第95話 池のほとりにて
『私は愛する少女を殺し、その肉を喰らったのであった。人の心とは不思議なものである。たとえ本人でも真実が分からない。私自身もまた、なぜそのようなことをしたのか分からなかった』
――奇書『我が殺意の考察』より
一陣の風にスカートの裾を揺らし、黒地に白いエプロンの付いたメイド姿の少女が、タナトスの前に立っている。
彼女の後ろには二体の魔物。
一体は細い手脚と、醜悪な顔をして、背中にはコウモリのような羽根を持つ。
そしてもう一体は銀青色の大狼。口からはみ出す白い牙がその力を誇示していた。
「なんと、そういうご趣味が――」
「違う!!」
タナトスの言葉を食い込み気味に遮った少女は、怒りからか恥ずかしさからか、頬を赤く染めていた。
これより二刻ほど前。
宮殿の広くて豪勢な廊下をエルフの女が歩いていた。
しかも分不相応なほど着飾っている。
遠目で眺めていたタナトスに、そばにいた使用人が「大侯爵のご生母ですよ」と耳打ちをする。その言い方が酷くかしこまっていてイラッとした。
タナトスは昔からエルフが嫌いだった。しかしこれといって理由はない。生理的に受け付けないとしか説明のしようがない嫌悪感だ。尖った耳も、瞳しかない目も、得体の知れない化け物のようで気味が悪い。あの姿を“幼い子供のようで可愛らしい”と褒め称える者は、脳味噌がイカれているとしか思えなかった。
だから今も、隣の男が「お美しい方だ」と呟くと、ついつい鼻で笑ってしまった。
本当になにもすることがなかった。
大きいだけの宮殿は空箱に過ぎず、王宮としての煌びやかさはまったくない。美しい貴婦人たちや、騒がしい芸術家かぶれの姿も見ることもない。見かけるのは、使用人、警護兵、ギルドらしき数人、貴族が十数人。警備兵以外は中に入ることも許されていない。タナトスもここ最近は警護役を降ろされているので、三階以上には足を踏み入れていなかった。
(そういや、あのクソガキにも四日ぐらい会ってないな……)
そんなことを考え、二階の窓から中庭を見下ろした。庭師がふたり、新しい国を飾りつけようと庭の手入れに勤しんでいる。彼らが勤勉であることは、あちこちに咲き誇っている花が証明していた。
(そろそろ例の答えを出さないと、議長も業を煮やすだろうか)
故郷を捨てようと思ったことがない。武器屋を営む両親は健在であり、弟との仲も悪くはない。志願兵として登城した時も、両親は店にある一番良い武具を選別にくれた。
とは言え、積極的に帰りたいわけでもない。十三歳で兵士になって十四年、兵士から戦士になるべく腕を磨き、ずっと駆け上がってきた。分不相応な夢も抱いた。
その夢と一緒になにかが壊れたと、今はそんな気分だとタナトスは思った。
(いっそ議長の件を、クソガキにぶちまけてみるのも一興だなぁ。あの二人、いがみ合っているようだし、引っかき回したら面白そうだ)
そんなことを考え、ねぐらの物置に戻ると、扉の下に二つ折りの紙が差し込まれている。怪訝な面持ちで中を見れば、なにやら文字が書いてあった。
(――…池?)
しかしタナトスの識字力は、兵士や平民と同等程度。だから池の名前は発音が分からず、その下の署名は略字のせいで判読が不可能だった。
(だれだ?)
