52. 闇の翼
「堕天使の翼」とわたしの耳元で呟いたのは、阿南くんだった。その言葉がしっくり来るような、真っ黒な闇の翼をはためかせ、綾ちゃんはわたしたちの顔を順番に見ては、満足気な表情をする。
「綾ちゃん……」
わたしは、親友の名を呼びながら、歩み出た。すると、綾ちゃんは愉悦めいた顔つきを剥ぎ取り、その代わりに忌々しいと言わんばかりにわたしのことを睨みつける。
「その名で呼ばないで。何度も言ってるでしょう? わたしはヨハネス・ファウスト。ここまで来れたことはほめてあげる。だけど、本当のわたしを見もしないで、総てが終わらせると思うことが、どれだけ愚かか、知りなさい」
そう言うと、綾ちゃんは紫色の宝石が取り付けられた杖を天高くかざした。そして、小声で呪文を唱える。その言葉は、人間の言葉じゃない。呪文が終わると、紫色の宝石がキラキラと輝き、あたりに張り詰めた空気が蔓延する。そして、黒と赤のマーブル模様の大地がうねうねと歪み、先ほど一掃したはずの、黒の妖精・ピルヴィッツが再び姿を現す。
「さっきより、数が多いよっ」
ソフィに抱えられたヴェステンが、血相を抱えたような声をあげた。まるで、主人である綾ちゃんを守るように、魔界から姿を現したピルヴィッツは、あっという間に大群を形成していく。
「くそっ! ピルヴィッツは俺たちに任せろ、中野は綾をっ」
阿南くんは、わたしに指示を与えると、中禅寺さんと頷き合わせ、ピルヴィッツの群れに切りかかっていった。
「ソフィ、わたしから離れないでね」
と、わたしは振り返らずにソフィに言うと、傘を構えて、真っ直ぐ視界に綾ちゃんを捉える。
「綾ちゃんまで道を拓いてっ! 青の精霊、そは清烈なる水の調べ。契約の名の下に、闇を打ち払う力となりて、敵を打て! 濁流の槍、ゲフリーレン・ヴァッサー!」
魔法の呪文とともに、傘からうねりのような水流が噴出する。水流は、一気にピルヴィッツの群れを押し流し、その先に控える綾ちゃんまでの道を作る。すかさずわたしは次なる魔法を傘に重ねる。
「緑の精霊、そは駿烈なる風の調べ。契約の名の下に、闇を打ち払う力となりて、敵を打て! 嵐風の剣、シュツルム・ヴィント!」
ごうっ、と風が巻き起こり、それが傘にまとわりつき、巨大な風の大剣を形作る。その尺はわたしの身長を悠に超えるけれど、魔法の剣は重くない。わたしは、背後にソフィの気配を確かめながら、風の大剣を振りかざし、勢いよく駆け出した。
「えいっ! やぁっ!」
傍からみれば、何だか大きな剣に振り回されているようにしか見えないけれど、わたしは迫り来るピルヴィッツをなぎ払い、そして綾ちゃんへと、高くジャンプして切り込んだ。
「フライセン! アイゼン・ズィッヒェル!」
わたしの剣の切っ先が、綾ちゃんに届く前に、固定を解いた鉄の鎌が綾ちゃんの右手に現れる。一瞬の間があって、風の剣と鉄の槍が激しくぶつかり合った。
「綾ちゃん、目を覚まして! たとえ、グレートヒェンが蘇っても、世界が虚無になっちゃえば、誰も幸せになんかなれない。綾ちゃんもっ!」
「幸せ? わたしにとっての幸せが、あなたに分かるの? 御託を並べるつもりなら、黙って『器』になればいいのよっ。冥府の虚空に響く黒き雷鳴よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! ドンナー・レーゲン!!」
「フライセン! エーアデ・バックラーっ!!」
わたしの頭上に開いた闇の空間から、雷の雨が降り注ぐ前に、わたしを土の盾が守ってくれる。わたしは、強く鉄の鎌を弾き、その反動で綾ちゃんとの間合いを取った。
「『ごたく』なんて立派なものじゃない。ただ、わたしはわたしのために誰かを傷つけてもいいなんて思えない。綾ちゃんがしようとしていることは、この世界に生きる、何の罪もない人たちみんなを不幸せにすることだよ」
