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ふりちりすべる  作者: ぱじゃまくんくん男
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天賦の才2

 牛太郎は朝早くに小谷を立った。治郎助と栗綱を走らせて、琵琶湖の南岸に沿って京に向かう。

 大津で宿を取ったあと、翌日には京に入って相国寺を目指したが、織田の兵卒たちの姿がちらほらと見受けられるようになってきて、十数人の一団が栗綱の姿に目を留めた。彼らを率いていたのは馬廻衆の者で、かつて太郎の同僚だったらしい。

「左衛門太郎殿にも下知が渡ったのですか」

 言っている意味がよくわからなかったので問い返してみると、なんでも、摂津石山の顕如が和睦を破棄し、織田軍に宣戦布告した。

 そのため、近々、兵を差し向けるのだと馬廻衆の者は言う。

「おやかた様は二条城ではなく、相国寺に宿所を置いておられますのでくれぐれもお間違えないように」

 牛太郎は馬廻衆に礼を述べ、彼らの姿が見えなくなると、踵を返して早々と京から脱出した。

「どうして、相国寺に行かれないのですか」

 馬上の牛太郎は治郎助を無視する。

 相国寺にひそかに寄付している牛太郎としては、仏門を目の敵にしている上総介にはそれをあまり知られたくはない。あと、摂津に詳しいのでいくさに駆り出されそうな気がした。

 それにしても、所領を没収した相国寺に宿所を構えるなど、上総介の頭の中はどこまでもわからない。それとも、これが合理主義の極みなのだろうか。相国寺が宿所に適していたから。理由はたったそれだけで、他にはなんら思うところがないのかもしれないのだ。

「非情な人間には簡単なことなのかもしれないですね」

 牛太郎が大胆な言葉をあまりにもさらりと言うので、細川兵部大輔は思わずといった調子で辺りを見渡した。

 勝竜寺城の主は兵部である。牛太郎を通した広間の奥の一室に、人の気がないことなど彼が一番よく知っているにも関わらず、兵部はあわてたのだった。

「簗田殿っ。滅相なことを言うものではありませんぞっ」

 十兵衛のようになるぞ、と、兵部は言う。途端に牛太郎もあわて出し、今さら、口を手でおさえて辺りを伺う。

 夕闇が障子戸を影に染めていて、気配はしんとしている。

 京を脱け出してきた牛太郎は、寝床にするつもりで勝竜寺城に押しかけてき、折よく兵部が在席していた。快く、という表情でもなかったが、織田家の畿内奪還の立役者をぞんざいに扱うはずもない。

「そんなことより、摂津はどんなもんですか」

 と、牛太郎はぎこちなく話を変えた。

 勝竜寺城は京と摂津を結ぶ西国街道の途上にあり、京都盆地の南端にある。淀川を越えれば大和、西に少し行けば摂津高槻と、自然、怪しい連中を睨み据える役割を担っていた。

「御存知でしょうが、石山本願寺が再度狼煙を上げましたぞ。数日中にはここもあわただしくなりましょう」

「いや、本願寺もそうですけど、高槻とか池田は」

「信濃守は、まあ」

 好き勝手にやっているらしい。

「相変わらずの茶の湯道楽ですか」

「それなら可愛いものですが、摂津切り取り次第となってからは、なかなか野心的な様相もありまして、昨年の若江城攻めの折りもおやかた様の命があったわけでもないのに、張り切って軍勢を出してきましたし、今は伊丹を狙っているようでしてな」

 兵部の渋った表情に、牛太郎もどこか複雑な気分になった。戦国の将に野心は付き物で、摂津の一大勢力と躍り出た信濃守の張り切りようもわからなくはないが、あの信濃守が、それなのである。

 どこか、素直に受け入れられない。釈然としない何かが、胸の奥に生まれた吹き出物のようにある。

「もちろん、簗田殿は信濃守及び摂津衆を対本願寺の前線とされるおつもりなのでしょう?」

「う、うん」

 そんなことは、ちっとも考えていない。牛太郎の中では、自分の摂津での役目は終わっている。


 勝竜寺城を出ると淀川を渡り、大和の信貴山へと足を運んだ。

「何の用だ、小僧。押しかけてきやがって」

 広間に姿を現すなり、一時間近く待たされていた牛太郎にそう吐き捨てて、上座にどっかと腰を下ろした松永弾正忠。

 肘掛に体をもたせ、唇をへの字に曲げて、眉間の皺をいっそう深く、牛太郎を睨みつけてくる。

「わしは忙しいのだ。貴様の能書きなどを聞いていられる猶予などない」

「そう言うわりにはお見えになられたじゃないッスか」

 弾正忠は唇の片側だけを歪めて、フンと笑った。ばちっ、と、扇子を広げ、ばたばたと顔を仰ぐ。やはり、機嫌が悪いわけではない。口の悪い老人なのだ。

「まあ、貴様の醜い顔もたまには良いと思ってな。あわれに痩せこけてしまったしな!」

 ゆうに二十畳以上はある広間に、弾正は大きな笑い声を轟かせる。

 牛太郎は唇を尖らせる。

「あっしは御隠居と違って、いろいろと大変なんスよ」

「なあにがいろいろと大変だ! 貴様が女房に拷問を受けたことなど知っとるわい! まあ、それなりに盛んなようで、老いてしまったわしには羨ましい限りだがな!」

「やっぱ、来なかったほうが良かったッスかね」

「おう! 帰れ帰れ!」

 ちっ、と、牛太郎は舌を打ち、弾正はげらげらと愉快そうに笑う。

「して、用件はなんだ。まさか、このわしの城を宿所代わりに使いたいなどと申すのではなかろうな」

「いや、そのつもりなんスけど」

「あつかましい奴だ。まあ、好きにしていけ」

 牛太郎は思わず笑ってしまう。希代の大悪党と忌み嫌われる弾正なのに、なかなか憎めない。

「で、どうなんスか、その後は」

「何がだ。わしの余命か。そんなもの、この悪党いつでも死んでやるわい」

「そうじゃなくて。平蜘蛛ですよ。信長様にせがまれているんスか」

 弾正は扇子の手を止め、はたと牛太郎を見つめた。豪放さも悪党の薄汚さもそこにはなく、どちらかといえば置き物のようにきょとんとしている。

「まあ、変な素振りもなさそうッスから、言われていないんでしょうけど」

 すると、弾正はしばらく無言のまま扇子を動かしていたが、やがて近習たちに顔を向けると顎をしゃくった。近習たちはそれぞれ腰を上げ、席を外していく。

 弾正と牛太郎の二人だけとなり、閑散とした広間にはうぐいすの濡れた声だけがもれてくる。

「近う寄れ」

 牛太郎は言われた通りに腰を引きずっていく。

「もっと寄れ」

 と、弾正が扇子で手招き、牛太郎は眉をしかめながら弾正の傍に寄った。弾正は肘掛から体を起こし、顔を伸ばしてくると、鼻と鼻が交錯しそうな距離でぼそりと言う。

「貴様、上総介に愛想が尽きたか」

 弾正のしたたるような囁きに、牛太郎は思わずのけ反ってしまう。

「な、何を言ってんスか」

 弾正がにやりと笑んだ。

「その気があるのなら、手伝ってやってもいいぞ」

 本気で言っているようなので、牛太郎は溜め息をついてしまう。

「つくづくしょうがない御隠居ッスね。勘弁してくださいよ」

「貴様には気概というものがないな」

 そう言いながら弾正は姿勢を直し、つまらなそうに見下ろしてきながら扇子を動かす。

「側近などはともかくだが、上総介に心酔している人間など、上役にはおらんだろうが。佐久間柴田しかり、明智の気取り屋もそうだ。己に言い聞かせているだけであろう。忠義忠義と」

 げんに、と、言って、弾正は扇子をぱちりと留めると、その先端を牛太郎に向けた。

「上総介に取り立てられた貴様がそうだ」

「思い過ごしじゃないんスか」

「思い過ごしで生きてきたほどわしは生ぬるくない」

「もういい加減にしてください」

 牛太郎がきつく睨み上げ、弾正は鼻で笑う。

「そんなね、くだらない化かし合いなんかどうだっていいんスよ。あっしはね、御隠居にお願いしたいことがあって来たんですよ」

「謀反か」

 わしゃわしゃと笑う弾正を無視して、牛太郎は懐から取り出した地図を自分の手元に広げた。弾正が興味深そうに覗きこんでくる。

 それは設楽ヶ原の図、ではなく、三河遠江駿河の東海三国を並べただけの簡素なものだった。

「ほう」

 口端を緩めながらも、弾正の目つきが変わる。この男特有の湿っぽい目をぬうっと持ち上げてくる。

「武田か」

「希代の大悪党の腕を見込んで、武田を翻弄してほしいんス」

 途端、牛太郎を見つめてくる弾正の褪せた瞳に、怪しい輝きがぐっと帯びた。蛇が獲物を飲み込むような眼差しである。それは、牛太郎を試してくるようでもあった。

 牛太郎は静かに見つめ返す。

 瞼の裏に闇をひそませたまま、弾正がにやっと笑った。

「わしに何がしてほしい。事によれば、貴様の頼みごとだ。聞いてやる」

 牛太郎も口許を緩めて笑う。まるで、黒い絆だった。計算された損得勘定の絆であり、悪党の道楽を分け合っている共有体のようでもあり、しかし、最後には義理でも働かせているような、腐れ縁の父子のようだった。

「武田に包囲網を呼び掛けてください」

 弾正の口許から笑みが消えた。こわばった顔をすっと持ち上げ、背骨を真っすぐにして牛太郎を見下ろす。

「どうせ、今でもやり取りはあるんでしょう」

 ほとんど博打だった。弾正が上総介に心服していないのは明らかで、隙あらば再び反抗する腹積もりなのだろう。そんな弾正が上総介に有利な謀略に乗るのは賭けである。弾正に利益はまったくないのである。

 つまり、弾正が自分に寄せてくる、この奇怪な情にしか訴えるところはなかった。

「もう、時代は変わっていくんですから」

 弾正は巌のように押し黙って、牛太郎をただただ見つめてくる。

 やがて、意を決めたように息を抜くと、目を瞑ってから言った。

「ならんな」

「どうしてです」

 弾正は笑った。片目だけ開けて、牛太郎を見た。

「今のわしにそれだけの影響力があると思ってのことか。武田がわしなど相手にすると思うか」

「いや、相手にするでしょ!」

「愚か者め。何もわかっておらん。今、畿内で上総介に反旗を翻せられる者がどれだけある。石山の顕如とて、摂津でごねているだけで、京に攻め入れられる力も大義もなかろうが」

 弾正が言わんとしていたのは、現在、差し当たっての反織田勢力には一向一揆衆と武田のみであり、かつての包囲網のように織田領をおびやかすほどでもないということだった。

「貴様はずっと織田の人間だからわからんだろうが、去年、上総介はそれだけ駆逐したのだ。だがな――」

 弾正はまた再び笑んだ。

「その情勢を悟らずにむやみに上総介に抵抗している者が武田の小倅ということだ。もし、貴様が武田とやり合うのなら、外交ではない。調略だ」

 牛太郎はむっとして口をへの字に曲げる。

「調略だってのはわかっていますよ。でも、付け入る隙が今のところ見当たらないんスよ。だから、御隠居にお願いしたんでしょ。そこのところわかってくださいよ。言ったでしょうよ、事によれば聞いてやるって。手伝ってくださいよ」

「調略など大和におるわしができるわけなかろうが、大馬鹿者が」

「じゃあ、助言ぐらいしてくれたっていいでしょ!」

「やかましいわいっ! ぎゃあぎゃあ騒ぐなっ!」

 怒鳴られてしまって、牛太郎は不服ながらも口を噤む。牛太郎からすると、弾正が怖じ気づいているようにしか思えないのだった。影響力がないとか、情勢が違うだとか、そんなものはやってみなければわからないものだと言いたい。

 ただ、弾正にも弾正の言い分があるはずだった。織田に帰参してからまだ日の浅い弾正は、滅多な行動を起こし、それが裏目に出てしまえば次こそは上総介に滅ぼされるであろう。

「貴様のような馬鹿者が武田を相手にするということ自体が愚行だ」

「あっしだって好きでやっているわけじゃありませんよ」

 譲れない牛太郎は、駄々っ子のようにして弾正を睨みつける。弾正が動き、それがうまく行けば、武田を誘い出す第一歩になるのだ。

 そんな、しつこい牛太郎に弾正は業を煮やし、腰を上げた。おい、と、障子戸の向こうへと大声を張り上げて、近習を呼びつけた。

「弥八郎をここに連れ出せ」

「かしこまりました」

 障子戸がすっと閉められ、弾正は腰を下ろすと扇子を忙しげに動かした。

「誰スか。弥八郎って」

「本多弥八郎。居候者だ。お前に付かせてやる。頭の切れる男だからそやつに手助けしてもらえ。三河生まれだし、役に立つだろう」

 名を聞いて、牛太郎ははてと思った。どこかで聞いたことのある名だと。本多弥八郎。確か、鹿角脇立兜の――。いや、それは本多平八郎だ。



 本多弥八郎。齢三十六。諱を正信というらしい。

「この小僧、どうやら武田とやり合うつもりらしい」

 弾正が肘掛に体を持たせかけながらそう言うと、弥八郎は視線を伏せたまま横の牛太郎をちらと見た。

 痩せこけている。髷は結っているものの、何本か白髪が混じっており、こめかみの辺りがほつれてもいる。肩衣の裾や着物の袖が擦り切れていて、精一杯の正装なのだろうが、居候者の言葉にふさわしい貧しさが感じられた。

「弥八。貴様は三河者なのだから、手伝ってやれ」

「ということは」

 低く太い声音だが、言葉を選ぶようにゆったりと喋る。

「拙者に織田の手伝いをせよということでしょうか」

「違う。わしはこやつを手伝えと言ったのだ。聞こえんかったのか」

 弾正も弾正で、牛太郎をからかっているときとは打って変わって、老人なりの凄味を見せる。

「いえ」

「弥八。貴様もそろそろ観念して往生せい」

 弥八郎は声も出さなければ頷きもせず、ただじっと視線を伏せている。何に観念するのか牛太郎には知れなかったが、頑固者には違いないと思った。ただ、大多数の三河武者のそれとはまた違う風情である。気配がどこか繊細で、広間にやって来てから、弾正とのやり取りまでの仕草は洗練されている。身なりは貧しいが、一挙手一投足は清らかでもあり、三河武者の無骨な頑固さではなく、何らかの理由に裏打ちされた頑固さであった。

