24話 絶体絶命
バキッ、と硬いものが折れる音が響く。
しかし折れたのは、レーヴェの前足ではなく、それを殴った枝の方だった。
つまり窮鼠の渾身の一撃は、猫にちっともダメージを与えられなかったわけだ。
「タマコ嬢、いけません! 逃げてっ……!!」
『ああ、もう! しょうがありませんわねっ!』
メルさんは真っ青な顔をして叫び、ソマリは私を引っ叩こうとした巨大な前足に噛み付いた。
私の攻撃は屁でもなかったようだが、ソマリの牙はそれなりに効いたらしく、レーヴェが一瞬怯む。
すかさず巨体の下から抜け出したメルさんが、その喉に剣を突き立てようとしたが……
「うあっ……!!」
ソマリの牙から逃れようと振り回された前足が、メルさんを吹っ飛ばしてしまった。
「ぎゃあ! メルさんっ、危ないいいっ!!」
彼女の体が崖に向かってゴロゴロ転がっていくのを目にした私は、無我夢中でタックルをして止める。
それにほっとしたのも束の間、ついに振り払われたソマリも加わり、私達は崖の上で追い詰められてしまった。
『まずいですわね! 非常に、まずいですわ!』
ソマリがこれでもかと毛を逆立て、フーッ! と牙を剥く。
メルさんの剣は、私達とレーヴェのちょうど中間くらいの位置に転がっていた。
素人目に見ても後者の間合いだ。
もはや剣を取り戻すのは叶わないと判断したらしいメルさんが、私とソマリを腕の中に隠して我が身を盾にしようとする。
「ソマリをネコさんに……タマコ嬢は殿下に、絶対にお返ししなければ……っ!」
「メ、メルさん……」
美しい顔を土で汚し、こめかみからは血を流し、なおかつブルブルと震えながらも、彼女は懸命に私とソマリを守ろうとしてくれていた。
絶体絶命である。
このままなすすべもなく、レーヴェに引き裂かれるのを待つのか。あるいは……
(一か八か、崖から飛び下りる……?)
しかし、おそるおそる覗いた崖の下は、土が剥き出しの地面だ。
これが、川や茂みならば落ちても生き残れる可能性があっただろうが──完全に、望みは絶たれた。
「ネコ……トラちゃん……ロメリアさん……」
もはや、これまでか。
そう思った時、走馬灯のごとく私の脳裏に浮かんだのは、元の世界の誰でもなく、まだ半年あまりの付き合いしかない相手ばかりだった。
中でも心残りなのは、翌朝には元気な顔を見せるという約束を果たせなかった相手──
「ミケ……」
私とソマリをぎゅっと抱き締め、ロメリア様、ごめんなさい、と呟くメルさんの声が胸を打つ。
私達のすぐ後ろが崖なのがわかっているらしいレーヴェは、勢いよく飛びついて来ようとはしなかった。
ただ、猫が追い詰めた鼠をいたぶるみたいに、意地悪そうに目を細めて怯える私達を矯めつ眇めつ眺めている。
(こわい……いやだ、いやだ……)
レーヴェが恐ろしくて、死ぬのが怖かった。
何より、ミケ達ともう会えないのかと思うと、辛くて、悲しくて──絶望を覚える。
すぐ側にあるソマリの体は柔らかくてふわふわで、ちゃんと日干ししたお布団みたいないい匂いがするのに、私が慰められることは少しもなかった。
やがて、鋭い爪を携えたレーヴェの足が大きく前へ踏み出す。
「……っ!」
いよいよ襲いくるであろう衝撃に備え、私達が全身を硬らせた──その時だった。
『我の娘達に何さらしとんじゃこらぁああああっ!!』
ふぎゃああああっ! という凄まじい叫び声とともに、真っ白い塊が飛んでくる。
それがレーヴェの頭にしがみつき、鼻に噛み付いたのだ。
ギャッ! と悲鳴を上げた巨体が仰け反り、地面に倒れ込んだかと思ったら転がり回る。
それでもなおレーヴェに噛み付いたままの白い塊が、ネコだとわかったのと──
ドッ……!
