こころ
少年と黒狼は、暗い山中をひたすら歩いていた。
東欧の森とはまるで違うが、陽が落ちればその闇の深さは同じだ。
「けはい……わからない……。どうしてだ……」
異質なその気配を、今までなら隠れていても見つけ出せた。だが日本では、多くの人間や妖怪や、精霊や神様までひしめき合っている。種類も数も多過ぎる。それが感覚を惑わせ、リュカを苛立たせる。
ここにヴァヴがいれば、東欧と日本での戦いの違いを、明確に教えただろう。それまでストリゴイを狩る側だったリュカに、守るものは無かった。が、ここでは防衛側だ。守るべきものが多い上、相手は神出鬼没だ。そんな状況に慣れていないリュカは焦っていた。
村の者たちの気配が、いちいち気になってしまう。どこかにほのみの気配を感じると、彼女のことで頭がいっぱいになる。ほのみは戦えない。そんな存在と一緒にいたことがない。だから探すべきストリゴイの気配よりも、彼女の気配のほうが気になってしまうのだ。あの少女が、急に消えてしまったら。そんなことを考え、傷ついた創の姿と重なって、胸がざわつく。
それが不安という感情だということも、彼は知らない。
「でてこい!」
リュカはどこにいるかも分からない敵に向かって、怒りの声を上げた。その声は虚しく木霊し、そして闇に消えた。暗がりに紛れた黒狼が、慰めるようにその身をすり寄せた。
黙ってついてきてくれる彼は、以前ならこんなときに必ず言葉をくれた。リュカが苛立っていても、穏やかな言葉で根気強く語りかけ、気が落ち着くまで傍に居てくれた。
この村に来て、その役目はほのみになった。彼女は創と違ってすぐ怒るし、口うるさいけれど、言うことを聞かないリュカの傍にいつまででも居てくれるところは、創に似ていた。
道の無い急斜面を進んでいると、少し先の木と木の間に、不自然な赤色が見えた。着物姿の童女が手招きし、闇にぼんやりと浮かび上がった赤い袖が、ひらひらと揺れている。
「ミマモリさま……?」
前に見たことのある小さな神の名を、リュカは呟いた。
ストリゴイは何でも喰う。それは神でも例外ではない。疫病神もそう言っていた。
「ここは、あぶないぞ!」
リュカはひらりと飛び上がり、創にまたがった。創は力強く斜面を駆け上がり、童女が手招きするほうに向かったが、袖をひるがえし、彼女は闇の中に消えた。
「いない……?」
あの疫病神と同じだ。現れたと思ったら、かけらも気配を残さず消えてしまう。妖怪ともストリゴイとも違う、不思議な存在。
ともあれ、居なくなったのなら、喰われることもないだろう。
「ハジメも、ついてくるな。むらにかえれ」
リュカは黒狼の背を降り、その背を撫でた。
彼は何も答えず、黙ってリュカの目をじっと見ていた。その首に、リュカは腕を回した。
「ケガすると、ほのみが、なくぞ」
首筋に顔を埋めながら、ぽんぽんと背中を叩く。
「オレも……かなしい。もう、ケガ、するな」
生まれたときから一つだけ持っていた、強い感情がある。それは怒りだ。異形を滅ぼさんと、身を焦がすようなその激しい衝動以外、知らなかった。
けれど、創と出会ってから別の感情が次々と芽生えた。
たのしい、や、うれしい、は、すきだ。
でも、かなしい、と、さびしい、は、きらいだ。
そう気付いたとき、素直にそれを創に伝えた。彼は微笑んだ。
(それが、心だよ。リュカ)
黙っている黒狼の姿と、記憶の中の青年が重なる。少年の顔から作りかけた笑みが崩れる。
「ハジメ……。こころも……ケガ、するんだな」
リュカは片手で、自分の胸を押さえた。
「ここが、すごく、いたい……。オレは、いたいのは、へいき、なのに」
創とヴァヴに出会ってから、楽しいことや嬉しいことがたくさんあった。
それが灰澤村に来て、もっと増えた。
けど、そうしたら、悲しくて、寂しくなった。
誰かがストリゴイに喰われたら、悲しい。
誰かを失ったら、寂しい。
それを思うと胸の奥をかきむしって、痛みの塊を取り出してしまいたいほどに、苦しくなる。
「ハジメがケガしたとき、いたかった。ここがいたいのは、もういやだ。だから、かえれ。ケガしたら、また、ヴァヴが、なく。ほのみも、なくぞ。あいつ……なきむしだから」
リュカは立ち上がり、狼から離れた。
「ほのみ……ツグム、サンタ、みんな、すきだ……。むらのみんな、すきだ。だから、オレは、ひとりでいい。さびしい、けど、そのほうが、いい」
そのときだった。創がリュカを庇うように、その前に立ちふさがり、牙を剥いた。
空に向かって激しく唸る。リュカも顔を上げた。
――……タイ……。
言葉じゃないはずなのに、言葉のように響いてくる声。不快だが、ようやく耳にして、嬉しくさえあった。
――タベ、タイ……。
「ハジメ、おまえはかえれ!」
リュカは叫んだ。その背を突き破って翼が生まれる。それは彼を抱く母親の腕のように、大きく広がった。どこまでも敵を追っていくために、与えられたもの。
武器は無いが、そんなもの無くて構わない。元より自分の体が武器なのだ。
きっと、奴らを殺すために、自分は生まれてきた。
――オマエ、タベタイ!
