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予感

 こうして飛ぶのは何回目だろう。もうあまり怖くない。観覧車よりずっと不安定なのに、彼は絶対に自分を離したりしないと信じられるからだ。太陽の温かさを近くに感じるのも素敵だ。

 空から自分の家を見下ろすと、黒と銀の狼はまだ庭で、仲良く日向ぼっこをしていた。

「ねえ、今からストリゴイを探すの? 遅くなったら、また次兄ちゃんに怒られちゃう」

「いや、ちょっとだけだ。ほのみが、げんきないからな」

「へ? あ……ありがとう。気を遣ってくれたの?」

 黒い翼を鳥のように軽くはためかせるだけで、リュカの体はふわりと自然に風に乗った。地面の上に居るときと同じように、自由に空を駆け回る。羽の生えた部分は、当然だがTシャツが破れ、千切れた布地が風にあおられている。彼の皮膚は傷ついていないのに、不思議だ。

 あーあ、また服が駄目になっちゃったと思いながら、ほのみはリュカを叱らなかった。今日はちょっと口うるさくし過ぎたから……と内心ちょっぴり反省している。リュカに嫌われたくてやってるわけではないのだ。

「どうせ不思議なら、服も破れなきゃいいのにね」

 ほのみの言葉に、リュカはよく意味が分からなかったのか、軽く首を傾げた。

 時に力強く上昇したかと思うと、空中で静止し、あちこち指差しては「あれ、そんちょうだ」とか「でかいくるまだ」と、いちいちほのみに告げる。

 そんな彼の顔を見上げながら、ほのみはふと尋ねた。

「ねえ。リュカも、もしかして、ちょっと元気無い?」

「オレが?」

「なんとなくだけど」

「……わからない」

 ぽつりと答えた後、リュカは少し考えるような表情をし、言った。

「おかあさん……」

「え?」

 強く吹きつける風の中で、彼の小さな声が掻き消えそうになる。

「オレ、ずっと、しらなかった。みんな、おかあさんと、おとうさんがいる。いなくても、いる。きっと、いたんだな」

「……うん」

 ほのみの両親も死んでしまったが、確かにいた。いなくてもいる、というのは多分、そういう意味だ。まりやと母親の姿を見て、そんなことを思ったのだろう。

 家族の温かさを知らずに育った少年の、その薄い胸にほのみはそっと頭を預け、寄り添った。

「ほのみ、げんきないの、さびしい」

「あたしは……もう平気だよ。リュカが慰めてくれたから……」

 どんなときもほのみを気遣ってくれるリュカの優しさに、声が詰まりかけた。その腕に抱き締められながら、ほのみも精一杯腕に力を込め、彼を抱き締めた。

 少年の整った面差しが、太陽の光の中で暗く翳る。そのせいか、いつもより大人っぽく見えた。弟のような彼が、同じ歳の男の子であることを急に思い出し、心臓の鼓動が速くなるのが自分で分かった。それが彼に伝わってはいないかと、心配になった。