「小僧」

 と、弾正は牛太郎へと目を向けてくる。

「こやつは頭が切れるが、人間が堅い。貴様が客将として迎え、その馬鹿さ加減でこやつに天下を見せてやれ」

 弾正がそう言ったものだから、弥八郎は牛太郎にひたと目を留めてくる。

「はあ」

 牛太郎は解せない。弥八郎の中年には似つかわしくない憂いを帯びた眼差しは、自分よりも遥かに貴そうだったから。

 こいつのほうが天下を知ってそうだけどな、と。

 牛太郎は、ひとまず弾正や弥八郎と別れ、宿所として用意された部屋に退いた。

「旅のお伴が一人増えるかもしれない」

 荷駄を解いている治郎助に言うと、どなたですか、と訊ねてくる。

「本多弥八郎とかいう正体不明のおっさんだ。って言っても、おれと同じくらいかな」

「本多弥八郎殿って、あの本多殿ですか?」

「知ってんのか?」

「鹿角の兜に蜻蛉切の」

「それは平八郎だ」

 まあ、三河者で本多姓なのだから、三河守家康との関わりもあるはずだ。それなのに、どうしてこんな大和の山の中にいるのだろうか。

 その訳は夜に知った。弾正が慎ましいながらも宴席を開き、弾正と弥八郎、それに牛太郎の三人で酒を酌み交わしているうち、弾正が酩酊ぎみになってきた。

「弥八は一向かぶれだ」

 悪態めいている弾正を気にも留めない様子で、弥八郎は静かに盃を運んでいる。

 思った通り、弥八郎はかつては三河守の家臣だった。とは言っても、三河守の鷹匠だったらしく、その前は小坊主だったらしい。本多平八郎とは同じ一族だが、平八郎が宗家、弥八郎は分家の身にあたり、弥八郎の本多家はひどく貧しかったため、食いぶちを減らすために寺に入れられていた。

 そのためかどうか、桶狭間の四年後に三河で起こった一向一揆に加わり、松平善兵衛の祖父や夏目二郎左衛門などと共に三河守に反逆した。

 以来、三河を出奔、流浪している。

「この前の越前の騒ぎにも駆け付けていきおった。わしの制止も聞かんと。のう、弥八」

「そんなこともありましたな」

 終始、伏し目がちである。どうやら、彼の憂いというのは一向宗に絡んでいるらしい。

「どうして、御隠居のところに」

 と、牛太郎は訊ねてみた。すると、弥八郎はふいと顔を上げて、牛太郎にちょっと驚いていた。

「何か?」

「いえ。弾正忠様の面前で御隠居などと呼んでおられますから、小々可笑しくて」

「こやつは図々しいのだ。無礼で無法の悪党なのだ」

 瞼の下を赤らめる弾正に、弥八郎は囁くように笑う。

「まあ、あっしのことはどうでもいいとして、弥八さんはどうしてここに」

「わしが天下の名将だからだ」

「御隠居は黙っていてもらえますか。さっきからうるさいんスけど」

「なんだとっ! 貴様、老人をもっと敬わんかっ!」

 おもむろに腰を浮かした弾正を弥八郎がまあまあと苦笑交じりになだめる。フン、と鼻を鳴らして腰を下ろし、弾正は盃の中をがぶりと飲み干す。

「まあ、弾正忠様のおっしゃる通り、天下の名将だからです」

 弥八郎が言うには、最初、希代の大悪党と恐れられる松永弾正いかなるものかと、興味を先にして、流浪の土産にと訪ねたらしい。すると、いざ実際会ってみたら、確かに悪党である。ただ、三好家の祐筆から成り上がったなりの教養と智恵が人並み外れており、三河の田舎者からしてみれば、悪党と教養人、それぞれの顔を持つ弾正から得られるものは大きいと感じた。

「そうですかねえ」

 と、牛太郎はうがった目を弾正に向ける。

「このように言っているのだからそうなのだろうが。貴様ぐらいだ、わしをけなしているのは」

「けなしているのは御隠居でしょうが」

「貴様だ」

 まあまあ、と、弥八郎がなだめる。牛太郎と弾正はおもしろくなさそうに盃を口に運ぶ。

「どうでもいいが――」

 弾正は盃を膳に置くと、場に馴染んできた弥八郎に言った。

「貴様、この小僧と共に歩いてみろ。馬鹿が馬鹿なりにやっているのを傍目にしておれば、浄土も極楽もよいのであろうが、浮世の行く末云々よりも己の些細な果報だということがわかるであろう」

 老人の言葉だからだろうか、説得力があった。とはいえ、妙にしんみりとしてしまう。

「どうしたんスか、らしくないこと言っちゃって。大悪党の言葉とは思えませんね」

「阿呆。大悪党の末路だからこそなのだ」

 口ぶりはいちいち元気だったが、両の肩を垂らして膳の上をぼんやりと眺める弾正は、猫のように小さくなっている。

「わしはもはや老いさらばえてあとは死ぬだけだ。もう、わしが輝くことはない。これからの時代を作るのは貴様らだ」

 何を言っているんだろうと、牛太郎は不可思議な思いだった。まるで、弾正は自分もかつては時代のためを考えて生きていたと言わんばかりである。

 その辺り、牛太郎は突っ込みたくもなったが、弾正があまりにも哀愁漂わせているのでやめた。

 弱々しい弾正のせいで座が盛り下がる。ゆらめく燭台の火が、三人を影にする。そのうち「寝る」と、弾正が言い出し、腰を上げてしまった。

「あとは貴様らで親睦していろ」

 千鳥足で障子戸を開けた弾正は、そのまま近習に抱えられて去っていった。

 取り残された二人は、黙って視線を伏せている。明智十兵衛や細川兵部のような生真面目な輩とでも酒を酌み交わせる牛太郎だが、弥八郎のことはよく知らないし、本来は人見知りである。勝手を知らない人間と目的もなく二人きりになるのはほとんどない。

 弥八郎もなかなか静かな男である。

「簗田殿は」

「弥八さんは」

 二人同時に声を上げてしまって、どちらも言葉が続かず、さながら初夜の夫婦のお見合いだった。

「あ、いや、弥八さんからどうぞ」

「あ、いえ、簗田殿から」

 牛太郎は酒を舐めて、とりあえず間を持たすと、頬をぽりぽりと掻きながら、

「その、えーと、弥八さんは三河に帰る気はないんですか。いや、あっしは、まあ、訳あって三河勢に知っている人がいるんですけど、その中に松平善兵衛っていう奴がいましてね」

「ああ。大草松平の子息ですな。元気にしておりますか」

「ええ。元気ですよ。この前もちょろっと会ったんですけど、その、善兵衛も一度は家康殿に刃向かったって言うじゃないですか。でも、今は普通に家康殿の家来ですし、他にも一向一揆に加わったけど、許されて戻って来ている人はいるみたいですよ」

「そのようでございますな」

「弥八さんも戻ればいいんじゃないんですか」

 言葉を大して選ばず、わりかし無邪気につついてくる牛太郎に、弥八郎はか細い笑みを浮かべて視線を伏せる。

「いえ、それは――」

 と、その先を濁して、盃を口にした。

「それとも、一向宗の教えなんですか、弥八さんは」

 盃を下ろし、静かに無言である。

 どうやら、この男は塞ぎこんでいる。他者には打ち明けたくない忸怩たるものを抱えて生きている。

 弥八郎は一向かぶれだ、と、弾正は言った。一向宗の教えが浸透しているなら、過激な門徒衆たちなのだ、こうした席上でも上総介の所業を批判してきそうなものだが、それもしない。

 そもそも、弾正は何を思って弥八郎を自分に伴わせようとしているのだろう。あの老人の口ぶりだと、牛太郎の対武田への手助けというのもあるが、弥八郎のためのようでもある。

 牛太郎は弥八郎の盃に酒を注いだ。物思いから覚めたかのように弥八郎はふと顔を上げ、

「これは失礼つかまつった」

 と、自らの膳の銚子を手に取る。牛太郎は手を振りかざし、

「いや、手酌で結構。無礼講といきましょうよ」

「では、これを最後に」

 弥八郎が銚子を持ったままでいるので、牛太郎は盃を手にし、酌を受けた。

「じゃ、仕切り直しで」

 二人は盃を互いに持ち上げ、口をつける。

「年齢も同じぐらいだし。そういや、弥八さんは子供はいないんですか」

「男子が一人おります。妻とともに三河の大久保新十郎殿に預けておりまして、もう、ずいぶんと会ってはおりませぬが」

 先のいくさで浜松の軍議にはしょっちゅう顔を出していたので、牛太郎も大久保新十郎の顔は知っている。親しくはないし、言葉も交わしたことはないが、三方ヶ原の惨敗のあと、牛太郎が気絶している間の晩に、新十郎が兵を引き連れて武田陣を奇襲したことは存じている。

「恥ずかしながら、新十郎殿には世話をかけられ続けておりまして、拙者が幼かったころには大久保の家にその日の飯を恵んでもらっていたという有様」

 不幸を絵に描いたような弥八郎を牛太郎は逆に直視する。貧しさと、貧しさへの恥辱がうつむきがちの彼の根底にはあるようで、それが極楽浄土を一心不乱に打ちたてようとする一向宗へと駆り立てたのだろう。

「実を言えば、弾正忠様がおっしゃたように拙者は先ごろの越前の騒ぎに参加しておりました」

 酔ってきたのか、幼い日の境遇を口にしたからなのか、弥八郎は酒をなめながら、心情を自ら吐露した。

「郷里に残している妻子を思えば、何をしているのかという情けなさもあります。ただ、拙者は浄土の教えこそが退廃したこの世を救うのだと信じ切り、越中にも越前にも行きました」

 しかし、失望したのだと弥八郎は言った。

「顕如様は越前の守護に筑後法橋を寄越しました」

 それはなかろう、と。

 越前で起こった一向一揆とは、そもそもの初めは桂田播磨守の圧政に蜂起した土一揆であった。それが富田弥六郎に利用され、しかるのち一揆衆は加賀一向宗の援助を借りたのである。

 弥八郎も一向宗として越前に赴き、一揆衆や地侍たちとともに富田を討伐した。

「だから、越前は一向宗の国ではなく、民が獲得した国なのです。しかし、顕如様は越前の統治を民の合議に任せず、一向宗の統治とさせた。拙者は違うと思いました。一向というのは教義なのです。民衆を救う教えなのです。権力ではないのです」

 今の乱世にあって、珍しい男だと思った。一方で、このような清貧な人物が果たして自分の役に立つのだろうかと牛太郎は疑問にもなった。


 信貴山城には三日居座った。その間、弾正から何らかの助言を得ることもできず、老人の散策に付き合わされる日々であった。

 治郎助、それに弥八郎と共に堺へと向かう。河内へと入り、大和川の流れに歩みを合わせるように摂津湾の方角を目指す。

 弥八郎は馬を持っていない。従者もない。あるのは腰に差したなまくら刀だけで、流浪の身とはいえ、まるで剣術修行者のようななりであった。さらには、白髪混じりの痩せ身なのだから、貧しさが一目でわかる。

 堺に行くのはやめようか、と、牛太郎は途中何度も思った。秘密裏に財を成しているし、嫉妬でも起こすのではなかろうか。知られたくないことは山ほどある。しかし、弾正に押し付けられてしまっているし、今さら帰れとも言えないし、無言のままに付いてきてしまっているし。

 かといって、堺を避けるわけにもいかない。すでに小寺官兵衛が来ているはずだ。

 そもそも、この男をどう扱えばよいのか、牛太郎には判断がつかない。なんなら、家臣にしてしまおうか。いやいや、三河守に反逆した男を無断で雇うことなどできない。

 そうこうしているうちに、堺の港が視界に入ってきてしまった。

「あのう、弥八さん」

 牛太郎は言いながら、手綱を引いて栗綱を止めた。地面にうつむいていた弥八郎がふいと顔を上げてくる。

「確認したいんですけど、あっしの手助けをしてくれるってのは間違いないんですかね」

「それは弾正忠様の御意向により」

「じゃあ、これから見聞きすることはなるたけ胸にしまっていてもらえませんか」

 栗綱の口輪を取る治郎助も、弥八郎にじいっと振り返っていた。

「かしこまった」

 弥八郎は実直そうにうなずいた。信用できるかもしれない。けれど、一向宗にのめり込んでいるし、貧乏だし。

 まあいい。危なくなったら彩に毒矢で殺させてしまおう。反逆者なのだから、いなくなろうと誰も騒がないはずだ。

 牛太郎はそう腹を括って、栗綱を進ませた。

 堺の町中に入り、下馬をして路地の賑わいの中をかいくぐっていき、やがて、今井彦右衛門から延々と借り受けている屋敷に辿り着いた。板葺きの小さな門を牛太郎と治郎助はなんとはなしにくぐっていくが、弥八郎が門前に突っ立って入ってこなかった。

「弥八さん」

 牛太郎が振り向いて呼ぶと、弥八郎は足を出したり引いたり、戸惑っている。

「せ、拙者のような者が行ってしまえば、簗田殿に迷惑をかけまする」

「何を言っているんですか?」

「いえ、拙者は簗田殿の従者のようなものなのですから、配下は門前で待っていないと」

 牛太郎は治郎助と顔を見合わせ、互いに首を傾げる。

「弥八殿。俺だって旦那様の従者ですが、こうして入っていますよ。別に旦那様はお屋敷に下人を上げないとかそういうことを言わないんで、大丈夫ですよ」

「てか、弥八さんは従者じゃなくてお客さんでしょうよ。遠慮しないで上がってくださいよ」

 すると、弥八郎はぽかんとして、小さな門の屋根を見上げた。

「こ、ここは簗田殿の屋敷なのですか。拙者はてっきり、どこかの公家の屋敷を訪ねに来たのかと」

 驚くほど豪勢な屋敷ではない。とはいえ、それは織田の人間の感覚なのかもしれず、そもそも一介の将が別邸を構えていることも弥八郎には考えられなかったのかもしれない。

 治郎助が門まで駆け寄り、弥八郎の手を取って中に引き入れる。栗綱がそれをちらと眺めていて、牛太郎は眉をしかめながら頬をかきむしる。参ったな、と。このぐらいで驚かれていたのでは、それこそのちのち狂ったように嫉妬してしまうかもしれない。

 それに一向宗に没頭している者からすれば、悪事を働かせて財を成したなど、不愉快極まりないはずだ。

「旦那様っ!」

 間の悪いことに玄関から四郎次郎が飛び出してきた。牛太郎は舌打ちしたが、四郎次郎はまたいっそう肥えた顔を緩めながら牛太郎に駆け寄り、なんだか商売人っぽい揉み手で出迎えてきた。

