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新しい家族 【1】

 巨狼と化した兄を丸洗いするのは、かなりの重労働だった。お風呂にそのまま突っ込めたらと何度も思ったが、たぶん湯船が壊れる。

「じゃあ、俺はそろそろ夕飯のほうに行くから」

 ある程度洗い終えると、次武は食事の準備に向かった。

 三太は最初から手伝う気などなく、リュカと一緒に居間でテレビを観ている。

「あの、あたし一人でも大丈夫だから、ヴァヴさんもリュカとゆっくりしてて……」

 ほのみはそう言ったが、美しい義姉は首を横に振った。

「私はお客様ではないもの。嫁いできたのだから。夫の面倒を任せていてはいけないわ」

 優雅に微笑みながらそう言われ、ほのみもつい頷いてしまった。

「お尻のほうは、私が拭くわね」

「あ、うん……お願いします」

 頼もしく告げたヴァヴは、夫の尻尾をむんずと掴み、その下に遠慮なくタオルを突っ込んでごしごしと拭き始めた。

 こんな綺麗な女性ひとが、お兄ちゃんのお尻を拭いてくれている……。

 ヴァヴは優しく、なにより創を大切にしてくれている。こんなに素敵なお義姉さんが出来たんだから、自慢に思うくらいじゃなきゃダメよね……と、ほのみは自分に言い聞かせた。

 ほのみを世界一可愛いと言ってくれていたお兄ちゃんも、いつかはお嫁さんを連れてくる。それは分かっていたことだ。まさか出会ったその日に、兄の尻をどっちが拭くかなんて話をすることになろうとは思いもよらなかったが、綺麗で優しくて、お尻まで拭いてくれる、いいお嫁さんだ。

「ヴァヴさん……大兄ちゃんがこんなじゃなかったら、結婚式だって出来たのにね」

 そう言ったほのみに、ヴァヴは嬉しそうに答えた。

「まあ、素敵。でも、儀式は無くても、私は嬉しいわ。この村の方々が優しく受け入れてくれて、彼も、彼の家族も、一緒に居てくれるのだもの。じゅうぶん幸せよ。ありがとう、ほのみ。創の言ったとおり、本当に優しい子なのね」

 そう言われ、ほのみはしゅんと顔を伏せた。

「あたし、ぜんぜん優しくないよ……」

 だって、ちょっと嫌だった。大好きなお兄ちゃんが、ほのみに黙ってお嫁さんを連れて来ようとしてたこと。ヴァヴとリュカと、家族みたいに暮らしていたこと。

 どうして、黙ってたんだろう……。言ってくれれば、驚くこともなかったのに。

 その気持ちを見透かしたように、ヴァヴが言った。

「驚いたんでしょう? 創がこんなことになったのだから、仕方無いわ。それに、私のことも、彼はほのみに何も言ってなかったんでしょう?」

「うん……」

「そういうところ、あるわよね、あなたって」

 咎めるように、ヴァヴが創に言った。

「ずっと言いそびれていたんでしょう。だけど、いつもほのみの話をしてたわ。だけど、大事だからこそ話しておくべきだったわね。可愛いほのみを驚かせて、いけない人」

 妻の小言に知らないふりをする夫のように、黒狼は目を閉じた。それが少し可笑しくて、ほのみは笑った。ヴァヴも笑っていた。

 彼女の話もゆっくりと聞けた。電気も電話も無く、狩りをして、時に獲った獣の余った肉や毛皮を、街に売りに行く。その対価で必要なものを購入する、という暮らしをずっと続けてきたこと。

「大兄ちゃんも、向こうではそうしてたの?」

「ええ、そうよ。彼、狩りは上手なのよ」

 ほのみからすれば過酷な生活に、創はけっこう馴染んでいたらしい。そのまま外国に婿入りするほうを選ばなくて良かったと、ほのみは心底思った。

「リュカも、一緒に暮らしてたんだよね?」

「ええ。一年くらい前にね、一人で森を歩いていたあの子を創が見つけて、連れてきたの。いきなりよ」

 そのときのことを思い出したのか、ヴァヴは笑いながら小さく息をついた。

「まるで、巣から落ちたヒナでも拾ってきたみたいにね。彼に連れられてきたリュカも、何も分かっていないみたいだったわ。ただ黙ってついてきただけだったみたい」

 当のリュカは、初めて観るテレビにすっかり夢中だ。ニュースやドラマはあまり分からないらしく、最初は何度もリモコンをいじってチャンネルを変えていたが、三太がアニメ番組に合わせてやると、大人しくじっと観始めた。

「リュカの家族は、どうしたの?」

 ほのみが尋ねると、ヴァヴは手を止め、初めて厳しい顔つきを見せた。

「滅びたわ。残ったあの子は、ずっとストリゴイを倒し続けていたの。たった一人で名前も無く、言葉も教えられず、一族の中で言われたことだけをこなし続けていた。だから一族を失ってからも、それしか知らなかった。出来なかったのよ」

