第62話 自叙伝『さして面白くもない人生』第三章 その3
――アシュト・エジルバーク自叙伝『さして面白くもない人生』第三章より抜粋
『というわけで、我々は意気消沈したまま山を下りた。もっとも実際には一度に降りたわけではなく、ジュゼさんがまず私を丸くて黄色い鳥もどきで小屋の前まで運んでくれた。きっと私の勇敢な行動と、それに比例した無残な姿を哀れに思ってくれたからであろう。家にいた老婆に ――彼女の許婚の祖母だそうだ―― 私を温泉まで案内してくれるよう頼んでくれた。
温泉と聞いて、私はにわかに心が躍った。さすがの私も魔物に立ち向かった疲れが酷かった。きっと良い滋養ができるだろうと期待したのだが、残念なことに温泉とは名ばかりのものだった。
森の中をしばらく行った場所にあるただの池。つまりそういうことだ。ただし池と違うのは、水が人肌ほどの温度があり、魚も虫も生息していない、それだけだ。池の底はぬるぬるとして気持ち悪かったし、なにより嫌だったのは森の奥から獣だか魔物だか分からない咆哮が聞こえてくることだろう。それでも我慢して私が浸かったのは、ひとえに自分が自分で確認できないほど灰まみれだったからである。
体が温まった頃、老婆がシャツとズボンを持って現れた。孫の、つまりジュゼさんの許婚のものであるという。かなり大きいサイズから、よほど大男なのだろうと想像ができ、あの小さくて可愛い彼女が巨漢の悪党にたぶらかされているのではないかと少々心配になった。しかし老婆がいかにも素朴で善良な領民という様子から、そこまで酷くはないのだろうと思い直した。
さて、綺麗に灰を落とした私が小屋まで戻ると、ライネスク侯爵がすでに帰っていて、小屋の前にある貧相なベンチに腰を下ろしていた。少し離れた場所には狼魔の姿があり、茶色と黄色という左右の色が異なる瞳で私を睨む。それを気にしつつ、私は侯爵に声をかけた。
「お疲れですか?」
「僕はなにもしなかったから……」
言ってから、彼はふと顔を上げて、私を真正面から見返した。
「それとも、僕のせいだって思うか?」
「なにがですか?」
「ワーニングのこと。僕がフェンリルと出しゃばった真似をしなければ、あの火蜥蜴も暴れなかったから」
「結果を予想して行動するのはなかなか難しいですからね」
すると、侯爵は真剣な眼差しで私を食い入るように見つめ、やがてフッと横を向いて「そうだね」と小さく言った。
「エルフの彼は、侯爵のせいだと言っていたのですか?」
「自分のせいだって言って、凄く悲しんでいる。ブルーとワーニングは二十年も一緒にいたんだって。あいつがまだ僕ぐらいの頃に捕まえたんだって」
ということはあのエルフは、すでに四十近いという計算になる。もっともエルフにしてみれば、それはまだ青年の域ではあるのだが。
「なぜ自分のせいだと?」
「あの火蜥蜴を捕まえようと思ったのは、自分の使い魔が虫であることが少し恥ずかしかったんだって。だからフェンリルみたいに見栄えが良さそうな使い魔を欲しかったって」
「なるほど。では虫より狼の方が格好いいと言った私にも、少しは責任がありますな」
「アシュトは、案外いい奴だな」
「“案外”は余計ですよ」
実のところ、初めて侯爵に名前を呼ばれて、私は少々嬉しく思っていた。
もしも彼に胸があったならば、私は抱き締めていたことだろう。
だから侯爵が男で良かったと、今は思っている。
「それにしても、どうしてご自身で“出しゃばった”と思う行動に出たのですか?」
「つまらなかったから。自分でもよく分からないけど、蚊帳の外にいるのがつまらなかったんだ。自分が中心にいたいってわけじゃないのに……」
「まるで死んだ父のようですな」
「そう?」
私の父は若い頃から激しい性格で、なんでも人任せにはできない性分だった。気性も激しい上に、戦いも好み、貴族と言うより戦士のようだと言われたものだ。さすがに死ぬ間際は寄る年波には勝てず、馬に乗るのも苦労していたが、それでもククリ族との戦いでは最前線に出たがっていたという話も聞いた。
侯爵は少女のような見た目に反し、激しい気性なのかもしれない。それを思って軽く笑った私を、侯爵はまだ真顔のまま見つめ返した。
円らな瞳というのは、それだけでも罪である。侯爵の場合、子猫のそれにどことなく似て、愛でずにはいられない。彼を卑下する者がいるらしいが、そういう者はきっと動物全般が嫌いなのだろう。
「どうされました?」
「あ、うん。そうかもって思っただけ。前に“恐怖を感じない性格だ”って言われたこともあるし」
「ならば父が貴方を気に入っていたのは、そこかもしれませんね」
「伯爵には“野心を持て”と何度も言われた。でも僕には野心がなんなのか分からないんだ」
「私も子供の頃によく言われました。あれは父の口癖ですよ」
「ふぅん」
侯爵はいかにも残念そうな表情で、気のない返事をした。
自分だけに言われたのではないと知って面白くなかったのだと、その気持ちが手に取るように分かり、私は内心微笑んでしまった。
「私も“野心”とはなにか気になって調べましたよ」
「それで?」
興味を持ったのか、侯爵の青い瞳に輝きが増す。その表情に私もつい得意になって、講釈を垂れてしまった。だから背中に狼魔の痛い視線を感じ、視界に黄色い鳥が入り、森にいる小鳥たちが一斉に飛び立ったのすら気にならなかった。
「野心は、分不相応な身分や地位を得たいと願う心だとなにかの本に書いてありました」
「つまり、僕が玉座なんかに座るのがそうだって言いたいのか」
「新しいことに取り組もうという気持ちでもあるそうです」
「別に僕は取り組みたくないし」
「それからもうひとつ、野生の動物が人に刃向かうことも野心と言うそうです。私はそれを他人に飼い慣らされない精神だと勝手に解釈し、父に刃向かったのですよ」
「飼い慣らされない精神……」
一度下を向いたライネスク侯爵が次に顔を上げた時、その瞳は今までにない強い光を放っていた。
「そうさ、僕だって飼い慣らされたくなんてない、絶対に」
その言葉の意味することは、後々分かることで、読者ももうお気づきだろうが、あえてここで明言するのは止めておこう』
当初の予定は、この話の冒頭のようにいかにも自叙伝という感じで書こうと思っていたのですが、どうもあのテイストを続けると(書く方も読む方も)重くなりそうな気がして、ついこんな書き方をしておりますが、お許しください。




