感情
食事の時間は、リュカのお陰でやはり賑やかだった。
「あっ、ちょっと、リュカったら! ゆで卵ばっかりいくつ食べる気!?」
ほのみに咎められ、ゆで卵を手に大口を開けていたリュカは、手を止めた。
「これ、うまい」
「美味しいものばっかり食べちゃダメなの! ゆで卵こんなに食べたら、かえって病気になっちゃうよ!」
「吸血鬼にそれ言ってもなー……もう、好きなだけ食わせれば?」
三太がうるさげに口を挟む。卵好きなリュカのために、彼がゆで卵をたくさん作って食卓に置いたのだ。三太はほとんど家事をせず次武とほのみ任せっきりだが、ゆで卵を作るとかお好み焼きをひっくり返すとか、部分的なことだけは昔から巧い。
「今日のは特に、黄身の半熟具合が、いい感じに出来てると思わねえ? なあ、リュカ」
「うん。いい、かんじだ」
「何言ってんの。初めてゆで卵食べるリュカが、半熟も完熟も分かるわけないよ」
「細けーな。コイツ、イジワルだな、リュカ」
「うん」
「リュカ! 意味分かって頷いてる!?」
「ほのみ、煩いぞ。リュカに色々口出す前に、まずお前が静かに食べろ」
「はぁい……」
次武に厳しく正論を言われ、ほのみはしゅんと大人しくなった。
創はほのみを可愛がって育て、厳しさなど微塵も無かった。それでもほのみが甘ったれなままで成長しなかったのは、次武の巧みな軌道修正のお陰だ。幼いころ、創は優しく、次武は意地悪だと思っていたが、だんだん違うと分かった。
ほのみも、そんな次武の影響を確実に受けている。リュカに対して、どこか頼りない弟を構うように、つい厳しくしてしまう。
だって、せっかく格好いいんだから。外に出ても恥ずかしくない男の子にしてあげたい。
なにせ春休みが明けたら、一緒に学校に通うのだ。
「リュカって、高校も通うの? 大学も?」
「行きたいなら行かせてやりたいと思ってる」
「誰が?」
「学費については、村から奨学金を出すと村長が豪語していたが」
「なにそれ。そんな余裕うちの村にあるの? そもそも奨学金っていつか返すやつだよね? リュカが大人になったら働いて返すの?」
「結婚してお前が働いて返せば」
三太のからかいは、もう無視する。
「リュカに必要なものは、兄貴の貯金を使う。しばらくはそれで充分だ。俺たちの生活は、俺と三太でなんとでもなる」
創は幼いころから父や祖父に連れられて海外に行っていた。そうして様々な国の言葉を覚えたことを生かし、小さな出版社から海外文学の翻訳本を出していた。あまり売れるものではないらしいが、名作文学集をシリーズ刊行し始めたら、それが少し当たって、まとまった収入が得られるようになった。
安定した仕事では無いものの、本人は気に入っていたようだ。この仕事なら旅行中でも出来るからと、気軽に海外に出かけていた。ついでに本人も出版社の薦めで旅行記を出したが、その売り上げについては暗い笑顔を向けるだけで何も語ってくれなかった。
そんな兄の背中を見ていた次武は堅実な公務員となり、三太も高校を出てすぐに町工場で就職した。二人とも家族の為に貴重な休日を捧げ、明日からはまた仕事に行く、立派な社会妖怪だ。
いつの間にかリュカがゆで卵の器を空にしていた。
はっと気付き、ほのみは声を上げた。
「こらっ! リュカ!」
夕食後、リュカは一人で縁側に座り、夜の空を眺めていた。
まだ肌寒い山の夜も、リュカにはさほどの寒さも感じさせない。ほのみが選んだTシャツとジャージのズボンも三太のおさがりで、だぶついた裾を膝下までまくった足を、ぶらぶらと外に投げ出す。
澄んだ山の空に無数の星が輝いている。かつて遠い異国で眺めた空と同じだ。一族の許に居たころも、一人であてどなく彷徨っていたときも、創とヴァヴと出会って三人になってからも、そして今日も、生きる場所はめまぐるしく変わったが、どんな場所にいても空だけはいつも変わらない。どこにいても星が見えるし、太陽は昼に、月は夜に、一つずつだ。
「ただいま、リュカ」
暗がりから黒狼と銀狼が姿を現した。
山野を駆けてきた二頭の狼が、少年の傍らにそっと近づく。その背にリュカは手を伸ばし、ねぎらうように撫でた。
「このあたりに、ストリゴイの気配は無いわ。と言っても、あなたほど奴らに対する感覚が鋭いわけじゃないし、擬態されたら居所は掴めないけど。それでも奴らが飢餓状態なら、私たちにもその存在を感知出来る。それほどの気配は無かったから、安心しなさい」
「うん」
銀狼の言葉に、リュカは小さく頷いた。
「お昼に、ほのみと山を見回ったんでしょう? それでも、まだ心配なの?」
「うん」
リュカは無感情に見える表情で、ふたたび空を見上げた。
「あなたの不安は分かるわ。でもこれから、私と創で夜に見回るから、あなたは勝手に抜け出さないこと。ほのみが心配するから」
「うん……」
「ね、創。あなたが言っていた通り、ほのみは素敵な女の子ね」
ヴァヴは黒狼に語りかけてから、リュカに尋ねた。
「リュカ。ほのみとは、仲良くやっていけるかしら?」
「うん」
「そう。ほのみのことは、好き?」
「ほのみ、かわいい」
同じ言葉を繰り返すリュカに、ヴァヴはそっとため息をついた。
「軽々しい言葉を連呼されたって、喜ばないわよ。教えたでしょ。狼が来たと嘘ばかり繰り返していた少年は、本当に狼が来たとき誰にも信じてもらえなかったのよ」
ヴァヴは厳しい目で創を見た。
「あなたがいけないのよ。リュカにそればっかり言うからよ。いくらほのみが可愛いからって。ほのみも困るでしょう」
夫は彼女の瞳を見返すだけだ。いまの彼に心があったら、笑みを浮かべていることだろう。ヴァヴは少し寂しげに目を細め、それから気を取り直したように呟いた。
「とにかく、ほのみの気持ちも考えなさい」
「うん……」
分かっているのかいないのか、リュカはぼんやりと空を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
「ほのみ……すこし、うるさい」
「あら」
ヴァヴは目を見開き、それから大きな口を笑うように開いた。
「あなたがそんなこと言うの、初めてかしら? そんな感情も持つようになったのね」
「……でも、たのしい」
「そう。だから、守りたいのね」
少年が頷く。銀狼は巨体とは思えない軽やかさで縁側に上がると、獣の母が我が仔を慈しむように、少年にその身をすり寄せた。




