不吉の神 【1】
「どこ、とんだら、いい? やまの、うえか?」
リュカが目線を上にやる。
「じゃあ……あのへんまで行けない?」
と、ほのみは村より高い場所を指差した。
「あたしが言うほうに、近づいてみて。目印を教えるから、そこで下りて」
「わかった」
ほのみの言葉に従って、リュカが風を切り裂くようにして飛んだ。風のほうもリュカを避けていくように、びゅうと音を立てて通り過ぎた。
村も山の高い場所にあるが、もっと高い場所は、深い森に覆われている。
「この山は、女座山っていうのよ」
その名のごとくこの山には女神が座している。リュカを案内したのは、そんな山中にあるほこらだった。
「ここは、山神様のほこらだよ」
ほこらのそばに、無人の小屋がある。ほのみは鍵のかかっていない扉を開け、小屋に入ると、そこから古びたサンダルを二足借りてきた。一足は自分で履く。
「ここは、村のみんなで使う場所だから、借りても大丈夫。リュカも履いてよ。サンダルだけど、裸足よりマシだから」
リュカの背中の翼はすでに消えている。だが、Tシャツの背中はボロボロに破れ、白い肌が露出していた。
「寒くない? リュカ」
「だいじょぶ、だ。ほのみ、まだ、オオカミならない?」
「ならない」
「オオカミなる。くつ、いらないぞ」
「嫌。ぜったい嫌」
はねのけるように答え、ほのみはリュカの手にサンダルを押し付けた。
「ここは山神様のほこら、あと、龍神湖っていう龍神様がお住まいになってる湖があるの。それから、山頂のほうに一つだけ家があるかもしれないけど、それは迷い家だから、目印にはなんないからね」
「マヨイガ?」
「そこにあるのか無いのかも分からない、辿り着ける者だけが辿り着ける家のこと。場所がしょっちゅう変わるから、あたしたち村の妖怪でも、中々見つけられないの。大兄ちゃんは何度も見たことあるって言ってたけどね。とにかく、あっても目印にはならないから」
「わかった」
「外国の山や森のほうが、きっとずっと広いんだろうけど……それでも山じゃすぐ迷子になっちゃうんだからね?」
「うん」
「日本の山だからってナメちゃダメよ。そうやって遭難しちゃう人間もいっぱいるんだから」
「うん」
「ほんとに分かってる?」
「……うん」
しつこいほのみに、リュカは少しだけ面倒くさげに頷いた。
「じゃ、リュカも山神様に手を合わせて……ああっ!」
祭壇の前で、ほのみが悲痛な声を上げた。リュカがさっと表情を硬くする。
「どうした?」
「やっ、山神様の祭壇が……!」
山の女神様は、山に女が入ると嫉妬して怒るなんて言う人間もいるが、本当はとても愛情深く、自らの腹である山に住む女を娘のように大切にしてくれる。だから娘が母を敬うように、山神様のほこらを手入れするのは女の役目だと村では決まっていた。
ほのみもよくここに来て、祭壇を掃除したり、供え物を取り替えている。
「やだ……ひどい」
大切な祭壇はめちゃくちゃに荒らされ、お供えものは食い散らかされていた。
「タヌキかな……あ、動物のほうの」
「ストリゴイだ……」
厳しい顔でリュカが呟くと、さすがにそれはないだろうと、ほのみは苦笑した。
「え、まさかぁ。だって、食べ物荒らしてるだけだよ?」
「ストリゴイ、なんでも、くう」
「野菜とかお米を?」
「……かも、しれない」
そのとき、ガサゴソと草を揺らす音がして、ほのみは跳び上がった。
「やっ! な、なんかいる!」
リュカはすでに動いていた。小屋の壁に立てかけてある農業用の鋤を手に取り、音のする茂みに向かって、尖った先端を突き出した。
「だれだ! あやしいやつ、ころすぞ!」
「えっ! そ、それはダメだよ! まず誰か、確かめないと!」
リュカの後ろに隠れていたほのみは、ぎょっとして止めた。すると、ほのみ以上に慌てた様子で、茂みから男が転がり出てきた。
「ひええっ! お、おたすけー!」
酷く汚れたジャージを着た中年だった。どう見てもストリゴイでは無さそうだが、男が発する凄まじい臭いに、ほのみは思わず後ずさってしまった。
「す、すごいにおいっ……!」
「お、おいっ、んな物騒なもん、向けるなっ!」
男が大量の唾を飛ばしながら、怒鳴ってきた。伸びきった白髪混じりの髪とヒゲは脂でごわごわと固まり、あちこちに米や野菜の食べかすが付いていた。
「ったく、最近のガキはホームレスの家に火ィ点けたりボコったりとんでもねーデンジャラスだとは聞いたが、こんなオッサン殺すこたねーだろ! 村のモンじゃねーが、俺は昔からちゃんとこの山に住んでんだ! ケチケチすんな、供えモンちょっと貰ってただけだ!」
「ああっ、そ、それは、山神様のお供え……!」
ほのみが指差す男の手には、野菜やら饅頭やらが握られていた。男は悪びれず、言った。
「別にいいだろ。あのブス、たまにはケーキとか洒落たモン供えろって言ってたぜ。だから要らねえモンは俺が貰ってやってるんだ。分かったか? 小娘」
「え……? あ……はい」
「よーかい……ニンゲン……ちがう。おまえ、なんだ?」
変わらず厳しい顔で鋤を構えているリュカを、男も負けじと睨み返した。
「オメーこそ、外妖怪か? オメーが誰かも分かんねーのに、俺に誰だとか言うわけ?」
「そ、そうだよ、リュカ。いきなりそんなもの、突きつけちゃダメ」
「リュカオンだ。なのったぞ。おまえも、こたえろ」
「オイオイ。最近の若い奴ってのは、まっとうなコミュニケーションも出来ねえのかよ」
「だれだ! いわないと、ころす!」
リュカが荒い声を上げ、鋤を男の喉元近くまで突き付けると、ひゃっ、と悲鳴を上げ、慌てて二人から距離を取った。
「わ、分かったから、乱暴しないで! まあ、バレちゃーしょーがねーな。おっちゃんは、そうだ。人間でも妖怪でもねえ、昔からここに住んでる、神様っちゅーやつだな」
離れたところで、えへん、と汚い男がふんぞり返る。
「ええっ! ま、まさか……ハイザワ様!?」
「その通りじゃ」
「ええええええっ!」
頷く男に、ほのみがますます驚いた声を上げ、リュカは顔をしかめた。
「ハイ、ザワ……さま?」
「ここらを守ってくださってる土地神様だよ!」
ハイザワ様と村の妖怪たちが呼んでいるのは、このあたり一帯を守る地主神だ。
遠い昔、多くの妖怪たちをこの地に受け入れてくれた神で、ここが灰澤と名の付いた土地であったことからハイザワ様と呼ばれ、灰澤村の妖怪たちは今も深い感謝を捧げている。
山神様と竜神様の父神でもある。村外れにあるハイザワ様を祀る社には、妖怪たちがいつまでも平和に暮らせるようにと、山神様と龍神様が贈ったという宝物が奉納されている。
「なーんつって、うっそぴょーん。俺はなんと! 疫病神様でーす」
「やくびょっ……!」
両手と片足を上げ、ぺろっと舌を出した男の言葉に、ほのみは愕然とした。




