狼の少女【1】
「リュカぁ!」
荒れ果てた森を、ほのみは泥だらけで駆け回り、何度もその名を呼んだ。
「どこなの、リュカ!」
リュカを追いかけていったはずの創が集会所に飛び込んできたとき、黒い毛のところどころが焼け、後ろ肢の一本を僅かに引きずっていた。出来たばかりの戦いの傷だった。
手当てをしようとするほのみたちを振りきり、創は再び山に向かって走り出した。それから、彼の姿は見ていない。ただ、山のあちこちに、生々しい戦闘の痕跡が残っていた。
さすがに宴会気分も吹っ飛び、妖怪たちも総出で山狩りをしている。
「おおい、こっち、もっと照らせ!」
懐中電灯やランタン、ちょうちんに混じり、ふわふわと鬼火が浮いている。それらが照らすのは、落雷以上に凄まじいダメージを受けた森の一部だ。
「あっ、おいっ、鬼火気を付けろ! 茂みが燃えてるじゃねーか!」
「ちげーよ、元々燃えてたんだよ!」
「あちちっ、なんかすげー熱いモン踏んだっ! あっ、俺燃えてる!」
「土かけろ、土!」
樹木が倒れ、背の低い草木は燃え、土が剥き出しになっていた。かちかち山のように火の付いてしまったタヌキに、慌てて土をかけている。
「前に外道が来たときは、こんなふうにならなかったよな」
「でも、あんときもすごかったぜ。すげえ竜巻を起こしてきて」
言い合っている妖怪たちに、ヴァヴが声をかけた。
「ストリゴイは、同じ能力を持つとは限りません。ストリゴイ化する以前の能力、ストリゴイになることで新たに得る能力、そして餌となったモンスターの能力。さまざまな能力を持つのです。必ずしも同質の力を持っているわけではなく、その強さはバラバラです」
「なるほどなぁ」
村長が大柄な体を屈め、地面のいたるところに落ちている液体を見つめる。
「これがこのへんを、はげっちょろにしちまったのか……お、指溶けた」
粘ついた液を指で掬うと、じゅっと指先がただれた。周囲が見守る中、躊躇もせず溶けた指先をぺろっと舐め、舌を焼く粘液の味を確かめる。
「あっ、美味い! お前らも食ってみろよ! 舌が溶けるけど」
「やだよ! 村長みたいに舌の皮厚くねーし!」
「さっぱりとしていなくて、それでいてしつこい……うん、こりゃあ、油だな」
「油? なんで油?」
「喰われちまった妖怪の特性ってことじゃねーか?」
「油すましか?」
「どこの村の奴だろ。可哀相になぁ……」
南無南無、と呟きながら、妖怪たちが手を合わせる。
「オイオイ、手ぇ合わせるのは早いだろ! いまはリュカを捜してくれよ」
頭部に金のメッシュが入った黒狼が声を上げる。狼化した三太だった。鼻をひくひくと動かしながら、近くの茂みに顔を突っ込み、顔をしかめる。
「クセッ! ストリゴイってクセーんだな。鼻が利かねーよ」
「お前が酔ってるからじゃないのか?」
次武が冷たく言う。彼も黒狼の本性を晒しているが、眼鏡をかけることが出来ないからか、酷く目つきが悪くなっている。
「や、ほんと二口だけだし……」
「その、油すましというのは何者なんですか?」
ヴァヴの問いに、村長が答えた。
「うん。油舐めとも言ってなぁ、その名の通り、人んちに勝手に入ってペロペロ油を舐めるだけっつー、マジでクソの役にも立たねー日本の愉快な妖怪だ」
「でかいだけの男がゆーな! 油が落ちたらその後の洗いもんが楽になるだろ!」
心外そうに言ったのは、村に住む油すましの老人だ。見た目は痩せぎすの普通の老人が、いきなりべろりと舌を一メートルも伸ばし、地面に落ちた油を舐め、すぐにぺっと吐き出した。
「なんじゃあこりゃああ! マ、マヨネーズとはなんつー邪道! ったく、最近の若いモンはマヨラーとか言って、んなモンばっか舐めてるから妖力が衰えて、喰われっちまうんだよ!」
「マ、マヨ……ですか……日本ではストリゴイまで独特なのね……」
「マヨラーのストリゴイかよ……そんな奴にやられたくねーな」
「進化の方向性はともかく、脅威には変わりないだろう」
「そんなことより、リュカはどうしちゃったの!」
言い合う家族に向かって、ほのみは焦った声を上げた。
「リュカは、一人で戦ってるんだよ! お願い、早く捜して!」
「でもよぉ、ほのちゃん。山のどこかで戦ってる様子なんてしねーしよぉ……」