茂みから飛び出してきた馬が、レーヴェの横っ腹を蹴り付けたのは同時だった。
その背に跨っていたのは……
「──ミケ!!」
淡い灰色の軍服を纏い、真っ黒い大きな軍馬に跨ったミケの金髪が、降り注ぐ太陽の光を浴びてキラキラと輝く。
まるで天に遣わされた救世主のごとく神々しく現れた彼は、私と目が合うなり破顔した。
「タマ、無事か? 無事だな!?」
「ぶ、無事ですー!」
恐怖も絶望もたちまちのうちに飛散し、私は声を弾ませて叫び返す。
「ミケ! レーヴェ、思ってたのと違いましたっ!」
「よし、タマ! その話は、後で詳しく聞こうな!」
ここでようやくネコがレーヴェから離れ、ミケの馬の上へと飛び移る。
『おいこら、デカいの! 我の娘達に手を出そうとしたこと、後悔させてやるぞっ!!』
フーッと全身の毛を逆立てて威嚇する姿は、普段の一回りも二回りも大きく、かつ頼もしく見えた。
そんな中、くっ付いたままだったメルさんの体がビクリと震える。
「ロメリア、さま……」
ミケが出てきた茂みの向こうから、同じく馬に跨った准将と、さらにロメリアが続いた。
ロメリアさんは自身も馬に跨りつつ、さきほどオオカミに襲われて走っていってしまったメルさんの愛馬の手綱を持っている。
「グルグル……グルグル……」
そうこうしているうちに、レーヴェが血の泡を吐きつつヨロヨロと立ち上がった。
軍馬の強烈な一撃を横っ腹にもろに食らった上、急所である鼻をネコにしこたま噛まれて、かなりのダメージを受けているようだ。
血走った目でミケ達を睨みつけ、低く唸り声を上げる。
ミケはその目をじっと見つめつつ、馬上で剣を抜いた。
「そうだ、こっちを見ていろ──私が、お前の相手だ」
さらに、准将も剣を抜いて馬首を並べれば、レーヴェは二人の間で視線をうろうろさせた。
レーヴェほどの猛獣でも、軍馬に乗ったミケや准将を相手にするのは容易ではないのだろう。
ミケが一歩馬を進めれば、ついにじりじりと後退りを始める。
それでもなお、レーヴェは燃えるような目で馬上の人間達を睨みつけていた。
「……っ、今のうちに! タマコ嬢は、ソマリと一緒にここを動かないでくださいね!」
「メ、メルさんっ!?」
突破口を開いたのは、メルさんだった。
メルさんは私とソマリをその場に残して駆け出すと、落ちていた剣を拾ってレーヴェに向かって投げつける。
それが前足を掠めて地面を抉ったとたんだった。
「ギャッ!!」
レーヴェはビョーンと飛び上がって、あっけなく茂みの向こうへ逃げていってしまった。
バキバキと草木が踏み荒らされる音が遠のき、やがて静けさが戻ってくる。
「……やれやれ」
大きくため息を吐いたミケが剣を鞘に戻すと同時に、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
『ふんっ! しっぽを巻いて逃げよったわ! たわいないなっ!!』
「あー、こわかったー」
ネコが毛を膨らませるのをやめ、准将は眉を八の字にしながら剣を収める。
メルさんも緊張の糸が切れた様子で地面に崩れ落ち、ロメリアさんは静かな目でそれを見つめていた。
『さて……メルにはどんな沙汰が下るのでしょう。まあ、何があってもわたくしは彼女の味方ですけれど』
私の腕の中のソマリは、ロメリアさんよろしくツンと澄まして言う。
そして、私はというと……
「わーん、ミケー! レーヴェがあんなのだとは思いませんでした! 探しに行くって言った時、止めてくださってありがとうございますー!」
「確かに、レーヴェの話は後で聞くとは言ったがな。この状況で第一声がそれか?」
『まーったく、珠子は! 緊張感のない子じゃわいっ!』
ミケとネコが呆れた風に言いつつも、馬を降りてこちらに歩いてくる。
ロメリアさんがすかさずそれに続き、うっかり出遅れた准将は全員の分の手綱を持たされてしまった。
私もミケ達に駆け寄るため、立ち上がろうと地面に片手を突いた──その時。
「え……?」
手を突いた場所に突如亀裂が走り、地面が割れる。
バキバキバキッと音が聞こえ、私が座り込んでいた場所が後ろに傾いだ。
崖が崩れていると気づいた時には、もう遅い。
足場を無くして空中に放り出される瞬間、私はとっさに、ソマリをメルさんの方へ放り投げた。
『た、珠子姉様っ!?』
ソマリの悲鳴と──
「タマ……くそっ!」
『ぎょえー! 珠子ぉおおおおお!!』
ミケの舌打ちとネコの叫び声を聞きながら、私は真っ逆様に崖の下へと落ちていく。
せっかくミケ達がレーヴェを追い払ってくれて助かったと思ったのに、再び絶体絶命に陥ってしまった。
(このまま一人、硬い地面に叩きつけられて死ぬの……?)
私が、今度こそ絶望に呑まれそうになった時だ。
「──タマ!」
ミケの声がすぐ近くで聞こえ、私は全身を包み込むようにして抱き締められた。
さらに……
『ぬぉおおおおお! こりゃあ、いかん! さすがに死ぬぅううう!』
ネコの声まで聞こえ、私は両目を見開く。
一人で死ぬのだと思ったのに、どういうわけかミケとネコまで付いてきてしまった。
「だ、だめ! だめだめだめだめ! ミケもネコも、死なないでよ……っ!!」
そう喚く私に空中で前足をひっかけたネコが、意を決した顔で叫ぶ。
『やむをえん! 三人まとめて死ぬよりマシじゃろ! 飛ぶぞ──別の世界へ!』
「えっ……」
かくして私達は生きるため、ネコの摩訶不思議な能力に身を委ねることになった。
『第四章 ネコ一家緊急事態』おわり




