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少年と少女のプロローグ【2】

 鈍重そうなストリゴイの体は、見た目に反し、軽々と跳躍した。

 翼手目の皮膜、羽毛に覆われた鳥の翼、透き通った昆虫の翅――それらをはためかせ空中に逃れた巨体が、枯れ木をなぎ倒し、砕けた樹氷がガラス片のように降り注ぐ。

 敵はすでに満身創痍だ。粗末な武器しか持たない少年に、頭の半分以上を叩き潰され、幾つもの足をもがれ、散々痛めつけられている。

「リュカ」

 傍らの銀狼が、人の言葉で少年に告げた。

「あなたも翼を。倒しましょう。もう、こいつで最後よ」

 こくん、と少年が頷く。

「この戦いが終わったら、日本へ行きましょう」

「……ん」

 少年は小さく頷くと、薄い唇を開き、頭を振った。銀糸のような白髪がぱさりと揺れ、額や頬にかかる。背を丸め、短く鋭い息を吐き出す。

「……っ!」

 か細く華奢な体をぶるっと震わせ、背中が不自然に盛り上がったかと思うと、衣服が裂け、黒く鋭い爪が露出した。メリメリと骨を軋ませる不快な音と共にそれは膨らみ、肥大し、内側から少年の皮膚を破って生まれた。


――翼。


 背から生えたそれは黒く、羽毛は無い。

 内側から皮膚を破られたはずの少年は涼しい顔をしている。

 痛みは無い。血の一滴も流れてはいない。それは元々、体の一部だからだ。目の前の敵がそうしたように、体の奥に折りたたんでいたそれを、ただ外に出しただけ。


「ストリゴイ!」


 叫んだ少年は翼を広げ、一気に静から動に転じた。白い髪を振り乱し、鋭い声を上げたと同時に、臨戦態勢だったつがいの狼が大地を蹴って走り出す。

 ストリゴイはまたも金切り声を上げ、乱雑に生えた羽をばたつかせた。

 凍りついた木々の枝を砕き、ぐんと上昇しかけたその足に、次々と狼たちが飛びつき、喰らいつく。

「ハジメ、ヴァヴ!」

 無数の肢で狼たちを蹴散らそうとするストリゴイの胴に、少年は槍を突き立てた。視界に入った太い腕の一本を片手で掴むと、力任せにへし折る。


 ――ァガアアァグァアアァァァッ!!


 絶叫にも似た怒りの咆哮が空気を震わせる。普通の人間なら激しい不快感と恐怖をかきたてられ、まともに聴くことも出来ない。

 が、少年にとってはわずらわしい悪あがきでしかなかった。胴に突き刺した手製の槍を掴んだまま、その体に張り付くと、乱暴に羽を掴んで毟り取る。

 異形は暴れ狂い、樹氷に体を突っ込ませた。氷が少年の体を切り裂き、太い木の幹に狼たちを叩きつけた。

 水死体のように膨らんだ腹に、傷ついた狼たちがなおも牙と爪を立て、喰らいついている。

「もう、いい。オレがやる」

 ストリゴイからふわりと一瞬離れ、次の瞬間、すさまじい力で蹴り飛ばす。魔物が地面に激突する前に、狼たちが素早く大地に下り、とん、と少年も裸足のつま先を地面に下ろす。


 ストリゴイは殺しても殺しても動き続け、最期の瞬間までこちらを喰おうととする。貪欲に。だから、完全に消滅するまで叩き続けるしかない。

 どれだけ傷つけても血飛沫どころか血の一滴も出ない。この魔物に痛みがあるのかさえ、少年は知らない。

 だが、倒すべきものだ。それだけは分かっている。

 中央に残った女の頭以外はとっくに叩き潰され、すべての手足をもぎ取られ、それでもなお、たった一つ残ったその頭を振り上げる。飢えた牙を剥く。

 少年が戦うことを止められないように、この異形もまた貪欲な本能を止めることはない。死ぬまで肉と魂を喰らい、血と涙を啜り続ける。

 そんな化け物を前に、少年は恐怖も悲しみも哀れみも感じない。ただ少しだけ苛立ちを覚えていたが、それが怒りという感情であることを、彼は知らない。

 再び地面に足を下ろすと、ただ一つ残った魔物の頭を掴んで、ぶくぶくと膨れた巨体をやすやすと持ち上げた。何度も聴いた、金切り声に似た魔物の咆哮が、凍った森に響く。


「おわりだ」


 女の頭は、眼球も無いくせに、少年を鋭く睨む。

 それを不快なものを見るように、紫の瞳で冷たく見返すと、少年はその白い手のひらに力を込め、そのまま握り潰した。




 戦いを終えた少年と二頭の狼が、森を歩く。彼らの住処である小屋を目指し、溶けきらない雪の上を、少年は平然と裸足で歩いている。

 戦っているときと違い、その足取りはどことなく頼りない。そのまま風に溶けてしまいそうな存在感とぼんやりとした表情で、白い痩身には戦いで破れた衣服をまとわりつかせ、とぼとぼと歩く。

