厄災【6】―兄―
真っ二つに裂かれたストリゴイの胴がゆらりと蠢く。二つに分かれた胴に、無数の羽がでたらめに生えてくる。片方の胴を、すぐさまリュカは槍で薙ぎ払った。
「強ええ! リューちゃん!」
「がんばれぇええー!」
「よし、村長ロボも行けえ!」
「誰がロボじゃあ! でかいだけで弱えーからすぐ的にされるわ!」
崩れ落ちた胴に狼たちが飛びつき、手足や羽を喰い千切る。他の妖怪たちも駆けつけて、数人で手足を引っこ抜いたり、持ってきた斧や鍬で叩きのめしている。
「疫病神様、これかぶってて。すぐに、リュカがやっつけちゃうからね」
疫病神は一人で草むらに隠れていた。三太と入れ替わったほのみは、震える男の肩に、咥えてきた龍神の布をそっとかけた。
「お前ら……俺は、疫病神だぞ? 災いを呼ぶ神だぞ? 外道を呼んでるのは、俺かもしれねえんだぞ?」
疫病神は情けなく目を潤ませながら、ずるんと鼻水を啜った。
「いいのよ。そんなの、神様が悪いわけじゃないんだから。あたしたちこそ、ごめんなさい。ほこらが無かったから、他の神様のお供えを盗んでたんだよね。だからね、みんなで、疫病神様のほこらを作ろうって話してたんだ。だから、これからも、ここに住んでください」
ほのみは彼を守るように小さな体で踏ん張り、みんなとストリゴイの戦いを見つめている。その黒い背中に、ふしくれだった硬い手が、そっと触れた。
「……バカだなぁ、お前たちは……」
それまでと違う優しい声に、ほのみは振り返った。
「疫病神様?」
汚れた髭に覆われた疫病神の顔は、深く穏やかな慈愛に満ちていた。その輪郭はぼんやりと、神々しく輝いている。黒く汚れ、節くれだった手が、小さな狼の頭を優しく撫でた。
「力が弱まりさえしなければ、この地を穢されることも、お前たちに苦難を味あわせることも無かったのに、まったく口惜しい」
「ど、どうしちゃったの……?」
ほのみに触れていた疫病神の手が、ふくよかに膨らんでいく――ような気がしたが、眩しくて見えない。光が溢れて、溢れて、瞼を開けていられない。
「やっ、疫病神様!? 大丈夫っ!?」
「この世はすべて表裏一体。悪しきことも、貧しきことも、困難もすべて飲み込み、乗り越えるからこそ、儂はお前たちが愛おしい。さすれば……」
ようやく瞼を開けたとき、疫病神の姿は消えていて、そこには白い布だけが残されていた。
――善いことも、あるよ。
「へ? 疫病神……様……?」
ストリゴイの声とは違う、優しい声がほのみの頭の中に届いた。それは誰にも聴こえていないようだった。リュカが斬り落としたストリゴイの腕や羽を懸命に潰している。さっきの眩しい光にも、誰も気付いていない。ぴくぴくと耳を動かしながら、消えた疫病神の姿を捜し続けるほのみの前に、ヴァヴの体が踊りこむ。
「危ない! ほのみっ……!」
目に見えない攻撃がほのみを狙い、庇ったヴァヴごと吹き飛ばされた。
「きゃんっ! あっ……! お、お義姉さん!」
ほのみを庇って攻撃をまともに喰らったヴァヴが、後ろ肢を掴まれたように、その巨体を宙に引きずり上げられていた。もがく銀狼を助けようと飛び上がったほのみは、空気を裂くような一振りであっさり跳ね飛ばされた。
「にっ……逃げなさい!」
ヴァヴは気丈に叫ぶが、その後肢は変な方向に折れ曲がり、顔は苦痛に歪んでいる。
「いや! お義姉さんを離して! やめてっ……食べないでぇ!」
人の大きさ程度の肉塊がゆらりと姿を現す。中心にある頭が大きな口を開け、捕らえた獲物に近づく。ほのみは何度も飛び上がり、体当たりしたが、そのたびに跳ね飛ばされた。
「やめろ!」
離れた場所で戦っていたリュカが叫ぶも、駆けつけられない。次武も三太も他の妖怪たちもそれぞれ戦っている。
ほのみは叫んだ。
「お兄ちゃぁんっ……助けてぇっ!」
獰猛な獣の唸りとともに、黒い塊が駆けた。捕らえられている銀狼の許へ跳び、怪物の腕に喰いつき、前肢を振り上げて、口を開いたデスマスクを叩き潰す。
「……なせ……!」
激しい唸り声の中にかすかな声を聴き、宙吊りにされたヴァヴがはっと顔を上げる。
「ヴァルヴァラを……離せ!」
「創!」
ヴァヴが地面に落ちても、創は攻撃を止めなかった。執拗に鋭い牙を立てる黒狼を、激昂した怪物が太い腕で叩きのめす。
「いやあ! 大兄ちゃん!」
妹の声に応えるように、黒狼は立ち上がった。
故郷の大地を踏みしめ、荒い息を吐きながら、鋭く、太い、咆哮を上げる。
「ハジメ……!」
その声は、倒せ! と告げているようで、リュカはこみ上げる思いを堪えながら、槍を構えた。
そうだ。まだ、戦いは終わっていない。
創は傷つきながらも、ほのみとヴァヴを守るように、しっかりと立っている。
リュカは翼を広げたまま、地面を駆けた。
「ごはんの、じかん、おわりだ!」
残った最後の頭が、口惜しげに牙を剥く。もう姿を消す力も残っていない。リュカは槍を振りかぶり、渾身の力で、その脳天を貫いた。
すべての魂を砕かれたストリゴイの体が朽ちていく。
あの湖底で見たように、解き放たれた魂は天に昇っていくのだろう。
