 当然、太郎がたしなめにやって来たが、牛太郎は聞かない。

「どうせ、出番はないんだから。兵糧攻めなんだし、気長に待とうぜ」

「そういう問題ではないでしょう。父上はそんな姿を兵卒たちに見られて何とも思わないのですか」

「思わないからこうしているんだろうが。そもそもおれは大将だからって一人だけ家の中にいるのは嫌なんだよ。皆とこうして肩を並べながらのが性に合っているからな」

「では、雨が降ってきても、皆と同じように笠と蓑だけでやり過ごすのですね」

「もちろんだ」

 ぷいと背中を向けて、太郎は家屋の中へ消えていった。

 牛太郎の周りを車座になって囲む従者たち。栗之介が干し柿をかじりながら言う。

「どうせ、雨が降ってきたら一目散に家の中に入っていくんだろ」

 牛太郎は寝そべったまま視線だけを栗之介に向けて鼻で笑った。

「当たり前じゃんか」

「ある意味尊敬しますね。殿のその平然とした虚言は」

「おい、利兵衛。おれが嘘を言っているんじゃない。太郎がおれに嘘を言わせているんだ」

 訳のわからない傲慢に従者たちは呆れるしかなかった。

「んなことより、旦那様っ!」

 七左衛門がおもむろに立ち上がる。

「いつになったら俺らに槍働きをさせてくれるんですかっ!」

 退屈に耐えきれなくて、七左衛門はさすがに険しい顔つきだった。それでも牛太郎は冷ややかな目であしらう。

「槍働きなんていつになってもないよ。だって、おれは危ない場所にはいかないもん」

「じゃあ、俺も若様の付き人にさせてくださいよっ!」

「そんなの駄目に決まっているだろ。格さん助さんはおれのお守りって昔から決まっているんだから。それが嫌ならクビな。もちろん、堺の船着き場にも出入り禁止だから」

 七左衛門はがっくりと肩を落として、すとんと腰を下ろしてしまう。

「なんだよ、それえ。何のために毎日毎日玄蕃様にしごかれてきたんだかわかんねえよお」

「おれを守るためだろうよ」

 ちぇっ、と、七左衛門は舌を打って、あとは黙った。弥次右衛門が七左衛門の肩をなだめるように叩くが、七左衛門はその手を払いのけて、

「いくさに出たくねえ弥次さんにそんなことさせられたくねえよ」

 と、まずい雰囲気になる。

「まあ、そうかっかすんなよ。先は長いんだからよ」

 牛太郎は起き上がると、利兵衛から扇子を奪い取ると、隅で短刀を研いでいる於松に呼びかけた。

「おい、じいさん。明日は早起きでもして魚でも釣ってこい。刺身にしようぜ。なあ。せっかく海が近いことだし」

「そんなことしてっとおやかた様に見つかっちまいますよ、旦那様」

「釣りぐらいいいだろうが。あ、なんか、自分で言っておいてなんだけど、本当に刺身が食いたくなってきたな。鉢巻き、お前ならただの馬丁なんだからこっそり釣りしてこい」

「そんなのじいさんに行かせろよ。おれはいくさ場で釣りなんてしたくねえよ。門徒衆に撃たれたりしたらどうすんだよ」

「どうせ、船に乗っている連中は釣りしてんだろ」

 まったく戦場に身が入っていない牛太郎の言葉には誰も反応しなくなった。

「そうだ。だったら、明日あたり、あのでっかい船に行こうか。見物がてら刺身も頂戴してこよう。おい、利兵衛。あの船の連中におれの知り合いはいそうなのか」

 利兵衛は首を傾げる。

「そのようなことを言われても殿のお知り合いが誰なのかわかりません」

「じゃあ、誰が大将なんだ」

 九鬼右馬允、滝川彦右衛門、北畠三介の三人が水軍の大将だと利兵衛は答えた。

「じゃあ、掃部助殿もいるだろ。あの人なら知り合いだ。よし、利兵衛、明日はお前の大好きな船に乗せてやるからな」

「別に好きではありませんが」

「いつも言ってんじゃねえか。船にしろ船にしろって」

 そう言いながら牛太郎は扇子を押し付け、再び寝そべった。虫の音を聞きながら瞼を閉じ、前線で呑気に熟睡した。



 かつての伊勢国司北畠家に支配的和睦の条件として送り込まれた上総介次男、三介具豊は、北畠家の代々の当主たちが呼ばれてきたように、御本所(ごほんじょ)、と、呼び名では敬われている。

「やあやあ。簗田殿ともあろう御方がわざわざ出向かれられなくても、こちらから迎えを寄越しましたのに。さあさあ、せっかくですから御本所にご挨拶でも」

 織田掃部助はそう言いながら牛太郎と従者たち、利兵衛と弥八郎を安宅船の中へ通した。

 間近に見ると巨大さをさらに実感したものだが、中に足を踏み入れると実にせまぜましい。階層を渡る廊下は人一人通るのがいっぱいで、すれ違うものならどちらかが壁に張り付いてゆずるしかない。

