異邦の妖怪たち 【1】
灰澤村。
そこは昔、人の目から隠れるように、妖怪たちが暮らし始めた場所。
そして今も、変わらず存在し続ける、彼らだけの安住の地だ。
「ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
スーツ姿の美女が座布団の上に正座をし、畳に三つ指をつくと、日本風の深いお辞儀をした。
「どうぞ、楽に。くつろいでください。正座、辛いでしょう」
異国からやって来た義姉に、次武が促す。
「もう、家族なんですから」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫」
ヴァヴは再び、頭を下げた。まるで日本で生まれ育ったかのような、とても美しい所作だ。
「日本の作法、頑張って覚えました」
「そうですか。たしかに日本語も、とてもお上手ですね。兄が?」
「ええ。創に教えてもらいました。彼と初めて出会ったのは、子供のときです。彼は、お祖父様に連れられて」
「祖父は、兄を可愛がっていましたから」
次武が眼鏡のフレームを押し上げると、その横に座っている三太は『眼鏡の次武』を思い出したらしく笑いを堪え、次武に軽く睨まれた。
居間に座布団を敷き、一人と三人が向かい合う。兄のお嫁さんを迎えるという一大イベントなのに、あまりに質素な顔合わせだ。肝心の創があの姿だから仕方が無いのだが。
ほのみも兄たちと並び、ちんまりと座布団の上に座っていた。
兄の婚約者は改めて、ヴァルヴァラ・ナスターセと名乗った。
二十五歳で、創より二つ下だ。
「祖父は存命中、よく兄を連れて海外に行っていました。ナスターセ一族の皆さんとの交流のためだったと、兄から聞いています」
あたしは聞いてなかった、とほのみは内心で思った。
「はい。最初に出会ったときは、彼も私も幼くて。彼のお祖父様が亡くなってからも、創は変わらず私たちの許を何度も訪れてくれました」
つまり、恋人に会いに行っていたわけだ。ほのみは複雑な想いを抱いた。ただの旅行好きだと思っていたのに、そういう理由があったのだ。そして、それを黙っていた。
創とほのみは十三歳も違う。子供のほのみに何もかも教えてくれるなんてこと、あるわけない。それは分かっている。でも、お嫁さんにしたい人がいることくらい、教えてほしかった。
そんな文句を言いたくても、言えない。その寂しさに、ほのみは泣きそうになった。
「慣れない土地で大変でしょうが、俺たちも精一杯のことはします。どうか気兼ねなく」
「いいえ、次武。もうじゅうぶん良くしていただいていますから。それに、日本ほど私たちモンスターが住みやすい国は無いと、聞いていますわ」
「まあ、俺たちもこうして、普通に暮らしていますからね。生まれたときから日本妖怪なので、他国より住みやすいかと言われると、分かりませんが」
「いいえ。とても、とても素敵なところです」
緑の瞳を輝かせ、ヴァヴは胸の前で手を合わせた。
「すべて、創のお陰です。こうしてあの子……リュカと、日本にやって来られたのは」
そう言って、彼女は窓の外に目を向けた。
そこから広い庭が見え、巨大な黒狼が地面に寝そべり、その傍にリュカがいる。
リュカは創に見守られながら、遊んでいた。遊ぶといっても庭の中をうろうろしたり、雨水が溜まって苔むした池を覗き込んでみたり、家庭菜園の土をほじくり返したり、幼い子供がするようなことばかりしている。
窮屈なスーツのジャケットとシャツはすでに脱いでいる。それはいいが、下に着ていたタンクトップが伸びきってよれよれなのが、ほのみにはひどく気になった。あれじゃ村のおじいちゃんたちと大差ない格好だ。せっかく格好いいのに。なんだか不憫にさえなる。あとでお兄ちゃんたちのお下がりから見つくろってあげようと、ほのみは思った。
「私たちの国……いえ、日本以外の国では、こうして多様な妖怪たちが、助け合って暮らすということは無いのです。余計な災いが振りかからないよう、一族のみで身を隠し、ひっそりと生きるだけ。ですから、この村のことを聞いたとき、本当に驚きました」
ヴァヴは東欧の深い森で生まれ育った。そこで生まれたライカンスロープは人目をはばかるように暮らし、静かに死を待つように生きるという。
