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11話 ミケのトラウマ

 突然メルさんを呼び止めた壮年の男性は、ヒバート男爵だった。

 そのでっぷりとした体型と狡猾そうな顔つきからは想像できないが、メルさんの実の父親である。

 メルさんの背中越しに彼を眺めて、私とネコはこそこそと言い交わす。


『文官として王宮に出仕しとるものの、さほど重要な地位に就いとるわけじゃないらしいな?』

「うん、娘のメルさんの方がずっと、知名度も好感度も高いんだって。ロメリアさんの護衛として、軍内でも一目置かれているから」


 本来なら、そんな娘の活躍を誇りに思うはずなのだが……


「ふん、相変わらず男みたいな格好をさせられて、実に哀れなものだな」


 ヒバート男爵はメルさんをじろじろと眺めると、鼻で笑ってそう吐き捨てた。

 私とネコ達を隠した柱が死角になるように立ったメルさんの背中が、小さく震える。

 私は胸が苦しくなって、ネコを抱く腕に力を込めた。


「まあ、それもミットーの娘が殿下に嫁ぐまでの辛抱だ。公爵家が王家と繋がれば、その親戚に当たる我がヒバート家も格が上がる。色気の欠片もないお前にも、いくらかましな縁談が舞い込むだろうよ」


 ヒバート男爵が嘲るように続ける。

 もうメルさんの背中が震えることはなかったが、彼女はずっと口を噤んだままだった。

 一方、私の腕の中ではネコが笑う。


『げっへへへへ……いやらしい男じゃなぁ。あれほど濃密な悪意で満たされている人間も珍しいぞ』

「あなたの笑い方も、相当いやらしいけど……ねえ、あの人の悪意、全部食べちゃってよ。もう、メルさんに嫌なこと言わないように」

『いーやじゃ。我はグルメなネコちゃんじゃからな。あのおっさんは脂っぽすぎて、見ているだけで胸焼けがするわい』

「何、それ……」


 そんな中、一匹の子ネコが私の腕から飛び下りて駆け出した。

 傍観のかまえになっていたネコが、とたんに慌て出す。


『こっ、こらあ! どこへ行くんじゃあいっ!』

「あの子、メルさんのところに……」

『おい、珠子! ぼーっとしとらんで、きょうだいを止めんか! おねーちゃんじゃろ!』

「えっ、でも……メルさんは、私達を隠したかったみたいだし」


 そうこうしているうちに、たたたーっとメルさんの足下まで走っていった子ネコが、白いズボンに包まれた彼女の足をよじ登り始めた。

 それに気づいて俄然ソワソワし始めたのは、ヒバート男爵だ。


「お、おい! メル! そのモフモフの子、いいな! 実に、いい!」

「この子は、その……」


 悪意の塊のような男でも、子ネコの愛らしさには敵わないらしい。

 しかし、顔を赤らめてハアハアしている姿は、完全に危ないおじさんだった。

 実の娘のメルさんさえドン引きしているのが、背中しか見えなくてもわかる。

 

「そ、その子をこちらによこしなさい! お前にはもったいない!」

「いえ、でも……」

「何をぐずぐずしているっ! わしにも抱っこさせないかっ!!」

「そ、それは……」


 い! や! だ! 


 メルさんの背中に、そうデカデカと書かれているように錯覚した。


「子ネコちゃんをよこせっ !!」


 子ネコがついにメルさんの肩まで到達すると、焦れたヒバート男爵が手を伸ばしてくる。

 メルさんの背中がビクリと大きく震え、居ても立っても居られなくなった私が柱の陰から飛び出そうとしたのと──


「フシャーッ!!」


 凄まじい威嚇の声を上げたネコが、弾丸のように飛び出していったのは同時だった。


『汚い手で、我の子に触るなーっ!!』


 ネコはヒバート男爵の前に躍り出ると、その横っ面に強烈な猫パンチをお見舞いする。

 母強し、強すぎる。


「へぶ……っ!!」


 横向きに吹っ飛んだヒバート男爵は、運悪く近くの柱に頭をぶつけてひっくり返ってしまった。

 脳震盪を起こしたのか、そのままピクリとも動かなくなる。

 