なんとなく女であるような気がした。
むろん希望は入っていた。
差出人について考えつつ、タナトスは厨房へと降りた。食事時が過ぎていたせいで、居たのは二人だけ。その中の一人に、池と言われて思いつく場所はどこかと尋ねた。
男はまず宮殿内にある貯水池をあげ、それから“ブリュームの池”という名前を口にした。
『池の水は、以前は馬用にしか使えなかったんだけどね、今は天子様の使い魔が朝にきれいな水を吐き出して、飲料水にしている奴らもいるよ』
男は複雑な表情を浮かべる。それはどういうことかとタナトスが尋ねると、ソフィニアの事情を話してくれた。
ソフィニアの近郊には大きな川がなく、雨期以外は大雨が降ることもないので、水はかなり貴重だった。人々は水売りから買うしかない。井戸のある家もあるが、金持ちに限られていた。
しかしあの大戦で、水売りが革袋を乗せている馬車の多くが焼け、そのせいで一時期、水不足になったのだと言う。
『背に腹は代えられず、最初の頃は大勢が汲みに行ったけど、今は水が買えない貧乏人かケチばかりだよ。さすがに魔物の口から出てきた水かと思うとねぇ……』
至極もっともな意見だとタナトスは頷いた。
念のために貯水池に行ってみたが、案の定だれもいない。紙に書かれていたのはきっと“ブリュームの池”のことだろう。わざわざ宮殿の外に呼び出す理由があるとすれば、『罠』という言葉しか浮かんでは来なかった。
(さて、どんな美女が待ってるかな)
壮大かつ閑散とした宮殿の建物を見上げ、タナトスは腰にある剣の柄にそっと触れた。
宮殿を出たタナトスは、しばらく散策気分でぶらぶらと歩いた。ブリューゲルの池は街の一番北側にあるらしい。宮殿にいてもやることはないし、いい暇つぶしだ。
砦のような外壁に囲まれたこの街は、決して広くはない。端から端まで歩いても南北どちらも二刻ほどしかかからないだろう。
どこもかしこも大勢いる。数十の荷馬車が行き交い、道ばたでは群がる蟻のごとく子供が遊ぶ。狭い土地に十万近くがいるのだから当然だ。
道の両端には三、四階建てのコンパートメントが連なっている。人々のほとんどはそうした建物で暮らしているらしい。
人並みに飽きて、途中から早足になって半刻、やっと北門が見えてきた。そのそばにちょっとした高台があり、斜面の上には木々が生えていた。
みすぼらしい身なりの老人がひとり、木製のバケツを片手に上がっていく。どうやらそこが目的地のようだ。
漂う動物臭が鼻についた。それもそのはず、辺りは馬車屋ばかり。人通りもまばらである。少し離れた路上には、黒光りしている小綺麗な馬車が一台停まっていた。
馬車屋が扱うのは貸し出し用の荷馬車ぐらいなので、妙に目につく。
気になって近づくタナトスに、引き馬のそばに立っていた御者らしき男が、「あっちへ行け」とばかりに手を払った。
怪しいことこの上ない。しかしここで騒ぎを起こすわけにもいかず、御者を一睨みしたのち、改めて緑地へと足を向けた。
すると、先ほどの老人が空のバケツを抱えたまま、木々の間から降りてきた。入ろうとするタナトスを見た爺さんは、「今は止めときなさい。魔物様がいらっしゃる」と言って通りへと消えていった。
(魔物様? なんだそれ)
いよいよ不審の念が強まり、タナトスは腰から剣を抜いた。
これは間違いなく罠だ。
待ち受けているのは敵か味方か? 議長が関わっているのか? 呼び出された理由はやはりフォーエンベルガーとの関係か?
