リュカの苛立ち
その日以来、リュカは遊びも勉強もせず、創とヴァヴを連れて山を走り回るようになった。
山で一瞬感じたストリゴイの気配は、あれから感じないという。だが、彼は懸命に追っていた。朝食を食べてすぐ出て行き、夕飯の時間まで戻って来ない。
ほのみを連れて行ってくれることは無くなった。一度、彼を追いかけて山に入ると、ひどく叱られてしまった。それ以来、一緒に行動していない。
「リュカ、ここのところ子供たちとも遊ばないし、なんか怖い顔してるし、あたしが山に行こうとすると怒るしさ……」
夕食の準備をしながら、ほのみは次武に愚痴をこぼした。
リュカは村の皆にも山に入らないよう訴えたが、仕事で山に入らなければならない者もいる。この村の妖怪たちは人間と同じ暮らしをし、食べていくために仕事をして金を得なければならないのだと、村長や次武やヴァヴに諭され、しぶしぶ納得したようだった。
それで朝から晩まで山を見回っている。そうしないと気が済まないらしい。
「山ならあたしのほうが詳しいのに……」
「食事の時間になればちゃんと戻って来るし、兄貴も義姉さんもついてる。お前は少し過保護過ぎるぞ」
「えっ……そ、そんなことないと思うんだけど……」
「お前のそういうところ、兄貴に似てるな」
次武が玉ねぎをトントントンとリズムよく刻みながら、言った。
「そうかなぁ……。大兄ちゃんはのんびりしてて優しいけど、リュカと一緒にストリゴイと戦ってたんだよね。そんなの、あたしは出来ないよ……」
ボウルの中でじゃがいもを潰しながら、ほのみはふうと息をついた。
「もし……本当にストリゴイが来たらどうしよう……」
力無く言いながら、完成したポテトサラダを冷蔵庫にしまった。リュカの大好きなゆで卵もいっぱい入れて作った。好きなものをいっぱい食べて、ちょっとは楽しい気分になってほしい。
「あたしだって戦いたいけど、やっぱり想像したら怖いよ。大兄ちゃんもお義姉さんも……それに、お父さんもお母さんも、どうして戦えたんだろう」
「それぞれがどんな気持ちだったかは知らんが、今後そういうときがくれば、俺も三太もそうするだろうな。けれど、お前にまでそうしろとは言わないよ」
「次兄ちゃんは、怖くないの?」
「怖い怖くないの問題じゃない。もし村で火事が起きたらほのみはどうする? じっとしていられるか? それが自分の家で無くても、バケツに水を汲んで必死で運ぶだろ。火の勢いが強くても、少々自分が焦げたとしても、そうするだろ? それとあんまり変わらん。ほのみ、パン粉と牛乳出してくれ」
「あ、うん。フライパン洗うね。貸して」
玉ねぎを炒め終わったフライパンを兄から受け取り、洗剤をつけ素早く洗う。作っているのはこれもリュカが大好きなハンバーグ。リュカがやって来てから、黒生家の食卓には確実におかずが増えた。そのぶん手早い連携で時間を短縮する。
洗って拭いたフライパンを次武に返す。これからまたハンバーグを焼くのに使うからだ。
「こういうとき、大兄ちゃんが話せたらなって思うの。大兄ちゃんの言うことならリュカだって聞いてくれるだろうし」
リュカがストリゴイに向ける激しい怒りは、一体どこから来るのだろう。
ヴァヴは言っていた。リュカの生い立ちについて、聞きたくなったときに話すと。だが、勇気の無いほのみは今でも聞くのが怖かった。
「ほのみ、手が空いてるなら、ハンバーグこねてくれないか?」
「うん……」
作業を再開する前に、ほのみは願った。
どうか、お願いします、ハイザワ様。
今日もみんなが、無事に帰って来ますように。
――タベタイ……。
「え?」
ほのみは顔を上げた。
家の中からとも、外からともつかない、頭の中に直接響いてくるようなその声は、突然、日常の真昼間にやって来た。
「ねえ、次兄ちゃん、いま、なにか、聴こえた?」
傍らの兄に尋ねると、彼は妹を見下ろし、怪訝そうに眉をしかめていた。次兄ちゃんも聴こえたんだ、とほのみは思った。女のような声だったから、ほのみの独り言かと思ったのだろう。