 階段を上がっていき甲板に出ると、潮の香りがかすかに漂うのとともに、河口の島々と船団の包囲線が一望できた。陽光がさざ波に砕けていて、地上よりも若干だが涼しい。牛太郎は率直に、

「いやあ、いいなあ」

 と、こぼした。

 戦場を水上の高見から望むというのは華があった。血なまぐさい陸上とは違って、爽快である。利兵衛も弥八郎も同感のようで、この三介安宅船が包囲線の中心的存在に位置しているのだから、戦争の不毛さなどちっとももよおさず、武者の意気だけが高揚としてくる。

「御本所。こちらは簗田左衛門尉殿でございます」

 掃部助が牛太郎の前に連れ出してきたのは、北畠三介具豊。

「おう。貴様が簗田左衛門尉か」

 牛太郎たちがあわてて膝をついていたところ、いち早く軽快に右手を掲げてきた青年は、その仕草から自信に満ち溢れていた。伊勢国司の名跡を意識してのことか、源平武者を思わせるような赤糸の大鎧を身に着けており、烏帽子の下の顔は父親の上総介をそのまま若返らせたような美丈夫であった。

「わしの船を訪ねるとはどういう用向きだ」

 声は父親と違って低い。そのぶん、威風堂々としている。頭を下げて平伏する牛太郎は、三介のどこが凡才なのかわからなかった。気難しそうな勘九郎よりも、他の上総介の弟たちよりも、よほど大将風情でしっかりしていると思った。

「はい。実はあっしは安宅船というのを乗ったことがありませんでして。なので、勉強のためにも昔の知り合いでもある掃部助殿にお願いして乗せてもらいました」

「おうおう。珠勝ではないか。お主を愚将などと呼んでいる者もおるが、父上ならず叔母上もお主を頼りにしているという話ではないか。なにしろ、桶狭間の勲功第一だからなあ」

「もう、ずいぶん昔の話になります」

「謙遜するな。どれ、表を上げて、この戦況を見てみろ」

 そう言って牛太郎を引き連れてへりに歩み寄った三介は、黒筒の遠眼鏡を取り出し、覗きこんだ。牛太郎は思わず声が出そうになる。世界に十数個もないと言われている遠眼鏡は牛太郎も大枚をはたいて持っていた。日本人で所有しているのは自分と、宣教師から献上されたという話の上総介しかいないのではないかという優越感に浸っていたのだが、牛太郎の場合はさゆりに捨てられてしまっている。

「御本所、それは信長様が持っていたという遠眼鏡ですか」

 三介は切れ長の瞼をちらと向けてくると、父親そっくりの笑みをにやっと浮かべた。

「違う。わしのは大湊の商人から買い付けたものだ。ところで、左衛門尉は遠眼鏡を存じているのか」

「はあ。あっしはよく堺に行っているんで、南蛮の船長が持っていたのを見たことがあります。でも、あっしが欲しがったところべらぼうな値段を吹っ掛けられたので、貧乏侍のあっしは泣く泣く断念しました」

 と、その船長からべらぼうな値段で購入したくせに、三介の自尊心の前に黙っておいた。

 牛太郎の思った通り、この青年とも少年ともつかない次男坊は、愉快そうに瞳を輝かせてきた。

「ほほう。遠眼鏡を欲しがるとは左衛門尉、なかなか博識と見たぞ。どれ、せっかくだから覗いてみろ。覗いたことなどなかろう」

「はい。南蛮人は意地悪なので見せてくれませんでした」

 三介は遠眼鏡を牛太郎に渡してきて、ここを覗き込むのだと、上機嫌だった。

 牛太郎は筒を右目に当てて、中州の景色を覗き込む。と、言っても、レンズの風景はぼやけている。この時代、まだ精度はよくなかった。

「どうだ、長島の者どもの姿形がありありと見えるであろう」

 三介はそう言うが、いくら目を凝らしてもそこまで確認できるはすがない。

「いやあ、そうッスね。ありありと見えますよ。いやあ、本当にいいなあ。さすが、御本所。遠眼鏡に目をつけるとはさすがです。これからは指揮官たる者、遠眼鏡の一つでも持ち歩かなければいけません」

 半ば皮肉っているのだが、三介は何の疑念も持たずに気を良くした。戦況を見てみろと言っていたのもどこへやら、三介は船の最下層にある座敷間に牛太郎を招いた。窓の外に川面がゆらめき、そよ風が入ってくる。

