5月 車(1)
この話のために警告タグをつけました。
――side: 深川シズカ
来週の木曜日からは中間考査が始まって部活動停止になるので、それまでにできるだけ庭に手を入れておかなくてはならなかった。
毎日朝の6時半からの2時間と終礼後の3時間を庭で過ごしているだけあって、苗の植え付けは半分ほど終わった。明日からは土日だし、加えて平日の3日間があればすべて終わるだろう。ある程度の見通しが立ったことでわたしは一息ついた。
「はぁ。疲れた……」
今日は学校で文理適性検査があった。普通のテストを受けてアンケートに答えるだけだったけれど、この結果をもとに後日進路指導と教育相談が行われるらしい。
わたしは大学受験に対して今から気が重くなっていた。3年になれば本気で受験勉強に取り組まなくてはならなくなるだろう。この庭でこうやって何時間も費やしている場合ではなくなる。その前にこの庭も誰か後輩に引き継がなくてはならない。
テラスのテーブルに突っ伏して全身の力を抜くと、咲き始めたフランソワ・ジュランヴィルの林檎のような甘い香りが鼻先に触れた。
――side: 春風ミユウ
園生学園は、幼稚園、初等部、中等部、高等部、大学部の五部制私立学校だった。
幼稚園から中等部までは、中央駅から徒歩8分という学園都市の一等地に立つ最新の設備の整った非常に近代的な校舎であるらしい。大学もかつては都心にあったらしいけど、手狭になったのか節税のためなのか数十年前から郊外に徐々に移転していて、新しいほうのキャンパスはきれいで広々としていると聞いている。しかし、それらよりも歴史のある高等部はもっと離れたところにあり、生徒たちから骨董だの違法建築物だのと呼ばれる前近代的な、つまるところ年代物の校舎を使用していた。赤い煉瓦造りの旧校舎は昭和初期の建築物で重要文化財にも認定されている。小高い緑の山のふもとにそれらの煉瓦造りの校舎が立ち並んでいる光景はハイソサエティー感があふれていてわたしも気に入っているし、保護者達にも大変評判が良いということだった。
でも問題はやはりその立地だった。
学園の正門から駅を経由して街の中心部に行くのに学園専用のバスで20分かかる。そのバスも平日に8回だけ。これは4往復するという意味ではなく、要するに朝7時台に中心部のターミナルから来るのが3本、それから学園前から中心部に向かうのが夕方の6時台2本、7時台に2本、8時台に1本という内訳で、つまりは乗り逃がすと面倒にも次のバスをひたすら待つか公共交通機関に頼らなければならなくなるということだった。
地下鉄駅までは徒歩25分であり、市営のバスは頻繁に停まるので街の中心部まで40分かかる。学園の周囲は高級住宅街になっていてユウコみたいにそこから通ってくる生徒もいるけど、市外から通ってくる生徒たちも多く、とても便がいいとは言えなかった。というか言わせない。だから自家用車での送迎が認められているのだけど、そこまで家が裕福でない生徒はやっぱり学園のバスに頼るのが普通だった。
わたしは女の子を迎えにやってくるボーイフレンドたちのフェ○ーリやアルファ・○メオを横目で見やりつつ正門から出た。お金持ちの交際相手もお金持ちということなのだろうけど、大きいから道に並べられると本当に邪魔だったし、いささか鼻についた。
ちょうど横でも○ャガーで来た男と黄色い髪の女子生徒がいちゃいちゃしていた。
「迎えに来てくれてありがとう、シゲル」
「ミサのためなら、別にこれくらい」
(はいはい、よかったね。次からは車は南門にとめなさいよ)
睨みつけたかったけど、そんなことをしたら自分に恋人がいないせいで僻んでいると思われそうだったからぐっとこらえた。人目がなかったら肩にさげているテニスラケットでボンネットエンブレムを折り飛ばして文鎮に変えてやれたのに。
そんなわたしの努力をあざ笑うかのように彼らは大っぴらにディープキスを始めた。
(嘆かわしい。日本の性風俗に対する道徳はどこへ行ったの?)
