天賦の才3
「今年も好機を逸したか」
白雪にすっかり冠した赤石山脈の山々を眺めていたら、ふいに隣の馬場美濃守が嘆くように、そう呟いた。
「わしが生きているうちに京の都に菱の旗を立てられるものかなあ」
「弱音など馬場殿らしくありますまい」
と、山県三郎兵衛尉は叱咤するように語気を強くしたが、馬場美濃はどこか力なく笑う。
「そうは言っても、わしもかれこれ六十になるのだぞ」
「馬場殿」
三郎兵衛は徳栄軒の死以来、どこか枯れてしまっているこの猛将に視線を据えた。
「拙者どもが殿を支えずして武田の生きる道はありましょうか。それは亡きおやかた様の遺言でもあらせられますぞ」
「それもそうだが」
馬場美濃の溜め息が愛宕山に吹き下ろす木枯らしに飲まれていく。
「殿にとって、わしらは疎ましい老人に過ぎん」
「そんなことありませぬ。いずれ、拙者どもの思いを理解してくれるはずです。今はただ、奸臣の戯れ言に惑わされておりますが、いずれ、いずれは」
「いずれは、な」
愛宕山に登ろうとはどちらから言い出したわけでもないが、三郎兵衛もなんとなく市中から離れたい気分であった。宿老同士のやましい密談でもなく、ただ、なんとなく。
年は暮れようとしている。
春に東美濃長山城、夏には高天神城を奪い取った功績は、武田軍にとって大きなものであったというのが家中の見方である。
だが、
明日は瀬田(大津)に旗を立てよ
と、徳栄軒の言葉を託された三郎兵衛には、遠江の一支城の奪取は今更感が否めない。
馬場美濃もそれは痛いほどにわかっているのだろう。だから、好機を逸したという嘆きが口から漏れたのだ。
上洛こそが亡き主君の大きな夢であった以上、三郎兵衛はまだ諦めていない。いや、諦めない。
しかし、この一年、武田の戦略は何も進まなかった。
いや、大膳大夫勝頼や、その側近たちにとってみれば、長山城と高天神城の攻略は大きな前進であり、今まで彼らは武田全軍を率いてこなかったこともあって戦果に浮かれてもいる。
宿老たちにしてみれば甚だ笑止なのだが。
長山城、高天神城を失った織田徳川だが、それ以上の被害を彼らに与えられただろうか。
むしろ、織田に至っては長島一向一揆を壊滅せしめ、兵力は日増しに増強されているのだ。
時が過ぎていくごとに不利になっていく。それが真実だ。
「もはや、不識庵に泣きつくしかないのかもしれんよ」
馬場美濃は唇を噛みしめ、老齢らしからぬ悔しさをにじみ出した。
三郎兵衛は何も答えずに視線を落とす。
今年、好機はあった。織田軍が長島に総力を結集させている一報は当然ながら甲府にも入っており、間隙は十分に突けた。
が、下準備、いわゆる調略が大膳大夫の頭には無かった。石山本願寺と連携するか、さもなくば織田領内に今もくすぶっている反抗勢力をたきつけるかして、長島一向一揆衆をもう少し永らえさせれば、農政期の過ぎた晩秋、武田軍は一挙に西上作戦を再開できただろう。
結果は間に合わなかった。というよりも、そうした三郎兵衛の進言に大膳勝頼はまったく聞き入れなかった。
どうして、ここまで効果的でわかりやすい薦めにも耳を貸してくれないのだろうと、三郎兵衛は年甲斐もなく涙を滲ませたが、実のところ、大膳はただ単に耳を貸さなかっただけでもないらしい。
「馬場殿、これは小耳に挟んだのですが」
そう言いながら、三郎兵衛は馬場美濃に顔を寄せる。
「殿は織田の重臣と内通しているそうです」
「内通?」
馬場美濃は眉をしかめながら苦笑した。
「今の織田に我らと内通する者が現れるわけなかろうが」
「左様。しかし、拙者が思うに、殿はどうやらそれを戦略の基礎にしているらしく」
「信じられん。一体、その内通者とは誰なのじゃ」
「わかりませぬ」
馬場美濃は落胆ひとしおにかぶりを振った。
「それがもし本当であれば、上総介のはかりごとじゃ。殿は上総介にまんまと嵌められていることすら気づかぬのか」
「気づかぬどころか、この冬に兵を進めようとしなかったのも、その内通者との関わりではないかと。その者が、今は時期ではないと、殿に伝えてきたのかもしれませぬ」
