第25話 未熟
夜が明けるまでには時間がある。空は群青色で、太陽が目覚める気配はない。宮殿も寝静まっている。夜勤の警備兵が起きているだろうけれど、廊下と寝室の間には居間があるから、足音すら感じなかった。
それでもしばらくユーリィはベッドの中で耳を澄ませ、風の音しか聞こえないことを確認してから体を起こした。
夜明け前の寒さにゾクリとし、毛布をつかみかけて手を止める。前回、朝の散歩に毛布を持って出たらすっかり薄汚れ、シュウェルトに怒られたしまった。
思い直し、チェストから薄グレイの上着を見つけ、袖に片腕を通してから、また手を止める。
これでも寒いかもしれない。寝間着は薄いし、上着を羽織ったぐらいでは震えそうだ。
通した袖を一度脱ぎ、ズボンとシャツとクラヴァットとマントをチェストから引っ張り出した。
ここ最近はコレットが着替えを手伝ってくれている。余計なお世話だ、自分でもできると思ったのに、思いのほか手間取った。しかもズボンは青で、上着はグレイで、マントは緑というちぐはぐさ。
(まあ、いいか、別にだれかに会うわけじゃないし)
そう結論づけて、窓辺へと近づいた。
ベッドの近くにある小さな出窓。その半分を綺麗な満月が埋めていた。
(なんか、どこにでも行けそうだなぁ)
月光が明るくて、大胆な気持ちにさせられる。あれほど月が嫌いだったのに、いつの間にか平気になっていた。
窓は小さいけれど通れることは実証済み。なぜなら三日前にここから抜け出して、重なり合った宮殿の屋根に次々と飛び移り、秘密の冒険を楽しんだから。そして今夜も、寝つけなかった気晴らしにどこかに行こうと思ったわけだった。
(どこかって言っても、屋根しか行けないけどね、飛べるわけじゃないんだし。んん? 飛ぶ……?)
閃きに嬉しくなって、ユーリィは暗がりで微笑んだ。
(いい方法があったじゃん、忘れてた)
自分には翼がある、もちろん自分のものではないけれど。
急いで窓を開けると、冷たい夜風が流れ込んできた。気にすることなく、身を乗り出して下を確認。人影はない。これなら大丈夫と、あまり大きな声にならないように注意し、その名を呼んだ。
「ガーゴイル!」
忘れていた従順なしもべに申し訳なさを感じつつ、月夜を眺めてひたすら待つ。
やがて、丸い月に被って翼あるモノの黒い輪郭が見えてきた。
あれこそが水の精獣ガーゴイル。
体毛がない黒い体と、背中にある同じく黒い翼は、コウモリを彷彿させられる。しかし長い両腕は人間に似て、両脚は猛禽類のような形をして長い爪まであった。顔は醜い老人か猿といったところだが、瞳は猫のごとく闇の中でも鋭く光る。大きな口からはみ出す二本の牙と、赤くて長い舌には蛇を思わせる怖さがあった。
しかし醜悪なこの異形が、とても生真面目な従僕であることを、ユーリィはよく知っていた。
「久しぶりだね、ガーゴイル」
窓の外で滞空をはじめた精獣に、ユーリィは優しく声をかけた。
「ごめんね、長いこと放っておいて」
この三ヶ月ソフィニアの外れにある池の縁で、ガーゴイルは住民ために定期的に水を吐き出していた。ぴくりとも動かないその姿はまるで銅像のようだと、ヴォルフが驚きを持って教えてくれた。
そうしろと命令したのはユーリィである。それを護り続け、三ヶ月間ガーゴイルはそれを続けていたのだ。
「あのさ、ガーゴイル。僕、ちょっと散歩に行こうと思うんだ。あ、でも遠くに行くんじゃなくて、つまり空を飛びたいだけなんだ……いいかな?」
拒絶されないと思っていても、なんとなく気兼ねして小声になる。するとガーゴイルは細い片腕を前に出して、その願いを叶える意志を見せてくれた。
「ありがとう!」
こうして何度も彼らに助けられた。優しい魔物や精霊は、人間やエルフ以上に信頼できると改めて実感した。
「あ、そうだ、ちょっと待って。レネを連れてくるから」
一度部屋の奥に戻り、サイドテーブルにあったシミターを革ベルトごとつかむ。柄についている黄緑の宝石には風の精霊が眠っていた。
窓辺へ戻るとガーゴイルが少し近づいてきた。身を乗り出すと二の腕を引っ張られ、体が宙に浮く。ついでガクンと落ちたが、怖いとはちっと思わなかった。
果たして、ガーゴイルの片手は落ちかけた体をしっかり抱えてくれた。
夜風が頬を撫でる。精獣の腕につかまりながら下を覗き込むと、地面が遙か遠くにあった。
「飛ぶのって、やっぱり気持ちいいや」
ガーゴイルの恐ろしげな顔を見上げる。口が少し開いているから、笑っているような気がしていた。