「五百年前、罪に咎められるべきは、わたしだったはず。わたしは何度もそう言った。嘆願した。だけど、人々は悪魔に魅入られた魔女の処刑と言う、ある種の宴の熱に冒されて、グレートヒェンを火あぶりにして喜んだ。世界にあまねく生きる人たちが、罪なき者だとはいえない。誰かが生きて、誰かが幸せを享受する裏側では、いつも別の誰かが悲しみ、苦しみ、そして死んでいく。そうやって、無辜なる命が奪われることでしか、幸せを得られない世界だとしたら、その方が間違っているのよ!」
綾ちゃんが再び、杖をかざした。背中の闇の翼が、ばさばさとはためいて、周囲から魔力をかき集め紫色の宝石に、黒い光が宿る。
「だから、虚無の世界こそ相応しい。何もない世界、そこには悲しみや苦しみ、誰かを憎む心も、誰かの命が奪われることもない。その世界の中で、わたしはグレートヒェンとともに静かに生きていきたいだけ」
「違うよっ!」
突然声をあげたのは、わたしの後ろに隠れるソフィだった。ソフィは青い瞳で綾ちゃんを見据え、言った。
「そんな世界が正しいなんて、ありえない。世界は、誰かが生きていて、誰かと笑いあったり、泣いたりしながら生きていくもの。時には、悔しくて、腹が立って、許せないと思うことだってあるかもしれない。でも、わたしは、トーコやヴェスくんや、みんながいない、寂しいだけの世界なんてイヤだ」
「できそこないのホムンクルスが、何を言う。失敗作のお前に、わたしの思いなど分かるわけがない」
黒い光が集まった杖の先を、ソフィに向けながら、綾ちゃんが睨みつける。
「わたしは、失敗作なんかじゃない。わたしは、トーコの友達。田澤さん、あなたもトーコの友達でしょ?」
「どもだち……軽い言葉。わたしの五百年の思いに比べれば、あましいとしか言いようがない。わたしに友と呼べる人なんて、いないっ!」
「綾、本気で言ってるの?」
ソフィに抱えられたヴェステンが、すべてを見透かしたような瞳で、綾ちゃんを見つめる。だけど、綾ちゃんは、それにも動じるような節は見せないで、ただうっすらと笑みを引いた唇から、小さく言葉がこぼれた。
「本気よ。その証拠を見せてあげる」
その言葉を起点にするように、紫色の宝石から黒い光が弾けとんだ。黒い光は帯を引いて、周囲を席巻すると、綾ちゃんの「フライセン、タイルヒェン・レーゲン!」の魔法の言葉に反応し、地上に突き刺さる。その瞬間、大地から湧き上がるような振動がわたしの体を揺らし、危険を知らせた。
重くのしかかる重力の雨。当たりに蠢き、阿南くんたちの手を焼かせるピルヴィッツがはじけ飛んで行く。彼らは魔界にも帰ることなく、押しつぶされたのだ。だけど、そんな哀れなトイフェルの心配をしている余裕は、わたしたちにはなかった。重力の雨は、あっという間にわたしたちの両肩にものしかかり、見えざる手に押さえつけられるように、立って居られなくなる。
中禅寺さんが、阿南くんが、ソフィが、次々と地面に体をくっつけて倒れていく中、わたしもとうとう、重くなる重力に耐えかねて膝を突いた。
「闇の翼を手に入れたわたしは、もはや無敵。わたしに敵う、魔法使いはこの世に存在しない! ヘレネーよ、お前が素直に、グレートヒェンの器となり、『生命の魔法書』を差し出すなら、ユストゥスたちの命は救ってやろう。お前の返答次第で、他の者たちを、ピルヴィッツのように潰してしまうかが決まるのよ」
綾ちゃんが不敵に笑い、翼を羽ばたかせて中に浮く。このままじゃ、わたしたちまで、ピルヴィッツと同じ運命になってしまう。ソフィも、中禅寺さんも、ヴェステンも、阿南くんも……。
「ダメ、それだけはっ……!」
ソフィが苦しそうに声を絞り出した。分かってる、わたしが器になることを認めてしまえば、これまでの苦労がすべて水の泡になっちゃう。五百年間戦い続けたユストゥスや、前世のトーコたち、永遠にフェルドに閉じ込められた、中禅寺さんのお母さんたちの、涙や思いも、ソフィの苦悩も。そして、なにより、世界を守れなくなる。それだけは、許しちゃダメなんだ。
「ふ、フライセンっ! シュネル・エーアデっ!!」