「言葉がないわ」
寒風が二人の羽織をはためかす。
内藤修理亮、高坂弾正忠とともに武田四名臣とかつてはもてはやされたこの二人だが、三方ヶ原の活躍もなんだか遠い昔の思い出となってしまい、今では家中の中枢で何が起こっているかも存ぜられなくなってしまっている。
急に馬場美濃が目頭を押さえ、嗚咽を漏らし始めた。
「馬場殿」
三郎兵衛は馬場美濃の肩に手をかけた。掌の感触が骨と皮だけの老体のようだった。
「どうしたのです、馬場殿」
「すまん。申し訳ない」
馬場美濃は鼻をすすりあげ、一つ大きな息をつくと、赤い鼻のまま甲府を囲む山々に視線を持ち上げた。
「おやかた様のお顔が思い浮かんでしまってな」
「馬場殿。よしましょう、昔を偲ぶのは。もう、おやかた様はこの世になく、その思いだけが拙者どもには残っているのです。拙者どもが力尽きてしまったら、武田に明日はありませぬ」
馬場美濃はただただ目を閉じながら、冬の澄んだ空を仰いだ。
武田に明日はない、か。
三郎兵衛は自分で言っておきながら、それを口にしてしまうところまで追い詰められていることを実感した。いまだ総兵力五万の軍勢を保っているにも関わらず、どうして危機感をぬぐいきれないのか。
理由はただ一つ。武田徳栄軒信玄という絶対的安泰が無くなってしまったからだ。
まして、向かう敵は底知れぬ力と運を併せ持つ織田上総介信長。彼は、確かに、静かに、武田の駆逐を狙っている。
もう一度、包囲網を組むしかない。それ以外に勝機はない。徳栄軒でさえ、したたかにそのときを待ったのだから。
「年が明けた年賀の挨拶のさいには、再度、殿に詰め寄りましょう」
「源四郎」
馬場美濃は目を閉じたまま、三郎兵衛をかつての幼名で呼ぶと、吐息混じりに呟いた。
「あまり言いたくはないが、わしはもう疲れてしまった」
「何を言っているのです」
「すまん」
うなだれるように頭を下げてくると、馬場美濃は背を向けてとぼとぼと去っていってしまった。
取り残された三郎兵衛。一人、拳を握ってうつむく。
甲州に吹く風はいつの日でも寂しい。峻険な山々に囲まれて、まるで華やかな外界から閉ざされてしまっており、(かつて遙かなる京を目指したことのある)勇猛果敢な武者にはことさら身にしみた。
「おやかた様――」
そう呟きながら甲府盆地に広がる夕空に目を向けるも、返ってくるのは、冷たい風に吹かれる草木のさざめきだけだった。
目元のあたりにはまだ小童らしいあどけなさを残しているのに、利兵衛の舌鋒の鋭さというか、しつこさは、弥八郎でさえ辟易とさせるものだった。
「そもそも念仏というのは阿弥陀如来に帰依することを三百六十五日中忘れないように唱えるのであって、南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に行けるなどという説法は本来の教義から外れているそうではありませんか」
利兵衛が誰から聞いてきたのかは不明だが、こうした文句は一向宗が頭角を現した時期から、その敵対勢力が常に糾弾してきたことである。
「つまり、一向宗は門徒を増やすために、無知で何もよくわからない賤民たちを虜にしたのです。長島で殺されていった女子供に罪はありませんが、おやかた様の行いは人々に責められるどころか、欺瞞の世を作り出そうとしていた一向宗に振り下ろした鉄槌なのです」
近頃、織田家中の、わりと見識のある若者たちの中では、長島における虐殺の是非がかまびすしく論争されている。もっとも、織田上総介の独裁体制下での論争なので強硬派が圧倒的大部分を占めており、なかでも利兵衛のように先進的に毒されてしまっている者は、聞いてもいないのにいちいち織田軍の正義を領内の人々に喧伝している始末であった。
ただし、利兵衛は他の思想家たちと違い、自らが仕える家の人々、簗田家の中ではこうした類いの話をまったくしていない様子であった。