「いやあ、お久しぶりッス。って、あれ? ずいぶん痩せたんじゃないんスか。噂には聞いていましたけど」

「いいから、お前は引っ込んでいろ」

「ああ、そうそう。官兵衛殿なら三日前にはもうやって来られましたよ。ですんで、官兵衛殿のお相手にかまけて、仕事に出られませんでしたよお」

 などと、どうでもいい口実をべらべらと喋っているので、牛太郎は黙って四郎次郎を睨みつける。

「おお、治郎助。息災だったか。旦那様にしっかりお仕えしているか。――あれ。そちらの方は?」

 すると、弥八郎が急に声を上げた。

「中島殿っ! 中島四郎次郎殿ではないのかっ!」

「ええっ! 弥八殿じゃないッスかっ! 鷹匠の弥八殿っ!」

 四郎次郎と弥八郎は互いに駆け寄ると、手を取り合った。牛太郎はぼんやりと立ちつくす。そういえば、四郎次郎は三河の出だった。

「どうしたんスか。なんで、弥八殿が旦那様なんかと一緒にいるんスか」

「そちらこそ。なにゆえ簗田殿に仕えているのですか」

 四郎次郎はこれまでの経緯を話した。事業に失敗し、放浪していたところを牛太郎の息子である左衛門太郎に拾われ、今はこうして簗田家に奉公しているのだと。

「何を言ってんだテメー」

 四郎次郎が話をごまかしているので、牛太郎は割って入って真実を話した。砂糖と鼻糞を間違え、三河守から預かった五百貫を失ったこと。騙されて買わされた砂糖を牛太郎に売りつけようとして、そこで初めて騙されたことを知って絶望し、腹を切ろうとしたこと。仕方ないから五百貫貯まるまで雇い始めたこと。居所を三河守と本多平八郎に知られてしまったが、逆に三河守に愛想を尽かされたこと。団子屋をやらせたら横領し(事実は奇進札の売り上げを横領し)、恩を仇で返してきたこと。それでも、行く当てがない馬鹿なので、仕方なく雇い続けてやっており、

「今はこっちの堺で団子茶屋をやらせているんです」

 と、石山本願寺に通行料を支払って、淀川水運を独占させていることは言わなかった。

「まこと、そのようなことで?」

 弥八郎は瞼を見開いて驚きを示すが、醜態を並べ立てられた四郎次郎は首を垂らして、ただただ春の日差しを額に照り返している。

「やあやあ! どうもどうも!」

 大声を上げながら門をくぐってきた者があった。素襖の裾をからげ、太い足をあらわにしているのは官兵衛だった。串でしーしーと歯糞を削っており、町中を歩き回っていたらしい。

 しかし、官兵衛は入ってきたなり、鳶色の瞳をきょとんとさせる。

「四郎次郎殿。栗綱はおれど、簗田殿の姿がありませんが、さて」

「おれだ」

 牛太郎が名乗ると、官兵衛は薄平べったい無の表情で見つめてくる。

「おれだって言ってんだろ。わざとそうしてんのか」

「牢獄にでもぶちこまれましたか」

「まあ、そんなところだ」

 とにかく、玄関先でわいわいと騒ぐのならさっさと中に上がれと促し、牛太郎は軒をくぐった。

 上がりかまちに腰を下ろして足を洗っていると、官兵衛が弥八郎をじろじろと眺めている。

「こちらは新たな御家来ですか」

「いえ。拙者、訳あって簗田殿と行動を共にしておる、浪人の本多弥八郎と申します」

「本多殿でございますか。拙者は播磨姫路の小寺官兵衛。本多殿は三河の出ですかな。三河武者には同じ姓の方がよくおられるようですが」

「左様にて」

「なるほど」

 と、官兵衛はどこか子供っぽい笑みを浮かべて牛太郎に横目を向けてくる。

「なんだよ」

「いやあ。簗田殿は本気なのだなあと」

「何がだよ」

「それはゆっくりと話しましょうよ。茶でもすすりながら」


 積もる話はさておき、真っ先に官兵衛に確認しなければならない。

「武田をどうにかできるのか」

「そんなことより、どうしてあの三河者を同席させないのですか」

 官兵衛は腕組みをして、牛太郎が広げた東海三国の図を瞳だけでつまらなそうに見下ろしている。この若者は背丈があるし、胸板も以前より厚くなったようにも見受けられ、そこに座しているだけでも図太さを漂わせている。

「知られたくないことが山ほどあるからだ」

「別に構わんじゃありませんか」

 牛太郎の隠しごとなど大したことでもないと言わんばかりに鼻糞をほじくり出し、それを開け放たれた庭先に向けてぴんと弾き飛ばす。

「いい大人なんだから、そういうことはやめろ」

「はっは。父にもよう言われます」

 まったく、人の話を聞いていない。

「どちらにしろ、あいつは松永弾正に押し付けられただけの貧乏侍だ。陰気臭いし、無口だし、どうせ役に立たねえ」

「松永弾正?」

 官兵衛はぐいと顔を寄越して来て、興味深そうに牛太郎の目を覗き込んでくる。

「なにゆえ、弾正忠が簗田殿に」

 牛太郎と弾正忠の間柄というのは、官兵衛は摂津の覇権を翻すまでのいがみ合いまでしか知らない。なので、牛太郎は弾正を若江城の攻略に使ったことや、昨日まで信貴山城にいて弾正に武田攻略の助言を求めたことなどを説明した。

「なのに、あのクソジジイ、ビビって何もしねえ。そんで、適当なこと言って貧乏侍を押しつけてきたんだ。何を企んでんだか、わかりゃしねえ」

「へえ。そういうことですか」

 官兵衛は瞼をうっすらと細め牛太郎を眺めてくる。掴みどころのない男で、快活ではあるのだけれども、ときにじっとりと考察を計る。

「それなら、一層のこと同席させましょうぞ。簗田殿の話を聞く限り、弾正忠に他意はござらんと思いますがな。それに、あの弾正忠が見込んだ男だということなのでしょう」

 牛太郎は黙ってしまいながらも首を傾げる。官兵衛の言うことは牛太郎も思っていたが、どうも、納得がいかない。切れ者だと言うわりに、弥八郎は清貧すぎるのだ。

「簗田殿。沙石集にもあるではないですか。光あるものは光あるものを友とするって」

 牛太郎には官兵衛の言っていることがわからないので、素直に従うしかなかった。



 播磨国姫路城城代、小寺官兵衛孝高、齢二十八。

「徳川の城番の者を武田に寝返らせましょう」

 摂津のときもそうであった。彼の策は大胆であり、節操がない。しかし、からりと言う。いとも容易い業のように。

「お前、何を言ってんだ」

 牛太郎は憮然と睨みつける。弥八郎も官兵衛をじっと見つめる。

「何をって、さすれば武田は攻めてきましょうぞ」

「馬鹿か、お前は! 長篠城を取られたら不利だってことを、今、おれは三回ぐらい言っただろうが!」

「それが長篠城だと拙者は申しましたか?」

「なんだと?」

 官兵衛は筆を取った。牛太郎が広げた東海三国の地図に筆を下ろし、掛川城と高天神城を丸で囲んだ。

 天竜川以東、この遠江二城は今なお武田の手に落ち延びずに息を永らえているが、二俣城を奪取されて以来、進路は遮断されてしまっている。

「肉を斬らせて骨を断つ。このどちらかの城を武田に落とさせ、自信を過剰にさせればよろしい。すると、次に狙うのは浜松、もしくは長篠」

「東美濃はどうなんだ」

「織田よりも徳川から攻めるでしょう。東美濃には付け城が築かれ、岐阜も目と鼻の先ですから」

「じゃあ、どうやって長篠に目を向けさせる」

「単純に守兵を減らせばよろしいでしょう」

 問いにはすぐに返してくる。口調はきっぱりとしている。そして、さらさらと、山谷を流れる水のごとく、答えは次から次へと簡素で滞りない。

 実に簡単そうだ。聞いているぶんには。

 しかし、当の牛太郎にはとんでもない。遠江の城番を寝返らせる、長篠城の守兵を減らさせる、この二点を達成させるために、どれだけの労力、権力が必要か。

「寝返り工作にはさゆり殿を任じればよろしいでしょう。守兵を減らすには、うーん、徳川殿の理解が必要ですな」

 百歩譲って三河守に理解を迫ることは可能かもしれない。しかし、さゆりなる者はすでにさなを名乗ってしまっている。

「官兵衛」

 牛太郎は腕組みしながら図を睨み据える。

「もう、さゆりんはいない」

「なにゆえ」

「死んだ」

 弥八郎は座禅を組んでいるかのように影と成っている。

 コト、と、手にしていた筆を硯に置いた官兵衛は、ゆっくりと天井を仰ぎながらも両目を瞑り、しばらくじっと耐えてから、ほうっと息をもらした。

「左様でございますか。なんて、惜しいことか」

 瞼には光るものが見受けられ、すっかり信じ込んでしまっている。はかりごとには躊躇もないくせに、ずいぶんと疑いを持たない。

 いや。どうも官兵衛のそれは、さゆりを女として見ていたような感じであり、独占欲の塊である牛太郎は眉をひそめる。

 こいつは堺に来てからの三日間、彩にちょっかいを出していたのではないか。牛太郎はそうしたいらない疑惑をまた持ち始める。武田のことは頭から失くしてしまう。

「僭越ながら」

 影に徹していた弥八郎が、ふいに低い声を発した。

「掛川城守将の石川彦五郎家成は、三河守が今川の人質であったころから主君に寄り添っていた忠臣にございます。これが寝返ることは考えられません」

 あらぬ方向に行っていた考察を牛太郎は戻し、目を伏せる弥八郎を注視する。

「高天神の小笠原与八郎信興は今川義元公からの高天神城城主。これは三河守が遠江を併呑した折に徳川方に属した将ですが、三年前、三方ヶ原以前に武田徳栄軒が攻撃してきたさい、大軍を寡兵で退けており、こちらも早々に寝返る人物だとは思えませぬ」

 官兵衛が顎を抱えて、弥八郎の言葉にじっと耳を立てている。

 気付いたのは、十年前に三河を追放されてから一度も郷里に戻っていないわりに、弥八郎が今現在の徳川をよく知っているということだった。

 牛太郎は瞼を閉じた。弾正に押し付けられて正解だったかもしれない。

「とはいえ、小寺殿が苦肉の策を持ち要られようとするのは、武田をおびき寄せ、更には慢心を抱かせる策が他にないのだと拙者は解釈しておりますが、いかがでしょうか」

「おっしゃる通りで」

「ならば、流言を用いてみては。小笠原与八郎に寝返りの気配ありと、武田の間者の耳目に伝わるよう、さらには浜松の三河守の耳にも入るように。さすれば、三河守に疑われたままに、武田に攻城されては、小笠原は寝返りこそせずとも、心情として早々と降伏してしまうでしょう」

「なるほど」

 にやと笑った官兵衛の傍らで、牛太郎ははっとしていた。弥八郎の観点に。

 姿形を隠している武田の忍びに、慎重すぎるほど警戒していた牛太郎である。だが、弥八郎はその諜報網を逆に利用してしまえと言っているようなものだった。

 弥八郎と出会ってからの三日間、牛太郎は武田工作について彼とは一度も話し合っていない。無論、何の情報も与えていない。ところが、弥八郎はたいていのことは知っているようだった。武田家というものはどういった組織なのか、徳川家とはどういった集団なのか、そして、武田と徳川を比較したうえでの情勢も。

「ただし、危険もあります」

「それは?」

「仮に高天神を攻めさせた場合、小笠原は浜松に援軍を要請するでしょう。そのとき、三河守だけではなく、織田本隊が出撃してしまえば、決戦地が遠江となってしまいます」

「それはどうなのですか、簗田殿」

「どうって?」

「遠江で会戦を開いた場合、勝算があるのかということです」

「ない」

「なにゆえです。そもそも、これの始まりは長篠を主戦場にするということですが、なにゆえ、長篠にこだわるのでしょうか」

「それは織田軍が弱すぎるからだ。対して、武田軍は強すぎる。多分、十倍ぐらいの兵力がないと、まともにやったら勝てない。ここだけの話、実はおれも三方ヶ原に参加したんだけど――」

 途端、官兵衛も弥八郎も瞼を広げ、驚きを隠さなかった。

 牛太郎は肌身に染みて知った武田の凄まじさを語った。徳栄軒という巨大な武将の下での統率があったとはいえ、山県三郎兵衛尉を初め、将校一人一人の武勇というのはずば抜けており、兵卒は一糸乱れず敵に怯まず、勝利を確信している者たちでしか備えられない強さであった。

「それに比べて織田の兵卒は雑魚だ」

 姉川の戦いで磯野員昌一隊に備えをことごとく突破された。そんな磯野に匹敵する将校、部隊が、武田には両手では数えられないほど揃っている。

「勝てるわけがない」

「ならば、なぜ」

 と、弥八郎が珍しく身を乗り出してきた。

「長篠だったら勝算があるのですか」

「それは――」

 牛太郎は懐を探って設楽ヶ原の戦図を取り出そうとした。しかし、半兵衛にくれてしまって持ち合わせていないことに気付き、治郎助を呼んで紙を持ってこさせると、筆で設楽ヶ原の地形を描いていった。予想される部隊の配置も半兵衛が言った通りに書いていく。

「調べてきたのはおれだ。設楽ヶ原っていう。陣形配置を考えたのは竹中半兵衛だ」

「これは......」

 官兵衛が戦図に凝視する。

「見にくいですな」

「見にくくねえだろ! 一生懸命書いたんだぞ!」

「簗田殿」

 弥八郎が手を伸ばしてき、黒く塗りつぶされた箇所を差した。

「これはどういうことでしょうか」

 渡河地点だと牛太郎は答える。連吾川は跨いで飛び越えられるほどの小さな川だが、この辺り一帯は水はけの悪い湿田のため、人馬が滞りなく進める地点はこの三箇所しかない。

「だから、時期としては梅雨時にやりたいんです。多分、来年か再来年ぐらい」

「銃というのは、火縄銃のことですか」

「そうです。織田軍は二千丁持っているから、これを各所の柵越しに配置して、突撃してくる武田軍を迎え撃つ」

「なるほど......」

 弥八郎は乗り出していた体を起こし、喉を鳴らした。

「これなら勝算はあるやも」

 官兵衛が頷くと、言った。

「まあ、これがこの通りに行くかどうかはともかく、まずはこの設楽ヶ原とやらに武田の軍勢を引きこまなければならないということですな」

「そうだ」

「いやあ......」

 官兵衛は感嘆の息をつき、苦笑とも取れる笑みに口許を緩めながら、牛太郎を眺めてくる。

「まこと、姫路でくすぶっているのが悔しい。どうして、織田というのはこうもおもしろいんでしょうか。まさに血肉が湧き躍らんばかりに胸が滾りますわ」

 そして、官兵衛は瞳を輝かせるまま、隣の弥八郎に目を向けた。

「ねえ、本多殿」

 弥八郎は自重して目を伏せる。ただ、未来への好奇心を彼もまたどこかに潜ませているようで、ひっそりと笑んでいた。


 宿屋兄弟を連れ出した昨秋までは、家事全般は四郎次郎と彩が行っていた。ところが、あれから半年余、堺の屋敷には人が三人増えており、どうやら四郎次郎の身の周りの世話をしている下人の男が一人、あとは食事、洗濯、掃除などに従事している年かさの女が二人。