「あわわ……」


 すると、興奮冷めやらぬ様子のネコを抱え、子ネコを一匹肩に乗せたメルさんが、床に伸びた父親に背を向けた。

 そうして、柱の陰から出て立ち尽くしていた私の腕を掴んで走り出す。


「タマコ嬢、今のうちです! 参りましょう!」

「え? ええ? あの人をあのままで!?」


 何事か、と通り掛かった人々が集まってくる気配がしたが、メルさんが背後を振り返ることはなかった。


「メ、メルさん、ごめんなさい! ネコが、お父様を……」

「いいえ、父は完全に自業自得です。子ネコさんにいきなり触ろうだなんて、烏滸がましい……ネコさんがお怒りになるのも当然です」


 やがて、ヒバート男爵が倒れた場所から遠く離れると、メルさんは私の腕を離した。

 そうして、何やらもじもじしながら言う。


「あの、タマコ嬢……お見苦しい光景をお見せしましたね」

「いえ、それよりメルさんは大丈夫ですか? お父様が随分なことをおっしゃっていたみたいですが……」

「父は昔からああいう人なので……もう、慣れました。この格好も、私は好きでやっているので、父になんと言われようと平気です」

「私はメルさんのその格好、とても好きです! 最高に似合っていてめちゃくちゃかっこいいと思います!」


 食い気味に言う私に、メルさんは目を丸くした後、はにかんだみたいに笑った。

 彼女の肩にいた子ネコも、私の言葉に同意するように鳴く。


「ミー! ミーミー!」

「ふふ、可愛い……あなたが来てくれて、とても心強かったです。ありがとう」


 子ネコの小さな額にキスをして、メルさんがまた笑みを浮かべた。

 けれども、その笑顔がどこか悲しそうに見えて、私はちくりと胸が痛んだ。




「──ってことがね、あったんですよ」

「あらまあ、ヒバート卿にも困ったものですわねぇ」


 ついさっき目撃したヒバート男爵父娘のやりとりを伝えると、カゴいっぱいのビルベリーを選別していた王妃様が小さくため息を吐いた。

 王妃様の部屋は、書斎のベランダがハーブ園へと繋がっている。

 その中に建てられた小屋には、王妃様が自ら育てたさまざまなハーブや、それから作られた薬の瓶などが所狭しと並び、さながら魔女の家のようだ。

 小屋には簡易のキッチンも設置されており、私は子ネコ達を肩や頭に乗せてハーブオイルを作る手伝いをしていた。

 今回使うのは、乾燥させて細かくしたラベンダーの花だ。これにオイルを注ぎ、三十分ほど湯煎する。

 レードルでそれをかき回す私の右手に合わせて、子ネコ達の首の動きが見事にシンクロしていた。これぞ、シンクロニャイズド。

 一方、王妃様はビルベリーをジャムにするらしい。


「ヒバート卿も、昔はそう悪い方ではありませんでしたのにねぇ。奥様との仲がうまくいかず、彼女がメルさんを置いて生家に戻ってしまってから、すっかり卑屈になってしまわれて……」


 人には誰しも事情があるものだ。

 功利主義の店長にも、クレーマーを押し付けてくる先輩にも、見て見ぬふりをする同僚にも。


(私にとっては味方じゃなかったあの人達にも、あの人達なりの事情があったのかもしれない……)


 ただ、猫への迷惑行為に及んだ客だけは、どんな事情があっても許せないが。


「ロメリアさんがメルさんを気に入って側に置くようになりましたら、今度は野心に火が付いてしまいましたのね。ミットー公爵家に取り入ろうと必死になっていらっしゃると聞いておりますわ」


 そう王妃様に憂いを抱かれているヒバート男爵が今、最も期待を寄せているのが、ロメリアさんがミケと結婚することだという。

 これによりミットー公爵家の権力がさらに増せば、遠縁であるヒバート男爵家もそのおこぼれに与れるかもしれないと考えているのだ。

 私は、ミケとロメリアさんのツーショットを思い描いて、ほうとため息を吐いた。


「ミケとロメリアさんが、結婚かぁ……それは、すんごい美男美女カップルになりますね」

「あらまあ、おタマちゃんったら! ミケランゼロが他の子と結婚するかもしれないと聞いての感想が、それですの?」


 私の言葉に、王妃様は何やら不服そうな顔をする。

 それに首を傾げていると、ふいに軽快な笑い声が上がった。


「はははっ! 我らの息子は前途多難だなぁ!」


 私がメルさんと一緒に訪ねてきた時には、すでにこの部屋にいた国王様である。

 王妃様のハーブ小屋の中には、簡素なベッドが一台置かれていた。

 国王様はそれにうつ伏せに寝転んでおり……


『おうおう、おっさん。ここか? ここがええのか?』


 その腰を、ネコがクリームパンみたいな前足を揃えてふみふみしていた。


「あはー……いいねぇ、おネコちゃん……これは、たまらんなぁー……」

『ぬはははははっ! ちょろいっ! ちょろすぎるわっ! 我に踏みつけられてこの様とは、国王もかたなしじゃなっ!!』


 魅惑の肉球マッサージに、ギックリ腰を患う国王様もご満悦の様子である。

 彼はしばしうっとりとしていたが、やがて顔だけ私の方に向けて問うた。


「おタマちゃんは、ミケランゼロをどう思う? あれは、君の目から見てどんな人間かな?」

「ミケは……誠実で責任感が強くて、とても頼もしい人だと思います。でも……」

「でも?」

「私みたいな部外者が口を挟むべきではないとは思いますが……いろいろ背負い込み過ぎている気がして、心配です」


 私の答えを聞いた国王様は、そうか、と笑って頷く。

 それからベッドの上に起き上がり、ネコを膝に乗せて撫でながら話し始めた。


「あれが背負い込み過ぎるのにはな、理由があるのだよ」

「──陛下」


 いつもにこにこしていて柔らかな雰囲気の王妃様が、珍しく固い声で国王様を呼ぶ。

 何事か、と私は思わず身構えた。

 国王様は王妃様を一瞥したが、何事もなかったかのように私に視線を戻して続ける。

 

