4. トイフェル
ヴェステンの後を追いかけて、地下室の階段を駆け上る。ゴンゴンとなにかを叩くような音と一緒に、お猿さんみたいな「キキーッ」という鳴き声が、外から聞こえてきた。それが、ヴェステンと言う「トイフェル」というやつなのか、わたしにはまだ分からなかった。ただ、その鳴き声は、身の毛もよだつほど、耳障りだった。
「トーコ。そっとドアを開けて、観てみるんだ」
そう言うと、黒猫のヴェステンはひょいっと身軽に、わたしの肩に飛び乗った。わたしは、息を殺して、五センチくらい、玄関の扉を開け、その隙間から庭をのぞいた。
十余年間放置されたため、無造作に雑草とツタにまみれた、バラの花壇。その茂みの中に、ゴソゴソ動く小さな影が見えた。野良犬でも庭に迷い込んできたのかと思っていると、すっくとその影が立ち上がる。
「ひゃっ!」
と、わたしは悲鳴を上げそうになった。慌ててヴェステンの尻尾がわたしの口をふさぐ。静かに! ヴェステンのエメラルドグリーンの眼が言う。
犬だと思っていた影は、犬じゃなかった。大きさは、確かに犬のそれと大して変わりないけれど、二本の短い脚でしっかりと立っている。だけど、人間じゃない。全身を灰色の毛で覆われ、牙の生えた口、ぎょろりとした黄濁のした瞳、そして、ぴんと尖った耳。絵本で見る小悪魔の姿に良く似たおぞましい姿は、一見してこの世のものじゃないことを、わたしに知らしめた。
「あれが、コボルト。トイフェルの中では、もっとも低級なやつだよ。ここを嗅ぎ付けてやってきたんだ」
ヴェステンがわたしの耳元で囁くように言った。
「トイフェルって……一体なに!?」
必死に足元の震えを押さえながら、尋ねる。
「キミでも知ってる言葉で言うなら、魔物。魔法使いが、シュバルツ・ツァオベライを行使して、契約の名の下に使役する僕だ」
「シュバっ? 契約? 僕?」
「あー、もうっ! そんなことも忘れたの? ホントにまずい、まずいよっ!!」
わたしの左肩の上で、ヴェステンが声を殺して嘆く。そんなことも、とか、忘れた、とか言われても、わたしにはどうしようもない。それよりも、目の前の現実が信じられない気持ちでいっぱいだった。しゃべる猫に続いて、トイフェルという魔物。これが、現実だと言うのなら、笑い話にもならないような気がする。
「シュバルツ・ツァオベライは、悪い魔法使いが、悪魔と契約して使う『黒の魔法』のこと! ワルブルガは、それを認めていない。悪い魔法使いは『黒の魔法』を使って、庭にいるコボルトみたいなトイフェルを操って、悪さをするんだ」
魔法!? 魔法使い!? 何を寝ぼけたことをいってるんだろ、この子猫くんは。わたしは、薄笑いを浮かべながら、そっと左手で頬をつねってみた。これが夢じゃなければ痛みなんてあるはずが……痛いよ。つねった頬が、痛みを走らせる。
「トーコ! これは、夢なんかじゃないっ。現実のことなんだ。今は、細かい話をしてるヒマはない。でも、ぼくを信じて欲しい! キミは、白の魔法、ヴァイス・ツァオベライの魔女、トーコの生まれ変わりなんだ!」
ヴェステンが、真剣な顔をして、わたしに言い放った。
「魔女の、生まれ変わり!? わたしが?」
だけど、そんな荒唐無稽な話を信じるくらいなら、頬に残る痛みが嘘だって、信じたい。そんなわたしの気持ちなんて、察してくれる様子もなく、ヴェステンは続ける。
「十三年前、ぼくの知ってるトーコは、最期のその瞬間に、ぼくに後事を託して『転生』の大魔法『ヴィーダー・ゲブーアト』を使った。生まれ変わることを約束して。だけどキミは、彼女が持っていた記憶を補完することが出来なかったらしい。つまり、キミは前のトーコの記憶を持たないまま、中野東子として生まれ変わって、十三年間の人生を送ってきたんだ」
「そんなの、し、知らないわよ……」