 四郎次郎は何もしていない。それと彩はなぜか不在である。

 食事を済ますと、牛太郎は官兵衛を自室に呼び、酒を振る舞った。播磨の情勢を聞いたり、一連の織田包囲網打破の戦いを話したりした。

「石山本願寺のこともありましょうが」

 官兵衛は牛太郎のお猪口に徳利を傾けながら言う。

「東海の雌雄に決着がつけば、いよいよ上総介殿は天下に手を掛けますな」

「どうだかな」

「すでに我が小寺家は、織田、毛利、どちらに付くか密かに検討しております。時が来れば我が家中も揉めるでしょう」

「今のうちに早くまとめといたほうがいいぞ。ごちゃごちゃしてくると、信長様も聞く耳もたなくなるからな」

「わかっております。だから、武田とのいくさは是非勝利していただきたい。さすれば、家中の者どもを説得できる口実になります」

 燭台の火を照らし返す官兵衛の瞳がなかなか切迫していて、大勢力同士に挟まれつつある播磨の小勢力の厳しい現実がそこにはあった。

 二、三杯で座を切り上げたあと、牛太郎は四郎次郎を呼び出した。

「どういうことなんだよ」

 酔いで赤く染まった瞼の縁を据え置きながら言う。屋敷に見知らぬ奉公人がいること、あとは彩の所在。

「いや、旦那様に怒られるとは思ったんスけど、近頃はあっしも忙しくて。なんで、ちょっと、雇わせてもらいました」

 牛太郎は扇子をばさりと広げ、自ら作った風で火照った顔を冷ましながら、四郎次郎を据わった目で睨む。

 四郎次郎は正座をしてしょんぼりしている。

「まあいいわ。へまもしていないし、結構稼いでいるから大目に見てやる。てか、好きにしろ。もう、おれも忙しくてこっちまで目が届かない」

「ほ、本当ッスかっ?」

「ただし、稼いだものは基本的におれのものだからな。お前が何をしようと構わないけれど、お前のその服も、お前の手下も、たとえお前が勝手に家を建てようとだな、全部、おれの財産だからな。あんまり派手なことをやったり、変な真似をしたりしたら、すべて没収だからな。今の立場から身ぐるみまで剥がして、摂津湾に叩き落とすからな。いいな」

「あっしはそんな贅沢しないッスよお」

「わかったかって聞いてんだっ!」

「はい」

「あと、あーやだ。どこにいんだ。なんで帰ってこねえんだ」

「彩は、その、沓掛の新七に会いに行くとか言って、四、五日前に出ていったんス」

「なんだとお?」

 無断で家を空けるなど苛立たしいが、彩と新七郎はお互いたった一人の身内であるし、結局は彩の顔を見られなくて寂しいというだけの牛太郎。

「そっか」

 か細い吐息をついてしまう。

 翌朝、治郎助を連れてとと屋に向かったが、上総介が上洛しているので宗易は今井彦右衛門と共に京に駐在しているらしい。

「簗田殿は織田様とご一緒ではなかったのですか」

 馴染みの番頭が牛太郎と治郎助に煎茶をすすめてくる。牛太郎は碗を口に運びながらかぶりを振った。

「京は実に華やかだと、淀の川を下ってきた者たちが声を揃えます」

 倉庫業だけあって、とと屋は業者の出入りが多く、番頭も都の出来事には明るい。

 上総介は上洛したその足で、早速正親町天皇に蘭奢待の切り取りを所望する奏聞を行い、内裏は奈良東大寺に勅使を立てた。東大寺が開封を認めると、上総介は佐久間、柴田、丹羽の重臣連中や、側近奉行衆の松井友閑、武井夕庵、さらには荒木信濃守まで引き連れて、奈良多聞山城に入った。

「なので、私はてっきり簗田殿も御一緒されていたのかと」

 確かに文化人との交流はある牛太郎だが、式典めいたものに参列できるような位置にもないし、柄でもないことは自覚している。もっとも、信濃守がくっついていることが理解できないが。

 それよりも気になったのは、上総介が多聞山城に入ったことである。多聞山城は元は弾正忠の属城であったが、先年の帰参の折に上総介に開け渡している。

 弾正がこの件について一言も喋らなかったことが、牛太郎を不安にさせる。愚痴の一つでもこぼしそうなものなのに、一切なかった。

 よほど、不満なのかもしれない。

「ほどなく、東大寺から多聞山に香木が届けられ」

 貴人などを迎え入れる御成の間に蘭奢待は据え置かれた。足利幕府三代将軍義満が切り取りを許されて以来、百年の悠久の時を越えて再び現れた名香に諸将が息を呑みながら眼差しを注ぐ中、上総介は古法に従って香木を切り取ると、諸将に披露しながらこう言った。

 末代までの物語にせよ。

「私はそれを聞いたとき、いよいよ天下の夜明けかと、鳥肌が立つ思いでありましたよ」

 番頭の話にじっと聞き入っていた治郎助も、固唾を呑んでいた。牛太郎はといえば、ちょっと冷めた思いでいる。自分には関係のないこと。あるいは、尾張美濃と泥水をすすっていた過去のほうが、どうもまばゆく見えてしまうこと。

「それに来たる賀茂の葵祭には織田様にご依頼があったようで」

「依頼?」

「はい。祭では馬を競わせるのを神事にささげることとしているのですが、織田様はこれを受け、数々のいくさに乗りまわした馬に名物の馬具を装わせて、競馬を披露させるおつもりだと、うちの主人が言っておりました」

 なので、栗綱にも声がかかっていたのではないかと番頭は言った。

 牛太郎はとと屋をあとにすると、

「さっさと畿内を脱出するぞ」

 と、治郎助に告げ、足早に帰路を辿る。

「でも、栗綱にお声がかかるのではないかと番頭もおっしゃっていたじゃありませんか。あの綺麗な鞍も、こういうときのためにあるんじゃないんですか」

「あの鞍は岐阜に置いてきている」

 それに、目立ちたいのはやまやまだが、そうした行事に参加すると嫌な予感しかなかった。どうせ、自分のことだから恥を晒しそうだ、と。おそらく落馬するか、それとも栗綱がのんびりしたまま働かないか。

 多分、上総介は、黒連雀と栗綱を上洛させるよう、岐阜に催促の早馬を出している。幸運なことに、牛太郎は家の者たちには京に行くとしか言っておらず、実際は諸国をうろついている。

「坂本に逃げる」

 牛太郎は治郎助と弥八郎に出立の支度をさせ、

「もう、離れるのですか! せっかく久方ぶりにお会いしたのだから、もうちっとゆっくりしてもよろしいではありませんか!」

「おれは忙しいんだ。ゆっくり好きにしてけ」

 官兵衛の声を振り切って、牛太郎はそそくさと堺をあとにした。

 高槻を回って、また、勝竜寺城に押しかけると、呆れ顔の兵部に京の都は今どうなっているのか、明智十兵衛は坂本を留守にしていないのかあれこれと訊ね、ひと眠りすると、まだ空が明けていない早朝から勝竜寺城を立ち、京をかすめるように大津へと全速力で回って、琵琶湖西岸の坂本城へと一気に駆け逃げた。

「確かにおやかた様は簗田殿親子を催促しているそうですが、別によいではないですか。葵祭での競馬に所有されている馬を出すなど、それこそ末代までの物語になりますぞ」

「いや、いいです。あっしは日陰者なんで」

 牛太郎の答えに、苦笑しながら軽い吐息をつく十兵衛。

「まあ、簗田殿がそう言うなれば、しばし、こちらでゆっくりしていきなされ」

 牛太郎はほっとした。いや、十兵衛なら理解してくれるものだと決め込んでいたが。

 十兵衛は京と坂本を往復していて、なかなか忙しいようだが、坂本に所領を与えられて以降は、京の政務所司や朝廷とのやり取りの大半は、村井民部大輔や、松井武井の両奉行が行うようになった。

 近頃はもっぱら自領の坂本の政務、それと西国に繋がる勢力拡大の陣頭を上総介に内々に命じられているらしい。

 正月の岐阜城での件、牛太郎が見るかぎり、あれは上総介も十兵衛もなんでもなかったことのようである。

「そういう御方でしょう。おやかた様は」

 十兵衛が言うには、殴る蹴るで気持ちを解放してしまえば、上総介はからっとしてしまう。逆に主人に暴力を振るわれても、まるで気に留めない快活な男を上総介は好み、それが藤吉郎や牛太郎なのだ、と。

「いや、あっしは傷ついていますけどね」

 というよりは、牛太郎の場合は上総介よりももっと激しくて気の短い鬼夜叉が傍にいるので、それなりに手加減をしてくれている上総介の拳は屁でもなくなってしまっている。

「まあ、それはともかく」

 と、十兵衛も牛太郎の憂いのない言葉を信用していない。

「おやかた様に従うことで、それよりももっと恐ろしいのは、殴られないままに怒りを胸の内に留め置かせてしまうことでしょう」

 上総介は華美を好み、開けっ広げに派手である一方、浅井朝倉の一連の戦いでそうであったように、陰湿なほど執念深い。

「そうですかねえ。だって、一度は裏切った松永弾正を許したんですよ」

「それは簗田殿が仲介したからでしょう」

 と、弾正嫌いの十兵衛は、少しつまらなそうな表情ながらも言う。

「簗田殿はもう少し己を信じてもよろしいのでは。おやかた様は簗田殿を相当買っておいでですぞ。これは拙者の邪推かもしれませんが、羽柴殿の次に大領を与えられるのは、佐久間殿でも柴田殿でもなく、簗田殿だと拙者は思っておりますが」

「まさか」

 と、牛太郎は一笑する。

「そうなったとしても、面倒だから太郎に全部やらせますよ」

 そんなことより、と、牛太郎は懐から例の戦図を取り出し、十兵衛の前に広げた。

「武田のことなんですが」

 牛太郎の頭は目前のことでいっぱいだった。



 十兵衛は藤吉郎ほどの戦功を立ててはいない。

 ただ、藤吉郎のそれは大博打に賭ける勝負師的な一面が強く、運がことごとく味方したおもむきもある。対して十兵衛は博打を打たないので大功に恵まれてはいないが、緻密でぬかりないぶんだけ勝利を確実に引き寄せる。比叡山焼き討ちのときなどは私情を捨てて各所地形を調べ上げ、先陣として冷徹に攻撃を進めた。

 なにより、上総介に火縄銃の増強をすすめたのが十兵衛なのだから、牛太郎は桶狭間の錆びついた功績しか持っていない自分よりも、十兵衛から上総介にこの草案を伝えてもらったほうがよいと、政治屋的感覚で思っていた。

 十兵衛は戦図を眺め見て唸り上げる。

「これはすごい。これが本当に起きたら戦史に残る一大事ですぞ」

 牛太郎はいい気持ちになったが、緩みそうな頬をぐっとこらえて、敵陣配置の予測は竹中半兵衛が立てたものだと言った。

 さらに、牛太郎は弥八郎を呼んで、三河の出の浪人だと紹介したうえで、弥八郎に設楽ヶ原決戦を起こさせるための謀略を語らせた。

 すべてを聞き終えた十兵衛は、視線の先をじっと戦図に置いたまま、黙っている。十兵衛が陰謀をあまり好まないことを牛太郎は知っている。ただ、かつて足利将軍擁立に働いていたとき、各大名を天秤にかけて計量していたというしたたかな一面もあった。

「つまり、高天神城を攻められ、徳川殿がおやかた様に援軍を請うた場合、おやかた様は援軍を出すなということなのですな」

「出すにしても、出した振りです」

「兵部が言っておりましたよ。簗田殿の差配は恐ろしいと」

 十兵衛は戦図を折り畳むと、自らの懐にしまいこんだ。

「しかし、武田に勝利するためにはそれしかないのかもしれません」

「恐れながら、明智様」

 と、弥八郎が唐突に割って入ってきた。

「もう一計あるのですが」

「なんでしょう」

「武田に勇み足を踏ませるために、織田重臣の一人に武田と内通させてはいかがかと。無論、こちらの偽りでありますが」

 そんなことは牛太郎も初めて聞いたので、弥八郎の怜悧さに驚いた。口数が少ないので胸中は読み取れないが、もしかしたら、この男はこればかり考えていたのかもしれない。

「重臣ですか」

 さすがの十兵衛も語調を鈍らせる。難しそうに眉根をしかめた十兵衛に、牛太郎も同じ思いである。田舎武者上がりの頭が堅い織田の重臣に、そんな役目を引き受ける者がいるだろうか。

 ただ、

「重臣の誰かとなれば、武田も喜んで攻めてきますね」

 と、牛太郎は言った。

「左様でございますがなあ」

 詰め寄られた十兵衛は、ほとほと参ったとばかりに笑う。

「拙者とて、家中の重役に恨まれたくありませぬ」

 と、やはり、したたかである。もっとも、重臣の顔色を気にしないで思うがままに驀進している藤吉郎みたいな者が異常なのだろうが。

 あ。それなら、その汚れ役は藤吉郎にやらせようか。いや、駄目だ。今回ばかりは藤吉郎に塵ほどの功績も与えたくない。

「じゃあ、それだけはあっしから信長様に言いますよ。ま、柴田の義兄にでもやらせておけば、あっしもなんちゃないですし」

 守護神の梓がいるし。

 一息ついたところで、膳が運ばれてきた。急な来訪で大したもてなしもできないがと十兵衛は自嘲したが、照りのよい漆器や小皿に高野豆腐やひじきなど一品ずつ並べられ、弥八郎にも振る舞われた。

 恐縮しながら箸をすすめる弥八郎に、十兵衛はいろいろと訊ねる。同じように不遇に耐え忍んでいた時期があったためであろう、十兵衛は流浪の士を好む。

「本多殿は天下泰平のためには何が必要であろうとお考えか」

「教義であると思っております」

「教義? それは何の?」

 弥八郎は黙ってうつむくだけ。織田の将の前だからだろうか、一向だとは答えない。

「教義ですか」

 十兵衛はしみじみと酒をすする。

「古来、王朝は仏の教えを取り入れ鎮護国家の礎にして参りましたが、そもそも仏の教えとは加護を求めるものではなく、自らを問い詰め悟りを開くもの。無論、人々が煩悩を捨て、教義に徹すれば世は救われるでしょうが、しかし、その本懐を逸脱したなまくら坊主どもの暴虐も、乱世を招いた一因であります」

「しかし、僭越ながら、明智様」

 弥八郎が反論する。

「本来、まつりごとを司るべき内裏は野盗の成れの果てのような武家に権勢を剥奪され、その武家が欲望のままに争いごとを繰り返した結果がこの乱世ではないでしょうか。乱世をおさめられるのは武家しかいないのかもしれませんが、もっとも弱小な民衆の自治こそがこの世の安寧を獲得できるはず」

「それを口実に民衆を扇動しているのが一向門徒でしょう。拙者は賛同できませんな。民衆を扇動してまつりごとを行おうとする者にろくな輩はおりませぬ」

「しかし、明智様――」

 と、弥八郎と十兵衛は酒の力も借りて、議論を白熱させる。この時代、国家という概念を持った人間はまったくといっていいほどいない。尾張国とか美濃国とか、もっと庶民的になれば何々郷とか何々村とか、そういう単位が人々の概念である。庶民からすれば天皇というのは存在もよくわからない神であって、将軍は神の下にいる盟主みたいなものである。いや、庶民には、なんだかよくわからないミカドやショウグンよりも、自分たちの村の長や、物知りの長老のほうが偉い。

 地侍や土豪もそうだ。摂津守だとか出羽介だとか、農政期には鍬を持っているような男まで官位を自称しているが、実際はそれがなんのことかよくわからず、ただ権威がありそうだから名乗っているだけの輩がほとんどだ。