「ね……高く飛び過ぎないようにね。滅多に無いけど、人間が山に来てたら見つかっちゃう」

「オレ、にんげん、みつからない」

「リュカは、姿くらましが出来るの?」

「なんだ、それ」

「人間の目を誤魔化したり、記憶を消したりするの」

「ようかい、そんなことできるのか、すごいな」

 リュカが目を丸くする。

「リュカのは違うの?」

「わからない。けど、オレ、けはい、けせる。ストリゴイも、おなじだ。ちかくにいても、わからない。みつけるの、むずかしい。いきなり、でてくる。だから、あぶない」

「ぬらりひょんみたいなかんじ?」

「ぬらり……ひょい?」

「ぬらりひょん。人間が気付かないうちに、いつの間にかおうちに入っちゃってるって妖怪」

「つよそうだ」

「どうだろ……。勝手に家に入っちゃうだけだからね」

「よーかい、ヘンなのばっかだ」

「でも、みんな仲良しでしょ?」

「うん。いいな」

 特別嬉しそうでもない無表情でも、リュカがそう頷いてくれると、ほのみは嬉しくなった。

「ハイザワ・ムラ、いいとこだな。すきだ」

「そうでしょ?」

 深い紫の瞳に、緑に覆われた小さな集落が映っている。空を舞う彼らに気付いた妖怪たちが顔を上げる。畑の中で老人たちが手を振り、子供たちは走って追いかけてきた。

「ずっと、いたいな」

「いられるじゃない、リュカは。これからもずっと、この村に」

「そうか」

「そうだよ」


 この日の空中散歩は、最後に山の中にある湖の上空までやって来た。

「ここらはまだ来たことがなかったよね。あそこが龍神湖。龍神様の住む湖だよ」

 昼はずいぶん暖かくなったが、陽が暮れかかると少し肌寒い。上空には強めの風が吹いていたが、リュカはほのみを抱いたまま、揺らぎもせず宙に浮いている。

「ここは、さびしいな」

「そうだね。村から離れてるし、湖しか無いもの。静かでしょ? ここらには誰も住んでないから。昔はね、あそこに人間たちの住む村があったんだって、でも沈んじゃったの」

 ほのみが指差したのは、風でわずかに波立つ水面だった。

「にんげんの、むら……」

 夕焼けを映す湖面を見つめ、リュカは小さな声で呟いた。ほのみを抱える腕にぐっと力がこもったので、ほのみはリュカの顔を見上げた。

「どうしたの?」

「オレのいちぞく、ストリゴイ、なった。……にんげんのむら、おそった」

「え……?」

 リュカの横顔を見て、ほのみは驚いた。

「リュカの一族……って、家族……?」

「ちがう」

 淡々と話しているし、いつもの無表情だが、オレンジの陽光に照らされた目は、怒りに燃えているようだった。

「ストリゴイ、たおす。オレの、やくめ……だった」

「だった?」

「オレがたおしたストリゴイ、あいつらは、くってた」

「えっ? た、食べてた!? 外道を、リュカの一族が?」

「つよく、なるために、にんげんも、モンスターも、くってた。オレはっ……!」

「リュ、リュカ……?」

 空中で、リュカはほのみを強く抱き締めた。

「い、いた……」

 力の加減など忘れてしまったかのように、きつくほのみを胸の中に閉じ込め、やがて今まで聞いたことのない、呻くような声を絞り出した。

「しらなかった……! だから、あんなのを、まもってた……!」

 彼は悔しげに――泣きそうなほど悔しげに、そう吐き捨てた。

 村に来てからのリュカは、口うるさいほのみに怒ったり、わがままを言って怒鳴ったりもする。けど、こんな辛そうな声を出すのは、初めてだった。

 そんな彼に、ほのみはどう声をかけていいのか分からず、ただ彼の胸に顔を埋め、羽の生えた背中や白い髪を撫でた。




 湖近くのほこらに下り立ち、ほのみは苦笑した。ここも祭壇が荒らされていたからだ。

「また、疫病神様かな……」

 荒らされた祭壇を片付けながら、ほのみは言った。

「でも、村外れにあるハイザワ様の祭壇だけは、荒らされてないんだよね。疫病神様、本当にあたしたちに近づかないようにしてくれてるのかもしれないね。口はすっごい悪いけど」

「どうしてだ? なんで、ひとりになる?」

「疫病神様はね、災いや不幸を呼び込む神様なのよ」

「やくびょう、わるいやつか」

「違うわ。そういう神様なのよ。悪いとかじゃないんだ。この世には良いことも悪いこともあるからね。あ……壊れてる」

 ご飯が入っていたはずの茶碗は欠け、地面に転がっていた。拾い上げ、祭壇に戻す。

「そうか。ほのみは、ものしりだな」

「こういうの全部、大兄ちゃんの受け売りだよ。ハイザワ様は元々すごく強い神様で、ここらを守ってくれてる土地神様なんだけど、何十年かおきに力が弱まってしまう時期があるんだって。前に外道が来たときも、そうだったんだって。だから、疫病神様が現れたのは、その前兆なのかもしれないって。これは村長が言ってた」

 それでも恐ろしい怪物がやって来るなんて、ほのみには信じられないし、信じたくなかった。

 でも、リュカにとっては、そんな戦いの日々が日常だったのだ。

「疫病神様だって、好きで疫病神様になったんじゃないんだよね……」

 疫病神の話をしながらも、ほのみはリュカのことが心配だった。彼だって、好きでヴァンパイアの一族に生まれたわけじゃない。名前も言葉も教えてもらえず、戦わされてきた。そうだとしたら、リュカはちっとも悪くない。なのに、自分を責めている。

 彼はしばらく黙って、空と同じ色に染まった湖を見つめていた。無表情に見える横顔はどこか寂しげで、ほのみは彼の手に自然と手を伸ばしかけた。

「ストリゴイは……くって、つよくなる」

「えっ? あ、うん……」

 握ろうとした手を、ほのみは慌てて握り締めた。夕陽の中で顔を赤らめる。

「だから、ようかい、ねらう。このむらは、かみさまも、ようかいも、いっぱいだ。だから、あぶない」

「そんなこと、今考えても仕方ないよ。それに、ストリゴイが来たら、リュカだけじゃない、みんなで戦って……」

 急に、リュカが顔を強張らせた。

「――いま、どこかに、いた!」

「え、なに? きゃっ!」

 ほのみをすぐに抱えて、リュカは再び飛び上がった。

「ストリゴイ、いる!」

「えっ……あ、でも、祭壇を片付けないと……」

「ダメだ! もう、やまには、くるな! だれも、くるな!」

 今まで以上に激しい口調で言い、リュカはすぐさまその場を離れた。その剣幕に慄いて、ほのみはただ彼の腕の中で縮こまっていた。

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