「現に、トーコと同じ名前を持つキミは、前のトーコが暮らしていた、この家に引っ越してきた。総ては、魔法の導きなんだ。そして、目の前には、黒の魔法のトイフェルがいる! 今は、総てを受け入れられなくても、これが現実だってことだけは、眼を背けちゃダメなんだ。恐ろしいものが、世界を混沌に変える前に!!」
「恐ろしいもの……? それが、あのトイフェルを呼び出したの?」
「厳密に言うと違うけど、そうだよ。キミが戦わなきゃ、世界は絶望と混沌に包まれる。キミのお父さんもお母さんも、友達も恋人も、みんなみんな、この世界からいなくなっちゃうかもしれないんだ!! それでもいいの?」
「いいわけないけど……でも、戦うなんて、わたしに出来るわけないじゃん!」
「できるよっ! トーコにはいっぱい魔力が詰まってる。それを忘れてるだけっ! ちょっと待ってて!」
ヴェステンは、再び身軽にわたしの肩から飛び降りた。そして、わたしの方を向くと、先っぽだけブルーグレー色の尻尾をくるくると振った。
「もしも、キミに戦う勇気がないなら、世界は悪い魔法使いのものになってしまう。その、運命を握ってるのはキミなんだ」
冗談なんか言っている眼じゃなかった。
「どうして!? そんな無茶な話信じろって言う方が無茶だよ。わたしは、普通の中学生なの。魔法とか魔物とか、わけのわかんないものとは無縁なんだよっ」
「無縁なんかじゃない!」
そういうと、ヴェステンの尻尾の先がまばゆく光った。そして、ヴェステンの目の前に、小さな光り輝く魔法円が現れる。ヴェステンは、その魔法円にフッと息を吹きかけた。見たこともない魔法の文字、見たこともない光のラインが、バラバラに魔法円から外れていって、わたしの右手に吸い寄せられていく。そして、右手のこうもり傘の柄に、傘に、魔法円に書かれた文字が刻まれた。文字は淡く青白い光を帯びている。
すると、不意に、わたしの体が妙に軽くなる。全身から湧き上がるような熱を帯びてくる。いったい何が起きたのか、わたしには分からなかった。ただ、不思議と嫌な気分はしない。
「お願い、トーコ。ぼくの話を信じて。ぼくはトーコの味方。薄暗い地下室で、この時を十三年間待ち続けていた。世界を守って! トーコ!!」
懇願するような表情。魔法だとか、魔物だとか、お化けの話以上にバカバカしい話なのに、総て現実なんだって、簡単に信じられるわけがない。でも、目の前にはしゃべる猫がいて、玄関扉の向こうには悪魔みたいなのがいる。そして、ヴェステンの瞳は必死に訴えていた。わたしは、その瞳を裏切ることが出来ない。そういう風に、割り切ってしまえない人間だと言うことを、誰あろう、自分が一番良く知ってる。
「分かったわよ! あんたの話、全部信じるつもりはないけど、お父さんや友達がこの世界からいなくなっちゃうのは嫌だ! わたし、戦うよ。どうやったらいいの?」
わたしが、玄関扉の向こうをにらみつけながら、尋ねると、ヴェステンは少しだけ笑顔になった。きっと、こんなに表情豊かな猫は、この世にいない。だから、きっとこの猫も魔法とか、魔物とかそういう訳のわかんないものと一緒。でも、ヴェステンの笑顔は少しだけ可愛い気がした。
「一番簡単な魔法を教えるね。総ての魔法の基礎。コボルトはとても低級なトイフェルだから、それでも撃退できると思う」
「よし! 行くよ、ヴェステン!!」
ぎゅっと魔法の言葉が刻み込まれた傘を握り締めた。すばやくヴェステンがわたしの肩に乗っかる。本当は、とっても怖い。でも、引き返しちゃいけない……。わたしは、ヴェステンから魔法の言葉を教えてもらうと、勢い良く玄関扉を開いた。
「キキぃっ!! キーッ!!」
庭に駆け出したわたしの姿を見つけた、トイフェルのコボルトが吠える。顔の三分の一を埋め尽くすほど大きなギョロ眼が、怖い。コボルトは、花壇の中から飛び跳ねると、そのまま、雪崩を打ってわたしの方に飛び掛ってきた。
「伏せて、トーコ!」