 諸国に落ち延びた公家の末裔などにちょっとした話を聞いても、へえ、そうなんだ、程度。

 帝や将軍などを意識しているのは、結局、大勢力の長かその重臣たちぐらいで、出来星大名の織田の人間などは、そのほとんどが地侍上がりだ。世の体制を知り始めたのは近頃ようやくである。

 上総介が十兵衛を重宝しているのは、その点だった。無教養のならず者集団が恥を欠かないためには、村井民部のような聡明な政務家が必要だし、松井武井の両奉行のような文人、そして、軍人にも洗練された男がいなければ、いくら華美に振る舞ってもしょせん出来星大名とせせら笑われるだけである。

 そんな、天下を見据えている数少ない男に出会えたからだろう、弥八郎は水を得た魚のように思想をぶつけていくが、牛太郎は二人の論争を馬鹿馬鹿しく思いながら膳の上を平らげていく。

「簗田殿はどうお考えなのです」

 と、十兵衛が急に話を差し向けてきて、牛太郎はきょとんと箸を止めた。

「何がですか」

「泰平のために何が必要なのか」

 別にこれと言ってない。流れ流れるままに、そのうち泰平の世となっていくのであろうという意識でいるから、牛太郎は考えたこともない。

 ただ、十兵衛も弥八郎もじっと牛太郎を見つめてくる。思想信条だけには血気盛んなこの男たちにはそれなりのことを言わないと軽蔑されるだろうと思った。

「まあ、天下を取るには武力で勝ちとれば簡単なんでしょうけど、泰平の世の中を長く続けさせるためには」

 そこまで言って、考え込む。なんだろう、と。

「ためには?」

「うーんと、えーと、法律ですかね」

「法律?」

「いや、これをやったら駄目とか、あれをやったら駄目とか、駄目なことをやったら処罰するとか。もちろん、平等にね」

「法度ということですか」

 弥八郎が言ってきたが、牛太郎は首を傾げる。

「よくわかんないですけど、とりあえず、まあ、悪いことした奴を処罰することですよ。ああ、あと、そうするためには、民衆が皆、読み書きできることかな。学問。そう、学問をさせればいいんです。皆に。承兌もよく言っているし。そう、道徳を皆が勉強すれば、いいことをするのはとても大切なことだって教え込めばいいんですよ」

「道徳とは孔子のことをおっしゃられているのですか」

 十兵衛にぐいぐいと訊ねられて、適当なことを言っていた牛太郎だから、やっぱりやめとけばよかったと思いながら、

「ま、まあ、そういうことです」

 と、腰を上げ、急いで坂本に来たものだから疲れたと言って、その場を逃げた。

「まったく参っちゃうよ、お堅い奴等に付き合うのは」

 梓の小袖を顔に押し当てながら布団の上でごろごろと転がる牛太郎。

「てか、何をやってんの」

 治郎助が机の前に座って筆を取っている。覗いてみると、拙い筆さばきでいろは歌を写していた。

「読み書きぐらいできないとと思って。弥八殿に教えてもらっているんです」

「ふーん。まあ、そうだな」

 牛太郎は少しばかり感心し、また布団に寝転がって小袖の香りにのめりこみながらも、思い立って起き上がり、治郎助から筆を取り上げた。

「じゃあ、手紙でも書いてみろ。助さんが言ったことをおれが書いていってやるから、それを写してみろ」

「えっ。でも、文を出す人なんて俺には」

「あーやに出せばいいじゃんか」

「い、いやっ、そんなっ、だって――」

 治郎助は健やかな瞳を泳がせて、牛太郎の変節に大いに戸惑う。

「元気ですかとかそういうのでいいんだよ。もちろん、変な真似はさせないけどな」

「いや、でも、別にそんな仲じゃ。あ、兄に、兄さんに出します」

「格さんの馬鹿に出したって読めないだろうが」

 そのとき、戸の向こうから、

「迎えのお酒をお持ちしました」

 と、女の声がした。牛太郎は治郎助と顔を合わせて眉をしかめる。十兵衛は牛太郎があまり酒を好まないことを知っているので、わざわざ寝床まで寄越すはずがない。

「いらないから帰ってくれ」

 牛太郎が言ったにも関わらず、戸がするすると開いていく。こんなことが昔にもあった。そのときはさゆりだったけれども。

 牛太郎は桔梗紋の脇差を手繰り寄せると治郎助に渡し、自らは太刀の柄を握った。

 張り詰めた空気を揺らすように戸が開いて、盆を傍らに置いたまま、城女中が頭を下げてくる。

「なんだ」

 牛太郎はすぐにわかって太刀を置いた。

「ふふ。びっくりしました?」

 顔を上げ、首をかたむけながら微笑んできたのは垂れ目の彩だった。



 銚子と盃を乗せた盆を牛太郎の手前へとすべり運ばせながら、

「堺におられると思ったのに。どちらに行かれたのかと思って苦労しました」

 そう言って、大ぶりの銚子の蓋をかぱと開け、中身を見せてきた。牛太郎と治郎助はぎょっとする。金判銀判がぎっしりと詰まっていて、何千石分であろう、安っぽい銚子に雑多に押し込まれ、目が奪われるような怪しい輝きを放っている。

 牛太郎の目はすっかり金銀に染まってしまって、しまりのない頬で訊ねる。

「なんだい? これをおれにくれるのかい?」

「くれるというか」

 彩は蓋を閉めた。

「元から旦那様の物なんですけどね」

 彩は昼前まで堺におり、四郎次郎に両替商をかき集めさせて、蓄財している銭貫のうち五千貫を、持ち運びやすいよう金銀に両替したという。

 牛太郎はなんのことかさっぱりわからない。

「忍びを雇うために」

「ちょ、ちょっと、待て。何を言っているんだい、あーやは。忍びを雇うためって、え? おれは忍びを雇うだなんて一言も言ってないぞ。てか、もうすでに雇っているじゃんか」

「いえ、私みたいな半人前ではなくて」

「えっ?」

 と、声をもらしたのは治郎助である。唖然とし、どことなく青ざめている。

「あ、彩さんは、忍びだったんですか」

「助さんの質問はあとでゆっくり聞いてやる。おい、あーや、一体どういうことなんだ。忍びを雇うってなんなんだ。誰の差し金だ」

 すると、自分で言っておいて、はっとした。彩にこんな真似をさせたのは誰なのか。勝手に隠し財産を両替させ、それを使わせようとしている人間など、この世の中で一人しか思いつかない。

「岐阜の女狐か」

 彩はこくりとうなずいた。何も知らない治郎助が目を回さんばかりになっている。

 彩は沓掛などには行っていなかった。さゆりの文を携えた飛脚が飛んできて、岐阜に呼び出されたらしい。

「あの野郎、大将気取りやがって」

 それはともかく、彩が岐阜の城下でさゆりと落ち合い、書状を渡された。

 伊賀の百地家に持っていけ、と。

 彩は返す足で伊賀の里に向かい、伊賀流上忍家の一つを束ねる百地丹波泰光にさゆりからの書状を渡し、受け取った百地丹波から、五千貫で仕事を請け負うという返事を受けて、堺で両替したという訳だと彩は言った。

 牛太郎は唖然呆然とかぶりを振って、さゆりが勝手に作り上げている物語の壮大さに言葉も出なければ、整理もつかない。

「なんで、さゆりんはその伊賀流のモモチタンバと知り合いなんだよ。キミたちは元甲賀流だろ。敵同士じゃないのかよ」

「いえ。伊賀と甲賀は別に敵とか味方とかではありませんし、それに、書状の差し出し人は姐さんではなくて、旦那様ということになっています」

「あいつ......」

「伊賀流は甲賀流と違って御主人様を持たず、自分たちで話し合って暮らしている忍びなんです。だから、銭貫文さえ払えばどんな将にも豪族にもお味方します」

「だからって五千貫はふっかけられすぎだろ! だいたい、仕事ってなんなんだよ!」

 彩は薄い唇を尖らせて、すねた目つきで不満をあらわにする。

「いやっ。今のは遠くのさゆりんに届けるつもりで大声を出したんであって、あーやを怒鳴ったわけじゃない。うん」

 ばちん、と、急に戸が叩き開けられて、三人はぎょっと腰を浮かせた。弥八郎が足をもつらせながら、なだれのように押し入ってきた。ばたばたと体勢を倒していくも、壁に背中を預けられて、ずるずると腰を下ろしていく。

 顔が赤紫色にゆで上がっていた。目はだいぶ据わっている。

「やなだどのお」

 しまらない声はもう道端に崩れているオヤジと変わらない。両の腕をのれんのように垂らし下げ、捲り上がった袴から毛むくじゃらの太股をあらわにさせて、清貧さはどこかに消えた。

「明智じゅうべえどのは、やはりてんかの将よな」

 何が可笑しいのかは知れないが、小刻みに笑い声を立てている。

「助さん。水を入れてやれ」

「あ。私がやります」

「やなだどのおっ!」

 唐突に吠え上げられて、彩は腰を浮かしたまま立ち止まり、牛太郎は眉をしかめる。

「おなごがおるではないかあっ。これは一体どういうことよっ」

 言ってからすぐにひっくとしゃくり上げた。がくりと頭を重たそうに垂らし、うー、と、唸ったあと、ぐったりと酩酊したまなこを持ち上げてくる。

「てんかのゆくすへを望むおとこが、おなごに溺れるなどごんごどおだんよ」

「いや、弥八殿、こちらの方は――」

 と、治郎助がよいどれの残骸をなだめようとするが、

「相手にすんな。あーや、眠らせとけ」

「はい」

 彩が襟の裏から短い針を取り出した。


 彩、治郎助、それに何も覚えていない弥八郎の四人で伊賀の里を目指す。

 彩が先導する。髪を後頭部に結い上げ、蓑を纏って、草鞋に足袋という姿である。腰には革袋やら瓢箪の水筒やら鉈やらをぶら下げて、見てくれは小柄な青年猟師だが、案内役で雇い上げたと見せるにはちと凛々しすぎるきらいもある。

 尻切り半纏にふんどし一丁の治郎助が栗綱の口輪を取りながら牛太郎の左側を、笠を被って相変わらずの剣術修行者の風体で牛太郎の右側を固める。

 大津で一泊したあと、葦に覆われた琵琶湖の岸と、その向こうの光り輝く湖面を眺めながら南下していき、琵琶湖南端の石山寺までやって来ると、その翌日からは山路だった。

 ささやかな若芽を仰ぎながら曲がりくねった道を登っていき、裏白峠を越えた。

 牛太郎一行が行く鈴鹿山系には小川城という小さな山城があるが、その一帯は土豪でありながら甲賀流上忍家の多羅尾彦一が牛耳っていた。

 主家の六角氏が滅んで以降、多羅尾は他の甲賀流上忍家に比べいち早く上総介の軍門に下ったが、

「私は明日の朝まで山にこもっています」

 と、彩が避けたがっていた。

 伊賀の里へ下りるには、もう日が暮れかかっていて、多羅尾の厄介になる他なく、牛太郎は泣く泣く彩を置いて、夕闇せまる小川城へと押し掛けた。

 無論、番兵たちは板葺きの大手門前で太刀の柄を握り締める。

「京から将がやって来るだなんて聞いてねえぞ」

「お前が簗田左衛門尉様だっていう証明ができんのかっ」

 番兵と言っても、着物一枚に太刀を腰にぶら下げているだけの百姓雑兵三人であった。さゆりや新七郎のような忍びの際どさも感じられない。

「たかだかお前ごときが簗田左衛門尉の証明を見極められんのか」

「俺が見極めるんじゃねえっ。見極めんのは親方だっ」

 牛太郎は腰帯の裏に隠していた銀判を雑兵たちの前にぽいと放り捨てた。

 たった一枚でも、西日を怪しく照り返す銀貨に、雑兵たちはさすがに目の色を変えた。太刀を構えたままに押し黙って牛太郎を見たり、銀判を見たり、彼らは何の判断もつけられない。

「通行料だ。通せ」

「ま、待てっ」

 顔つきだけはすっかりなびいている雑兵たちだが、

「親方に一度許しをもらってからだ」

 と、彼らの中で一番年長者らしき中年が太刀を構えたままそろそろと銀判にすり寄り、牛太郎一行を見つめたままゆっくりと屈みこむ。指先で銀判を一度ちょんちょんと叩いたあと、危険物でも扱うかのように銀判を拾い上げた。

「お前ら、こいつらを通すなよ。親方に掛け合ってくるからよ」

 中年が通用口から館の中へ入っていく。

「簗田殿」

 弥八郎が耳元に顔を寄せてきた。

「あまり無駄遣いは」

「いいのいいの。宿賃だと思えば」

 それに、どうせなら、甲賀流と伊賀流を天秤にかけてやろうかと牛太郎は考え始めていた。甲賀流は元六角配下、伊賀流は忠義なき傭兵集団、共通点はどちらも日陰者。

 さゆりを暗躍させ、新七郎を配下にしているくせに、牛太郎は得体の知れない忍び者をどこかおもしろく感じていなかった。それは多分に、さゆりや新七郎が闇の内に大活躍した裏返しであろう。あの二人を逆の視線から見れば、何を考えているのかわからないところがあるし、冷酷非道、暗殺程度はお手の物で、摂津高槻の事件などでは罪のない少女を利用するだけ利用して男を誘惑させ、挙げ句に殺してしまったのだ。

 忍びは利用する価値が十分にある。しかし、それしかない。

 牛太郎は配下としてのさゆりや新七郎は愛しているが、忍びの彼らは(さゆりにさんざんこき使われた不快感もあって)大嫌いだった。彩にくのいちの真似事をさせたくないのもそのためだ。

 五千貫なんていう大枚を要求してきていることも腹立つし。普通の武将だったら払えるはずないじゃんか。なめてんのか。

 もちろん、それは伊賀流の百地丹波であって、甲賀流の多羅尾はまったく関係ないのだけれども、牛太郎は例の一辺倒な感情思考でもって、忍びを流派云々関係なくひとくくりに忍びだとしてしまっている。

 邪魔な連中だ。本当はさゆり以外の忍びなんかは頼りにしたくない。

 ほどなく、中年の雑兵が戻ってきた。目通りの許可が下りたという。

 ほら、見たことか。牛太郎は鼻で笑いながら門をくぐった。



 多羅尾彦一は老人である。体がしおれたように細く、丸めた頭のところどころに茶色いしみが出来ていた。燭台の火に照らされながら御座の上で背中を丸めており、一人きり招かれた牛太郎をじろりと見上げてきたさまは、さながら瓢箪ナマズの化け物のようであった。