様々な憶測を振り払い、最大級の警戒をしつつ斜面を上がる。鬱蒼としているのかと思いきや、そうでもない。阻む低木を避け、四、五本の樹木を抜けると、すぐに開けた場所に出た。
広さにして宮殿の大広間ほどか。砂利と雑草に覆われた地面。端の方には、池と呼ぶにもためらうほど小さな水場が、太陽の光を反射させて輝いていた。
しかしタナトスが一瞬で見渡した景色はそれだけ。あとは中央にいる二体の魔物に、視線が釘付けとなってしまった。
黒くて羽根のある方は見たことがない。だがもう一体は間違いなく、ライネスク大侯爵の使い魔であるあの狼魔であった。
「どういうことだ……」
言うともなしに呟いたその時、狼魔の影から現れ出たのはひとりの少女だった。
「なんと、そういうご趣味が――」
「違う!!」
顔を赤くした少女は、タナトスの言葉を食い込み気味に遮った。
「これは変装だから!」
「ご趣味ではなく?」
「だから違うって言ってるだろ。宮殿から抜け出すにはこれしかなかったんだよ!」
なぜ趣味でもない変装をわざわざして、ここに自分を呼び出したのだろうか。その疑問をタナトスが口にするまでもなく、少女は自ら説明を始めた。
「べ、別にお前を呼ぶためだけに、こんな格好をしてここに来たわけじゃないからなっ!! ちょっと気張らしを兼ねて、使い魔を回収に来たんだよ」
「使い魔って、その黒っぽいのですか?」
「ずっと水不足だったから、ここの池に水を溜めるように頼んでたんだ。でも、そろそろ街も安定してきたことだし、もういいかなって……」
それにしてもと、タナトスは少女、いや少年を改めて見た。
着ているのは、白いエプロンが付いた黒いワンピース、宮殿にいるメイドたちと同じものだ。それほど長くはない金髪はゆったりと編まれている。頭上の小さな帽子は冗談としか思えなかった。
母親よりは人間に近い容姿なので、エルフに対する嫌悪感は薄くても、同性という拒絶感はどうしても拭えない。
似合わないというわけではないけども……。
見ているだけでなんだか尻が痒くなるような気分になる。
タナトスは手にした剣を腰に収めると、相手が次になにを言うのか黙って待った。いつものごとく、逆ギレ気味の文句を言ってくるのだろうと期待をして。
「ってかさ、おまえ、あんな手紙でノコノコやってくるとか、馬鹿だろ?」
ほらやっぱりだ。
想像通りの反応におかしくなって、タナトスは鼻で笑った。それに対する反応もまた想像通りで、
「笑うな!!」
「いやいや、自分を笑っただけですよ。どうぞ続けて」
言葉と一緒に手のひらを出すと、メイド姿の少年はますます不機嫌な顔になった。
「おまえを呼び出したのは、ジョルバンニとコソコソ会っている理由を尋ねるため。隠したって無駄だぞ」
「隠すつもりはないですが? 会いましたよ。雇いたいとお誘いをいただきました」
「雇う? なんで?」
「現在なにもすることがなく暇なので。しかも給金をもらえていない」
「あっ……」
途端に、少年は申し訳なそうな顔をした。
以前は興味深いと思ったそうした態度に、タナトスはなぜかイラッとした。
そんな顔をするくらいなら、初めから煽るようなことを言わなければいい。挑発的な態度をすれば偉くなると勘違いしている。
そんなつまらない動機かもしれないと思うことが、イライラする原因かもしれない。救いようのない馬鹿を見て喜ぶほど、悪趣味ではないのだから。
困惑した少年の顔を眺め、タナトスはイラつきを心の奥へと抑え込んだ。
「僕が金は払う。リカルドから預かったのは僕だし……」
「いただけるのなら、別にどなたからでも構いません。どうやら伯爵には厄介払いをされたようですから」
「ってか、厄介払いされた心当たりはある?」
「あると言えばある、ないと言えばないとだけ」
どうせセシャール王家に嫁ぐ妹に、変な虫が付いていたという噂がばらまかれるのを恐れたせいだろう。だがそれを悔しいとも悲しいとも、タナトスは思ってはいなかった。
「なんだ、あるのかよ。僕はリカルドがてっきり……」