太い男の声が響く。
さっきまで木の枝が広がっていた頭上に、突如、それは現れた。
「ストリゴイ!」
少年は異形の名を呼んだ。人の形に似た、黒ずんだ肉塊。体長は成人男性の三倍ほどもあり、胴回りもいやにずんぐりとしていた。重量があり、耐久力もある個体だ。
かくんと首が折れたように曲がった頭は、男のもの。それがストリゴイ化する前の本来の顔なのだろうが、皮膚はどす黒く、目の部分には眼球が無く、口は耳まで裂けて、何本もの舌をだらりと下げた姿は、もはやかつての面影など失われている。
全身に無数の枝が突き刺さっているように見えるのは、あらぬ方向に捻じ曲がった、たくさんの手足だ。体中に多くのデスマスクを浮かび上がらせ、折れた傘のような羽をいくつもぶらさげている。魂まで喰い散らされた者たちは、そうしてストリゴイに取り込まれ、永遠に弄ばれ続けるのだ。
久しぶりに見る、おぞましい姿に、リュカは水を得た魚のように勢いづいた。そうだ。ストリゴイを倒す、それだけをやればいい。今まではそうしてきた。
大勢の弱い妖怪たちが集まる村ではなく、こちらに来てくれたのは好都合だ。
リュカの強い妖力を感知したのだろう。より強い力を取り込み、糧にするために――。
そう考えたとき、リュカははっと顔を強張らせた。
「あ……」
どうして、気付かなかったのか。
こんな簡単なことに。
強い力を求め、貪欲に獲物を求める怪物。より多く、より強い魂を奪うために、永遠に彷徨い続ける、哀れな欲の塊。
奴らを見つけるのは、得意だった。それは、そのはずだ。奴らも、リュカを探していたのだから。それが――ごちそうの、意味だ。
呆然と立ち尽くし、リュカは白い顔を上げた。紫の瞳を、ぼんやりと天敵に向ける。
黒狼は少年を守るようにまとわりつき、激しく吼えていた。
「おまえが……ねらってるのは……オレか……」
返事をするように、無数の口が一斉に開く。そのすべてがにたりと笑ったように見えたかと思うと、きつい臭いがする雨が降ってきた。
創が体当たりで突き飛ばし、わずかに直撃を免れたものの、片翼にまともに喰らい、どろりと焼け爛れる。だがリュカは気にも留めなかった。怪我なんてどうせ治る。
そう簡単に、自分は死なない。奴らとさして変わらないのだ。徹底的に潰されて肉片となるまで戦うことが出来る。
守るべき存在を得て、ようやく分かった。
この力はきっと、奴らを倒すために。
そして、奴らをあぶり出すために、あった。
力以外のものを持たずに生まれてきたことにも、意味はあった。
最初から、持っては、いけなかったのだ。
大事なものなんて。
「ストリゴイ!」
リュカは目に光を宿し、敵を睨み上げた。
「おまえの、ごちそう、ここだ!」
少年が叫ぶと、異形は応えるように、嬉しげな声を上げた。野太い男の笑い声のようで、獣の唸りのようにも聴こえる。耳障りだ。早く視界から消してやりたい。
ブヨブヨとたるんだ腹に無数の口が開き、雨のように唾液が滴る。今度はたやすくかわしながら、半分焼け落ちた自らの片翼を掴み、引き千切った。
体の一部を切り離す激痛の後、傷口に焼けた棒を突き刺すような新たな痛みを伴いながら、新しい翼が生える。呻き声一つ上げることなく、リュカは翼をはためかせ、飛んだ。
殺す。殺す。その衝動に、頭の中が、胸の内が、全身が、侵されてゆく。
殺す。あいつは殺す。全部殺す。そうしなさいと誰かが言う。それは遠い昔の記憶だ。
体全体を撫でられるように、誰かが自分を包んでいた。
その誰かが、歌うように繰り返す。あれは悪いもの。あれは滅ぶべきもの。甘く囁くように言い聞かせる。産まれてきても、覚えていて。優しい女の声が告げる。ヴァヴのように柔らかく、ほのみのようなあどけなさも残した声が、心の奥底から囁く。
あれを殺して。ずっと、ずっとよ。憎たらしい、わたしの、赤ちゃん。
そのために、あなたは産まれてくるの。
「ころす……ずっと、ころす」
記憶の声に従い、少年は幼子のように素直に頷いた。掴んだストリゴイの腕を力任せに引き千切る。自分を呼ぶように地上で吼える黒狼の声も、今は遠くに聴こえた。




