厄災【3】―疫病神―
ほのみたちが逃げたのを見届けたリュカは、宙吊りのまま、身を丸めた。
すでに破れている背中の布地を、更に突き破りながら、黒い翼が生まれる。直後、その翼ごと見えない手がリュカを握り潰すように掴んできた。
「くそ! みえない、なんでだ!」
またおかしな妖怪の能力を取り込んでいる。まさか自分が、ここまで近づかれても気付かなかったなんて。見えない腕から逃れようともがく間に、体の骨がバキバキと砕けていく。口の端から血が流れた。
「……っぐ、あ!」
激痛に身悶える。いつもなら耐えられるのに。昨日、力を使い過ぎたからだ。
宙に不自然にぶらさがった少年の手足が、だらりと垂れ下がる。見えない怪物は、笑って大口を開けているのだろうか。このまま自分は、あっさり喰われてしまうのだろうか。リュカを喰えば、こいつはまた強くなる。そしたら、今度は村を襲うだろう。みんなを。
「させっ……るか!」
自分を握り潰そうとする手を掴み、力を込める。砕けた体を再生させながら、腕に全身全霊の力を込め、こじ開ける。相手も黙ってはおらず、リュカの腕や翼を掴んで引き千切ろうとしてきたので、あえて引き千切らせて、その拘束から逃れた。
痛みと共にもがれた部分を再生させながら、リュカは心を怒りに燃え上がらせた。
生まれたときから胸の奥を焼いているこの感情。それが何なのか、ずっと分からずにいた。でも誰かがくれたこの心のおかげで、戦える。殺すためだけではなく、守るためにも。
空中で身を低くし、身構える。妖怪たちの小さな気配が、村のあちこちや、山のいたるところに感じられる。すぐ近くでリュカを喰らおうとしている見えないストリゴイは、風に紛れるようにして再び気配を絶った。
妖力をかなり消耗し、万全では無い。けれど、負けるわけにはいかない。
――クワセロ……。
獲物を捕らえようとするその一瞬の気配を感じ取り、リュカは素早く逃れた。樹木の枝が広がって絡み合う森の中は飛びづらい。見えない攻撃を避けることは出来るが、相手がどんな形をしているのかも分からないので、こちらから攻撃する機会が掴めない。
いずれはリュカのほうが消耗し、捕まるだろう。どうする? 逡巡していると、見えない攻撃が、ほこらを破壊した。
「ひえええ、おたすけー!」
ほこらの陰から、供え物を抱えた汚い男が転がり出てきた。野菜やお菓子をボトボトと落としながら、慌てて逃げて行く。
「あっ、やくびょう!」
ストリゴイの気配がリュカから離れた。逃げていく薄汚いその男から、神の魂を嗅ぎつけたようだ。リュカは狙われている疫病神に叫んだ。
「おまえ、ねらわれてるぞ!」
「なんでだよっ! おっ、俺は喰っても臭せーぞ!」
その言葉にはっとした。そうだ。
――あいつがくわれたら、すごくくさいストリゴイになる!
嫌な想像をしたリュカは慌てて地上に下り、疫病神の許へ駆けた。
「たすけるぞ!」
「えっ、マジ? って、うおあああああっ!?」
疫病神を狙った一撃が、木の腹を削り、草ごと地面を抉り取った。リュカはすんでのところで男の体に飛びつき、その悪臭に顔をしかめながら抱え上げた。だが走り出そうとしたその足許に、木の根が飛び出ていた。それに思いきり足をひっかけ、派手に転んだ。
「ぐえええ……」
地面とリュカとの間で潰れた男が呻く。その顔面からリュカも顔を上げた。
「……おえっ」
整った顔を歪め、リュカはえづいた。唇に生温かくて生臭い感触が残っている。
創に聞いたことがある。いまのは、すきなおんなのこと、するやつだ……! ほのみの可愛い顔を思い出しながら、リュカは愕然とした。
自分の肩で男の唾液がついた口許をごしごしと拭い、半べそをかきながら、リュカは走り出した。男はお姫様抱っこの姿でしっかりとしがみ付いている。
「い、いいのかっ!? これ、めっちゃヤな絵ヅラになってるぞ!」
「うるさい! オレもいやだ! くさい!」
何度も石や木の根につまづきそうになりながら、リュカはめげずに走った。
「あっ、クサいって言ったな! 人の唇を奪っておいて……あ、神か」
「うるさいうるさいうるさい! さっきの、ほのみには、いうな! ぜったい、いうなよ!」
「黒歴史みたいにしないでくんない!? 別に、助けてくれとか頼んでねーし! ふーんだ、いいですよーだ! ムリに助けてくれなくても!」
ぷんと顔を背ける男を放り出したいのを堪え、怒鳴った。
「オレからはなれるな! あと、ふろ、はいれ!」
「風呂付きの家ばっかりと思うなよ!?」
「じゃあ、オレんちではいれ!」
「えっ、いいの!? 疫病神を家に入れても!」
お姫様抱っこをされた疫病神が、汚れた髭だらけの顔をぱあっと輝かせた。可愛くない。