生まれた時からずっと塔の上で暮らし、外をを眺めていたせいか、高いところも怖くない。空には自由があると、今でも思っているから。
「どこに行こうかな」
久しぶりの空と、久しぶりの自由を満喫するにはどこがいいだろう。
色々考えたのち、ユーリィはあの場所に行くことにした。
「丘にしよう、ガーゴイル」
精獣の体がふっと舞い上がる。翼の動きを体に感じた。
言葉が通じているというよりも、心が繋がっているこの感じがとても心地よい。だからきっと言葉に嘘を交えたら、全部分かってしまうかもしれない。
ソフィニアは真っ暗だった。去年までは一晩じゅう明るかった街なのに、今はすっかり火が消えている。この街が復活するまでは、まだ時間がかかりそうだ。
月明かりの中を、鳥のように飛んでいく。まるで自分の背中に羽が生えたみたいで、狼魔フェンリルの背に乗るのとはまた違う、こんな飛行も悪くない。
(そういえばヴォルフのやつ、なんかフェンリルの話題を避けてるんだよなぁ。やっぱ怖いのかも……)
服の下にある銀のペンダント。いつも肌身離さず身につけているこの中に、ヴォルフの魂と、狼魔フェンリルの魂が半分ずつ入っていた。
ヴォルフの肉体には残りの半分ずつが宿っている。それが完全に一つになるまでは、ペンダントは開放してはならないと、魔物使いであるラシアールの女性にきつく言われた。なぜならヴォルフの魂はほとんど力を失っているから、同化する前に解き放てばヴォルフは死を迎えることになるのだと。
同化したら、ヴォルフはいったいどうなるのだろう。それ以前に、本当に同化などできるのだろうか。
考えれば考えるほど、ユーリィも不安になった。
「でもいいか、時々こうしてガーゴイルに頼めれば。すっごく楽しいし」
そう言うと、ガーゴイルは少し体を倒して右へと旋回し、すぐに左へと軌道を戻す。宙ぶらりんになっているユーリィの両足が左右に揺れた。
やがて丘の輪郭が見えてきた。
ソフィニアの中心にある丘からは街を一望できる。そのためだけに観光客は長い坂を必死に登るのだが、その甲斐がある素晴らしい眺めは約束されていた。
「ま、観光客なんてしばらく来ないだろうけど」
少し旋回したあと、ガーゴイルは立木のない場所に優しく下ろしてくれた。地面に穴がいくつも開いた丘は、戦闘の爪痕はまだ残っている。
柵で囲まれている丘を一周し、寝静まった街を眺めた。
様々な思い出がこの街にはある。楽しいことも、悲しいことも。
友とふたりで買い物をしたのは、遥か過去のことのように懐かしい。あんなふうに気のおけない者たちと、当たり前の日常を過ごす日がくるのだろうか。
そう思うと、なんだか悲しくなってきた。
(でも僕には、ヴォルフもガーゴイルたちもいるから……)
街から目を離し、しもべの元へと戻ると、醜い精獣は器用に翼でバランスを取りながら、柵の上で大人しく待っていた。その姿がなんともコケティッシュで可愛らしい。ふふっと笑うと、見下ろしたガーゴイルの鋭い目が困ったような表情になったのは気のせいだろうか。
精獣の腕に少し触れ、それから隣に立つと、ユーリィは背中を柵に保たせた。
暗い空を見上げる。月に照らされた青い雲がいくつか、西へと流れていた。
「ガーゴイル、もうそろそろ水出しの仕事は終わりになると思うよ。昨日から水売りが始まったらしいからね」
水売りとは、大きな樽を荷馬車に乗せ、飲み水を売りながら街を回る業者のことだ。近くに川がないソフィニアの名物として、広く知られていた。
「そしたらさ、僕と一緒にセシャールに行こうよ。楽しいかは分からないけど、ここよりマシな気がするんだ」
毎日毎日、政治の話ばかりで心も体もほとほと疲れてきた。妙な期待を寄せられる現状にもうんざりする。僕はただのユーリィとして生きていきたいだけなのに……。でもそんなことを考える自分は、やっぱり卑怯で臆病なのかもしれない。
“俺からなにもかも奪ったおまえは、逃げることなど許されない”
どこからか兄の声が聞こえてきた気がした。
兄の鋭い瞳があの男と重なるから、余計に鬱になる。本当は嫌いなのに、どうしても拒絶できないところも同じだった。
「ジョルバンニはあれから全然喋らないんだよなぁ。そうとう僕に呆れたのかな。ま、別にいいけど。だったら解放してくれたっていいのにね?」
薄ら笑いを浮かべるジョルバンニの顔なんて見たくない。自分の未熟さを痛感するのも嫌だった。
