狼の少女【2】
暗くて冷たい。
その感覚は、雪に閉ざされた寂しい森を思い出す。
視界の隅にずっと白い糸のようなものがゆらゆら揺れていることに、わずらわしさを感じていたが、濁った水の中で目をこらすと、それは彼自身の髪だと気付いた。
体にはストリゴイの舌がロープのように絡んでいる。自分を捕食しようと絡めてきた舌を逆にしっかりと掴み、水底に引きずり込んだ。近くに誰も住んでいない、寂しい湖。そこでなら誰も巻き込むことなく、化け物を葬れる。そう思った。けれど、リュカ自身も水の中では動きが鈍くなり、体が浮かなくなった。それでもしっかりとストリゴイを沈め続け、ずいぶん長いこと暴れていた怪物は、先に動かなくなった。
重たい水に体を押し潰される。溺れ死に、そのたび何回くらい蘇る力が、自分に残っているだろう。なんとしてでも這い上がって村に戻ろうという気力は、すでに彼から薄れている。
だって、オレがいると、ストリゴイがくる。
だったら、いないほうがいい。
水の中で目を開けると、まるで上空から村を見下ろしたときのように、いくつもの屋根が泥に埋もれているのが見えた。朽ちた家の間をぬうように、大きな蛇のような影が通り過ぎる。
体そのものが水と一体化しているかのように、気配もなく、静かに、リュカや死んだストリゴイの周囲を回遊している。妖怪でもストリゴイでもない。そうか、これも、かみさまか。リュカは思いながら、瞼を閉じた。この湖を守っている神様だ。そこを突然荒らした自分を倒しにきたのかと思ったが、穏やかにリュカの傍を通り過ぎるだけだ。怒ってはいないようで、リュカはなんとなく安心した。
蛇のような神が起こす水流に乗って、ストリゴイの体がぼろぼろと崩れ、いくつもの魂が水面に向かったのを見た。絡んでいた舌も崩れ、水に溶けていったが、少年の体だけは浮き上がることなく、湖底に沈んだ。目を閉じると、瞼の奥にこれまで出会った者たちの姿を思い出し、体の奥が軋むように痛んだ。その感情の正体は分からない。ただ、会いたい。もう一度だけでも。あの小さく温かい手に、もっと触れてみたかった。
水流に乗って、たくさんの魂が消えていく。もうすぐ自分もあんなふうに消える。それでいいと思ったはずなのに、何故か助けを求めるように、最後に手を伸ばした。
「――リュカ!」
河童や人魚といった泳げる妖怪たちが、暗く深い水底を捜索し続け、ようやく引き揚げられた少年の体は、いつもより肌が青白く、氷のように冷たくなっていた。
「お願い、しっかりして! リュカ!」
次武が狼の姿のまま、前肢で力強く胸を押している。意識の無いリュカが大量の水を吐いた。
「おおい、ジョージ! 吸血鬼が溺れたときの蘇生ってのはどうすんだ!」
村長が叫ぶと、ジョージが携帯電話を耳に当てながら、慌てて頷いた。
「あ、いま、母上に訊いてます。――あ、ママ? あ、そうなの。途中まで人間と同じでいいんだね? それから、血だね。それって、誰の血がいいとかあるのかな。ほら、あるじゃない、血液型はどれとか、生娘のがいいとかさ……」
「人工呼吸して、血を飲ませろってよ! 生娘の!」
早とちりした村長の言葉に、その場にいた全員が思わずほのみを見た。
ジョージの言葉を聞くやいなや、少女は人間の姿に戻っていた。一糸まとわぬ裸体だ。
「ほっ、ほのみっ!」
「服、服!」
ヴァヴが慌ててほのみの前に立ちはだかり、村人の目から裸身を隠す。三太もくわえてきた服を傍に置きながら、一緒に壁になった。本人はそんなことも構わず、片手でリュカの顔をしっかり支え、もう片方の指でリュカの鼻をつまむ。
「次兄ちゃんは、リュカの胸押してて!」
ほのみは大きく息を吸い込み、少年の唇に自分の唇を押し当てた。