「左衛門尉は目の付けどころが良い。やはり、叔母上が頼りにしているだけある。是非とも左衛門尉にこの戦いでの我らの在り方を教えてもらいたいものだ」

「在り方ですか」

「うむ。ただ、ちと腹が減ったな。おい、掃部。膳を用意させい」

「膳、ですか?」

「左様。さっさとせい」

「しかし、御本所。おやかた様は昨日本陣を構えたばかりで、いつ軍議になるかわかりませぬ」

「さっさとせんかあっ!」

 牛太郎がびくっとした傍らで、掃部助は無言で頭を下げて座敷間を出ていった。

 三介は軍扇を取り出し、顔をあおぎ始める。若者に似つかわしくない金箔の扇だった。

「まったく融通がきかぬ。父上は兵糧攻めだと言っておったのだから、軍議などなかろう。今から気を長く持たなければ息も詰まると思わんか、左衛門尉」

「は、はい」

 牛太郎は川面を眺める三介の横顔を伺いながら、やはり、凡才か、と思った。いや、凡才どころか、暴君じゃないのか。まるで、上総介の駄目な部分だけを残したような男である。

 まあ、牛太郎の目的は刺身だった。さすがに三介に釣りをしたいなどと言い出せず、次男坊に連れられてしまったので今は諦めるしかないが、三介に気に入られれば安宅船に居座られる。危険で蒸し暑くて口うるさいのが傍にいる陸上よりも、このまま優雅な水上の要塞で寝そべっていようと牛太郎は企んだ。

「それにしてもこの大船団をまとめ上げるのは大変な気苦労でしょうね」

「左様」

 軍扇をゆっくりと動かしながら牛太郎を横目にしてくる三介。

「船の上の人間というのは海の危険と隣り合わせゆえ、たいがいならず者だ。そのためにも気を張り詰めるだけではいかん。気長に構えんとな。左衛門尉。陸とは違い、海とはそういうものなのだ」

 話せば話すほど、三介のぼろが剥がれおちてくる。この水軍を取りまとめているのは九鬼右間允と、滝川彦右衛門であり、三介はただの飾りであることは牛太郎も存じている。しかも、船乗りの教訓めいたことを言っているのだから、気を抜いてしまえば笑ってしまえるほどだった。

 なのに、三介はどうやら本気らしい。

「織田の今後を占うは水軍よ。左衛門尉、しかと心にしておけ」

 ほどなく、膳が運ばれて来た。抱えてきたのは掃部助ではなく、怪しげな気配を目尻にたたえる美少年たちであった。牛太郎は気味が悪くなったが、膳の上は贅沢にも魚の活け造りであった。

「こ、これは、いいんですか、御本所」

 三介は少年になぜか酌を受けながら、

「これも水上ならではよ」

 げらげらと笑い上げ、猪口の中をがぶりと飲み込んだ。牛太郎はちょっと言葉にならず、三介を呆然と見つめてしまう。

「どうした。食べんか」

「い、いや、御本所、それは酒、ですか」

 三介が一瞬目つきを厳しくさせたが、

「なわけあるかい」

 と、笑って、再び酌を受ける。

「水だ、水。雰囲気だけを味わっておるのよ。貴様も飲んでみればよかろう。ただの水だから」

 牛太郎の隣に付いている少年が徳利を傾けてくる。牛太郎は仕方なく猪口に受け入れ、中身をちびりと飲んでみた。

 酒だった。

「どうだ、なかなかの水であろう」

 心なしか、三介の目の縁が赤らんできているようにも見える。

「あ、はあ、なかなかの水です。で、でも、あっしは、じ、地元の水しか飲めない体質でして。いわゆる、下戸みたいなもんでして」

 ハハ、と、苦笑しながら猪口を膳の上に戻す牛太郎。箸を取り、刺身をつまんで、うまい、と大袈裟な舌鼓を打つ。

 こいつはとんでもない息子だ。牛太郎は関わらなければ良かったと悔やみ始める。上総介が軍規を重視していることを三介が知らないはずがない。さらにはごまかし方といい、ふてぶてしい強要の方法といい、大人顔負けの狡猾さである。

「下戸みたいなものなら仕方ないの。まあ、遠慮するな、左衛門尉」

 やがて三介は、牛太郎のこれまでのいくさ遍歴を聞きたいと言い出した。九歳のときに北畠家に出されたので、尾張美濃勢のこれまでの活躍を詳しいところまでは知っていないとのことだった。

 牛太郎はもっとも激闘であった金ヶ崎の退き口や姉川の戦いの話をした。しかし、途中から三介の手が少年の内もも辺りをまさぐり始め、男色が大嫌いな牛太郎は早々に話を打ち切ろうとした。