そんな生き方、ほのみには信じられなかった。日本の妖怪は昔から、人間たちの生活に溶け込んで暮らしているからだ。
「創が話してくれる日本の話は、とても楽しかった。創の大切な家族のことも聞いていました。そして、私も一緒に日本で暮らそうと言ってくれたのです」
ヴァヴは母のような姉のような眼差しで、ほのみたち家族を見やる。目が合ったほのみも慌てて笑い返したが、ぎこちなくなってしまった。
いじわるな子だと思われたかな、とほのみは不安になった。そうではない。大好きな兄が何も言わずに婚約していたことに、怒ったり拗ねたりしているわけではない。いや、しているけども、それはヴァヴの所為では無い。とにかく驚き、そして寂しかった。そんな話を兄が一度だってしてくれなかったこと。それ以上に、いまこの場に、彼の笑顔が無いことが。
「この村は、創が話してくれた風景そのまま……。この村で暮らせるなんて、夢のよう。きっと、彼にとっても……」
そう言ってヴァヴは、庭で遊ぶリュカと、彼を見守る創を、優しい眼差しで見つめる。
「リュカオン……あの子は、ヴァンパイアと人の間に生まれた、半吸血鬼です」
納屋と家庭菜園と小さな池しか無い庭でも、リュカには目に映るものすべてが珍しいようだった。相変わらず無表情だが、少しもじっとしていない。家の外には出ないようにと言ってあるが、時々、庭の門から出て行こうとする。すると黒狼が起き上がって近づき、よれたタンクトップの裾をそっと引っ張る。そんな姿を見て、兄の心は完全には失われておらず、どこかに欠片だけでも残っているのかもしれないと、ほのみは思う。
「事情があり……リュカは一族を失いました。一人残った彼を見つけたのが、創だったのです。そうして私たちは三人で、一年ほど共に暮らしました。出会ったばかりのあの子は言葉すら話せず、日本に連れて帰るのには、少し準備が必要でしたから」
「それでアイツ、日本語しか喋れないのか」
「ええ。日本で育てるから、日本語だけ分かればいいと、創が」
「大兄らしいな」
三太が苦笑した。
「あっちではヴァンパイアは忌み嫌われる存在です。強く、貪欲で、好んで人や他のモンスターを襲い、同じヴァンパイアを喰い殺すことすらあります。ただ生きるだけでは飽きたらず、力を求めて、闇雲に命を喰い散らかすのです」
「そのようですね。ですが、日本に帰化したヴァンパイアの多くは穏やかで、他の妖怪や人間に対して非常に友好的です」
次武が答えると、ヴァヴは強く頷いた。
「ええ。リュカも、凶暴なヴァンパイアたちとは違います。出会ったときのあの子は何も知らず、名も持たず、言葉さえ知らなかった。創はあの子に名前を与え、日本語を教え、この灰澤村のことを語りました。自分が生まれ育った穏やかな村で、あの子を育てたいと……私たちと一緒に日本に連れて帰ってやりたいと、そう言っていました」
その言葉に、ほのみは目の奥がじわりと熱くなるのを感じた。のん気で、誰よりも優しい大兄ちゃん。庭に目線を向け、兄とリュカの姿を見た。
心を失った兄の体を、少年が撫でている。その表情はぼんやりとしていて感情の起伏を感じられない。彼もまた心を持っていないかのように。そう思ったとき、ほのみは気付いた。空港でも、車の中でも、村に着いてからも、彼は色んなものを珍しげに見てはいるが、一度も笑いはしていないのだ。だからか、そこには人形と動物が並んでいるだけのように見える。なんとなく寂しい光景に、いてもたってもいられず、ほのみは立ち上がった。
「あ、あの! あたし、リュカの様子見てきます! 大兄ちゃんと二人で放っておいて、退屈だろうから……!」
ほのみがそう言うと、ヴァヴが目をしばたたかせた。
「あの、お話は、これからいつでも、ゆっくり聞けると思うし! また、お願いします! おねっ……ヴァヴさん、どうぞごゆっくり!」
お義姉さん、と言おうとしたが、咄嗟に言えず、ほのみは顔を赤くした。
別に、兄を取られて彼女に嫉妬しているわけではない。ただ、急に家族が増えて、戸惑っているだけだ。きっとそうだ。
出来たばかりの義姉は、その美しい顔に嬉しげな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ほのみ」