「言われたことって?」

「戦うこと」

 短くヴァヴは答え、再び創の体にブラシをかけながら、小さく微笑んだ。

「ねえ、ほのみ。この話はまたいずれでいいかしら?」

「え? うん……」

「あの子の生い立ちは、とても辛いものだったの。あの子自身はそれを辛いなんて思っていない。そう思う心さえ与えられず生きてきたから。けれど、ほのみにとってはきっと残酷な話になるわ。だから、聞いてもいいと思ったときに、あなたから訊いて?」

「……うん」

 ほのみは頷いたが、そこまで言われて臆病な自分が聞きたいと思えるかは、自信が無かった。ただ、リュカが可哀相な育ち方をしたのだということは分かる。

 だがそれも、創とヴァヴと暮らし始めてからは違ったのだろう。彼らと、それからほのみたち家族を守ると言ったときの、真剣なリュカの姿を思い出した。

「大兄ちゃんも、リュカを守りたかったの?」

 兄の毛並みを撫でながら、ほのみは尋ねた。

「そうね。この人、優しいから。それに、すぐに入れ込んじゃうのよね」

「うん。ほんとそう」

 ヴァヴの言葉に、ほのみはしみじみ頷いた。

「優しくて、ちょっといい加減で、抜けてて。狩りは男の仕事だって、そう言ってくれるのはいいけど、自分で狩った獲物を泣きながら持って帰ってくるものだから、そこまでしなくていいと思ったわ。辛いなら私がするのに。でも、この人のそういうところが、好きよ」

「うん。あたしも」

 遠い国の森の風景は、ほのみには想像でしか分からないけれど、そこで過ごしていた創の姿は、ヴァヴの言葉を通してありありと思い浮かぶ。ヴァヴとリュカと三人で過ごす日々は、兄にとっても楽しいものだったのだろう。

「あたしは、大兄ちゃんが居なくて、寂しかったけど……でも、あたしが居ないところでの大兄ちゃんのことなんて、何にも考えてなかったな。大兄ちゃんにもあたしたち家族以外に、大事にしてる場所や、会いたい人がいるのは、当たり前だよね……」

 濡れた黒い毛に触れ、乾いたタオルで拭っていく。胸を刺すような寂しい痛みは消えないが、それは仕方が無い。いつまでもほのみも、創に傍にいてもらうわけにはいかない。それにいつか兄がお嫁さんを連れてきたとき、優しい女性ならいいと思っていた。それは叶ったのだ。

「良かったね、大兄ちゃん。素敵なお嫁さんが来てくれて」

「ほのみ……」

 微笑んで兄に語りかけるほのみの横で、ヴァヴがうるうると目を潤ませた。

「あの……これから、よろしくね。……お義姉さん」

 はにかむ義妹を、ヴァヴは感極まったように抱き締めた。

「ああ、ほのみ! 嬉しいわ! それになんて小さくて可愛いの……私の妹……!」

 遠慮の無いヴァヴの力は凄かった。彼女が我に返るまで、何度もキスと頬ずりをされた。

「お、お義姉さん、ぐるじい……!」

「ああっ! 私ったら、ごめんなさい! 今まで、女の子と接することがあまり無かったものだから……つい! 興奮してしまったわ……!」

「う、ううん……あ、あたしも男兄弟しかいないから、嬉しいよ……」

「ああ、なんて優しいの、ほのみ! 世界一可愛い妹!」

「それ、やめて……」

 兄の悪影響が、純粋なヴァヴとリュカを確実に汚染している。元凶である創は、体を拭ってもらって気持ち良かったのか、畳に寝そべって目を閉じている。

 ヴァヴから解放されたほのみは、大きな狼の体に甘えるようにもたれかかった。

「でも、のん気な大兄ちゃんが、よく怖い外道と戦ったね」

「あら、彼はいざというときは勇敢よ。普段は牙を隠して、やるときはやる自分のような男を、昼行灯って言うんだって、言ってたわ」

「そういうの、自分で言わないよ、普通……」

 ほのみは呆れて兄を見つつも、その体を抱き締め、呟いた。

「でも……生きてて良かった……良かったね……」

 心を失ったことは悲しいが、命はある。一歩間違えれば父や母のように死んでしまっていたかもしれないのだ。そう考えると背筋が寒くなった。

「ほのみ。……ごめんなさいね。創を、守れなくて」

 ヴァヴがほのみの頭を撫でながら告げる。ほのみは創の身に顔を埋めながら、頭を振った。

 誰のせいでもない。リュカも、ヴァヴも、創自身も悪くない。悪いのは外道だ。ストリゴイとリュカが憎々しげに言った、異形の化け物。

「……大丈夫……生きてれば、きっと良くなるもの。日本は、安全だから……もう、大丈夫だもん……。そんな怪物、たくさんいないんだから……だから……」

「ほのみ……」

 創が目を開け、顔を上げる。ほのみは幼い子供のように、その顔に頬をすり寄せた。寄り添い合う獣のように。言葉が無くても、兄はやっぱり優しく、ほのみを慰めてくれた。

「もう、誰も、傷ついたりしないよね……? そうだよね、お兄ちゃん……」

 黒い毛を撫でながら、ほのみは睫毛を濡らし、ぽたぽたと涙を落とした。

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