 そのとき、掃部助が押し掛けてきた。

「御本所っ。本陣からの伝令で軍議を開くとのお達しですぞっ」

「なにい?」

 三介の姿勢はすでにだらしない。

「掃部。代わりに行っておけ」

「いやっ、しかし、大将の御本所がお出でにならなければおやかた様が――」

「船に酔ってしまって寝込んでいるとでも言っておけっ! そもそも、わしは昨日からの航海で本当に酔ってしまったのだ!」

 そう言って、三介は少年の膝の中に頭をかたむけてしまう。

「うう。気持ち悪いのう。船酔いじゃあ」

「じゃ、じゃあ、あっしも出なくちゃならないんで」

 牛太郎は立ち上がろうとしたが、

「左衛門尉っ! 貴様は息子の左衛門太郎がおるから構わんではないかっ! 一度乗った船から下りるとは男がすたるぞっ!」

 酔っ払いの哲学にどうにもならなくて、牛太郎は掃部助に視線で助けを求めたが掃部助はうつむいて小さくかぶりを振ると、戸を閉めてしまった。

 牛太郎と三介が出向かなかったこの軍議で、長島を取り囲んでいる島々や川岸の五か所の砦への一斉攻撃が言い渡され、三介の安宅船も駆り出されることとなる。

 牛太郎は船から下りようとしたが、三介に許しを得られず、意に反して出陣とあいなった。


 一向一揆衆が逃げ込んだ五つの城砦のうち、大鳥居は西岸にあり、篠橋は包囲線の外の中州にあった。上総介は一向一揆衆の一人たりとも討ち取りこぼさない構えであり、大鳥居には佐久間柴田隊を当たらせ、篠崎には本隊から弟たち一門衆、丹羽五郎左衛門が後方に陣を取り、水上から三十郎信包を百隻の船団とともに上陸させた。

 陸上での攻防を尻目に三介の安宅船は悠々と岸に漕ぎつけた。兵卒が抱え構える大鉄砲から火を吹いて発せられた鉛玉はほとんどが外れたが、もちろん命中したものは砦の櫓や塀を破壊した。

 大鳥居砦の阿鼻叫喚が、安宅船の甲板からは目と鼻の先である。人影があろうものなら、下層の鉄砲狭間から火縄銃が立て続けに掃射される。内部に侵入してくる佐久間柴田隊の兵卒たちを一揆勢はなんとか退かせながらも、安宅船にへばりつかれている以上、亀のように丸くなるしかなかった。

 三介は自軍の圧倒的優勢を高見にして大笑いしている。まるで海賊だった。

「御次男が愉快になられるのも無理はありませんな」

 海賊から離れたところ、弥八郎が篠橋の方角から幾筋も立ち昇っている煙を眺めながら牛太郎に言う。

「ここまでされては手も足も出ますまい。ただ、あまり得られるものはなかったかもしれませぬ」

 弥八郎は戦場から逸らすようにして視線を伏せる。利兵衛がどういうことかと訊ねる。

「武田とやるには、ということです」

「それは初めからわかっていたことではないでしょうか。船と騎馬ではいくさの仕方もまったく違うはずです」

「お前は黙ってろ。来る前は青ざめていたくせに、もうお喋りか」

「私はお訊ねしているのです。殿だってそう思いませんか。初めからわかっていたことではありませんか」

「お前は本当に何もわからないくせにべらべらべらべら」

 見ろ、と、牛太郎は皮手袋の指先をずらりと並んでいる船団に向けた。

「これは合戦じゃない。討伐だ。いくらおれでも船の上でこんなにゆっくりしていられる合戦なんてのはないんだからな」

 利兵衛が弥八郎に視線を向けると、彼もうなずいた。

 牛太郎たちが船上で戦況を眺めている間も討伐戦は続く。上総介の執念はなみなみならなく、水陸の波状攻撃に耐えかねた大鳥居と篠橋の一揆勢は降伏明け渡しを申し出てきたが、上総介の答えは「日干しにする」であった。

 二週間、攻撃もなく、ただただ包囲した。たまに飛び出てくる一揆兵を斬り捨て、あるいは銃殺し、また、河口は静けさを取り戻す。牛太郎は安宅船から下りたくて仕方なかったが、大鳥居の岸に張り付いてしまっているため、出るに出られなかった。

 下層の座敷間でこっそりと酒色にだらけている三介の相手を時折して、退屈しのぎに弥八郎や利兵衛を連れて安宅船の隅々を歩き回り、それでも最後にはすることがなくなってしまって、腕立て伏せや腹筋運動をして体を鍛えたり、利兵衛や弥八郎、水夫たちと相撲を取ったり、今まで鍛錬など考えられなかった牛太郎がしているほど水上は退屈だった。

 この退屈を打ち破ったのは八月二日の夜の嵐であった。河口の水かさは増して、船体は風と波に揺れていた。三介や掃部助などは甲板の上に建てられている天守にいたが、牛太郎たちは与えられている下層の居室に引っ込んで利兵衛と腕相撲をしていた。