むかむかしながら歩いていたら、さらにむかむかを助長させるようなことがあった。
一台の青いマ○ラッティが通り過ぎたと思ったら急に速度を落としてのろのろ運転を始めた。何をやっているのか訝しんで見ていると、その車は道路わきに停まった。正門を通り過ぎてしまった間抜けが乗っているのだろうと思って右側を再び通り過ぎようとしたとき、車から男が降りてきた。運転席にはもうひとり男が座っていた。
「ねえ、君、新入生だよね?」
5月にもなって新入生はないだろうと思ったけど、指摘せずにそのまま歩き続けた。
「待って。待ってよ。ちょっと話聞いてくれない?」
「……話って何?」
無視しようと思っていたけど、もしかしたらイケメンが助けてくれるイベントかもしれないと思い直して応じた。
「家はこの近く?」
「話って何?」
頭が悪いのだろうか? 会話が成立しない。
「あ、いや、もし他所から来たんなら街を案内してあげようと思って」
「いらない」
この街に興味なんてなかった。
(もっとましな提案をしなさいよ)
とは言ったものの、ナンパされたこと自体には悪い気がしていなかった。けれど、わたしが可愛いのは自明であって、こんな風に再確認させてくれる必要なんてまったくなかった。そもそもミユウのミは『美しい』のミなのだ。名が完全に体を表している。美しいわたしに美しいという名前の組み合わせはくどくすらあるかもしれない。完璧に美しいわたしにつけるならマサコくらいの名前でちょうどよかったのではないかと思う。
男は卑屈な笑みを浮かべた。
「これからどこか行きたいところはない? 送っていくよ」
強いて言うなら家に帰って勉強したい。中間考査が近いのだ。
「どこかに行くところだったりしない?」
わたしはため息をついた。
「……駅に行くところだったの」
「駅? けっこう距離あるのに歩いて駅から通学してんの?」
「そんなわけないよ。バスに乗り損ねたんだよ」
「なら家まで送ってあげるよ」
わたしの家は学園よりさらに郊外にあった。この先の駅から市中を南北に貫く地下鉄の一番北の駅まで3駅、そこから歩いて10分弱のところに春風家があるのだ。ちょっと遠い。だから、最寄り駅のひとつ手前の駅まで送ってもらうのもいいだろう、という気になってしまった。
わたしが了承して車の後部座席に乗り込むと、男たちは目を丸くしたけどすごく興奮して喜んだ。馬鹿みたいだったけどわたしは彼らと違って馬鹿ではないので馬鹿みたいとは言わなかった。代わりに行き先を伝えた。
「萩野だよ。わかる?」
「わかるって」
男たちは自分たちの名を名乗った。親からもらったお金だけは持っていそうな、人の形をした無分別。ふたりとも男で、外見はただのチャラ男崩れ。このふたりについてそれ以上のことは覚えられそうになかったから聞き流した。
わたしの名前も聞かれた。嘘をつこうかどうしようかちょっと迷ったけど、こんなに綺麗で可愛い生き物は宇宙にわたしひとりしかいないから、嘘をついてもどうせ無駄だろうと思って正直に本名を名乗った。
それからも男たちはくだらない話しかしてこなかった。まずは自分たちがいかにこの街に通じているかとか、どんな知り合いがいるかとかいったローカルなネタを一生懸命話していた。それにわたしが関心を示さないと見るや、ふたりはしきりに自分たちが悪友であることのアピールを始め、大人の遊び方なるものについて必死にわたしにレクチャーしようとした。
大人の遊びはけっこうだけど、勝手にタバコを吸おうとしたことには腹が立った。降りようとしたらすぐに消してくれたけど、わたしの髪や服に嫌なにおいがついたらどうしてくれるつもりだったのだろう。
そのあともずっとふたりは会話を途切れさせないように、あるいは場を盛り上げようとひっきりなしにしゃべり続けていた。滑稽なくらい緊張しながら。
まあそれはいい。わたしだって男にサッカーの話か自分の話以外の話ができるとは期待していない。それにしたってひどいのはこれだ。
「ミユウちゃんってすごい可愛いよね。言われない?」
呆れるしかなかった。わたしが可愛い? そんなの常識ではないか。この男たちはそのうち、お湯って熱いよね、とか、太陽って輝いてるよね、とか言いだすのではないだろうか。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけどここまで馬鹿だとはさすがに思っていなかった。
もう降ろしてもらおうと思って外を見れば、萩野の住宅街とはまったく違う、竹藪と日本家屋が目につく昔からの住宅地みたいな場所だった。
「ねえ! 道違わない?」
「え? ああ、帰宅ラッシュで混むから遠回りしてるんだよ」
車は山裾の人気のない道をゆっくり進み、やがて停まった。
周囲は静かで、日は暮れかけていた。
「ねえ、なんで停まるの?」
ふたりはその質問に答えなかった。あれだけ意味のない話をしてやかましかったのに、男たちは急に黙り込んでしまっていた。
「ちょっと!」
「ごめん、車の調子が悪くなってさ、ちょっと待ってくれる?」
「ふざけないでよ」
ぴかぴかのマセラッ○ィの調子が悪いだなんて信じられるはずもなかった。先ほどまで何事もなく動いていたのに。
「いいじゃん。直るまでのあいだ遊んでようよ」
「壊れたものが勝手に直るわけないでしょ。あんたたちが遊びたいなら遊んでいればいいけど、わたしは帰るから。タクシー呼ぶからもういいよ」
携帯電話のGPSで位置を確認してアドレス帳に登録してある配車センターに連絡すればすむ話だ。銀河一の美少女とつかの間のドライブができてこの男たちも身に余る幸運を十分に楽しんだだろう。
しかしとなりに座っていた男は苛ついた様子で言った。
「そうやってそっけなくしてんなよ、さっきからさあ」
そして身を起こして腕を伸ばし、わたしの体を覆うように背もたれに手をついた。
(何してんの、こいつ?)