「岐阜の簗田左衛門尉でございます。急な来訪申し訳ございません」

 平伏して丁寧に頭を下げると、瓢箪ナマズは薄ら汚れた眼差しで見つめてくるままに、

「存じております」

 と、老婆のようなしわがれた声だった。

 これが甲賀流上忍五十三家の筆頭格の惣領だとは嘘のようだった。そもそも、彼自体が忍びに思えないし、小川城内の男たちのほとんどが百姓風体である。

 ただ、この多羅尾老人、怪しさだけは並々ならない。信貴山の乱世の梟雄とはまた一味違った不気味さで、篠木於松を知的にさせたような感じだった。

「左衛門尉殿とあろう御方が、わずかな従者だけでこの山奥を歩かれているとはいかなることかな」

 虚言をついても仕方ないと思った。どうせ、忍びの連中のことだから背後を付けてくるに違いない。

「伊賀の里に向かいたいと思いまして」

 瓢箪ナマズは顔色変えずに牛太郎を見つめてくる。

「ほう。伊賀に。それはなにゆえ」

「伊賀の忍びを雇うつもりです」

「なにゆえ」

「武田家とのいくさのためです」

 すると、老人は黙った。くすんだ瞳で牛太郎をただただ見つめてくる。牛太郎はあえて目を合わせずに、視線の先を床の一点に静かに据え置く。

 風がどこからか漏れてきて、燭台の火を大きく揺らす。

「聞かなかったことにしましょう」

 意外な言葉におやと思って、牛太郎は視線を上げる。

「なにより、我ら甲賀流は簗田殿に深く関わりたくありませぬ」

「どうしてです」

 もしかして、さゆりや新七郎たちに関連しているのかと思って、牛太郎は内心はらはらとした。

「お忘れでしょうか、上総介様の観音寺攻めの折を」

「忘れるも何も、多羅尾殿に恨まれるような真似はしていませんよ」

「いえ、上総介様に同じく仕える身ゆえ、恨みなどはありませんが」

 老人の目が鈍く光った。

「六角をたばかったのは簗田殿のその舌ではありませんか」

 牛太郎はようやく気付いた。多羅尾老人はどうやら、織田軍の六角攻めのさい、織田の出方を探ろうとして牛太郎に近づいてきたさゆりに、逆に虚言を吹きこんだことを言っている。

 誤情報を鵜呑みにした六角勢は、織田軍の竹中半兵衛の鬼謀も働いたことにより、たった一日で駆逐されてしまうというさんざんな結果だった。

「そんなこともありましたっけねえ」

 牛太郎はにやにやと笑う。

「そういや、あのくのいちはどうしているんでしょう。もしかして、多羅尾殿の手下だったんですか。いやあ、いい女だったから、どうせなら会わせてくださいよ」

 多羅尾は表情こそほとんど変えなかったが、眉根だけに力を寄せて、むっとしているようだった。

「左衛門尉殿がおっしゃられている女は当家の者ではありませんでしたが、なかなか優秀な者で拙者も目をかけておりました。しかし、拙者も含む惣領たちに失態を責められ、女は八つ裂きに処されました」

「そりゃ残念だ」

 牛太郎はへらへらとしていた。


 翌日、牛太郎一行は小川城を立った。

 しばらく歩くと猟師姿の彩が後方からひっそりと現れた。

「ごめんね、あーや。野宿なんかさせちゃって」

 しかし、栗綱に並んで歩く彩は、視線を前方に据えたまま、唇に人差し指をすうっと当てる。

 目つきが真剣を帯びている。団子茶屋の看板娘の面影はまるでない。

 春の光が砕け散る林道、妙な静けさに包まれていて、鳥の声もない。かっぽらかっぽらと栗綱の足音だけが果てない山に吸い込まれていく。

「振り返らないでください。付けられています」

「えっ」

 と、牛太郎は思わず振り返ろうとしたが、

「旦那様っ」

 小さな声でたしなめられて、びくっと背筋をこわばらせる。

「ま、まことか、彩殿」

 弥八郎が視線だけを横に動かして、背後の彩に訊ねた。

「中忍が一人、下忍が三人います。姿を見てしまったら最後、仕留められてしまいますので、このまま伊賀の里までやり過ごしてください」

「あ、あーやは大丈夫なのかよ」

「私は、兄さんが抜けるときに筋目を通したので大丈夫です」

 とはいっても、生きた心地がしなかった。山は不気味なほどの静寂のうちに浸っているのに、何の物音も背後から聞こえてこない。ただし、見られている、という寒々しさはある。

 尾行してくる目的はなんなのか。

 四人は終始無言のまま山を下りていく。鬱蒼と生い茂る木々の中をうねうねと曲がりくねっていく細道で、いくら進めど視界は開けない。山の上から里を見下ろせてもいいものなのに、ひたすら山だった。

 人とすれ違うこともない。ただただ、背後を付けられている。

「旦那様は」

 治郎助が言う。

「こんなことばっかりなんでしょうか」

 牛太郎は緊張しっぱなしのため、喉が渇ききっていた。そうでもない、と答えようとしたけれど、なかなか声が出なくて、

「うん」

 としか言えなかった。

 坂はなだらかになった。

「あと少しの辛抱です」

 そんなこと言ったくせに、彩は腰に引っかけている鉈に手をかけた。それを視界にしてしまった牛太郎は顔を引きつらせる。

「おい、あーや」

「山を抜ければ伊賀の縄張りですが、もしかしたら――」

 伊賀に入る前に襲ってくるかもしれないということらしい。

「勘弁してくれよお」

「念のためです。大丈夫です。でも、もし襲われたら、旦那様は栗綱と共に伊賀へと駆け抜けてください」

 しかし、杞憂に終わった。洞穴を抜け出たようにして視界は一挙に開け、山々と田畑に囲まれる里の集落が目前にあり、それを光景にした途端、彩が大きな吐息とともにへたへたとその場に膝をついて崩れた。

「助かったあ」

「ま、まことか」

 弥八郎も治郎助も立ち止まり、栗綱ももっさりと足を止める。

「はい。もういなくなりました」

 牛太郎はほっと胸を撫で下ろした。すると、安堵したら尿意をもよおした。栗綱から下りると、そそくさと道端にはずれ、股引を下ろして半纏をたくしあげた。

 張り詰めた息を抜きながら、じょろじょろと用を足す。

 木陰に何かがいる。牛太郎の目玉が震えた。一物を支えている指先も震えた。草葉の中に二つの目がある。目が合った。しかし、小便が止まらない。

「あ、あーやっ!」

 温かいものを自らの足にこぼしながら騒ぎ立てると、彩が即座に吹き矢を飛ばした。駆け寄ってきた治郎助が牛太郎の盾になって両の腕を広げる。さらには弥八郎がなまくら刀を抜いて身構える。

 目はいなくなった。

 小便を終えた牛太郎だったが、恐怖のあまり歯をがちがちと鳴らし、一物をあらわにしたまま動けない。あんな目は生まれてこのかた見たことない。不気味で、獣じみていて、殺意に充ち満ちていて、しかし、もてあそばれているようでもあった。

「旦那様、大丈夫ですか」

 治郎助に顔を確かめられて、牛太郎はなんとか正気に返った。あわてて股引を履き上げ、治郎助が鉢巻きにしている手拭いを奪い取ると、小水にぬめった足を拭いた。

 泣きそうな顔で治郎助が立ちつくす。

「簗田殿」

 太刀を鞘におさめた弥八郎が言う。

「何が目的かはわかりませぬが、連中に後を付けられてはうまくありますまい。甲賀がひそかに武田に通じてしまえば、簗田殿のすることがすべて筒抜けになってしまいますぞ」

 牛太郎は手拭いを治郎助に押し返すと、溜め息をもらしたあとに舌打ちした。

「くそったれめ」

 とにかく、甲賀流は牛太郎を恨んでいる。ただし、殺そうともしない。なぶるように牛太郎を追い詰めてきている。

 彩が瓢箪を差し出してきた。中には水が入っている。牛太郎は栓を抜くと、瓢箪をひっくり返してむさぼった。

「旦那様、このさい、別口で伊賀の忍びを護衛に雇ってください。私だけじゃ旦那様をお守りできませんし、伊賀流の忍びはすごく強いみたいですから」

 牛太郎は瓢箪を弥八郎に手渡すと、口許を手の甲で拭いながら彩を睨めつける。

「簡単に言うけどさ、幾らぐらい払わされるのよ」

「おそらく百貫は当然かと」

「なんなんだよ、もうっ」

 泣きたくなった。もうそれこそ読んで字のごとくに地団駄を踏み、気も狂いかけてしまって、わあっ、と涙目で叫んだ。

「さゆりんが来ればいいんだよっ! さゆりんがっ! あいつが仕組んだことなんだろっ! おれはこんなところに来るつもりなんてさらさらなかったんだからっ! もう、嫌っ!」

 しまいには頭を抱え込んでその場に座り込んでしまう。

「おれはもう動かないっ! ここから動かないっ! さゆりんが来るまで動かないっ!」

「簗田殿っ。しっかりなされいっ」

 弥八郎が牛太郎の両肩を掴んで、その体を揺らすが、牛太郎は嫌だ嫌だと駄々をこねるばかり。何が嫌なのかといえば、忍びに殺されそうだということと、財産を次々に喰われていってしまうこと。

 小川城からここまで終始緊張が貫いていたのも手伝って、彩と治郎助が互いに顔を合わせてしまうほどの情けなさだった。


 駄々をこねていても伊賀の里には来てしまったので、牛太郎は嫌々ながら百地家の惣領にして伊賀軍団の筆頭である百地丹波の屋敷へと向かった。

 何がなんでも五千貫は払わない。集落の中を向かう道すがら、牛太郎は心に決めていた。血と涙の結晶をむしり取られてたまるか。

 伊賀の里は山々に囲まれた狭い盆地で、何をしているのだか、山の麓のあちこちから細長い煙が筋となって天に立ち昇っている。集落の家々のほとんどが茅葺き屋根で、貧しさは感じられなかった。軒先には物珍しそうに一行を眺めてくる老人やら女やらが出てきていて、どこからともなく子供たちが大勢集まってきた。木の枝を振り回しながら賑やかに栗綱のあとをくっついてくる。

「やっぱ武者はいいなあ! こんぐらいの目方だと百貫文ぐらいだろうな!」

「百貫じゃきかねえよお。この仔、ぴっかぴかじゃんか。まあ、黄金十枚、五百貫はくだらねえよ!」

 頬を赤くして鼻水を垂らしながらのくせに、言うことは銭勘定だった。ぞろぞろと付いてくる子供たちになんだか心も和んで、牛太郎は栗綱を止めると、

「お前ら、そんなにおれたちが珍しいか」

 と、話しかけたが、子供たちはさっと目を逸らして、何も聞こえないふり。口笛を吹いたり、じゃれ合いを始めたり、牛太郎を見ていない。

 首を傾げながら栗綱を再び進ませると、子供たちは列になって付いてくる。

「おい」

 牛太郎はまた振り向いた。子供たちは立ち止まって、また目を逸らした。今日はいい天気だなあ、などと白々しい独り言までついている。

 軒先の女たちにも目を向けてみると、彼女たちはそれまで雀のようにぴいちく喋っていたのに、途端にさっと目を背けて口を閉ざしてしまう。

 山々に囲まれているだけあって保守的すぎるのだろうか。とはいえ他所者に悪口を叩いているわけでもなく、陽気な人々には違いないのだが、どうも様子がおかしい。

 それに、大人の男の姿がない。田畑に働きに行っているとしても、いなさすぎた。

 百地丹波の屋敷は集落のど真ん中にあった。板塀が四方を囲むだけで、門もただの木枠だった。伊賀流の惣領のわりに、物々しさがまったくなく、まるで豪族とも呼べない庄屋風情の屋敷である。

 ただ、煙がもっとも多く立ち昇っている辺り、山のふもとから中腹にかけて城郭めいた造成がされていて、緊急時にはあそこに立てこもるというわけなのかもしれない。

 門前には見張りの者も誰もいない。ただ、冗談なのか本気なのか、

 やな田サマいっこう、かんげいいたす

 という汚い字の張り紙がされてあった。牛太郎は栗綱から下馬し、うがった思いで張り紙をしばらく眺めた。

「旦那様、さあ入りましょう」

 簗田も書けない奴と交渉するなんて。すっかり教養人気取りの牛太郎は、治郎助と弥八郎にここで待ってくれるよう伝えると、荒んだ心持ちで彩と共に門をくぐった。

 何の変哲もない屋敷であるが、庭先は殺風景であった。草木の一つもない。ただただ板塀に括られている。

 玄関先まで来ると、彩が声を張り上げて来訪を告げた。

 薄暗く、しんとしている。しばらくすると、のそりのそりと男が現れた。ひどいガニ股歩きで、羽織は腕を通さず肩にかけているだけ、帯を締めず、代わりにサラシを巻いている。眉間に余計な皺を押し寄せて、眼力を来客にのしのしと飛ばしてきながら、

「おうおう、甲賀の嬢ちゃんじゃねえかァ。隣の御仁が簗田左衛門尉さんかァ?」

 と、声にドスを響かせ、どう見ても渡世人であった。

「はい。丹波様の条件も引き受けましたので」

「そうかそうか。さ、どぞ、左衛門尉様、粗末な屋敷ではありますが、お上がりくだせえ」

 男は中腰に屈みこみ、上がりかまちに腕を伸ばして促してくる。牛太郎はためらう。彩は訪ねる場所を間違えているのではないかと。

「ささ、遠慮なさらず」

 どう見ても忍びじゃない。牛太郎は、細見ながらも陽に焼けて逞しい渡世人を見つめる。なにしろ、サラシにはドスのような短刀を挟んでいる。

「旦那様」

「い、いや、こちらの方は、その、用心棒さんかな?」

「旦那様っ。違いますってっ。こちらの方が百地丹波様ですよっ。あんまり失礼なことを言わないでくださいっ」

 彩があわてふためく中、百地丹波だという渡世人は笑いながら、

「いやいや、お嬢ちゃん、主人自らが玄関まで迎えに出てくるなんざ、お武家様では考えられねえことよ。もっとも、簗田さん、ここには嫁も下人も使いッパもいねえんですわ。手下どもは山の砦に詰めていますんでね」

 いくらなんでもこれはないだろう。伊賀流と言えば、甲賀流と双壁をなす忍者集団じゃないのか。甲賀流の多羅尾はまあ、憎い老人だがそれなりの怪しさ、危うさを漂わせていた。一方で伊賀流の頭らしき百地丹波とやらは、ただのやくざ者じゃないか。

 交渉はなしだ。とはいえ、渡世人に対してにべもなく断るわけにもいかず、牛太郎はひとまず屋敷内に上がり、促されるがままに広間の席についた。

 はてと首を傾げた。座った御座の前には湯呑みが置いてある。向かい合う百地丹波の手前にも。

 煎茶である。湯気が立っていて、明らかに注いだばかりであった。百地丹波は牛太郎と彩を広間に案内してきただけで、茶を注いでいる素振りも暇もなかったはずだ。

「どうぞ、粗末なもんですが」

 丹波に促され、牛太郎は湯呑みを手に取った。

「これは――」

 湯呑みの質感に唸った。碗には若干のへこみと膨らみがあり、よく見てみると縁も無造作に歪んでいる。ろくろを使用せずに手とへらだけで成形された手づくねの茶碗だった。

 丹波は牛太郎の注目に気付いたようで、

「さすが簗田さんですわ」

 と、肘を自らのあぐらの上に乗せて、背格好を崩しながら茶をすする。

「ただ、恥ずかしながらあっしにはその価値がよくわかりませんでね。あるとき、泥棒が得意な手下の一人が、仕事の土産にって持ってきたんですわ。結構な値の代物だと手下は言っておりましたんで、客人に出しているんですが、まあ、それに気付かれたのは簗田さんが初めてですな」

