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厄災【5】―異形の願い―

 ――タベタイ! タベタイ!


 迷い家に拒まれ続けたストリゴイが、怒りの咆哮を上げた。

 大気を震わせる声は、何重もの声が重なる唸りだ。慟哭のようにも聴こえる、声ともつかないそれは頭に直接響き、体の内側を不快に掻き毟った。

 一度ははっきり見えた体も、陽炎のようにまた揺らぎ出した。現実とそうではない世界との狭間に見え隠れするように。

 これが、普段は姿を隠し、突然、自分たちの世界に侵蝕してくる異形。

 人間は妖怪を目の当たりにすると、こんなものが本当にいるなんてと驚き、恐れる。

 ほのみも今、信じがたい怪物を前にして、そんな人間たちの気持ちが分かった。

「あんな怪物に、お父さんやお母さん……大兄ちゃんは……」

 震えそうになる体を叱咤して、四本の肢でしっかりとその場に踏ん張る。

 そんな妹に、兄たちが心配して声をかける。

「大丈夫か、ほのみ」

「お前も村長の後ろに隠れてていいんだぜ」

「大丈夫……リュカがいるもん」

 黒ずんだ全身に浮かんだデスマスクが、今はすべて苦しげに目を剥き、口から唾液を垂らしている。醜悪な姿に、ほのみは目を逸らしたくなるが、堪えた。

 恐怖よりも、ほんの僅かに、怒りが勝っている。お父さんやお母さんだけじゃない。おじいちゃん、おばあちゃん、ヴァヴの家族、いままでやられてきた妖怪たち……そして、大兄ちゃんを傷つけ、リュカを苦しめてきた。こんな奴に、怖がることなんか、ない。

「奴は、飢餓状態に入ってるわ! 捕らわれないように気をつけて!」

 ヴァヴが叫び、身を低くして、唸り声を上げる。

 ストリゴイはいきなりばたんと地面に手を付き、獣のように四足歩行の姿になったかと思うと、凄まじい勢いで突進してきた。それを狼たちは素早く回避する。

 疫病神を背中に乗せた三太だけが、着地で足を滑らせて転んだ。

「うおおっ、あぶねっ!」

「三兄ちゃん、疫病神様! 気をつけてね! きっと、一番狙われてるから!」

「怖えーこと言うなよ!」

 疫病神は震えながら三太にしがみつき、その悪臭に三太が舌を出しながら呟く。

「こ、この神様、ストリゴイでも喰えねーんじゃねーの、臭くて……」

 次武が異臭にガンガンとしてきたとしてきた頭を振った。

「よせよ、それを考えても、試すとか出来ないからな」

「て、てめーら不幸なすりつけるぞ!」

「もう不幸だよ! さっきから何回転んでると思ってんだ!」

「う、うるさいやい! 俺だってなぁ、好きで疫病神なんじゃねえっ!」

 ストリゴイが狼たちを捕まえようと、無数の手足を伸ばした。狼たちは素早く逃げるが、手足から更に手足が生えてきて、触手のように伸びながら、彼らを絡め取ろうとした。

「いやあ! 気持ち悪い気持ち悪いっ!」

 きゃあきゃあ叫びながらも、ほのみは身軽に避け続けている。尻尾を捕まえられそうになったところに、ヴァヴが突進してきて、植物の芽のように生えた手を噛み千切った。

「あ、ありがとう、お義姉さん……!」

 グルルルと唸りながら、ヴァヴは果敢にストリゴイの手足に噛みつき、へし折っていく。その姿はいつもの穏やかな彼女とは違う、勇猛な戦士だった。

「なんてたくさんの命を奪ってきたの! 気をつけなさい、こいつはしぶといわ!」

 ほのみはヴァヴに助けられながら、懸命にストリゴイの動きを追った。

 本体が突進するスピードは遅いが、体が大きいので、先を読んで逃げないと押し潰されてしまう。しかも腕を伸ばす速度は目で追うのも難しい。だが、慣れてくると、一番身軽なほのみはひょいひょいと避けながら、ストリゴイの注意をわざと自分に向けるまでになった。