学のなさそうなふたりにはわからないのかもしれないけど、わたしはさっさと家に帰ってテスト勉強をしたいのだ。悪い点は取りたくなくて、そのためには覚えることがたくさんある。そして今度こそ青葉ミズキ、あの美少年よりも上の点数を取りたい。
美少年は優等生キャラだから成績が関係変化のポイントだと見ていた。この読みに確信を与えているのは、あの上位30人の順位と名前と得点が掲載されるシステムだ。この乙女ゲームの世界とゆとり教育のご時世にあの競争をあおるシビアなやり方は少しそぐわないのではないか。園生学園が進学校と設定されている点をあわせて考えれば、順位掲載システムはもちろんキャラ攻略のために用意されたものだと考えるのが自然だ。
わたしは実力テストで紫葉マサタカを抜いたけど何の変化もなかった。まあ成績関連は白痴美攻略に関係がなさそうなのは見ていたら大体分かる。関係があるのはやはり美少年だろう。1回1位をとっただけではだめかもしれない。数回、あるいは勝ち越していることが必要になるかもしれないのだ。首位をとりにいくのは早ければ早いほどいいし、多ければ多いほどいい。そのためにはやっぱり勉強せねばならず、この馬鹿たれどもにわたしのハーレム形成の邪魔をされるのは許せなかった。
男はしまりのない笑顔を向けて、あまつさえ断りもなしにわたしに触ろうとしてきた。
「怖がらせちゃってる? ま、大人しくさえしててくれたらそんなに乱暴なこ――うがっ!」
もう馬鹿たれが垂れる御託を聞くのはうんざりだった。今日の体育の授業のために家から持ってきたテニスラケットを一振りして馬鹿たれの横顔に叩きつけると、やっとぺちゃくちゃしゃべるのをやめてくれた。わたしに倒れかかってきたから足で横に蹴倒すとようやく礼儀正しい距離感になった。
「おい!?」
シートに手をついて起き上がってこようとする馬鹿たれはもう一度蹴飛ばしておいて、ラケットをケースから出すと仰天している運転席の馬鹿たれにもフォアハンドの一撃を見舞ってやった。その馬鹿たれは後ろを振り向いていたので、ラケットが正面から当たって鼻がへし折れた。小枝入りの湿った粘土を殴った感触がした。
「車が大きいって、こういうときいいよね。車内でテニスができるなんて。わたしも車を買うときは○セラッティにしようかなあ」
手を伸ばして運転席からドアロックを解除し、わたしの横に寝転んでいた馬鹿たれを蹴り出した。
(乙女の横で寝るなんてどういう神経してるの?)
男は地面に落ちて声を漏らした。
「……うぅ……」
意識があったらしい。それならなおさら失礼だ。スカートをはいた乙女の近くで寝そべっているなんて変態のやることではないか。勝手にわたしの体を性的に触ろうとしたくせに、殴られたのをいいことにラッキースケベまで期待しているとは厚かましすぎる。
わたしも外に出て、もう一度、今度は顔の正面にテニスラケットを振りおろした。首尾よく湿った粘土に包まれた2本目の小枝を折り飛ばしてやれば、変態の馬鹿たれは顔面血まみれになって動かなくなった。
(あ、やっちゃった!)
アイボリーホワイトの制服に美しさを損ねる血が飛び散っていないかあわてて確かめたら、案の定袖のところに赤い染みができていた。
(もう!)
「いいよ、これでおあいこね」
腕をもう一振りしてあごを砕かんばかりに打ち付け、それで許してあげることにした。
運転席側に回ってドアを開けると、意識を飛ばしていたもうひとりの馬鹿たれも引きずり出した。
ナイチンゲールでも恐れ入るだろうほどの慈愛を持つわたしは、地面にひざをついて、ぴくりとも動かない馬鹿たれどもが無事に息をしていることを確かめた。念のため手首の脈をとってみたけど問題なくしっかりしていた。無分別が人の姿をとった馬鹿たれどもは元気いっぱいに生の喜びを謳歌していた。
「時間は血じゃ購えないんだよ」
浪費させられた時間の分として一発ずつ股間に爪先をめり込ませてやったら少しはすっきりした。心の平穏は暴力で購えるらしい。新しい発見だった。どんな経験でもそこから学びを見出す、わたしのような天才はそんなことも日常的にやってしまえるのだった。
今度はひとりで車に乗り込むと、有名で目立つ制服の上着を脱いでからシートベルトをつけ、車を発進させた。アヴリル・ラ○ィーンの歌を口ずさみながらアクセルを踏みこみ幹線道路に戻ると、萩野まで車を飛ばした。
それから適当なところに車を乗り捨てて歩いて家に帰った。玄関から一歩入ると、夕食のいいにおいがしていた。
「ただいまー! おなか減っちゃった」
「おかえりなさい、ミユウさん。今日学校はどうでしたか?」
今日はイケメンとの進展がとくになくてわたしは口をとがらせた。
「変わりなしだよ」