重力の雨に逆らい、何とかかざしたこうもり傘に、魔法の言葉をかける。すると、どこからか塵のような石の塊がいくつも現れ、それらが一つにまとまり、わたしたちの頭上に大きな傘を作る。重力の雨がわたしの魔法に阻まれると、先ほどまで全身を覆っていた重みが一気に払われ、感覚として随分体が軽くなったように感じた。
「わたしに計算外があったとすれば、それは、トーコあなたがヴァイス・ツァオベリンとして成長したこと」
「それは、全部親友を救うためだよ、綾ちゃん」
わたしは膝に手を当てて立ち上がりながら、言った。
「わたしには、前世のトーコの記憶はない。でも、この体に宿る魔力は、すべてメフィストフェレスから、ヨハネスを……ううん、綾ちゃんを救うために、前世のトーコがくれたものだと、わたしは信じてる」
「ヨハネス、お前に計算違いが合ったとしたら、それは、綾が中野や俺たちに出会ったことだよ。本当は、中野が綾を取り戻すと言ったとき、それは無理だと思った」
立ち上がった阿南くんが、メガネをかけなおしながら、ノートゥングを構える。
「でも、安心したよ、お前にはまだ綾の心が残ってる。だって、そうじゃなければ、闇の翼の魔力を持ってすれば、中野だけを残して、俺たちを潰すなんて簡単なはずだ。お前は、躊躇したんだよ、綾っ!」
「まだ、御託を言うの、ユストゥス!」
「俺は、ユストゥスじゃねえ、阿南結宇だ。何度言ったら分かる?」
阿南くんがメガネの奥で、綾ちゃんに微笑んだ。綾ちゃんは、それを忌々しく睨みつける。
「御託だっていいじゃない。田澤さん、あなたはあなたよ。ヨハネス・ファウストの魂と、メフィストフェレスの呪縛、そして田澤綾という人格。その三つから、あなたは帰るべき正しい場所を選べばいい。それは難しいことじゃない」
中禅寺さんは、そう言うとスカートのポケットから、三枚のカードを取り出した。禍々しい腕を伸ばす黒い悪魔、輝く杖を振りかざす魔法使い、そして階段を昇る女の子。それは、中禅寺さんが占いに使うカードだった。
「選ぶ? 選ぶものなんて、わたしにはない! グレートヒェンの居ないこんな下らない世界なんて、わたしには必要ない! それに、田澤綾なんて、最初から存在しないのっ!!」
翼をはためかせ、綾ちゃんは更に異界の天高く舞い上がる。そして、急降下とともに、杖をわたしたちめがけて突き出し、魔法の言葉を唱えた。
「冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・シュパイク!」
綾ちゃんの杖から放たれた、黒い光の帯が、わたしたちを取り囲むように落下すると、その場所にいくつ者闇の空間が開く。
「まずいっ! エーアデ・バックラー!!」
咄嗟に中禅寺さんが、魔法のカードを放り投げた。クルクルと宙に上がったカードが俄かに輝くと、土の盾が、わたしたちを中心にぐるり百八十度にバリケードを作り上げた。
「中禅寺さん、フランメ・ランツェのカードをっ!!」
土の盾が、綾ちゃんの魔法を防ぐ音を聞きながら、わたしは中禅寺さんに、有無を言わせない口調で呼びかけた。「わかったわ」と、短く返事を返してきた中禅寺さんは、カードの束から炎の槍の魔法円が描かれたカードを選り、再び宙に放り投げた。
「青の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、水の盾となれ……ヴァッサー・バックラー!」
カードの魔法が発動するタイミングを見計らい、わたしたちを包み込むように、水の盾を発生させる。二つの魔法は、一瞬のうちに重なり合って、あたりに水蒸気の煙幕が立ち込めた。
「阿南くん、飛んでねっ」
「はぁ?」
何言ってんの、と煙幕の中で、戸惑いの声をあげる阿南くんにわたしは、空を飛ぶための魔法「フリューゲン・フェアファーレン」をかける。更に「うおっ、ちょっと待ってっ」と、声を上げ阿南くんの体が宙に浮いた瞬間を見計らい、予め固定していたヴィント・プファイルの魔法を追尾せるために解放する。綾ちゃんめがけて高くジャンプした阿南くんと、その後ろから飛来する五本の風の矢は、水蒸気の煙幕を抜けて、一気に闇の翼で空を舞う綾ちゃんに迫った。