 なにやら、室外が騒がしい。

「何事だろうか」

 瞑想をしていた弥八郎がふと腰を上げ、戸を開ける。その前を鉄砲兵卒たちがあわただしく駆けていく。弥八郎はその中の一人を捕まえ、事情を訊ねた。

「大鳥居の一揆勢が雨に紛れて逃げ出しているんだ!」

 ほどなく、銃声が立て続けに鳴り響き、轟音が船内の空気をびりびりと破った。硝煙の香りがまたたくまに広がる。素っ裸でいた牛太郎は利兵衛の手を借りながらあわてて具足を身に着けていき、もう、今まで退屈すぎたものだから、いくさに参加するというよりも、野次馬根性で甲板に駆け上がっていった。

 甲板に出ると、海から吹きつけてくる強風がさらに実感され、立っているのがやっとである。ただ、人馬の喚声、断末魔の叫びがところどころから起こっていた。

「何も見えません!」

 利兵衛がしかめた顔でへりにしがみつき、戦況を探ろうとしている。

 下層の鉄砲狭間から再び弾丸が掃射された。どうやら三介が自ら号令しているらしいが、砦に向けて滅多やたらに発砲させているだけである。

「弥八さん!」

 牛太郎は帆立てに捕まりながら叫んだ。

「鉄砲、撃てているじゃないッスか!」

「それはもちろん! 船内で点火しているのですから!」

 なるほど。二週間も居座っているのに今更だった。

 風雨の中の怒号は激しさを増していく。斬りつけられたのか、激流に飲み込まれてしまったのか、船体のともし火の前を数々の死体が河川の渦にぐるぐると回されながら、牛太郎の前を通り過ぎていって、湾へと流されていく。衣服を見るだけだと女もいたし、大きさから子供もいた。何を考えてか、安宅船の鉄砲隊はそれらの死体に銃弾を浴びせる。

 牛太郎は顎の先から滴りおちる雨滴を拭った。一揆勢はどこへ逃げようとしていたのだろう。

 この晩、大鳥居砦は陥落した。ただの砦に逃げ延びてきた近在の門徒衆たちは、もはや、飢えに耐えられなくなって脱出を計ったらしいが、佐久間柴田隊がこれを見逃さず、およそ千人の老若男女をなで斬りにした。

 台風一過の翌朝、牛太郎は砦を占拠したどさくさで安宅船を脱出し、兵卒たちとともに小早に乗って殿名へと戻った。

 二週間もはぐれており、牛太郎は太郎の叱責を恐れたが、行動を共にしていた利兵衛と弥八郎がかばってくれるだろうとして、そそくさと帰陣してきた。

 簗田勢二千は大鳥居でも篠橋でも出番がなかったらしく、どうやら本陣の守備固めのようである。隅々まで晴れ渡った好天の下、牛太郎が船上でそうしていたようにおのおの体を動かしており、その中をかいくぐっていくと、やがて、栗綱の輝く馬体が見受けられた。

 玄蕃允が七左衛門や治郎助、弥次右衛門の相手をしており、新七郎もいる。

「あ、旦那様」

 七左衛門がぽつんと呟いた。牛太郎はあえてちゃらんぽらんに手を掲げて一同の前へ歩み寄っていく、

「よおよお、励んでいるかい」

 しかし、恨むような視線が向けられてきた。玄蕃允や七左衛門、栗之介だけならず、治郎助や新七郎までも。弥次右衛門だけはさすがになかったが、それでも彼もどこか虚ろげな目だった。

「なんだよ」

 牛太郎は明らかに冷めた気配にたじろいだ。利兵衛も弥八郎も同感だったらしい。牛太郎と同じく、視線の冷たさに棒立ちとなった。

「どこに行っていたんだ、オヤジ殿」

 と、玄蕃允が視線を外しながら呆れるような声だった。

「ど、どこって、その――」

「御本所三介様の船に乗っていたのです」

 利兵衛が代わりに言った。

「三介様が殿をお返しにさせてくれず、それで昨夜、大鳥居を占拠できたのでようやく逃げ出してこられたというわけなのです」

「左様か」

 玄蕃允の答えはそれだけだった。この生意気な若者にしてみれば鈍すぎる反応だった。

「さあ、治郎。続きだ。打って参れ」

 と、棒きれを構え、牛太郎など視界に無いような淡泊さであった。

「た、太郎は」

「家の中だ」

 と、栗之介が顎でしゃくった。

 とてつもない疎外感である。牛太郎は連中がかもし出す、切れるような冷たさに思わず深呼吸してしまう。今までさんざん勝手気ままにやってきたこの男も、とうとう見放されてしまったかと恐れを抱いた。