けれど何度も何度も言い負かされて、もう逆らえる気がしない。
「結局、僕はなんなのかな……」
皆が褒め称えるのは嬉しくもないこの容姿と、兄が道を開いてくれたあの戦いでのこと。でも本当は、みんな自分の欲しいものを手に入れるために利用しようと考えているだけ。そう思えてしかたがなかった。
「僕は人形なんかになりたくないんだよ、本当は。けどさ、そうなった方が色々と面倒がないかもね。だから前みたいに僕は……」
なんの意志も持てなかったあの頃、ただ言われるままに動き、考えることも止めていた。幸せではなかったけれど、悩むこともなかった日々。悲しみすら知らなかった。
だけど感情を手に入れた今でさえ、自分が何者かさえ分からない。いったいどうしたら、プライドに即した自信を持ち、正しい道を選べるようになるのだろう。
それが分かればきっと僕は大人になれると、ユーリィは信じていた。
その時ふと、頭の上でばさばさを風を切る音が聞こえてきた。
ガーゴイルが黒い翼を動かして誘っている。こんなところで愚痴を言うのはやめて、どこかに行こうと言っているようだった。
「そうだね、行こうか。次はどこにしよう?」
柵から体を離すと、ガーゴイルの細い腕が伸びてくる。抱えられた体がふわっと浮き、重くなり始めた心が、その感覚とともに少しだけ軽くなった気がした。
それからあちこち、街の上空を飛び回った。といっても見る場所などそれほどはない。明かりが灯っているところはなるべく避けて、ただ飛行を楽しむ。それでもユーリィは十分満足した。
やがて東から徐々に空が白み始めて、さすがに遊びすぎたと気がついた。
「ヤバいかなぁ……」
けれど、外に出てはいけないとだれかに言われた覚えはない。いなくなってちょっと騒ぎになってるかもしれないが、せいぜいそんな程度だろう。
(だって僕が僕であるためにしたことなんだから)
急にそんな反骨精神が心に芽生えた。
このままこそこそと宮殿に戻るのは、いたずらを見つかった子どものようで癪に障る。それに堂々と帰っても責められるなんておかしな話だ。なにか悪いことをしたわけではないんだから。
(でも、ガーゴイルを巻き込むのは止めとくか)
翼があることは自分だけの秘密にしたい。夜の散歩を楽しめなくなるのも困るから、帰る前にまずはガーゴイルを戻すことにした。
池に行こうと指示を出す。すぐに精獣は反応して、朝焼けの中を北に向けて旋回した。不思議なほど意志が通じているこの感じが、堪らなく嬉しかった。
ガーゴイルが常駐している池は北門近くにある。名は“ブリュームの池”といい、それほど大きくはない。せいぜい民家が丸ごと一軒漬かる程度だろう。池の周りを木々が囲んでいるが森と言うほどでもない。上空から見た様子は、街中にあるちょっとした緑地帯といったところだ。その昔、池の水を飲んだ男が力を授かり、王になったという伝説があることから、王宮時代はきっと大切にされていたのだろう。しかし王たちがいなくなった最近までは、草で近づけないほど忘れられた存在だった。
下に降りるとすぐに、ガーゴイルは鳥がするように二度三度翼を大きく広げた。それから池の縁までぴょんぴょんと跳ねて移動をすると、腰を下ろして翼を閉じ、腕を組んで口を開け、動かなくなってしまった。
ヴォルフが言ったとおり、確かに銅像のようだ ――もっともこの精獣は本当に手のひらほどの大きさの像にもなれるのだが。これなら池に水をきた者も驚くことはないだろう。
そんなしもべの様子を見て、ユーリィは打ちのめされた気分になった。ガーゴイルですら自分の役割を果たすために、なにをすべきか分かっている。それに比べて自分は……。
宮殿へ戻ろう。
あそこが自分の居場所であり、きちんと役目を果たさなければならない。
そう、たとえ心を殺してでも……。
大きくため息を吐き出し、その前にもう一度池を見渡す。
ガーゴイルが全て入れ替えた今、透き通った水が縁まである。朝日に反射する清水のような輝きは、醜い精獣が吐き出したとは思えなかった。
(ガーゴイルを見習わなくちゃね)
そう思って一歩踏み出した刹那、木陰から人が現れた。
片手にバケツというその姿は見たことがある。
数日前の幻なんだろうか?
しかしそれは違ったようで、「え? え?! えええーーーーーー!?」と聞き覚えのある声が雄叫びをあげた。
「な、なんで、侯爵がここに……」
「バケツを持つと僕が現れる、という魔法だ」
もちろんその言い訳が通じるとは思ってはいなかった。