 とにかく疫病神を背負う三太に近づけさせないよう、ほのみがおとりになり、その隙にヴァヴと次武が手足に噛みつき、喰い千切っていく。

 突進はたやすく避けられるが、代わりに森の木々が犠牲になった。幹がへこんだ大木や、倒れてしまった若木を、ほのみは悲しげに見やった。

「山が、めちゃくちゃになっちゃう!」

 急いで倒さなきゃ、と、自分を捕まえようと伸びてきた腕をひょいと避けてから、ほのみは思いきってストリゴイに噛みついてみようとした。

「え……えいっ!」

 ぎゅっと目をつぶり、思いきり牙を立てる。が、兄や義姉のように、そこに頭を振って喰い千切るという動作が無かった。

 牙は黒ずんだ腕に深々と喰い込むも、千切れるに至らず、ほのみは目をぱちくりとさせた。

「えっ……」

 次の瞬間、別の腕にぐいっと尻尾を捕まれ、宙吊りにされてしまった。

「きゃっ……きゃあああああ! すけべぇ!」

「ほのみ!」

 鋭い声と共に白い腕が伸びてきて、ほのみを拘束する黒い腕を掴み、へし折った。

 投げ出されたほのみはくるりと一回転して、地面に下りた。

「オレのよめだ! さわるな!」

 いつの間にかすぐ傍に現れた少年は、自身の身の丈を超える武器を構え、素早く突き出した。

 植木でも剪定するように、あっさり腕を切断された、ストリゴイがたちまち後ずさる。

「リュカぁ!」

 音も気配もなく現れた少年に、ほのみは自分が狼の姿だということも忘れ、飛びついた。

 破れたタンクトップの上に、長く白い布をマフラーのように無造作に巻き、なんだかますますおかしな姿になっていたが、間一髪のところを救ってもらったほのみは嬉しくて、無意識に尻尾をぶんぶんと振った。そんな少女狼を抱え、リュカが声を上げた。

「ほのみ! すごく、かわいいぞ!」

「あっ……み、見ないで! あんまり! 黒いし、毛深いし!」

 ほのみは今の自分の姿を思い出し、今度はジタバタとリュカの腕から逃れようとした。リュカも真剣な顔で、こくんと頷いた。

「そうだな。ほかのおとこに、みられたら、たいへんだ。かわいすぎるから……」

「な、何言ってんの!」

 リュカはほのみをそっと地面に下ろし、白い衣をかぶせた。

「やっ……なになにっ?」

「すごい、ぬのだ。ストリゴイ、きづかなくなる。つかえ」

「えっ……ほ、ほんとっ!? あっ、もしかして、これって神器!? 龍神様の衣!?」

「みえないあいだに、はんぶん、たおした。おそくなった。ごめん」

 リュカは黒く細長い槍を構え、ストリゴイを睨んだ。そう言われてみれば、ストリゴイの腕がいつの間にか半分以上薙ぎ払われている。残った手足も、創とヴァヴと次武が喰い千切っていた。特に、創の動きは速く、力強かった。

「すごーい! リュカも大兄ちゃんも、ほんとに強いんだね!」

「……ほれたか?」

「え? あ、う、うん! リュカも、大兄ちゃんも、大好きだよ!」

 適当にあしらいつつ、ほのみはさっと布を咥えた。

「じゃあ、あたしはこの布、疫病神様にかけてあげるね!」

「ああ……やくびょうか……うん……」

 疫病神の名を聞いて、髭にまみれた唇の感触をうっかり思い出してしまったリュカはふっと暗い顔をしたが、ほのみは気付かず、喜びいさんで走り出した。

「できた、よめだ……」

 どこかで覚えた言葉を呟いて、リュカはストリゴイの前に立ちはだかった。

 白い背中が割け、黒いかぎ爪が生まれる。大きな飛膜を広げながら、リュカは槍を構えた。


 ――タベタイ、タベタイ……。


「ほんとに、か?」

 半分以上手足を落としても、顔を潰しても、ストリゴイは金切り声を上げ、笑っている。そう思っていた。けれど今のリュカには、泣いているように聴こえた。


 ――タベタイ……。


「なにをだ?」

 少年は、槍を構えたまま、深く腰を落とし、静かに長く、息を吸う。


 ――オイシイ、モノ……ダイジナ、モノ……。


「きっと、おまえたちも、たたかったんだな」

 泣いているのは、永遠に貪られ続け、何処にも還ることの出来ない魂たち。


 ――……タベ……イ……。


「そうか」

 大切なものを守るために戦い、敗れ、喰われた魂たちが流す涙まで啜り尽くす怪物。欲望に歪んだ魂を葬るため、きっと自分は生まれた。殺して、と遠い昔の記憶で聴いた声に、リュカは頷いた。あれがきっと、おかあさん、だ。その怒りで、自分は強くなった。

 その力で、異形を倒す。


 ――タベタク……ナイ……。


「わかった」

 山を荒らされて怒る女神の槍を携え、リュカは飛び上がった。振り返ったほのみたちの目にも留まらないスピードで、彼はストリゴイの頭上まで飛翔した。

「もう、おわりだ。……たべすぎは、ほのみがおこる」

 紫の瞳に燃えるような意思を宿し、彼は空中で静止すると、鋭い切っ先を真下に向けた。そのまま天敵目がけて急降下する。それを阻もうと幾つかの手が伸びたが、彗星のように宙から突進してきた少年を捕らえきれず、逆に真っ二つに分断された。

「リューちゃん! すげえ!」

「やったぁ!」

 妖怪たちの歓声が響く。が、鋭いヴァヴの声が飛んだ。


「まだよ!」

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