 太郎まで相手にしてくれなかったら、おれは――。

 牛太郎は利兵衛と弥八郎を外で待たせ、家屋の中へ足を踏み入れた。

 居土間には格子窓から光が筋になってこもれていた。その先に甲冑姿の太郎が背中を向けて座っている。

「太郎」

 牛太郎が呼びかけると、太郎は横顔だけをちらと寄越してきて、牛太郎を確かめてくる。

「い、いやあ、船の見学にいったらさ、三介様に捕まっちゃって、今まで帰ってこれなかったよ。ごめんごめん」

「左様ですか」

 太郎はそのまま顔を戻してしまう。

 親子の間に、鍛錬している武者たちの声がただただ流れた。

「お、おいっ! な、なんなんだよ、それはっ! お、おれは別にこんなに長い間、いなくなるつもりはなかったんだ! あのドラ息子に捕まっちゃったからこうなったんだ。なのに、なんなんだ、皆しておれのことを汚い物でも見るような目をしてよ!」

「何を言っているのですか、父上」

 太郎はくすくすと笑った。笑いながら頭を垂らし、やがて笑いもやめて、鼻を啜りあげた。

「誰も父上をそのような目で見ておりませぬよ。むしろ、無事に帰ってきて何よりです」

「お、おい......」

 様子がおかしかった。牛太郎は草履のまま上がり込み、そろそろと太郎の背中に歩み寄る。

「父上。一昨日の朝、岐阜の母上から文が届きました」

 急な言葉に牛太郎は足を止めた。太郎は背中を向けたまま、文を後方に差し出してくる。

「駒が死にました」


 八月十二日。

 篠橋砦に籠る一揆勢から門徒衆の命と引き換えに、砦を開け渡す降伏申し出があった。上総介はこれを許し、篠橋砦の門徒衆たちは長島城へと大挙して移動した。

 牛太郎は栗綱に跨り、栗之介と二人で殿名の岸辺まで出向いて、一向一揆衆の移動を遠目に眺めた。

 西空に傾く赤い太陽の下、小舟で運ばれていく者もあれば、体を川に浸からせている者、皆が列になって織田水軍の包囲線の中を進んでいく。

「残酷だな」

 馬上の牛太郎は呟く。これも夕凪なのだろうか。川面は鏡のように静かで、風は無かった。

「長島で待っているのは極楽浄土じゃない。飢え死にだ」

 栗之介が牛太郎を見上げる。牛太郎は手綱を振るって、宿営地へと戻る。

 この兵糧攻めは方策ではなく、上総介の憎悪なのかもしれない。

 水上からの大船団の援護を借りて、陸兵七万を投入すれば、残っている三つの城砦は落とせるだろう。

 それをやらないのは、死後の世界に極楽浄土が待っていると信仰する門徒衆たちに、耐えがたい現世の苦しみを与えるのを目的にしたからかもしれない。

 宿営地に戻ってくると、家屋に入り、太郎と与力格の二人、玄蕃允や新七郎とともに夕げを取った。

「篠橋には門徒衆がずいぶんといたみたいだな」

 牛太郎が言うと、玄蕃允が顔を上げる。

「見に行っていたのか」

「ああ。何とも言えない光景だった」

「旦那様」

 新七郎が厳しい目を向けてくる。

「いくさ場では一人ではあまりほっつき歩かないでくだされ。旦那様の身に何かあったら我らは岐阜に戻れませんぞ」

「そ、そうだな。ごめん」

 牛太郎がちょこんと頭を下げると、湯漬けをかきこんでいた太郎がふと箸を止めて、そのまま静かに微笑んだ。

 長島の完全封鎖はさらに続いた。一カ月以上も張りつけられている牛太郎は、諸国の情勢に不安になってきて東海方面に於松を飛ばして、徳川武田両勢力の探りを入れさせたり、本陣にちょこちょこと顔を出して、奉行衆に寄せられている情報を長谷川藤五郎や堀久太郎から聞き出したりした。

 荒木信濃守が伊丹城を攻め落としたらしい。

 越前では藤吉郎の与力となっている樋口三郎左衛門が突然、一向一揆衆に砦を渡し、妻を連れて出奔するという信じがたい事態が起きたそうで、藤吉郎はすぐさま追手を差し向け、樋口夫婦を処断、その首は検分のため殿名の上総介の下に送り届けられたという。

「あの人がどうして」

 牛太郎は三郎左衛門を知っている。聡明な男で、まさかそのような暴挙に出るとは思えなかった。

「さあ」

 藤五郎は首を傾げる。

「サルとうまくいかなかったとか、過去の主人の堀殿に恨まれていたという噂もありますが、真相は本人にしかわかりませんでしょう。なにせ、人の考えることなんて実際には誰にもわからないことでしょうよ」

「そうだな......」

 牛太郎は本陣の伊藤屋敷をあとにした。

 自身の宿営地に戻って来ると、連中が相撲を取っていた。いつもの鍛錬のうちなのだろうが、遠目に眺めていると玄蕃允の独壇場だった。大将の太郎ですら容赦なく投げ飛ばしてしまう。