主人の牛太郎に咎められるためであろう。多分、牛太郎は思想活動を忌み嫌い、利兵衛もそれを承知しているのだ。
それに、浄土だの、極楽だの、今の簗田家でそうした言葉を出すのがはばかられるのは、当然だった。
ゆえに利兵衛は弥八郎に思いのたけをぶつけてくる。
「本多殿も一向宗などにはさっさと見切りをつけるべきです」
「いやいや、利兵衛殿」
弥八郎は笑うしかない。
「見切りをつけていなければ、この寺で寝食することはできませぬから」
願福寺は天台宗である。返答を受けた利兵衛は、弥八郎をじっと見つめたまま押し黙った。どこかふてぶてしい。彼はなかなか尊大な少年で、過ちを認めないところがある。牛太郎の小姓をしていたときはあまり感じられなかったが、元服してからは男として背伸びをしているのだろうか。
「左様でした」
利兵衛はそれだけを言うと、つまらなそうな顔で腰を上げ、弥八郎の前を去っていった。
あの生意気さ加減は天性のものなのだろう。奉行役にでもなったらいやらしい仕事をしそうだと、弥八郎は思った。
いや、若武者は生意気ぐらいがちょうどいい。
すると、弥八郎は口許を緩ませながらも、その眼差しは憂いに帯びた。
千穂は幾つになったか。
大久保新十郎に預けている実子も利兵衛のように生意気な盛りなのだろうか。それとも、自分自身が貧しさのあまりに肩身を狭くしていた少年時代のように、千穂も同じような思いを持っているのではないか。
弥八郎がついた溜め息は後悔だけに満たされている。すでに十歳になる息子の千穂には、たったの一度も会ったことがないのだった。
三河守に反逆して、追放されたあともなお、各地の一向一揆に参加していた理由は、実は後にも先にも引き返せなくなってしまったからだ。南無阿弥陀仏を唱えていれば、妻子を残している三河のことを思わず、貧しさだけの故郷の記憶に狂おしくもならずに済むからだった。
今更、帰れるはずがない。たとえ、三河守が許してくれたとしても、また、あの屈辱が待っているのだ。
「物乞いなどをして、恥ずかしいと思わんのか。言っておくが、お主がわしと同じ名を名乗っているのがわしには腹立たしいわ」
十も年下の平八郎忠勝にそう言われたのは、大久保新十郎の家で味噌を分け与えてもらった帰りの夕べであった。
十五歳にして宗家の跡を継いでいた平八郎であったが、すでに桶狭間のいくさでは初陣も果たしており、目元には自信と勇ましさがみなぎっていた。
「弥八、お主は一族の恥よ」
弥八郎は頭をぺこりと下げると、仁王立ちする平八郎の脇をかいくぐって、味噌壺を抱えながら家路を辿った。
宗家の小僧に俺の何がわかる。俺だって好きで物乞いをしているわけじゃない。生まれたときから貧しかったのだ。生まれたときから宗家の息子ではなかったのだ。
そんな不条理に挑戦状を叩きつけたのが、弥八郎にとっての一向一揆であった。三河の本願寺派本證寺が檄文を発すると、元々から一向宗であった本多一族にあって、宗家の平八郎は浄土宗に改宗して主君三河守側に残ることを決めるが、弥八郎はここぞとばかりに同じく分家の一族の者たちを焚きつけ、平八郎以外のほとんどを一向一揆側にさせた。
しかし、弥八郎の孤独な復讐心もむなしく、元来が素朴な三河武者たちは主君に刃を向けていることに苦悩を始め、やがて彼らは次々に三河守の下に戻っていって、一揆は勢力を失っていった。
あのときのことを平八郎は根にもっているに違いない。本多一族をまったく束ねられなかった当時を省みて、在りし日のような傲岸な態度は取っていないという風の便りだが。
大久保新十郎からは何度も帰参するよう説得されているが、あたかも一向宗の教えに邁進しているかのような素振りで何年も居続けていたら、世間にも自分にもいつしか引っ込みがつかなくなってしまった。
ただ、近頃は一向門徒を名乗ることはもうやめている。
織田軍が長島で働いた所業を目の当たりにして、弥八郎は率直に恐怖したからだった。もしも、松永弾正に出会っていなければ、もしも、簗田牛太郎の客将になっていなければ、弥八郎は長島の一向一揆にも、変な意地だけで加勢していたかもしれない。