「お前、良い奴だなぁ……俺を助けてくれるし、家に招かれたのなんて何百年ぶりかなぁ。イケメンだし……ファーストキスの相手だし……やだ、惚れそう」
疫病神が目を潤ませながら、ぽっと頬を赤らめる。それはまったく目に入れず、リュカは必死に走った。腐っても神だ。リュカより先に狙われる可能性のある男を一人逃がすのは返って危険だ。離れず、近くで守りきるしかない。
ストリゴイが攻撃を繰り出す。飛び上がって避け、着地したときに草で滑って足を取られる。
リュカは背中を強く打ちつけながらも、しっかり疫病神を抱き締め、守った。
「ダーリン! このままじゃ、やられちまうぞ!」
「だれだ……それ……」
よろりと立ち上がり、リュカは大きく息を吐き、次に吸ったとき、疫病神の悪臭をまともに吸い込んでしまい、ゲホゲホとむせる。なんだか敵が二体いるようだ。
「ダーリン、俺を離しな。俺は疫病神……俺と一緒にいる限り、不幸が振りかかっちまう」
疫病神が、優しい声で告げた。リュカの胸に縋り、タンクトップの胸を掴む指に、ぎゅっと力を込める。気持ち悪い。
「歩けば転ぶし、財布は落とすし、好きな子にもフラれる……そして、そのうち攻撃は当たって……死ぬのさ。それが疫病神と運命をともにした者のさだめ……」
「やくびょう……ぶっ!」
ストリゴイの攻撃で折れた木の枝が、頭の上に落ちてきた。後頭部を強打したリュカはよろめいたが、それでも両足を踏みしめ、男を抱いて再び走り出す。
「えっ、は、話、聞いてたか!? 俺と一緒だとお前……」
「だめだ。おまえ、よわそうだから、すぐ、くわれる。それは、かなしい」
「そんなこと言わないで……好きになっちゃダメなのに……好きになっちゃうじゃない……」
「う……そ、そうか……」
とろんとした目で自分を見つめる男から、リュカは目を逸らした。
だが、男の言う通りだ。このまま逃げているだけでは埒があかない。
こんなとき、誰かがいてくれれば。さっきのように、創が、ヴァヴが、来てくれたら。
自分は強いと思っていた。でも、守るための戦い方なんて知らなかった。彼らが教えてくれた。まだ、知らないことがある。教えてもらいたいことがある。彼らに頼りたい。
子供たちを安全な場所に逃がしたら、再び引き返してくれるはずだ。まだか。まだか。走ってはつまづきながら、リュカは唇を噛んだ。
「リュカぁ!」
高く可愛らしい声が、遠くから響いた。その声を追い抜かんばかりの勢いで、小柄な黒い狼が駆けてきた。まるで小さなつむじ風だ。
「ほ、ほのみ、か……?」
目を見開くリュカに、あっという間に追いつき、小さな黒狼は更にぐんとスピードを上げた。
「こっち! この先にある崖を下りて!」
青く茂った草の中をするすると抜け、獣道を迷わず駆ける。森を抜け、土がむき出しの崖に出ると、彼女は軽やかに岩場を駆け下り、リュカも疫病神を抱えたまま、跳んだ。
「ぎぃやぁぁぁぁぁぁ!」
疫病神が叫ぶ。また森の中に入る。リュカには同じような景色に見えるが、彼女には目指す方向がはっきり見えているようだ。しばらくして、木と草だらけの森の中にぽっかりと急に地面が剥き出しになっている場所に出た。昨日、リュカがストリゴイと戦った場所だ。
そこに、大きな狼たちが待ち構えていた。三頭の黒狼と一頭の銀狼。
「疫病神様は、あたしたちが守るから! リュカは思いっきり戦って!」
「よし!」
リュカは疫病神の体を持ち上げると、狼の群れに向かって思いきり放り投げた。
「ぎゃああ! あ……痛くない……フカフカ~」
次武と三太がクッションになり、疫病神を受け止める。途端、その臭いにえづいた。
「く……くっさ!」
「この姿だと、鼻が良いのが仇になるな……」
「お前ら! 俺が疫病神って分かってて、守るなんて言ってんのか! 死ぬぞ!」
「分かってるよ! 分かってるけど、見捨てたら、疫病神様が喰べられちゃうでしょ!」
唾を吐きながら叫ぶ神に、今は小さな狼となったほのみが怒鳴り返す。
「疫病神様だって、村の仲間だもん! あたしたちが守るからね! 離れちゃダメだよ!」
きゃんきゃんと叫ぶほのみを、疫病神が熱っぽい目で見つめる。
「っ……そんなこと言うと……惚れちゃうぞ……? ちょっと毛深いけど」
「ダメだ! それはオレのだ!」
「けっ、毛深くないわ! 今だけよ!」
リュカとほのみが同時に怒鳴る。
しかし、追いついたストリゴイの気配を察し、リュカは皆を守るように立ちはだかった。
「この、ストリゴイ、見えない! 気をつけろ!」
「そりゃ~、喰われた、ぬらりひょんの力だなぁ~」
突然響いたのは、間延びした村長の声だった。いつもより大きく、まるで山が喋っているかのようなその声が、地響きのように木の葉を揺らした。