言いかけた言葉を飲み込んで、ライネスク大侯爵は黙り込んだ。
それからしばらく、彼は自分の中に閉じこもる。背後から狼魔が鼻でその背中を突き、ようやく我に返ったように顔を上げた。
「お好きなだけ考えてもらって結構です、どうせ暇ですから」
タナトスはニヤニヤと笑ってそう言った。
どこから来ているのか分からないイラつきも、からかって遊べば収まるだろう。要するにエルフなんかに従うことが、胸くそ悪いだけだ。
その期待に応えるかのように、娘のような少年の顔が険しくなった。
後ろにいる二体の魔物も、主人の気配を感じ取ったかのように、尻尾と羽根をそれぞれ動かし始める。特に狼魔の方は色の違う瞳をぎらつかせ、それを見たタナトスは焼き殺すという言葉を思い出したものの、今さら後に引く気にはならなかった。
「それで、“てっきり”なんでしょうか?」
「知りたい?」
「面白い話ならぜひ」
「面白くはない。黙っていようかとも思ったけど教えてやる。おまえがなぜ僕の護衛につくことになったってことを――」
それから語られたことは、確かに面白くはない話であった。リカルド・フォーエンベルガーが考えそうなことだ。彼が伯爵となった時、若すぎるという理由のほかに、その軽薄さが危惧されたものだ。
(なるほど、そういうことか。だからあんな態度だったわけね)
「挑発的なことを言ったのは悪かったとは思う。だけど、おまえだってエルフの僕が気に入らないんだろ?」
「つまり伯爵のところに戻って、悪口でもぶちまけろってご命令で?」
「そうじゃなくて、いや、それが一番僕としては都合が良いんだけど……。でもおまえに心当たりがあるなら、リカルドの罠じゃなかったのかなって」
「罠?」
首を横に振り、少年は口を閉ざす。まるで謎かけをされたかのようだ。
(罠? 俺を解雇するのが罠? どういうことだ?)
散々考えた末、タナトスはようやくその答えらしきものを手に入れた。
「……そうか、首にされたら俺が頼るのは大侯爵しかない。だからどんな扱いをされても我慢をするだろうって思ったのか」
「僕の性格を分かってて、僕に手紙を送ってきたと思ったんだよ。それにリカルドはゲームについて一切書いてなかった。つまりゲームは続行してる。もちろん口約束だから効力なんてないけど。リカルドの狙いは、精神的に優位に立つことじゃないかってね」
「だから俺が議長と繋がったんで、慌ててぶちまけたってわけですか」
ライネスク大侯爵は困り果てたのか、うつむいてしまった。着ている服と相まって、その様子はまるで本当に少女のようである。
こんな脆弱な子どもが、しかもエルフが皇帝になるとは笑い話だ。昨日まではそれが楽しいと思っていたのに、しかし今はなぜか笑えない。
無意識に足が数歩前に出る。
次の瞬間、少年の背後にいた魔物が青白い光に包まれ、歩み寄ろうとしていたタナトスとの間にあの男が立ちはだかった。
「それ以上近づくな!」
色違いの双眸が、魔物のそれと同じくナイフのように鋭くタナトスを睨む。
「なにをいきり立っている? 忠誠の誓いでもして差し上げようと思っただけだ。俺の居場所はここしかなくなったんでね。けど止めておきましょう。新しい雇い主の議長が皇帝の味方であるかどうか見極めるまでは。ではこれにて失礼します」
今まで通りの笑みを浮かると、タナトスはその場を立ち去るべく歩き出した。
けれど本当は無性に腹立たしかった。
ゲームの駒として扱われようとしたことも、エルフに頭をさげることも、そしてあの魔身がクソガキのそばにいることも。
ちょうどタナトスが木の下まで来た時、みすぼらしい姿の親子が現れた。母親の手には皮の袋が握りしめられている。
それを見てふと思いつき、タナトスは背後にいる少年にこう告げた。
「そういえば、今この池を利用してるのは水が買えない貧乏人ばかりだそうですよ」
瞳を曇らせ、メイド姿の少女が親子を見る。
そんな表情がタナトスの苛立ちをさらに強めるとも知らないで……。