日干しにされた長島城内では、門徒同士で殺し合い、人肉を食らう者まで現れていたという噂さえある。あってもおかしくないと弥八郎は思う。たとえ南無阿弥陀仏と唱えて、救いを浄土に求めたとしても、現実には死と隣り合わせであるし、空腹は耐えがたいのであるし、人間集団とはただでさえ我慢を忍ばせて成り立っているのだから、極限の世界に追いやられては人格も破綻していくであろう。
血に染まった大河を眺めていたとき、弥八郎はあちら側ではなくて良かったとひそかに思った。そして、それほどまでに自分の信念というものが脆弱であることに感じ入らざるを得なかった。
そもそも、信念などあったのかですら疑問なのである。
などなど、陰鬱な時間を過ごしていたら、住職が部屋にやって来て来客とのことだった。牛太郎や利兵衛だったら生活部屋に有無もなく押しかけてくるので、誰かと不思議になったら、住職が言うに牛太郎の息子の左衛門太郎であった。
縁側に出てみると、太郎はにこりと笑いかけてきた。
「年も暮れますね」
誰も付けずに一人で来たらしく、小坊主が用意した粗茶をすすると、枯れた境内の木々を眺めながら、ハア、と、どこか子供っぽい溜め息をもらした。
「いつものことですが、今年もいろいろありました」
そう言う太郎の脇に弥八郎は腰掛ける。何をしに来たのかが不明な穏やかさだが、もしかしたら、彼は誰にも言えない哀しみを、織田家臣でも簗田家の奉公人でもない弥八郎に聞かせに来たのかもしれなかった。
「姫君のことは残念でありましたが」
「姫君だなんて。一介の将の娘にすぎません」
太郎は笑いながら湯呑みを口に運ぶ。弥八郎は彼の横顔をまじまじと眺める。もう少し性格の角張った生真面目な青年だったような気もするが、娘の死以来、何かを悟ったのか、どこか人なつっこい笑みである。
「本多殿。妻子を岐阜に呼んだらどうです」
急に目を向けてきて、口をついたのがそれなので、弥八郎は思わず視線を逸らしてしまった。
「い、いえ、突然、そうおっしゃられても」
「父上も本多殿であれば喜ぶはずです」
簗田家に仕えてみてはどうかということだった。
「父上は三河殿と仲をよろしくさせてもらっているみたいですし、なんら、問題はありませんでしょう」
太郎の澄んだ声音に、弥八郎はうつむくしかない。
「ありがたいことではありますが、今はまだ整理がつきませぬので」
何の整理かは自分でもよくわからない。十年近くも流浪に身を任せていると、居場所を定めることに尻込みしてしまっている。
「左様ですか」
ただ、と、言って太郎は言葉を繋げた。
「だからといって、寺に巣ごもりしておらなくても結構ですよ。いつだって、稲葉山の屋敷に来てください」
冬空が、夕べのころを迎えて赤みがかっている。味噌壺を抱えながら見ていた空と同じだった。
稲葉山の頂上、本丸のふもとに用意されている犬の屋敷は、一門衆や重臣などに与えられている屋敷に比べて手狭だが、未亡人の女一人が、数名の侍女、奉公人たちと暮らすにあたっては十分すぎる広さであった。
ここにときたま、兄の上総介がやって来る。馬駆けや水泳、鷹狩りなど、岐阜の城下を少年のように巡ってきた帰りのついでで、髷もほつれたまま、着物をはだけさせたまま、織田軍の総帥とは思えぬ出で立ちで庭先に上がりこんでき、
「犬! 犬はおらんかあっ」
などと、おらないことはほぼ無いというのに、甲高い声を鳴り響かせるのである。
年の暮れが迫るこの日も、予告なく現れ、奉公人たちが無礼のないようにとあたふたする中、犬は庭先へとにこやかに足を運んだ。
「お呼びでしょうか」
「呼んではおらん。一休みに寄ってみただけだ」
そう言いながら、上総介は縁側に腰掛け、腰に巻き付けている瓢箪を取り外す。開いた大口目がけて瓢箪をひっくり返し、その中身がこぼれるのもかまわず飲み干すと、空になった瓢箪は庭先で平伏している従者に放り投げて、
「野を駆けたあとの水はうまい」