「綾ぁっ!!」
「こしゃくなことをっ!」
阿南くんのノートゥングと、綾ちゃんの杖が激しくぶつかり合った瞬間、その背後から、わたしの風の矢が、綾ちゃんを襲った。矢は阿南くんの両脇を掠めて、綾ちゃんの闇の翼を貫く。
「きゃあっ!!」
綾ちゃんが悲鳴を上げたその時だった、阿南くんのノートゥングが、上段から下段へと振り下ろされて、闇の翼の片翼を切り落とした。
水蒸気の煙幕が晴れたわたしたちの目の前に、空中から落下する綾ちゃんの姿が映った。それほどの高度じゃないけれど、どさっという激しい音とともに、綾ちゃんの体はまっ逆さまに地上へと打ち付けられる。慌てて、わたしは綾ちゃんの下に駆け出した。フリューゲン・フェアファーレンの魔法が解け、地上に降り立った阿南くんもそれに続く。
「綾ちゃんっ!!」綾ちゃんの名を呼びながら、傍で膝を折ったわたしは、片方の翼を失い地上に落ちて、ぐったりとした細い体を抱き上げた。
「しっかりして、綾ちゃん!!」
揺さぶってみるけど、返事は返ってこない。完全に意識がない状態に、わたしは血の気が引く思いがした。すると、脇から手を伸ばしてきた阿南くんが、綾ちゃんの首下に指を当て「大丈夫、気を失ってるだけだ」と言った。
「良かった……」
ほっと胸をなでおろし、綾ちゃんの顔を覗き込む。と、突然、綾ちゃんが、カッと目を見開き、その瞳を真っ赤に光らせる。
「イア・ムン・ディボ・ペイレ・トゥノード・チタ!(我が体に触れるな)」
聴いたことのない言葉。それ以上にわたしを驚かせたのは、その口から放たれた声音は、綾ちゃんのものでもなければ、ヨハネスのそれでもない。この世のものとは思えない、おぞましく身の毛もよだつような、声。
綾ちゃんの体がふわりと浮いて、わたしの手から離れると、翼をはためかすことなく、再び宙へと舞い上がった。そして、ちょうど闇の翼の付け根の辺りから、黒い影のようなものが滲み出し、それはやがて一つの像を作り上げる。
「あれは……」
わたしは、その姿に見覚えがあった。はじめて魔法を使ったその夜に見た夢。真っ白な世界で、怯えるコボルトを飲み込み、わたしの腕を、脚をからめとって、闇に引きずり込もうとする。憎悪、恐怖、それらが渾然一体となったあの、黒い人影だ。
「ドルワ・ムン・ドネ・ムィタ・ペイレ・アティ(世界が終わる瞬間に泣き叫べ)! イア・ムン・トゥノード・ヴァーラ・ツィラ(我は、愛すべからざる光)!」
今なら、その黒い人影が何なのか分かる。ヨハネスが五百年前、愛する人の命を蘇らせることを誓い、賢者の石で契約した悪魔。その名は「愛すべからざる光」……。
「イア・ムン・ムィネ・メフィストフェレス(我が名は、メフィストフェレス)!!」
悪魔の言葉を叫び、赤い瞳を一際輝かせた綾ちゃんの背後で、メフィストフェレスも鬼灯のように赤い瞳を光らせる。
「目を見ちゃダメだ、トーコっ!」
ヴェステンの叫び声が響き渡る。だのに、四つの赤い瞳は、わたしを釘付けにする。闇の深淵にまで引きずり込まれそうな、狂気の瞳。それは悪魔の呼び声だったのかもしれない。うおおんっ、とメフィストフェレスが獣のような口を大きく開いて啼き、太く巨大な腕をわたしめがけて伸ばしてくる。
「逃げろ、中野っ!!」
「中野さん、逃げてっ!!」
「危ないっトーコ!!」
阿南くん、中禅寺さん、ソフィ、それぞれの叫びも空しく、メフィストと綾ちゃんの瞳に見つめられたわたしの体は動かない。地面にくっついてしまったように、縫い針で貼り付けられたように、動けないまま、巨大なメフィストの腕が、がばっとわたしの体を掴み、その波動が黒の奔流となってわたしを包み込んだ。
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