 牛太郎はしみじみと茶をすする。おそらくこの茶碗は田中宗易が扱っていたもので、どこかの富豪が買いつけたものだ。

「まあ、あっしには飲みづらくて仕方ねえ代物ですがね」

 と、丹波には何でもないことらしい。

「煎茶も取り寄せているんですか」

「ええ。うまいんでね」

 こんな山の中でよっぽどのことだ。

「そんなことより、簗田さん。例の件ですが」

 丹波が身を乗り出しながらじろりと覗いてくると、傍らに控えていた彩が両手で抱えられるほどの革袋を丹波の前に差し出した。

「五千貫分、金銀に替えてあります」

「ちょ、ちょっと待った」

 牛太郎があわてて割って入る。

「丹波さん、見ての通り五千貫は用意しましたよ。しましたけど、あなたたちに何ができるのか教えてくれませんか。なにしろ、相手は天下の武田ですよ。何もできませんでしたじゃ済まされないし、五千貫分の仕事はしてくれなくちゃ困るんですからね」

「内容によりますわ」

 丹波の言葉に牛太郎は眉をしかめる。

「内容によるから五千貫じゃないんですか」

 丹波はふっと笑った。

「簗田さん、天下の武田を相手にしようなんざ、そんなこたァお武家様のやることでね、日陰モンが出しゃばっちゃあいけないんですよ。天下の善し悪しってのはァ、あっしらみてえなコソ泥がやんじゃない。お武家様同士、正々堂々とやりゃあいいんですよ」

「で、でも、五千貫用意すれば引き受けるって丹波様は――」

「まあまあ、嬢ちゃん、話は最後まで聞きな」

 丹波は眉間を皺で固めたまましみじみと茶をすする。湯呑みを置くと、浅黒い顔に笑みを浮かべて牛太郎を見つめてくる。

「あっしら伊賀流はね、雇い主の言うことはなんでも聞きますよ。でも、そういう節操のねえ集団だからこそ貫かなくちゃなんねえものがありまして。いくら節操がなかろうと、天下にはぜってえに迷惑をかけるようなことをしちゃならねえってね。じゃねえと、野盗と同じになっちまう」

 だから、五千貫という無茶な要求をしたのだと丹波は言った。そして、無茶な要求を用意されてしまっては男がすたる。引き受けなければならないとも。

「てことは、安くしてくれるんスか?」

 と、牛太郎は急に気力を取り戻して身を乗り出した。ころりと掌を返すように忍びに対して前向きになり、高いか安いかという区別だけで丹波に好感触を持ち始めた。

 牛太郎の調子が良すぎたためであろう、丹波は笑い上げた。

「まあ、それこそ内容によりますわな。戦場に何百もの連中を連れ出すんじゃあ、やっぱり五千貫はいただきますわ」

「いや、そんなんじゃなくていい。例えば武田のくのいち相手に流言を放って本国の甲斐まで広めるようなそんな仕事で」

「だったら、二千貫、と言いたいところですが、まあ、あっしも武田の忍びのやり方にはおもしろく思ってなかったところ。千五百貫で手を打ちましょうかな」

「ほほう」

 牛太郎はほくそ笑んだ。千五百ぐらいなら、軍資金として調達したいと上総介に言っても、怒鳴られずに済むかもしれない。


 伊賀流に頼むべきことはなんなのか、牛太郎は弥八郎を呼び、彼に詳しく話させた。

 二つある。武田軍に高天神城を攻めさせること、長篠城を攻めさせること。

「高天神城城主小笠原与八郎に翻意があるという風説を武田徳川両方の耳に入るようしてくれればよろしいのです」

 あとは長篠城。ただし、これは織田徳川の軍事行動が万端ではないため、ひとまずは保留することとなった。

「人数が必要ですが、たいして時間もかからねえでしょう」

 流言を広めることぐらい新七郎やさゆりの二人だけでもできたことだから、これしきのことでという思いも牛太郎にはあったが、まあ、相手は武田であるし、工作範囲も東海三国から尾張美濃、甲斐信濃と広大であるから、その道のことはその道の連中にやらせたほうが確実だろう。

 とはいえ、百地丹波がその道の連中の頭目なのどうか、牛太郎はあまり納得していない。

 なので、訊ねた。

「手下ってのは何人いるんですか」

「簗田さん。申し訳ありませんが、そればっかりは教えられないんですわ」

 忍びはありとあらゆることを門外不出としなければならない。格闘術はもちろんのこと、組織構成から一人一人の姿形まで。

 屋敷に惣領の百地丹波しかいないのもそのためで、集落の女子供たちが余所者との接触を避けているのも、彼らに余計なことを喋らせないためだという。

 言いたいことはわかる。納得できなくもない。ただ、伊賀流、伊賀流と口にしても、牛太郎は伊賀流の集団そのものを目にしていない。確認できたものは渡世人だけである。

 忍びなんて本当にこの世の中にいるんだろうか。まあ、さゆりが腕や首を絞めてきたときの強さときたら尋常ではなかったから、忍びというものは確かにいるのだろうけれど。

「丹波さん。代金はいくさが終わってからにしてくれないッスかね」

「旦那様っ!」

 彩が本気で怒っていた。畏怖の念を抱いている彼女を見る限り、百地丹波は相当な男らしいが、牛太郎は騙されて来た経験も結構あるし、自らも人を何度も騙してきているので、根本的に自分の耳目にしたものしか信用しない。

「あいにく、そういったのはやってねえんですわ」

 まあいい。立て替えた分は長谷川藤五郎か堀久太郎に言って、織田家の台所から引き出させればいいのだ。騙されたら騙されたで怒り狂うのは上総介なのだから、忍びを叩き潰すいいきっかけにもなるし。

「そういう決まりなら仕方ないッスね」

 開き直ると変わり身も早く、けろりと金銀を差し出した。

「丹波様。あと、一つお願いがあるのですが」

 彩が例の甲賀流に付け狙われている件を話し、護衛の忍びを借り受けたいと言った。

「三百貫で下忍を一年間貸し出しますわ」

 一人で三百貫など自らの俸禄よりも高いのだから、目玉を飛び出さんばかりの牛太郎であったが、丹波は四、五人相手なら一人で十分だと軽い素振りであった。

「姿形は見せませんが、どこからともなくぴったりと付いてきますんで、ご安心くだせえ」

「旦那様、命には代えられませんよ」

 牛太郎がケチであることを彩はよく知っている。主人をじっと睨み据え、泣きたそうな顔の牛太郎に迫る。

「わかったよ。しょうがない」

 そうして、彩が革袋の中から三百貫分の金銀を差し出し、こればかりは織田家に請求できないなと牛太郎は暗澹たる思いだった。

「しかし、なにゆえ多羅尾殿は簗田殿のあとを付けさせておるのか」

 弥八郎がふいに一人言のように言った。

「もしかして、簗田さん」

 丹波が牛太郎の目を覗き込んでくる。

「多羅尾に武田攻めのことを話しましたかねえ」

 牛太郎が頷くと、それが原因だと丹波は言った。

 丹波は語る。武田は信濃侵攻の折に望月氏という豪族を配下にしたが、この望月氏は甲賀流上忍家の望月家と祖を同じくしており、その縁から甲賀流望月家は本家の娘である千代というくのいちを信濃望月氏に嫁がせた。

 これは甲賀流が、いずれは武田徳栄軒が畿内に攻め込んでくると予測したからであろうと丹波は言った。

 そしてこの望月千代こそが頭となって育てた女たちが武田のくのいち集団らしい。

「多羅尾は織田様に媚びへつらっておきながら、他所ではしっかりと甲賀流をやっているってことですわ」

「ということは」

 弥八郎が影の帯びた表情で言う。

「一連の包囲網に甲賀流も絡んでいたことになりますな」

「ですな」

 何をやっていたか、そこまではさすがに丹波もわからないとしたが、西上作戦に連動した各地の事件のほとんどは甲賀流の仕業であろう。

「ただ、あっしはね、拾ってきた女の子に体を売らせて諜報をさせるなんてやり方はね、大嫌いなんですわ。いくら乱世の世で人がばたばた死んでいくたってね、やっていいことと悪いことの境目が見えなくなったら、そんな連中は日陰者にもなれねえただの犬畜生ですわ」

 牛太郎にはちょっと胸の痛い言葉である。なにせ、隣に座っている彩に同じようなことをさせてしまったし、摂津工作では悪事をさんざん働かせた。

 いや、違う。百地丹波は口だけ野郎だ。綺麗事だけで済んだら、こいつらだって存在していないじゃないか。


 伊賀の里をあとにし、牛太郎は再び堺に向かった。

 再び山路に入り、彩が甲賀忍びの気配を再び感じ取ったらしいが、そう思ったのも束の間すぐに消えたらしい。

「一瞬、空気が乱れた様子でしたけど」

 護衛についている伊賀忍びが始末したのか訊ねると、彩は、多分、と曖昧ながら頷いた。

「ただ、わかりません。甲賀流らしき忍びが現れたのは察知できたんですけど、伊賀流の忍びが里からずっと付いてきているようには感じられないんです」

 それほどの達人ということなのだろうか。不気味にも思えるが、反面、これで憎き甲賀流に狙われなくて済むとせいせいしながら牛太郎は山を進んだ。

 堺に戻ってくると、

「そろそろ上総介殿に報告すべきでしょう」

 弥八郎に言われた。

「助さん。賀茂の祭りっていつごろやるって言っていたっけ」

「五月五日です」

「じゃ、それまで堺でのんびりしていましょ」

 本当にのんびりとした。彩を伴って香木を探しに出かけたり、船着き場に行って四郎次郎の尻を叩いたり、それと梓の機嫌を伺って、買ってきた香炉を岐阜に送り出したりした。

 一週間ぐらい自堕落な生活を送ったのち、牛太郎は再び治郎助、弥八郎を引き連れて京に出向いた。

 上総介は相国寺にいる。いつものようにずかずかと寺に押しかけると怪しまれると思い、牛太郎は織田兵卒に聞き回って前田又左衛門の所在を探し当て、いちいち又左衛門を経由して上総介に面通しを願った。

「そんなことより、お前、どこをほっつき歩いていたんだ」

 そそり立つ相国寺の南門をくぐったところで又左衛門にそう言われ、牛太郎はぎくっとしてしまう。おそらく、葵祭の競馬のことだろう。

「また行方をくらましたと、太郎がかんかんになっているぞ」

 上総介に呼び出された太郎は、競馬のためにわざわざ岐阜から来ているらしい。

「マ、マタザさん。あっしが京に来ていることは、太郎には内緒で」

「お前って奴はいつまで経っても」

 又左衛門に呆れられた牛太郎は、胸の内で舌を打つ。マタザの馬鹿が。何もわかっちゃいねえ。いつまで経っても馬鹿なのはお前のほうだろ。こっちは忍びに追いかけ回されていたっていうのに。

 などなど、むっつりとはするものの、又左衛門は昔馴染みの情からか、ときに上総介の怒りの矛を収めてくれる。そういう理由もあって又左衛門と同伴だった。

 織田の奉行衆や下人が行き交う境内を進んでいき、織田木瓜紋の陣幕をめくって、本堂の大広間へと足を運ぶ。

 しばらくすると、上総介が小姓を伴ってやって来た。牛太郎と又左衛門はすかさず平伏する。足音からして、機嫌は悪くない。

 どかっと腰を下ろすと、開口一番、

「おおかた、祭りが終わったのを見計らってのこのこと出てきたんだろうが、この野郎」

 見透かされていたようだった。ただ、言葉ほど語調は荒くない。

「ふざけやがって」

「あ、あっしなんかが出ても、どうせ信長様に恥を欠かせるだけだと思い」

「誰がテメーなんか出すかっ! 俺はテメーの馬を寄越せと申していたんだっ! のぼせやがって、このうつけがっ!」

「す、すいませんっ!」

 と、やはり怒っていたのであわてて額をこすりつける牛太郎。

「まあ、武田の攻略に奮闘していたらしいから、それを建て前に勘弁してやる。して、用件はなんだ」

「えーと、そのお、申し訳ありませんが、又左さん以外はお人払いしてもらっても、いいですか」

 上総介は黙った。しばらく頭を下げ続ける牛太郎を無言で見つめたあと、

「部屋を替える。茶室を開けろ」

 腰を上げた。



 茶の時間を上総介と同じくするのは牛太郎には初めてのことである。

 五畳半の狭い茶室に大の男が四人。牛太郎と又左衛門の向かいに上総介、それらを両脇にして茶頭の田中宗易が茶をたてる。

 茶席に主従の上下は持ち込まないとはいえ、牛太郎はなかなか緊張した。初めて茶を振る舞われる田舎武者のように両肩をこわばらせている。

 そもそも、どうして急に一席設けたのか牛太郎は疑問だったが、静けさのうちに宗易の仕事を眺めているうち、なんとなくわかった。茶室は本堂の別棟にあり、境内からも外れている。牛太郎が人払いを求めた理由がなんであるのか上総介はすぐに察知したのだろう。茶頭をわざわざ呼び出して、あたかも牛太郎家臣たちに茶を振る舞っている。

 岐阜城ならまだしも、ここは寺であり、何が紛れ込んでいるかわからない。

「お前が言わんとしていることはだいたいわかる」

 上総介がふいにそう言った。そろりと目を向けてみると、腕を組み、両目を瞑ってじっとうつむいている。瞑想をしているようにも見え、短気な上総介にしては意外な静けさだ。

「キンカ頭がお前の案だと言って、戦図を持ってきたからな」

「案?」

 と、何も知らない又左衛門に上総介が片目だけを開けて一言。

「武田だ」

 菱の覇者。

 又左の目が固まった。

「武田、ですか......」

 隣の牛太郎に視線をちらりと向けてくる。牛太郎は口許を引き結び、一つ、こくりとうなずく。

「本気なのか、牛」

 宗易でさえ手を止めている。上総介も腕を組んだまま目を瞑りっぱなしであり、張り詰めたひとときの埒は牛太郎の言葉にゆだねられていた。

「本気ですけど」

 唇を尖らせてふてぶてしく言った。今でもどことなく清洲の野良牛扱いしてくる又左がおもしろくなかった。

「実は、信長様」

 そんな又左に見せつけてやるかのように牛太郎はいちいち丁寧に両の手を突いて、瞑想中の上総介に頭を下げながら言う。

「明智殿からすでに聞いているやもしれませぬが、武田が遠江高天神城に攻め入ったさいには、援軍を出しても出した振りだけにしてくだされ」

 と、そんな言葉遣いなどしたことないくせにわざわざかしこまって緊迫感をあおった。

「攻めるのか?」

「攻めます」

 言い切ったあとに牛太郎は固唾を飲み込んだ。武田が高天神城を攻めるか攻めないか、百地丹波を信じるか信じないか、もはや腹をくくるしかない。

「どうぞ」

 と、急に宗易の手から茶が差し出されてきた。息の入れ具合ときたら絶妙だった。一気に肩から力が下り、上総介も薄っすらと目を開け、口端だけでただ笑う。血なまぐさい男たちのこの時間が、すっかり茶の湯に引き戻される。