口許を腕でぬぐいながら笑みを浮かべた。
犬は両膝をついて、上総介の背後から横顔を眺める。
「今日はどちらにお出かけに?」
「まあな」
と、答えになっていない。
犬の長兄はこういう男であった。常に頭の中を回転させており、特に思案を巡らせているときは、凡庸な話題の相手はしない。というよりは、女子供は凡庸な話題しか出さないから、はなから相手にしない。
それでも、凡庸な妹を訪ねてくる兄の上総介が、犬にとっては可笑しい。「まあな」と言って、庭先の枯れ木をぼんやりと眺めている上総介を前に、犬はくすくすと笑った。
「何が可笑しい」
「だって、兄様が何をしに来られたのかわからないんですもの」
「言っただろうが。一休みに来たのだ」
上総介の住処の本丸は目と鼻の先である。
上総介が犬の屋敷を訪ねる目的は、市の様子が気になって仕方ないからである。浅井家を滅ぼして以来、上総介と市の間は仲違いをしているも同然で、行事などでは顔を合わすものの、会話をしても一言二言なのである。
そのため、気心の知れた簗田左衛門尉を使わしたり、姉を訪ねている犬に近況を探ったりと、はっきりと口にはしないが、誰がどう見ても市が心配でたまらない兄なのである。
この日もやはり、
「市やその娘たちはどうなのだ」
と、ぼそり訊ねてきた。
「何も変わりはありません」
「そうか」
世間の衆たちに魔王と呼ばれるほどの残虐な行いを働き、実際、先頃の長島のいくさでも二万人以上の女子供を惨殺したという兄だが、多分、それは、別人格の織田上総介信長がやったことであると、犬は思うようにしている。
なにしろ、そんな破天荒な男なら、犬の亡き夫である佐治八郎の仇を取ってきたなどと言いそうなものだが、上総介は犬の前では一切、長島のことを口にしない。
妹たちの心情にそこまで繊細な兄が、魔王になってしまうのは、きっと別の人格がいくさの折りには宿されてしまうからなのだ。
「まあ、息災なら構わんが」
ふいに上総介は背後の犬のほうへちらりと視線を向けてきた。この男に似合わない詮索の眼差しである。
「お前、市の下を訪ねるのは他に目的があるんじゃねえだろうな」
「えっ、そ、そんなものは」
犬は大いにあわてた。子を産んだ母親のくせに、まったく少女のように頬を火照らせ、胸中をあわただしく波打たせ、とにかくそんな精神状態を隠そうとして、彼女は瞼をそそくさと兄から逸らした。
花の胞子のようにふわふわとおぼつかない犬を、上総介は睨みつけるようにしてじいっと見つめる。そのうち、上総介は溜め息をついた。
「やめておけ。奴だけは俺にもどうにもならん。そのうち、見所のある嫁ぎ先がまた出てくるだろうからな」
上総介は腰を上げると、立ち去っていった。
奴とは一体誰のことを指していたのであろう。犬は上総介が去っていったあとも縁側でじっとうつむいていた。
犬の夢は、思っていた通りの適わぬ夢であり、ひどい現実にとにかく寂しくなるしかない。
そもそも、自分が恋心を抱くなど、もっての他なのではないか。一度は男に嫁いだ身であり、離ればなれとはいえ、子もいる。さらには戦乱の世に巨大組織として君臨している織田家の姫であり、惚れたはれたの通用しない人生が宿命なのである。
犬は細長い鼻をすすりながら、冬の夕空にたゆたう雲を眺める。
なんだか、あのゆっくりと流れている雲のように、夕映えに染まりたい。
「あ、あのう」
庭先の陰から聞こえてきた声に、犬ははっとして目尻を袖でぬぐった。
「家の人からこちらに回ってみればって言われたもんで」
背高の体を屈め、胸に何やら抱えながら、のそのそと御用商人のように現れたのは簗田左衛門尉だった。
「え、あ、さ、左衛門尉様?」
健気な黒さの瞳を動転させながら、唇はかすかに震えた。それを悟られまいとして、犬は柔らかな唇を中に押し込める。しかし、知らず知らずのうちに、握り締め合った両の手で波打つ胸を押さえていた。
「ど、どうして」
左衛門尉は一向に視線の先を沈ませたまま、頭だけを軽く下げてきて、
