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リュカとほのみ 【2】

さっきまで怯えていたことも忘れて、ほのみはリュカの手を掴んだ。

「一人で行くなんて、ダメ! それなら、あたしも行くから! リュカ一人じゃ、日本のことも村のことも何にも知らないでしょ!」

「……くるか?」

「行く! リュカ一人には出来ないもん!」

「じゃあ、こい」

 と、裸足のまま縁側から出て行こうとする。

「ま、待ってよ! ちゃんと玄関から! 靴履かなきゃ!」

「くつ? ハジメもヴァヴも、くつ、はかないぞ」

「それは狼の姿だからでしょ!」

「ほのみ、オオカミならないのか? そのほうが、つよい。にんげん、あし、おそい」

 リュカが真面目な顔で告げる。彼の言うことは間違ってはいない。だがほのみも、これだけはそう簡単に譲れない。少年から目を逸らしつつ、言った。

「あ……あたしは……狼にはならないわ」

 ほのみは狼の姿になることに抵抗がある。恥ずかしい。裸を見せるような勇気がいる。

 ヴァヴのような銀毛の美しい狼であったなら、ここまでのコンプレックスは無かったかもしれない。彼女を見た後だとなおさら気が引ける。

「そうか。ほのみ、そのままでも、つよいか」

「や……そういうわけじゃないんだけど。うーんと……ほら、狼になるのはストリゴイを見つけてからでもいいかなって……」

 言い訳をするほのみの傍にやって来ると、リュカがまたしても肩を掴む。

「えっ!? ちょっ、なになに!?」

 さっきほどの痛みは感じなかったが、今度は強く彼のほうに引き寄せられ、腕の中に抱かれるような格好になり、ほのみは別の意味で驚いた。いわゆる、お姫様抱っこだ。

「いくぞ」

「えっ……ええー! やだっ、うそ!」

 動揺するほのみを軽々と担いで、リュカが縁側に向かって駆け出す。その肩越しに、背中の翼が後方に向かって伸びたのが見えて、ほのみには次に起こることが想像出来てしまった。

「ちょっ……やだ、やだって、リュカ! きゃああああ!」

 一気に縁側に飛び出たリュカが、裸足で床板を蹴り、走り幅跳びの選手も真っ青な跳躍をする。ほのみはリュカの首に両腕を回して必死にしがみつきながら、身を縮めた。

「やだやだやだ! 怖い! 降ろしてえー!」

 ほのみを抱え、庭も飛び越えたリュカは、放物線を描いて着地した――のなら良かったが、薄っぺらな羽をはためかせ、ふわりと宙に浮かんだかと思うと、そのまま力強く、ぐんと上昇した。

「いやああああ! 浮いてる! 浮いてる! 浮きたくないよぉ!」

「あばれる、おちるぞ」

「やめてえ!」

 大空を舞う鳥や飛行機を見るのは好きだが、自分がそれらになりたいわけではない。

 こんな細い羽で飛べるわけない! と思うのに、リュカはほのみを抱えたまま、駆け上がるように空に向かっていく。

「ひいいい!」

 ちらりと地面を見てしまって、ほのみはリュカの首に回した両腕に力を込めた。自分の家の屋根が遥か下方にあったのだ。

「ほのみ、むら、よくみえるぞ」

「見れない! 見れない!」

 瞼をぎゅっと閉じ、ぶんぶんぶん! と首を振る。

 小さいころ、一度だけ兄たちと大きな観覧車に乗ったことを思い出した。創にねだって連れて行ってもらい、乗る前はとても楽しみにしていたのに、いざ乗ってゆっくりと頂上を目指し出すとだんだんと恐ろしくなった。空に近づくほど風は強くなり、不安定にゆらゆらと揺れるゴンドラの中で、創に縋りついて泣き喚いた。結局一周し終わるまで、ほとんど窓の外なんて見ていなかった。あのときよりはるかに怖い。

「やだぁ! 怖い怖い怖い怖いよぉ!」

 リュカにしがみついてガタガタと震え、やはり目を開けられないほのみの様子に、リュカは彼女が怖がっているのだとようやく理解したらしい。

「ほのみ……よわい?」

「そういう問題じゃないよ! 高いとこ怖いの! っていうかこんなの、怖い人のほうが多いんだからね!」

「とびにくい……」

 ほのみは目を閉じたままだったが、リュカがその綺麗な顔をしかめていることは分かった。

こんな羽ひとつで浮かぶなんていう芸当をしながら、飛びにくいも何もないだろうとほのみは思った。喋る狼やタヌキ、顔が大きくなる老人のように、元々でたらめなのが妖怪だと分かっていても、怖いものは怖かった。