 上総介はそっと茶碗を掌にし、ゆっくりと回す。魔王のことだから片手でがさつな飲み方だと思いきやそれだから、牛太郎は半ば面食らいながらも、上総介の洗練された仕草に注視した。

 一言で言えば無駄がなかった。懐紙で茶碗の縁を拭うまで、静けさに落ち着いていた。

 茶碗は上総介から又左衛門へと回されていく。やり取りについていけていない又左衛門は上総介からの茶碗は恐縮しながら受け取ったが、牛太郎へ回すときはぶっきらぼうだった。いや、すねていた。

 茶碗の中を飲み干す牛太郎。

「結構なお手前でした」

 宗易が目礼で答え、茶碗を引き下げる。

 フン、と、上総介が笑った。

「又左」

 目覚めたような声の張りで、少年のような輝きを瞳に放っている。

「内蔵助とともに鉄砲奉行になれ。二千丁の行方はお前らが決めろ」

「て、鉄砲奉行ですか?」

 驚く又左の脇で、牛太郎は憮然とする。策定した設楽ヶ原の決戦において鉄砲隊はおそらく一番の花形部隊となるであろう。しかし、その戦場の主役が又左と内蔵助だなんて。

 どうして太郎じゃないんだ。

「こましゃくれは権六と後詰だ」

 上総介の睨みに牛太郎は胸中を悟られたと思って身を跳ね上げそうだった。

 いや、急に牛太郎がふてくされたので、上総介にはだいたいが読めたのだろうが、牛太郎はあわて通しで視線をおろおろとさせた。

「又左。鉄砲隊の詳細は牛に聞け」

 そう言って上総介が立ち上がろうとした。

「いやっ、信長様」

「なんだ。まだ、なんかあんのか」

「あ、あ、あ、あの、実は援軍のこともそうなんですが。その、織田の重臣が武田に内通するという偽装工作を、し、してほしいんです」

「なにい?」

「い、いや、ね、念には念を。多分、喜んで攻めてくると思いますし」

「確かにそうだ」

 と、上総介は腰を下ろしなおした。

「して、どいつを武田に内通させんだ」

「それは、えーと、そのお、んーと――」

 柴田権六郎となかなか口に出来ずに言い淀んでいると、上総介が急遽押し付けてきた。

「佐久間だ」

「えっ?」

「あいつがもっとも寝返りやすい。首尾よくやっておけ」

 牛太郎は腰を上げた上総介を止めようとしたが、あまりにてきぱきとやられてしまったので、なんとも翻しづらいままもじもじしているうち、上総介は去っていってしまった。

 瞑想の時間はなんだったのだろう。いっときの暇も惜しんでいるかのような忙しさである。

 牛太郎は溜め息をついた。権六郎ならともかく、佐久間右衛門尉に話を持ちこむだなんて、まったく頭が痛い。

 でも、右衛門尉だとは言ってなかった。玄蕃允に聞き間違えたことにしてしまおうか。

「牛」

 又左がどこか怒っている。

「なんなんだ、鉄砲奉行とは。いや、なんなんだ、これは一体。お前は今まで何をしていたんだ」

 詰め寄られて、顔をしかめる。面倒だったし、あまり明かしたくはなかった。けれども、上総介の折檻からの防御のために又左を連れてきてしまったのは牛太郎自身だし、上総介が又左を鉄砲部隊の頭にしてしまった以上、仕方ない。

 宗易がひっそりと茶碗の手入れをしている横で、牛太郎は用意していた設楽ヶ原の図を又左に見せた。

「弱い織田軍が武田に勝つにはこの場所で鉄砲をぶっ放すしかないんスよ」

「しかし、武田の陣形がこうとは限るまい」

「いや、竹中半兵衛がこうなるって言いきっていましたし、明智十兵衛殿のお墨付きでもあるんスよ」

「そうか。なら、大丈夫だな」

 むっとした牛太郎に、又左は大笑いする。

「いや、冗談だ。お前を信用していないわけじゃない」

 絶対嘘だ。半兵衛と十兵衛の名を出したから、冗談でごまかそうとしているんだ。

「それにしても、なるほど、火縄銃で武田騎馬を殲滅していくのか」

「そう簡単にはいきませんからね」

 馬鹿の一つ覚えで一斉射撃しても、火縄銃は弾込めに時間を要するから、そうした無駄をなくすために三段撃ちが必要だと牛太郎は説く。三段撃ちは一朝一夕で得られるものではないから兵卒の訓練も必須であるし、弾丸に足踏みした隙を狙って足軽を投入したり、それを引っ込めてまた射撃をしたり、

「その呼吸が大変なんスからね」

 と、まるで金ヶ崎山で陣頭を取ったのが自分であったかのような口ぶりであった。

 又左衛門は鼻で笑う。

「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ。赤母衣衆筆頭、槍の又左衛門だぞ」

 駄目だ、こいつは。一つに言うことに聞く耳を持たない。一つに鉄砲奉行だと言っているのに、槍の又左衛門などと胸を張っている前時代的気分。

 子供も大勢抱えてすっかり大人になったと思っていたのに、結局、前田又左衛門を形成している根っこの部分はいつまでも尾張の又左らしい。

「前田殿」

 茶碗を磨いている宗易が、微笑を浮かべながらふいと言った。

「二千名の鉄砲衆を率いるとは、歴史に残る大役ですな。ただ、それが武田様ともなると、いやはや織田様の心中、一か八かの賭けなのでしょうなあ」

 茶室がしんとした。

「赤備えは日の本一ですぞ」

 又左がまた固まった。どうやら、宗易はどこか浮かれている又左衛門を牛太郎の代わりにたしなめてくれているらしい。

 又左も又左で茶頭の言うことにはわりとおとなしい。

「もう一服、どうですか?」

「い、いただこうかな。な、なあ、牛」

「そうッスねー」

 この半月後、武田軍は甲府から出陣する。兵数二万五千。目的は高天神城攻略である。



 武田軍出撃の一報は京の上総介の下にいち早く届けられ、出撃可能な兵数が一万程度の徳川三河守も案の定援軍要請を京の上総介に送った。

 牛太郎は岐阜に戻ってきており、彼に武田軍の動きを報せたのは篠木於松であった。

「高天神城の小笠原っていう城主が寝返るんじゃねえかとかそんな話らしいですわ」

 初め、牛太郎は言葉をなくした。百地丹波に流言を頼んでからまだ一ヶ月弱なのだ。偶然じゃないのか。

 もっとも、於松が言うには、武田軍は高天神城と掛川城に前々から照準を定めており、高天神城の動きは領土拡張策に渋っていた宿老たちを黙らせる決定打となった。

 武田家が遠江攻略にすでに準備万端であった偶然と、伊賀流に風説を流させた必然が一致した結果らしい。

 それはともかく、一つ気になった。

「勝頼と宿老は仲が悪いのか」

「へい。特に山県赤備えとは」

「う、嘘だろ?」

 嘘じゃない。山県三郎兵衛尉が大膳大夫から遠ざけられているのは於松が密かに仕入れてきた情報ではなく、武田家中の誰もが知っている隠しようのない事実であった。

「なんで、山県が。あいつは武田の中でもかなりやれる奴だし、一本、筋が通っているところもあるし」

 と、宿敵をかばっていることに自分でも気付いて、すぐに口を閉ざした。けっ、と鼻で笑う。

「山県が疎まれているなんて好都合だ。ざまあみろ」

 牛太郎は腰を上げると、部屋を出た。

 ここ数日中、まとわりつくような雨が降っていて、牛太郎は縁側に突っ立って庭先をじっと見入る。たまが毎日手入れをしている草花が濡れている。

 二俣城を開城したときも雨が降っていた。あのときは凍えるような冷たい雨であったけれど。

 山県ほどの武将を遠ざけるなんて、一体、大膳大夫は何を見ているのだろう。それとも、当主が代わるということはそういうことなのだろうか。牛太郎には理解できない。

「ししし」

 於松が傍らに座って笑っている。

「持つべきものは宿敵ですな」

「黙ってろ、クソジジイ。どっか行ってろ」

「へいへい」

 於松は庭先に跳ね下りると、糠雨に濡れながらどこかへと消えていった。

 牛太郎は腰を下ろす。

 今の時期に武田軍が出陣したということは、田植えを済ましたからなのであろう。九月になればすぐに稲刈りだから、武田軍の動きは夏の短い間だけに限っている。

 徳栄軒の西上作戦は秋から冬にかけてであった。とすれば、今回の高天神城攻めは大規模な軍事行動ではない。目的は一城制圧のみである。

 無論、大膳大夫はそれだけでは満足しないであろうし、高天神城攻めのそもそもが大膳大夫に隙を生み出させるための簗田一派の工作である。

 しかし、うまくないのは農政期が過ぎた中秋にかけて事を起こされてしまうことだ。長篠、設楽ヶ原の湿地を活かすには梅雨時しかない。

 この雨のように降り続く季節でなければ。

 軒からぽたりぽたりと垂れおちるしずくを眺めていたら、そそそとたまがやって来た。牛太郎の傍らに膝をつき、白湯の入った碗を置く。

「どうしたい。やけに気がきくじゃんか」

 たまは盆を胸に抱えて、若干視線を伏せながらも、褒められたことに照れ臭そうにして口許を緩ませている。

「旦那様はここにおられるのが多いんで」

 なんだか、初めて見かけたときよりも大人びた。芋娘臭さがひどかったのに、おそらく、茶に香りにと興じている梓やあいりに感化されているのだろう、着ている小袖も見かけたことがある。

「貰ったのかい、それ」

「あ、はいっ。あいり様に頂きました。帯は奥方様のを」

「ほう」

 鼻の穴がむずがゆくなってくる。近頃は梓の匂いしか味わっていない牛太郎は、香りに飢えていた。まして、生娘である。

 きっと、初々しい風のような香りに違いない。

 いや、駄目だ。あいりに疑われている。ここで変な真似をしてしまったら、まず間違いなく家の中での居場所を失うであろう。

 とはいえ、絶品を目の前にしておきながら。

 牛太郎は眉間から頬の皺までぐっとしかめながら、自らの頭をさすりつつ悩んだ。どうしたら、たまの小袖を物にできるのか。泥棒すれば無くなったと騒がれるし、頂戴と言ったところで梓のように快く引き受けるはずもないし。

「どうしたんです?」

「いや、うん。まあ、いろいろと大変でね。いくさのこととかで」

 碗を手に取り、白湯をすすって気を紛らわせる。

「いくさになったら、やっぱり、お父ちゃんも......」

 たまが上目に覗いて伺ってきていた。眉尻は勝ち気さを漂わせて尻上がりだけれど、十四歳の瞳は不安に揺らいでいる。

 稲葉山の森はこぬか雨に覆われていた。

「当然だ」

 牛太郎の声は低く野太かった。

「言っただろう。いつまでも百姓気分でいると追い出すぞって。ヤジエモンがおたまのお父さんだからって甘やかさないからな」

「はい......」

 たまは頭をちょこっと下げて、足早に立ち去っていった。

 陣笠を被り、蓑で体を覆っている少年が、軒の下に半身を隠してこちらを覗きこんできている。

「何をやってんだ、お前」

 新三はさっと隠れてしまう。

「おいっ」

 返事はない。すでにどこかに消えてしまったらしい。

 本当に新三は何をやっているのだろう。どうせ、使い走りであろうが。

 新三は、自分も連れていってもらえるはずだったのに、いつのまにか治郎助と二人で京に行かれてしまってすねている。牛太郎が畿内を歩き回っている間、やることもない新三は読書か家事手伝いの日々だったらしく、牛太郎が岐阜に戻ってきてもずっとふてくされている。

 もう、いい齢なのに。だいたい、新三はいつまでここにいるつもりなのか。

 新三の父親と話をしなくてはならないと思っていたら、太郎や黒連雀、玄蕃允たちが濡れそぼった姿で庭先にぞろぞろと入ってきた。

 七左衛門は今日もこっぴどくやられたらしく、治郎助に抱えられてぼろ雑巾であった。

「よくもまあ、雨の中御苦労さんだな」

「いくさは雨のときもある。オヤジ殿も鍛錬したらどうだ。そんなことだから槍もろくに振り回せないのではないか」

「おれは槍とか使わないし」

 玄蕃允は口端を歪めた。

「いい身分だことよ」

 太郎が黒連雀を馬屋の中まで引いていき、そのあとを栗之介と栗綱が付いていく。そのあとをちぎってきた花を振り回しながらすえが付いていく。

 あいりとかつが手拭いを両手に抱えて縁側に出てきた。

「旦那様ぁ。もう、こんなんじゃ、いくさに出る前にくたばっちまいますよお」

 手拭いで顔を拭いながら、ハア、と大きな溜め息をつく七左衛門。

「くたばったらくたばったで格さんが弱かったってことだ」

「ちぇっ。旦那様はいいよなあ。のんびりしてて」

「のんびりなんかしてるか。なあ、助さん」

「おっしゃる通りです。旦那様はいろいろ大変なんだよ、兄さん」

 弟が兄をたしなめている向こうでは、弥次右衛門がすえの頭を掻き毟るように拭いている。

「んなことより、マタザ殿や内蔵助殿たちも雨の中やっていたのか」

 鉄砲衆のことであった。又左衛門は牛太郎とともに岐阜に戻ってき、同じく鉄砲奉行を命じられた佐々内蔵助とともに三段撃ちの鍛錬に励んでいる。

「何を言ってんだ。雨の中、火縄銃が撃てるか?」

 あ――。

 玄蕃允は至極当然のことのように言ったが、まったくその通りだった。雨の中で火縄に点火できるはずがない。

「ささ、早くお風呂に入りませんと風邪をひいてしまいますよ」

「ほんと、風呂だけは有難えんだよなあ。てか、面倒だからここで脱がさせてもらいますよ」

 ふんどし一丁になった七左衛門を治郎助がたしなめ、あいりとかつは逃げ出していく。

「若様っ。早くしねえとお湯が冷めちまいますよ!」

「わかっておるって」

 わいわいと騒ぎながら、ぞろぞろと縁側を上がっていく家の者どもの傍らで、牛太郎は別の世界に閉じこもっている。

 梅雨時に火縄銃は禁物じゃないのか。どうして、十兵衛や半兵衛ぐらいの男たちがそこに気付かなかったのだ。

 雨が降れば降るほど設楽ヶ原の湿地帯はぬかるみを増していき、織田軍に有利になっていく。が、雨が降っていては火縄銃が使えない。

 この作戦は初めから大きく矛盾している。いや、破綻している。

 おれたちって実はすごい馬鹿なんじゃないのか。牛太郎は居ても立ってもいられなくなり、腰を上げて台所に駆け込むと貞に傘を引っ張り出させてきて、一人、屋敷を飛び出した。

 とても絶望的な気分だった。


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