肩の上に乗っかるヴェステンが叫ぶ。わたしは、とっさに身をかがめた。コボルトは、手に隠し持っていた石つぶてを、わたしめがけて投げつけた。身をかがめなかったら、きっと顔面に石つぶてを受けていたと思うと、ゾッとしてしまう。
「キっ、キキキ」
最初にお猿さんみたいな鳴き声って言ったけど、前言撤回。敵意むき出しの声は、猿なんかの声じゃない。わたしは、身をかがめたまま、花壇の茂みを盾にして、走る。コボルトは、容赦なく石つぶてをわたしめがけて投げつけてくるけれど、どうやらコントロールは、草野球の男の子なみに悪いみたい。
しばらく花壇をはさんで、逃げ回っていると、コボルトは弾切れになった。すぐさま、石を集めようとするけれど、そのチャンスをヴェステンは見逃さない。
「今だ、トーコ!」
「分かってる!」
わたしは返事もそこそこにに、立ち上がり、こうもり傘を振り上げた。さながら、この黒いこうもり傘は、魔法使いの杖みたいなもの。わたしに魔法の言葉を教えてくれるついでに、ヴェステンはそう言った。
「赤の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、火炎の矢となれ……」
危うく舌をかみそうな、呪文。それに呼応するかのように、傘に刻まれた魔法の文字が、まばゆく輝きを放つ。
「フランメ・プファイルっ!!」
わたしが叫ぶと同時に、こうもり傘の先端、とがった金具の部分から、メラメラと炎が巻き起こる。信じられない光景に、呆気に取られている暇なんかなかった。炎は、矢の姿になり、驚きうろたえるコボルトめがけて飛んでいく。
「キキィっ」
逃げようとする、コボルトの後を追いかけるように、一条の炎の矢はまっすぐと狙いを捕らえて放さなかった。一瞬の後、炎の矢は、コボルトの背中を貫いた。
断末魔の悲鳴。コボルトの体が炎に包まれる。そしてあっという間に、灰に変わった。黒ずんだ灰は、初夏の夕風に吹かれて、消えていく。
「し、死んじゃったの?」
わたしが問うと、ヴェステンは首を左右に振った。
「違う。魔界に還っただけ。また誰かが呼び出せば、現れる……。それにしても、すごいやトーコ! トーコはやっぱりトーコなんだね。一度呪文を聞いただけで、成功させるなんて」
ヴェステンがわたしの肩口で喜ぶ。こうもり傘はもう光を帯びてはいなかった。ただ、自分でも良く分からない。ヴェステンから聞いた、意味のあるとも思えない言葉を羅列しただけで、何の変哲もなかった年代もののこうもり傘から、炎の矢が現れたんだ。
「その、誰かはこの近くにいるの?」
「いや、多分近くにはいない。黒の魔法を操れるほど、強い魔法の力を感じない。きっと、どこかからコボルトを放ったんじゃないかな……」
と、ヴェステンが言ったときだった。庭に足音が忍び寄る。森の木々がうっそうと覆いかぶさる周囲は、もう夜の気配を帯びており、薄暗く見通しが悪い。その足音は着実にわたしたちの方へと近づいていた。どうしよう、もう一度さっきの呪文を唱えようか……。そう思っていると、足音はわたしたちの姿を見つけて、ぴたりと止まった。
「おや、東子! 庭で、なにやってるんだ?」
緊張に肩透かしを食らわせるような、明るい声。足音とともに現れたのは、お父さんだった。ニコニコとわらいながらも、少し怪訝な顔をこちらに向けてくる。ぷっつりと緊張の糸が途切れたわたしは、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「なんだ、お父さんか。びっくりさせないでよう。お帰り、お父さん」
わたしが薄笑いを浮かべながら言うと、状況が良く分からないお父さんは、きょとんとしながら「ただいま」と返した。わたしは、その言葉に、夕食の支度がまだだったことを思い出した。
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