すっかり力を使い果たし、地面に倒れ込みかけたリュカを、大きな手が支えた。
「そんちょう……」
「よくやった、ありがとうよ」
ふう、とリュカは息をつき、村長の手に寄りかかりながら、呟いた。
「オレ……もっと……ここにいたい……いて……いいか?」
「もちろんだ。前と違って、今回は誰も死ななかった。お前さんは、俺たちの英雄だぞ!」
村長が指でリュカの頭を撫でる。狼たちが駆け寄って来て、一番小さな黒狼が、ぴょんとリュカに飛びついた。リュカは彼女をしっかりと抱き締めた。
「リュカっ! 大丈夫っ!? 怪我してないっ?」
「ほのみは、だいじょぶか?」
「うん! 大兄ちゃんとお義姉さんが助けてくれたから!」
「そうだ! ハジメ! もどったのか!」
リュカが慌てて声を上げると、銀狼と二匹の黒狼に囲まれて、一人の青年が微笑んでいた。その体に、次武が龍神様の衣を咥えてきてかけてやった。
「ありがとう、次武。しばらくぶりに家族に会ったのに、全裸っていうのもね……」
「兄貴は会ってないつもりでも、俺達はずっと一緒にいたよ」
次武の声はいつも通り冷静だったが、隠しきれない嬉しさが含まれていた。
「頭殴れば戻るんなら、試しておけばよかったな」
三太がきししと笑う。
「創……」
「ヴァヴ」
傷を負いながらも傍にやって来た銀色の狼を、青年はそっと抱きしめた。
「ヴァルヴァラ、苦労をかけたね」
「あなたほどじゃないわ……」
青年の手のひらが、銀狼の頬を撫でる。ヴァヴの緑の瞳からじわりと涙が浮かんで、目許の毛を濡らした。
「……でも、会いたかった。夢じゃないのね……」
「うん。還ってきたよ」
何度もすり寄る銀狼を、創はしっかりと抱き締めた。
そんな光景を呆然と見つめるリュカに、彼は以前と変わりなく、毎日喋っていた頃のように、言った。
「やあ、リュカ。迷惑かけたね。日本での暮らしはどう? ほのみ、可愛いだろ?」
「大兄ちゃん……」
それまでのことなど何でもなかったのように軽口を叩く兄に、リュカの腕の中でほのみは呆れたように顔をしかめた。
「ハジメ……」
リュカは何か言おうとして、口をつぐんだ。
「リュカ」
ヴァヴが創から離れ、優しく促した。
創の心が戻ったら、なんて言うつもりだっただろう。
庇ってもらったから、ありがとう?
それとも、守れなかったから、ごめんなさい?
教えてもらったはずの言葉はどれも、すぐには出てこなかった。
「リュカ。おいで」
少年が顔はみるみる泣きそうに歪んでいき、結局、黙って創に近づき、その首に抱きついた。
「ハジメ……ハジメ……!」
「……なんだか、しばらく見ないうちに大きくなったなぁ」
創は目を細め、リュカの頭を撫でながら、嬉しそうに呟いた。
「泣いてるリュカなんて、初めて見たよ。こんなに感情豊かになったんだな」
「ハジメ……オレ、よわくなったか……?」
「いいや? 君は出会ったときと変わらず、強くて優しいよ。リュカオン」
創の胸の中で、少年は頷き、ぽたぽたと涙を落とした。懐かしい声。優しい声。聞いているだけで、涙が溢れた。ほのみはよく泣いてる。目から出るあの水は、こんなに温かくて、胸を痛くするものだったのか。これに耐えているのだから、ほのみは本当はすごく強いのかもしれない。
鼻を啜り、リュカは嗚咽を零した。
「ハジメ……オレ、さびしかった……ずっと」
「ごめんね」
子供のように泣くリュカの頭を、青年はずっと撫でていた。
「もう! みんな、待ってたんだからね! すっごい心配したんだよ!」
兄に抱き着く前にリュカの腕から飛び降りたほのみが、尻尾を立てながら怒鳴る。だがその目は、うるうると潤んでいた。
「うん。ごめんね、ほのみ。心配かけて。それから、眼鏡と金髪も」
「わざとだろ!?」
「こういう人だ。照れくさいんだろ」
「失礼よ、あなた。皆、私たちにとても良くしてくれたのよ」
ほのみも兄には言ってやりたいことがたくさんあったのに、リュカが先に創に抱きついてしまったので、すっかり出遅れた。元に戻った兄と、素直に感情を出すリュカを見ながら、しばらくモジモジとしていたほのみだったが、やっぱり我慢できなくなり、ぱたぱたと駆け寄った。
「――大兄ちゃん! 大兄ちゃん! うわああああん!」
「よしよし、泣き虫なのに、頑張ったんだね、ほのみ。えらいぞ」
のん気なその声を聴いただけで、怒ろうと思っていたことなんて忘れてしまった。すり寄ってわんわんと泣く小さな妹狼を、青年は愛しげに見やる。
「リュカ、ありがとう。ほのみたちを、守ってくれたんだな」
首に抱きついた少年は、まだ静かに涙を落としながら、こくんと小さく頷いた。
「――ええと……」
いつまでも泣きやまない妹と少年にしがみつかれながら、創は困ったように顔を上げた。
「こんなに泣かせてしまって……どうしよう?」
「どうって……。相変わらずね。自分で考えなさいな」
「喋れないときのほうが、真面目だったな」
呆れきったヴァヴと三太が冷たく言う。仕方なく次武が助け舟を出した。
「いつも通りでいいさ。お帰り、兄貴」
うん、と創は頷き、穏やかな声で全員に告げた。
「うん。遅くなったけど……ただいま」