 靴を履いてみたこともあったが、すぐにやめた。激しい戦いの中でボロボロに擦り切れてしまうからだ。

 びゅうと吹き付ける冷たい風に、マフラー代わりの薄汚れた布が舞った。

 傍らには、雄の黒狼と雌の銀狼が付き従う。二頭の狼は冬の寒さから少年を守るように左右に寄り添っている。

 雪と土ばかりを踏みしめていた足裏に、ふと、違った感触を覚え、少年は足を止めた。

 見ると、まだ花を付ける前の、小さな草花だった。

 薄汚れてはいるが整った顔だちをした少年は、感情を思わせない無表情で、自分よりも大きな巨狼たちの背を撫で、黒狼の背に手をかけたまま、声をかける。

「ハジメ」

 黒狼の茶色い瞳が、草花をじっと見つめている。そのつがいの体に銀狼が身をすり寄せた。

「これ、すきだったな」

 屈み込み、草花を起こそうとすると、すでに茎が折れてしまっていた。茎に指を当てながら、懸命に元に戻そうとしたが、戻るわけもない。

 奮闘している少年を見かね、銀狼が声を発した。

「リュカ。それは、もう戻らないと思うわ」

 人間の言葉で、彼女は言った。その緑色の瞳は、優しく少年を見つめている。

「ヴァヴ」

「帰りましょう。お花を咲かせたいなら、摘んでいらっしゃい。器に水を張って生ければ、少しは生きるでしょうから」

 銀狼の言葉に少年は頷き、草花をそっと摘み取ると、もう一度、狼たちの背を順番に撫でた。

「そして、この花が咲いたら、日本に行きましょう」

 その言葉に促され、再び歩き出した少年に、狼たちもついていく。

 物言う狼と、物言わぬ狼。彼らを従え、暗い森を歩く少年は、その手に潰れた草花をしっかりと握っている。あまりに強く掴んでいるので、帰って水を与えるころには萎れているかもしれない。少年の華奢な後ろ姿を、銀狼は母のような眼差しで見守った。

「ニホン」

 少年はよく理解していないように、無感情に呟いた。

「そこに、なにが、ある?」

「そうね。ここよりは、穏やかな生活。それに、優しい人々……創の家族にも会えるわ」

「カゾク」

 短く、少年が繰り返す。

「そう。黒生家の人たち……日本の一族。日本はここよりも、私たちのようなモンスターが住みやすい場所よ。ストリゴイも、敵対ヴァンパイアも少ない。あなたも学校に行って、放課後に買い食いでもしなさい」

「ホーカゴ? カイグイ?」

「よく分からない。この人が言っていたのよ」

 そう言って、銀狼が黒狼を見る。

「ほのみに会えるわよ。それから、次武に、三太もね」

「ほのみ……」

 少年は相変わらず無表情だったが、少女の名前だけは何度も呟いた。ほのみ。ほのみ。可愛らしく、柔らかい響き。ほのみ。

「次武に、三太もいるのよ」

 少女の名前ばかり繰り返す少年に、銀狼は念を押したが、やはり少年は少女の名前を口にする。銀狼はやれやれといった様子で目を伏せ、ふうとため息をついた。

「創。あなたが、ほのみのことしか言わないからよ」

 呆れたように目を細め、傍らの黒狼に言う。

「手紙、届いたかしらね。あなたったら、仕舞いっ放しにするから。早く言ってくれれば、街で出しておいたのに……」

 銀狼が寂しげに告げる。黒狼は何も言わず、黙って歩いている。

 代わりに、少年が呟いた。

「ほのみ。あいたい」

「会えるわ。その花が、咲くころに」

 穏やかな銀狼の言葉に、少年は手の中の草花を見つめた。握り締め過ぎていて、とっくに潰れてしまっていたそれを、彼は手のひらにそっと乗せた。

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