人工呼吸の間、リュカの胸を次武が前肢で力強く押し続けた。しばらくそうしていると、リュカが再び大量に水を吐き出した。ジョージが横から口を挟む。
「息を吹き返したら、血を飲ませてください。僅かでも力が戻れば、ヴァンピールの生命力なら自力で蘇生してくるはずです。あ、別に生娘じゃなくていいそうですけど……」
「ごめん、大兄ちゃん! 噛んで!」
傍らで見守る創に向かって、ほのみが腕を差し出す。妹の必死な思いに答えるように、創はその細い腕に躊躇無く噛みつくと、牙を立ててその皮膚を裂いた。
「ほのみ!」
「おい、無茶すんな!」
ヴァヴと三太が声を上げる。ほのみは傷ついた血管から溢れ出した血をリュカの口許に近づけた。途端に彼は唇を閉じ、血を飲もうとしない。
「飲みませんか? では、彼の鼻に近づけて、血の匂いを嗅がせてみてください。普段飲みつけていなくとも、本能が刺激されるはず……ですけどね……」
ジョージが不安げに言う。その通りにしてみても、ますます拒むように歯を食い縛っている。
「お願い、リュカ……ちょっとでもいいから……飲んで……!」
このままでは無駄に流れ出るばかりの自分の血を、ほのみは指ですくってリュカの口に差し入れようとしたが、やはり唇を硬く閉ざし、決して受け入れようとはしない。
ほのみは泣きそうに顔を歪めた。
「どうして……? 美味しくなくても、飲んでよ……。じゃないと、死んじゃうのよ……」
「母親から受け継いだ人間の部分が、ヴァンパイアの本能を否定しているのかもしれない。たとえ無意識でも……血を啜るなんて、この子には……」
ヴァヴがもどかしげに呟く。
「仕方がない。ほのみ、人工呼吸だけでも続けよう」
そう次武が言ったが、ほのみは諦めず、リュカの蒼白の顔を見つめた。
「次兄ちゃん、どいて」
ぐったりした少年の体に馬乗りになって、生気のまるで残っていないかのような、冷たい手を取る。幼さの残る少女の裸体が、月の光の中に浮かぶ。その右腕には鮮やかな赤い血が滴っていた。生命の象徴のような赤。それを少女は自らの口に含み、少年の唇に押し当てた。
「ほのみ……」
その横で次武が、目を見開いて呟く。
ほのみはリュカの頬に手を当て、冷たい体に覆いかぶさった。軽く唇を合わせ、手のひらで白い頬を撫でながら、きつく閉じられた唇の間に舌を滑り込ませる。
生臭い自分の血で濡れた舌で少年の歯をなぞると、彼は血の味を嫌がるように顔を背けようとした。その頭をそっと腕の中に抱き、優しく押しとどめる。
髪を撫で、少女は心の中で少年に語りかける。大丈夫。怖くないよ。あたしもちっとも怖くない。リュカに血をあげるくらい、なんでもない。
祈りが通じたかのように、彼は少女を受け入れた。僅かに開いた口に、ほのみは素早く舌を滑り込ませ、彼の冷たい舌の上に血を移し与えた。
こくりと喉が動き、飲み込んだのを確かめてから、そっと唇を離す。濡れた胸が上下し、口の端から息が漏れた。ミルクを飲む赤ん坊に母親がそうするように、頭を支えながら撫で、また血を口に含んで運ぶ。合わせた唇の間から血が滴り落ち、少年の頬と少女の裸身を汚した。
彼らの家族も、騒がしい妖怪たちも、黙ってその光景を見守っている。
やがて、長く白い睫毛に縁取られた瞼が震え、少年の呼吸は穏やかになった。かすかに指が動き、氷のように冷たかった手が、しっかりと少女の手を握り返す。
水に濡れた瞼の間から、一筋の涙が流れ落ちたのを、ヴァヴは見た。傍らで二人を見守る黒狼に寄り添い、鼻を啜るようにひくつかせた。
「……泣いてるわ……あの子が……。リュカが、泣いてる……ねえ、あなた……」
そう声を震わせる彼女も、目を潤ませていた。
「きっと……もっと、生きたいって、思ってくれたのね……」
家族と妖怪たちに見守られながら、少年は少女の腕の中に戻ってきた。