「お願い、降ろして! 降ろさないなら、絶対はなさないで!」

「しゃべるな?」

「そっちの話すじゃない! ちゃんと捕まえてて!」

「うん……」

 リュカがげんなりしたように答え、下を見て言った。

「みろ。みんな、いるぞ。ハジメ、ヴァヴ、ツグム、サンタも」

「見れない見れないって! って、やだ、あたし、スカートめくれてるんじゃない!?」

「ほかにも、いっぱい、いる」

「え……ええと、村の人たちじゃないの? きっと納屋の片付けを手伝ってくれてるのよ」

 ほのみはリュカの首許に顔を埋め、目をつぶっているので分からないが、そう答える。その通りだった。村人たちは自然と集まり、創とヴァヴの狼夫婦のために、納屋を改築し、住みやすい新居を作っている。子供たちのはしゃぐ声も聞こえた。

「すげー! とんでるー!」

「かっけえええ!」

 興奮して手を振る子供たちにリュカも応えようと、ほのみの足を抱える片手を離した。

「きゃあああ!」

 お姫様抱っこの姿勢が崩れ、がくんと体がずり落ちた。リュカの首にぶら下がって両足をばたつかせ、ほのみは半狂乱で叫んだ。

「ばっ、バカバカバカっ! 離さないでよおっ!」

「……オレ、ちゃんと、つかまえてる、のに……」

 もう片手でしっかりとほのみの腰を支えながら、心外そうに言う。

「よし、ほのみ、いくぞ」

「いっ、行くってどこまで……きゃあああ!」

 ぐんとリュカの体がまた高く上って行く。まるで空中に階段があって、そこを駆け上がっているみたいに。

「いやああああ! たすけて、お兄ちゃぁん!」

「おお、デートかぁ、外国の人は粋なことするねえ」

「ほのちゃん、いいなー! いいなー!」

 下界では村人たちが好き勝手に言い合って、ほのぼのと笑っている。

「代わりたいなら代わるよぉ! あたしは降りたいのに!」

「ほのみ、いった。オレ、ニホン、くわしく、ない。ほのみ、いたら、こころが、つよい」

「それは心強いって言うのよ!」

 パニックを起こしながらも、リュカのつたない日本語を訂正することは忘れない。

「オレ、たたかう、しか、しなかった。でも、ハジメとヴァヴは、たたかう、じゃないこと、いっぱい、オレに、おしえた。それは、こころづよい、だ」

 覚え直したばかりの言葉を口にしながら、リュカがほのみの体を抱き直す。体が安定したのでほのみも少し気を取り直し、そっと瞼を開けてみた。下を見ないよう、リュカの顔を見る。

 風にあおられて舞う白い髪、雪のような肌に、整った目鼻立ち。陽光を受けて煌く瞳。普段はぼんやりとして見える少年が、きつい目つきで下界を見下ろしていた。その瞳には強い意思が感じられた。そして、ほんの少し悲しげにも見えた。

 リュカは創とヴァヴを信頼している。出会って一年という期間は短いかもしれないが、それ以上に濃密な時を過ごしたのだろう。ストリゴイとの厳しい戦いを乗り越えて。

 創が傷つき心を失ったことが、リュカの心にも大きな傷を残した。だから彼はこんなにも強く、ほのみや創や家族を守ると言うのだ。

 ほのみはぎゅっと唇を引き結び、小さく息を飲み込んだ。強い風に吹きつけられ、びくんと震えた体を、リュカはしっかりと腕の中に抱き留めてくれている。細い腕だが力強い。リュカが自分を離すことなんて、きっとないと思えた。


「……や、山の上のほうに、行ってみる……?」

 ほのみは上ずる声で、リュカに問いかけた。

「やま?」

「ええとね、山にはいろんなものが入り込みやすいって、村長が言ってた。ストリゴイ……も、そういうとこから入ってくるんじゃないかな……?」

 喋ることでいくばくか恐怖心が薄れ、ほんの僅かでも冷静さを取り戻すと、リュカがちゃんと自分を掴んでいてくれていること、それに空を飛ぶという、ほのみの能力では絶対に体験出来ないことを、いままさに味わっているということに気付く。

 普段よりずっと近い空。穏やかな春の陽光。近くに聴こえる鳥の鳴き声。そして、上から一望した灰澤村は、まるで知らない場所のように見えた。

「あんま、目立つことすんなよぉー」

 村長の笑い混じった大きな声が、下から届いた。

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