「殿」

 利兵衛だけ参加していない。弥八郎も取り合っているというのに。

「羽柴殿から文が届いていますよ」

 牛太郎は眉をしかめながら受け取ると、裏を返した。藤吉郎秀吉とある。同じ戦場にいる小一郎がなにゆえ文などをと思ったら藤吉郎だったので、さらに眉間に皺を刻んだ。

 十年以上の付き合いの中で、藤吉郎から文を頂戴したことなど一度もない。また借財の申し出かと思って開いてみたが、牛太郎は三行目で読むのをやめ、折り畳んで利兵衛に返した。

「全部読んでないじゃありませんか」

「いいんだ」

 牛太郎は手袋で瞼を拭いながら家屋の中へまっしぐらに歩いていく。

「どうすればいいのですか、これは」

 利兵衛が鬱陶しく付きまとってくるが、

「取っておけ。いくさが終わったら読む」

 牛太郎は後ろ手に戸を閉めた。唇を引き結び、頭を垂らして立ちつくす。

 おそらく寧々が藤吉郎に報せたのだろう。あの夫婦は昔からの馴染みだから。

 藤吉郎らしからぬ心配りは胸に染み入るが、いくさの間だけは忘却していたい。ただ、短いながらも感謝の言葉だけは書きしたため、北近江の藤吉郎に送った。

 終局は九月二十九日にやって来た。

 津島に大軍を集結させてから二カ月以上を経ている。この間、織田軍には美濃尾張の米櫃から兵糧が絶え間なく送られてきているのに対して、長島は空っぽであった。当然、秋の収穫どころでもなく、十万人近くが過密している長島城、他二つの砦の中は言葉を失う惨状であるという物見の報告があった。

 大半は餓死している。蠅が飛びまわり、腐臭が支配し、生き残っている者も、もはや、干からびてしまって南無阿弥陀仏の声も出ない。

「生き残っていることすら地獄じゃないか。さっさと降伏すればいいのに」

 牛太郎が嘆くと、それを聞いていた弥八郎が答えた。

「本願寺宗家が織田との和睦交渉に入ってくれることを長島は待っているのではないでしょうか」

 長島は願証寺が建立されて以来の教国であり、支配者は己の利益しか考えていない独裁者ではなく、自分たちの信仰であった。一向門徒にとってみれば長島は慎ましいながらも楽園だったのである。

 だから、意地でも明け渡したくはない。彼らはここでしか生きられなく、ここでしか存在を確認できない。

 戦うこともままならない彼らの一縷の望みは、和睦しかなかった。

 実際、石山本願寺と織田軍は朝廷を介して一度は停戦した経緯がある。上京の焼き討ちのときも帝のとりなしにより、足利義昭と和解した。

 ところが、こと長島に至っては二カ月間、何も進展はなかった。

 一向門徒は命の無駄遣いをやめ、長島を捨てることを決意し、本陣の伊藤屋敷に使者を遣わし、降伏開城を願い出た。

 上総介がこれを許したという報せとともに、簗田勢に対して長島が望める岸辺に進軍する下知が渡された。

 牛太郎と太郎が二千の兵を連れて岸辺までやって来ると、天高く突き抜けた秋空の下にはすでに織田永楽銭の旗指し物でびっしりと埋め尽くされていた。

「まさか、ただの見物じゃないよな、これは」

 牛太郎が言うと、隣で黒連雀に跨る太郎はただ唇を噛み締め、旗指し物の向こうに垣間見える長島城を睨み据える。

「やる気なんじゃないのか、信長様は」

「仕方あるまい」

 玄蕃允はあっさりと言った。

 そうしていると、牛太郎の下に本隊からの使い番がやって来て、牛太郎だけを上総介が直々に呼んでいるという。牛太郎は思わず太郎に顔を向けてしまう。

「行かなくてはなりませんでしょう」

 宿屋兄弟が声を上げて兵卒たちをかきわけていき、弥八郎、利兵衛を後ろに従えて、栗之介と栗綱とともに波打ち際まで出てきた牛太郎は、川の浅瀬を小走りに、使い番のあとを追っていく。

 対岸の長島城は目と鼻の先で、中州と中州の間もわりかし広くはなかった。水かさもおそらく腰まで浸かるぐらいであろう。対岸にはすでに無数の小舟が漕ぎつけられており、門徒衆も長島城からぞくぞくと出てきていた。

 牛太郎はそちらにあまり目を向けないことにする。

 ひしめき合う織田軍の前をひたすら横切っていくと、やがて、目を疑う光景が入ってきた。

 鉄砲隊が前線にびっしりと張り付いて、皆、対岸に体を向けて片膝を付いている。しかも、前後に三列で並んでいる。

 整列する鉄砲隊のほぼ真ん中に上総介はいた。黒鹿毛の馬に跨り、腰には金鞘の太刀がまばゆく輝いている。ビロードのマントをそよ風に揺らしながら、南蛮兜の下の目を牛太郎にぎらりと向けてくる。