「なんか……歌うみたいな声、聴こえたよね?」
夕飯が出来上がるころ、リュカは帰って来た。
家から良い匂いが漂ってくる。大好きなハンバーグだ。香ばしい匂いにもあまり心動かされず、少年は浮かない顔をしていた。
衣服を破らないでとほのみに言われるので、最近は羽を出さなくなった。代わりに創がその背に彼を乗せ、山まで運んでくれる。
小さな熊に劣らない体躯の黒狼にまたがり、どこかの家から借りてきた薪割り用の斧を担いだ姿には、当然というかあだ名がついた。
「おう、金太郎。お疲れさん」
家の前で三太に声をかけられた。仕事着であるつなぎ姿で、ガレージから出て来た彼は、手土産の入った袋をリュカに向けた。
「俺もいま帰ったとこだぜ。これ、土産な」
黒狼にまたがり斧を担いだ姿を、三太は目にするたび笑ってしまうが、リュカは真剣そのものだ。大好きな土産にも反応しない。以前は三太の車が停まる音にいち早く気付いて、玄関まで走って行くほどだったのに。
険しい顔をしているリュカの横で、ヴァヴが尻尾を振る。
「まあ、あんこの匂いね。和菓子って、本当に美味しいわよね」
「仕事帰りに寄って、わざわざ並んだんだぜ。ここのいちご大福は限定で、この時期しか売ってねーんだよ。ほのみが好きでさ」
「いちご大福! まあ、素敵! いちごに大福が入ってるのね!」
「惜しい。逆だ、義姉さん。大福の中にいちごが入ってんだよ」
「まあ、まあ、なんて美味しそうなの。楽しみね! リュカ」
ヴァヴがリュカを見上げたが、難しい顔をして黙っている。
「ん? どした」
「ちょっとね、機嫌が悪いのよ」
「いちご嫌いか?」
「……たべる」
不機嫌な声でようやく答え、創の背からひらりと下りた。重量がある両手持ちの斧も、彼は棒切れでも手にするように、軽々と片手で携えている。
「――なんでだっ!」
苛立ちがピークに達したのか、リュカは突然叫ぶと、手にしていた斧を乱暴に叩きつけた。地面とぶつかり柄から外れた太い刃が、勢いよく垣根に突っ込んでいく。
「オイオイ……危ねーな」
「およしなさい! なんてことするの!」
ヴァヴが牙を剥き出し、叱るようにグルルッと唸る。だがリュカは、逆に怒鳴り返した。
「けはい、おおすぎる! たくさん、あつまるからだ!」
その激しい怒声に、中からほのみと次武も出てきた。
「リュカ? 帰ったの? どうしたの……」
「たくさん、あつまるから、ストリゴイ、でる! みんなでいるの、よくない!」
美しい顔を歪め、大声で叫ぶと、普段は奥まって見えない鋭い牙がちらついた。
「あつまると、ストリゴイ、ねらう! むらは、あぶない!」
彼の怒りの大きさが、ビリビリと震える空気の強さで伝わる。
それを感じ取ったのか、近隣からも続々と妖怪たちが集まってきた。
「どした、どした?」
「いまのごっつい妖気、リューちゃんか?」
「だめだ! あつまるな! よわいくせに!」
珍しくヴァヴが怒りの声を張り上げた。
「いい加減にしなさい、リュカ! 何てこと言うの!」
「みんなよわい、ほんとのことだ!」
ヴァヴの言葉にすら耳を貸さないリュカの剣幕に、ほのみは玄関の前で立ち尽くした。
「にんげんと、いっしょだ! よわいのに、あつまるから、エサになる!」
ひええ、と悲鳴が上がる。驚き、タヌキに戻ってしまう子供もいた。
「エッ、エサ!? 俺たちエサかよ!」
「お、俺っ、小豆洗うけど、俺自体が小豆じゃないから!」
「河童はさ、ホラ、生臭いから! 美味しくないから大丈夫!」
「わしなんか年寄りだからカッスカスじゃぞ!」
「いや、小吉じいさんは中身ずっしりしてるはずだ! 子泣きじじいだから!」
「――うるさい!」
騒ぐばかりの村人たちに、リュカは苛ついたように怒声を浴びせる。
「おまえら、いらない! じゃまだ!」
「ヒ、ヒデー……たしかに俺は小豆洗うだけだけど……」
「そこまで言わなくてもなぁ……」
「違うの!」
それまで固まっていたほのみは、慌てて飛び出し、叫んだ。