「ミケランゼロは、実は私達の次男でな──五つ上に、兄がいた」

「えっと、そのお兄様は……」

「ミケランゼロが十歳の時に、亡くなった──いや、殺されたんだ」

「えっ……」


 思いも寄らない事実に、私は言葉を失った。

 王妃様が悲しそうに目を伏せる。

 彼女に付き纏う負の感情の正体は、長男を失ったことへの悲しみ、あるいは犯人への憎悪だったのだろう。

 私がかける言葉も見つけられない中、子ネコが一匹、王妃様の肩に飛び乗った。


「まあまあ、子ネコちゃん……慰めてくださるの?」


 王妃様は悲しそうに微笑んで、子ネコに頬を寄せる。その姿が先ほどのメルさんと重なって、私の胸の痛みもぶり返した。

 子ネコは王妃様に額をスリスリしつつ、せっせと負の感情を食べている。


(お子さんを亡くした悲しみが完全に消える日なんて、きっと生涯訪れはしないだろうけど……)


 王妃様の心が少しでも慰められることを願わずにはいられなかった。

 ベルンハルト王国の亡き第一王子は、レオナルドといったらしい。

 国王様は王妃様の方を見ないまま、落ち着いた声で続けた。


「ミケランゼロの目の前での凶行だった。レオナルドを助けられなかったことを悔いているのだろうな。兄の分まで、自分が王子として祖国に尽くさねばという思いに囚われている」

「それで、ミケはあんなに頑張ってしまうんですね……」

「だが、ミケランゼロが潰れてしまえば元も子もない。周囲を頼るよう再三諭してきたのだが、どうにも他人に心を開き切れないようでな」

「それにも、何か理由があるのですか?」


 私の問いに、国王様はここで初めて、わずかに声を震わせた。

 その膝に箱座りしていたネコが、ちらりと彼を見上げる。


「おそらくは……兄を殺したのが、私の忠臣だと思われていた男だったせいだろう。ミケランゼロもレオナルドも、彼のことを慕っていた」

「……っ」


 それは、手酷い裏切りだった。幼いミケは、信頼していた相手に兄を殺されたのだ。

 それがトラウマとなって他人に心を開き切れない彼は、何でも一人で背負い込み過ぎてしまう。

 昨日、嘴の黄色い頃合いと揶揄したミットー公爵の言葉には、そんなミケを案ずる気持ちと、もっと自分達年長者を頼ってほしいという気持ちが込められていたのかもしれない。

 私はしんみりとした気持ちになったが、国王様は逆に少し声を明るくして続けた。

 

「しかしな、私達はおタマちゃんが来てからのミケランゼロの変化に驚いている。もちろん、うれしい驚きだよ」


 私が来てミケが変わったとは、さっきメルさんも言っていたことだった。

 するとここで、王妃様も話に加わる。


「陛下も私も、おタマちゃんにはとても感謝しておりますの。ミケランゼロを凶刃から守ってくださったことに対しては、もちろんですけれど……」

「かつて救えなかった兄とは違い、君がこうして元気になってくれたこと──それが、ミケランゼロにとっては何よりの救いなんだよ」

「そんな……」


 国王様と王妃様の優しい眼差しから、私はとっさに目を逸らした。

 オイルをぐるぐるとかき回しながら、でも、と呟く。


「私は、たまたまあの時あの場所に来てしまっただけで、意図してミケを庇ったわけじゃありませんし……その後は、ミケやこの国にお世話になるばかりで、何もできていません……」


 俯いて言う私の隣に、子ネコを肩に乗せたまま王妃様がやってきて、そっと背中を撫でてくれた。

 おずおずと顔を上げれば、それこそ聖母のごとく慈愛に満ちた王妃様の微笑みに迎えられる。

 

「おタマちゃんには、ミケランゼロの側にいてもらいたいの。あなたでないと、だめなのですよ?」


 湯煎が終わったオイルを濾して保存容器に移す。

 ラベンダーの花はガーゼの上に残り、その成分が抽出された透明なオイルがゆっくりとガラス瓶の底に溜まっていった。

 それがまるで、元の世界ですっかり空になっていた自己肯定感が、国王様と王妃様の言葉が注がれることによって、ゆっくりと満たされていくみたいに錯覚する。

 うれしくて、顔が綻びそうになった。

 けれど、ミケの兄の死が根底にあるとすれば、ここで笑うのはあまりに不謹慎だろう。

 私は、頬の内側を噛んで弾む心を押し殺す。

 そんな私と、国王夫妻を見比べたネコは、何やら胡乱げに呟いた。


『聞こえのいい言葉ばかりを言うヤツには気をつけろよ、珠子』


 国王様が、ミケのトラウマをこのタイミングで私に話した理由は、後日判明することになる。

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