「遅えじゃねえか」

「も、申し訳ありません」

 牛太郎はあわてて下馬しようとしたが、

「構うな」

 と、上総介に言われた。

 気付けば上総介の両隣を、赤母衣、黒母衣をそれぞれ背負った馬上の前田又左衛門、佐々内蔵助が固めている。

 戦慄した。やる気だ、と。

 案の定、上総介は口端に笑みを浮かべながら牛太郎に言う。

「お前が言っていた三段撃ち、見てみようじゃねえか」

 又左衛門は悲痛な面持ちで牛太郎を見てきたが、内蔵助はむすっとしたまま対岸を見つめているだけだった。

「又左、内蔵助。相手は動く人形で、襲いかかる騎馬じゃねえが、しっかと射程を見極め、射撃の間隙、威力を確認し、長篠で下手を打たねえよう、ここで心おきなく撃ちまくれ」

「はっ」

 と、二人の親衛隊筆頭は従順だった。

 川面を撫でていくような優しい秋風が吹いている。栗綱が風につられたのか、ちょっとだけ首を左右に振った。栗之介が栗綱の首筋を撫でる。

 対岸に向けられている銃口は二千丁。一列目だけでも単純に七百弱の弾丸が一斉に放たれる。

 門徒衆たちを乗せた小舟が次々に離岸していく。どうやら、老人や女子供、病人などを先に脱出させる気らしいが、奴らはこちらで何をしようとしているか気付いていないのか。

 内蔵助が鞭を空に突き上げる。すると、鉄砲隊の端々から一列目点火の号令が飛び交い、金ヶ崎のときとは違って二千の鉄砲隊は組単位で構成されていた。

 煙がいっせいに立ち込める。

「構えいっ!」

 組頭たちの声がこだますると、七百弱の銃身が寸分狂うこともなく一斉に前方に下ろされた。

「まだだ、内蔵助」

 又左衛門の言葉に、

「わかっておるわ」

 鞭を上げたままの内蔵助。

 上総介がゆっくりと流れていく門徒衆たちを無言で見つめている。牛太郎も目を背けることができず、そうするしかなかった。

 水鳥がゆうゆうと浮かび泳いでいる。

 内蔵助が鞭を振り下ろした。それを確認した組頭たちが号令した。

「撃ていっ!」

 七百の弾丸が銃身から開放された。轟音が天地を引き裂かんばかりに響き渡り、乗船していた多数の門徒衆たちが血しぶきとともに一瞬のうちに消えた。

 さらに二段目が生き残って逃げようとしていた者たちを殺した。

 三段目が対岸の者たちに襲いかかった。

 轟音に驚いて馬どもが荒れ狂う中、上総介は自身の馬を御しながら、

「なるほどな!」

 と、高らかに声を上げた。

 さすがの栗綱もそわそわしてしまっていた。牛太郎は目を落としながら、彼の首すじを撫でてやるだけ。

 鉄砲隊の掃射による虐殺は続いた。門徒衆たちはどうすることもできず、中でも七百人近くが裸のままで抜き身の太刀を手に取り、鉄砲隊の範囲外である織田一門衆の部隊へ突っ込んでいき、包囲線の突破を狙ってきた。

 決死隊の突撃に足元をすくわれ、三郎五郎信広、半左衛門秀成、孫十郎信次、市之介信成の多くの一門衆が討死。千人以上の死者を出し、決死隊はそのまま包囲線を抜けて逃走した。

 これにより超利己主義者の憎悪は頂点に達した。死体の山となった長島を占拠したのも束の間、残る二つの砦の周りに柵を何重にも打ち立てて完全に閉め切り、兵糧攻めなど最初からなかったかのように、砦内に火矢と火藁を投下。あぶり出しにされた者は弓矢と火縄銃で掃射するなど、暴虐の限りを尽くして、二万人近くの門徒衆たちを焼き殺した。

 長島から一向宗の息吹は消えた。

 血と屍に覆われた岸辺を眺めながら、弥八郎が言う。

「生きるのはひどく難しいことだというのに、殺すというのはこれほどまでに容易なのですか」

 七左衛門も口数が少なくなっている。利兵衛も虚ろげな眼差し。治郎助は空を仰いでいて、弥次右衛門は肩を落としていた。

 二カ月間のうちで、いくさといういくさは一度もしていない。それなのに皆が皆、ひどくくたびれてしまった。

「一体なんだったんだろ」

 そう呟いた牛太郎は、栗綱の馬上から、空に昇っていく一筋の煙をしばらく眺めていた。


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