19話 珠子の不在と覚悟の証
『た、たたた、珠子ぉ! どこ行ったんじゃぁあああ!?』
みぎゃあああああっ!! と、森の中に凄まじいネコの叫び声が響いたのは、太陽が山際から完全に離れてからだった。
時を少し遡り、要塞。
「──おい、起きろ。タマのところに行くぞ」
一般士官用のものとは違い、上官用の部屋には水回りの設備も整っている。
ミケランゼロは完璧に身支度を整えてから、いまだベッドで眠りこけているネコを揺すった。
しかし、うにゃうにゃとひげ袋を動かすばかりで、まったく起きる気配がないため、仕方なく腕に抱えて廊下に出る。
彼は昨夜宣言した通り、まっすぐに珠子の部屋に向かった。
「──タマ?」
ところが、いくらノックをしようと、扉が開く気配どころか返事もない。
廊下に立っていた守衛の話では、夜が明け切らないうちに顔を洗いに出たままだと言うではないか。
廊下で顔を合わせて連れ立っていったらしいメルも、まだ戻ってはいなかった。
「ゆうに二時間は経っているじゃないか。どこへ行ったんだ?」
『おおーい、珠子ぉー! どこじゃあー! どこ行ったー!?』
「メルと一緒に、先に朝食を食べに行ったのか……」
『この母に朝の挨拶もせんままどこぞへ行くとは、けしからんぞーっ!!』
ようやく覚醒したネコも、珠子の不在に気づいて騒ぎ出す。
ネコはミケランゼロの腕を抜け出し、にゃあにゃあと鳴きながら廊下を右往左往し始めた。
「「「ミーミー! ミーッ!!」」」
そのただならぬ声が聞こえたのか、あちこちに散っていた三匹の子ネコも駆け戻ってくる。
この頃にはほとんどの武官達が目を覚ましており、何事かと廊下に顔を出した。
最後に、ギギギ……、と軋んだ音を立てて珠子の隣の部屋の扉が開き……
「……やかましいですわよ」
『みぎゃーっ!? や、山姥ぁああーっ!?』
「「「ミィイイイイッ!?」」」
寝起きで、凄まじく乱れ切った髪のロメリアが現れた。
あまりの有様に、ネコ達は一斉に毛を逆立ててやんのかステップを踏む。
この山姥のごときロメリアを、フランス人形みたいと珠子が評するような美しい姿に整えるのもメルの役目だった。
そのため、ボサボサ頭のロメリアを目にしたミケランゼロは、たちまち険しい顔つきになる。
「メルがロメリアを放置したまま食事に行くなど、ありえない……何か、不測の事態が起こったのか」
この後、要塞のどこにも珠子がいないこと、メルの荷物と愛馬の姿も無くなっていること──そして、近くの丘に朝日を見に行くと言って、彼女達が馬に相乗りして出掛けて行ったことが判明する。
それを聞いたミケランゼロは、慌てて馬に跨り、二人が向かったとされる丘を目指した。
同行者は、ミットー公爵、准将、ロメリアらミットー公爵一家と……
「どうして……! ねえ! なんで、タマコがっ……!?」
「黙っていろ、トライアン! 舌を噛むぞ!」
一緒に行くと言って聞かなかったトライアンの四名だ。
トライアンは、ラーガスト王国に引き渡すと決まった時点で捕虜ではなくなったが、警備上の都合で准将との相乗りになっている。
『ぬぉおおおお! たぁあまこぉおおお!!』
『かーちゃん、落ち着くにゃ! しっかり掴まってないと、落ちちゃうにゃん!』
「「「ミイイイイッ!!」」」
ネコはミケランゼロに、チートはミットー公爵に、子ネコ達はロメリアにくっ付いてきた。
やがてたどり着いた丘の上に、珠子とメルの姿はなかったが──そこに突っ立つ木の下にある物を見つけて、一行は体を強張らせた。
木陰にあったそれが、遠目には一瞬、血溜まりに見えたからだ。
ただし近づいてみると、まったくの別物であると判明した。
ロメリアがそれを一束拾い上げ、確信を持って告げる。
「これは──メルの髪ですわ」
長く艶やかな黒髪が切り落とされ、渦を描くようにして木の下に捨てられていたのだ。
「……切り口を見る限り、鋭利な刃物で一気に切り落とされたようだな」
「しかし、周囲には血痕はもちろん、争った形跡もございませんね。メルが何者かに襲われて髪を切られた、というわけではなさそうです」
「殿下、父上! 真新しい蹄の跡が、要塞とは別の方角へと続いております!」
ミケランゼロとミットー公爵が難しい顔をする中、周囲を調べていた准将が新たな情報を持ってくる。
ロメリアは拾い上げた一束の髪を見下ろし、口を噤んでいた。
その美しい横顔を、トライアンがじっと睨みつけている。
一方、ネコ一家はというと……
『たまこぉ! たぁまこぉおおおお!!』
『かーちゃん! 落ち着くにゃ!』
ネコがふぎゃーふぎゃーと鳴き喚き、チートはにゃーにゃー言いつつその周りをくるくると走り回る。
子ネコ達もミーミー鳴きながら右往左往して、とにかく一家揃って珠子の所在不明に取り乱していた。
遠目に見ればモフモフ大集合でほっこりしそうな光景だが、当人達はいたって真剣だ。
『珠子ねーちゃんは毛並みが貧相で弱っちそうにゃけど、きょうだいの中じゃ一番でっかいから大丈夫にゃ!』
『ばっかもーん! 珠子はあれでも人間の中じゃ小さい方なんじゃいっ! あああ、今頃どこかで不安がって泣いとるかも知れん……! たまこぉおおおっ! 聞こえたら、返事をせぇええいっ!!』
ふみゃーっ、みぎゃーっ、とネコ達が騒ぎまくる中、人間達は額を集めた。
「──状況的に、メルがタマを連れ去ったと考えるのが妥当だろう」
ミケランゼロが、そう結論づける。
異を唱える者は、誰もいなかった。
「そもそも普段のメルなら、軽い散歩のつもりであったとしても、ロメリアに何も告げずに要塞を出るなどありえない」
「ええ、殿下に断りもなく、タマコ殿を連れ出すようなこともしないでしょうね」
「では……最初から、殿下やロメリアに知られずにタマコ殿を連れ去るつもりで、機会を窺っていたということでしょうか?」
加えて、メルが自ら切り落としたであろう黒髪の意味するところは……
「メルの、覚悟の証ですわ。おそらく、もうわたくしの下には戻らないつもりでしょうね」
ずっと黙っていたロメリアがようやく口を開く。
彼女は上着を脱ぐと、メルの髪を拾い上げて包んだ。
まるで赤子を抱くようにそれを両腕で持った彼女は、苦々しい顔をして続ける。
「メルがわたくしの命以外で動くとしたら……それは、ヒバート男爵の指示としか考えられませんわ」