「お市様にこれを届けてくれと言われたもんで」
差し出してきたのは反物だった。
「あ、姉上様から・・・・・・」
少し悲しくなった。それもそうだ。左衛門尉が用も無く訪ねてくるはずがない。先ほどの今で、どうして左衛門尉が現れたのかといえばそれはただの偶然で、決してこの寂しい思いを救いにやって来てくれたわけではない。
左衛門尉は縁側に歩み寄ってくると、一度、両膝を地につけて、反物を両の手で仰々しく掲げながら、犬の手前にそっと置いた。
「じゃ、じゃあ、あっしはこれで」
「さ、左衛門尉様っ」
去りかけていた左衛門尉を思わず呼び止めてしまう。声が先に出てしまっていた。
だから、何を話せばいいのかわからない。左衛門尉をこちらに振り向かせたまま、ただただ、唇を噛みしめながらの無言。
でも、この無言の時間は、胸が裂かれるような狂おしさがこみ上げてくる一方で、このまま世界が閉ざされていくことを願う沈黙でもあった。
無論、願い以外のなにものでもない。やがては日も暮れる。これまで毎度繰り返してきたかのように、犬は彼と違う夜を過ごさなければならない。
稲葉山の静けさだけが闇の帳の寂しい夜。何を支えに生きていけばいいのだろう。何を希望として明日の朝を迎えればいいのだろう。
夢を見ることも許されない夜。
「あ、あっしは、これからちょっと家に帰って、あの、その、う、馬の世話をしなきゃならないんで」
「ま、待ってください」
離れたくなかった。
犬の目に映る簗田左衛門尉には、暖かい風が吹いている。愚将なのか勇将なのか正体不明で、どこか頼り甲斐がなくて、どこか如才なくて、しかし、子供たちを相手にしているときの彼は純朴であった。
おそらく、彼は誰よりも人を大切にする戦国武者だった。
彼に吹いている風を犬は感じたかった。
「さ、左衛門尉様――」
訴えるような眼差しで左衛門尉を見つめる。瞼の中はもう潤んでしまっていた。唇を震わせずにはいられなかった。
「わたくしは左衛門尉様をお慕いしております」
左衛門尉は口を開けて固まっている。
日暮れを知らせる鐘の音が城下からそっと届いてきた。
とたんに現実をよみがえらせてしまった犬は、言葉の残酷さを思い知るあまりに瞼を袖で覆い、その場から屋敷の奥へと逃げていった。
摂津の小覇王。
自城の勝竜寺城に戻る道すがら、細川兵部大輔はそんな文句をふと浮かべた。
荒木信濃守村重のことである。
茨木城の転覆から始まった反乱劇は留まることを知らず、高槻勢を組み従え、かつての主君池田九右衛門をその圧力でもって池田から放逐し、残る有力豪族であった伊丹勢を滅ぼし、今や二十万石以上を領するまでになった。
坂本の十兵衛、長浜の羽柴藤吉郎に匹敵、いや、自前の動員兵力はおそらく一万を越えており、もはや大名である。
もちろん、それらの事実は勝竜寺城からの監視でも把握しており、信濃守の膨張を苦々しくは思いながらも、後々を濁すことになるような深刻な問題とは捉えていなかった。
確固たる疑いを持つようになったのは、信濃守の新たな拠点である伊丹の地に足を踏み入れてからである。
伊丹城の改修に励んでいるということは事前に知っていた。ところが、伊丹台地に築かれ始めている大規模な城郭を目の当たりにして、兵部は信濃守の並々ならない野心を感じたのだった。
常人の考えではない。
城下町の四方が土塁で固められ、町中に入れば、勇ましい大工普請を傍目にしながら行く道々は綺麗に区画されていた。それは明らかに町全体を城郭と変貌させる区画整理であり、実際空堀が掘られている場所もある。
本丸は町中の奥、石垣にぐるりと巡らされた向こうに聳え立つ天守台であった。
本来、城郭は山を切り崩して築き上げる。名城は古来から天然の要害を活かして攻め手の意気を削ぐ。小谷城も岐阜城も山の一部と化しているし、松永弾正忠も連なる山々の一部に城を築いた。
信濃守は山城の池田城を捨ててまで、のっぺらな伊丹台地に一大要塞を築き上げている。
道楽か、とも思う。なるほど、突如として現れる天守は厳めしくもあって、楼閣のごとく華もある。