「もしかして……リュカ坊……とっくにやられちまったとか……」
「そんなわけない!」
妖怪たちの言葉に、ほのみは激しく頭を振った。ヴァヴが声をかける。
「大丈夫よ、ほのみ。一個体のストリゴイが、どれほどの特殊能力を持っていたとしてもリュカを倒せるとはとても思えないわ。苦戦はしたにしても……」
「いつもみたいな戦い方が出来たとも限らねーかもよ。リュカの奴、頭に血が昇ってたし」
三太の言葉に、ほのみは焦った声を上げた。
「だったら、大怪我して、どこかで動けないでいるのよ! 早く助けなきゃ!」
くすくすと笑う幼い声が、全員の耳に届いた。一斉に顔を向けると、少し離れた木々の間に、赤い着物の袖をひらめかせ、童女が笑い顔を覗かせている。
「ミマモリ様……」
「あいあい」
気まぐれな童女神の姿を見た妖怪たちは、がばっと地面に手をつき、ぺこぺこと頭を下げた。
「こうなりゃ、神頼みだ! ミマモリ様、リュカ坊の居場所を教えてください!」
「どうぞ、お助けくだせええっ! お供えは弾みます!」
「ミマモリ様の大好きな、村人全員参加鬼ごっこ、やりますから!」
皆に拝まれて嬉しいのか、ミマモリ様はきゃっきゃと笑い、両手をばたばたと振った。
ほのみも手を合わせ、膝をつき、小さな神を見上げた。
「お願い……ミマモリ様、知ってたら、教えて……。リュカが、いなくなっちゃったの。リュカは村の為にストリゴイと戦って……でも、どこにもいないの……」
「あい」
項垂れるほのみに、ミマモリ様はうんうんと頷き、告げた。
「じゃぶじゃぶ、ぶくぶくー」
謎の神託を残し、ふっと闇の中に消えた。妖怪たちは近くの者と顔を見合わせた。
「じゃぶじゃぶ……ぶんぶく……茶釜?」
「ぶくぶくだろ」
彼らが頭をひねっていると、遠くから狼の遠吠えが届いた。ヴァヴが声を上げる。
「創の声だわ!」
「そうか、じゃぶじゃぶは、湖だ! 龍神湖のことだ!」
耳をしきりに動かしながら、次武が叫ぶ。遠吠えは確かに、湖の方角から聴こえてくる。
「じゃあ、ぶくぶくってのは……」
三太が口にしたとき、一人だけ山に不似合いな絹の白シャツ男が、おずおずと近づいて来た。
「あのー……ちょっと、いいですかね?」
「はいはい、嘘つきジョージ。後でな。いま忙しいから」
「三太くん、この状況で嘘つきませんよ。ていうか、いつもちょっと盛ってるだけじゃないですか、人聞きの悪い……。じゃなくて、ヴァンパイアならではの意見をですね……あ、いてて、ちょっと三太くん噛まないで。実はですね、私たちヴァンパイアって……」
「もったいぶんな! この状況で」
「や、ですから私たちヴァンパイアは……」
唸る三太を恐ろしげに見やりながら、ジョージはこほんと咳払いした。
「泳げないんです」
その瞬間、時間が止まった。すぐに動いたのは、一人だけだった。
「ほのみ!?」
ヴァヴが声を上げる。皆が見ている前で、少女は着ていたTシャツを脱ぎ捨てていた。履いていた靴を放り出し、靴下を、ショートパンツを、躊躇なく次々と脱いでいく。
「どっ、どうしたの、ほのみっ……!」
「邪魔だから、こんなの!」
目を見開いているヴァヴに、ほのみはきっぱりと告げると、とうとうキャミソールと下着だけの姿になり、地面に両手足をついて、吼えた。
「あ、……うあああああ!」
あまりに久しぶりで、その嫌っていた姿のことをちゃんと覚えているか、自信が無かった。
だが、それは杞憂だった。なぜならその姿は、元々彼女のものなのだから。
「うあああ、ああああ……う、……オオオオオン……!」
高い声が唸りに変わり、愛らしかった少女の姿も変質していく。
あたしは、綺麗なお義姉さんと違って、黒くて、ごわごわで。ちっとも可愛くない、この姿が大嫌い。誰にも、リュカにも見せたくない。でも、そんなのもう、どうだっていい。
髪が逆立ち、華奢な体が歪む。薄く体を覆っていた下着が破れ、首に、肩に、脇に、背中まで黒い体毛が広がり、下肢へと続く背骨のラインからそのまま尻尾が伸びる。
細かった手足は太く逞しく、しっかりと大地を踏みしめた。
大きく裂けた口に、鋭い牙を覗かせながら、彼女は吠えた。
高く、鋭く。少年を呼ぶような遠吠えが、遠くの山々に反響する。
そして、駆け出した。