ただ、茶碗や刀の道楽ならいざ知らず、人々の日常の上に巨大な建造物を創造するこの道楽は、確実に何かを誇示するかのようで、凄まじい顕示欲の表現方法に他ならない。
いやいや、いくらなんでも疑いすぎではないかと兵部は自嘲もした。天下布武を掲げている織田軍にとって、北摂津は重要な要であり、石山の本願寺対策は当然ながら、西国侵攻も視野にあるのだから、守将である信濃守が要塞を築くのはなんら怪しいことではない。
そういうことで気を安らがせながら兵部は信濃守に面会した。
「遠路はるばるご苦労でした」
兵部を茶室に誘い込んだ信濃守は、頬を満悦そうに緩めてそう言った。兵部は頭を軽く下げながらも、広間では口数少なく澄ましていただけの信濃守を怪しんだ。もしかして、自らのどもり癖を意識し始めたのではないか。
「今年は実に意義のある一年でありましたな。上総介殿は長島の憂いを断ち、摂津にも残るは石山本願寺ぐらい。織田の来年はこの伊丹を足がかりにして更なる飛躍を遂げましょうぞ」
ああ、やはりこの男は織田家臣のつもりでいないんじゃないのか。長島討伐を他人事のように言ったばかりか、上総介をおやかたと呼ばなかったのだ。
無論、兵部はそうした怪訝をいっさい顔に出さず、皮肉混じりの笑みを浮かべた。
「左様ですな。聞けば正月には官位受領の恩賞が信濃守殿にもあるそうで」
「とは言っても、信濃守から摂津守になるだけです。もっとも、信濃守は父の代から自称してきただけですから、上総介殿のお心配り、ありがたいことこの上ありません」
やけにすかした表情であった。しかし、高尚ぶった面の皮一枚剥がせば、地に這いつくばって饅頭にむさぼりついた、あの男なのである。
歌を詠み、剣術にも研鑽を欠かさない兵部からすると、気取っている彼は醜くかったし、薄ら寒かった。
「兵部殿。茶を点てましょう」
信濃守は傍らの茶道具に手を伸ばした。
「いえ、結構」
親しみのかけらも失せている兵部の物言いに、信濃守は手を止めてちらりと向いてくる。かといって、信濃守は兵部の拒絶をどうあしらってよいものかわからない、いや、起こっている出来事が理解できず、時間から取り残されてしまった者が浮かべているような、無表情であった。
さすがに兵部は、己のしようが率直すぎてまずかったと思った。
「拙者は茶の湯の礼に不得手なため」
「まさか」
と、信濃守は安堵したように苦笑し、茶道具を手前に引き寄せる。
「以前に信濃守殿や簗田左衛門尉殿にたしなめられましたゆえ、貴公に茶を頂戴しても、かえって不愉快にさせるばかりでしょう」
「はあ。そのようなことがありましたかな」
白を切っているのか、本当に忘れてしまっているのかは不明だが、これ以上言うと、自分自身の器を小さくさせてしまいそうな気がしたので、兵部は笑ってごまかした。
「いやあ、信濃守殿が差し出される茶碗は名物ばかりからか、拙者も肩がすくんでしまったのかもしれません」
「なるほど。それはいけませんな、兵部殿」
すると、信濃守は茶を打ちながら、いろいろと語り始めた。やれ、茶の湯の世界はどうだの、やれ、茶碗とはなんぞやと、聞き流すには十分な持論を展開し、結局、兵部の前に茶が差し出されるまでにはひどく時間がかかった。
この男は欲望に忠実だ。つまり、無邪気に近いのだ。こうした者に所領と軍隊を与えたのは間違いであった。子供に出刃包丁を持たせているのと一緒だ。
「結構なお手前で」
しかし、出刃包丁と軍隊では脅威の度合いも違うのだった。
自在に扱えれば危惧することは何もないが――。
兵部は馬を留めると、六甲から吹き下ろされる冷たい夕風を浴びながら、黒い影となっている伊丹城に眺め入る。
このままにしてしまえば、取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。上総介も簗田左衛門尉も、信濃守を見くびって摂津の地に野放しにしてしまっている。
欲望への忠実さは、狂気との紙一重だ。




