第24話 心の支配者
ユーリィとともに会議室を出ると、案の定、扉の横にふたりの兵士と使用人の男女が待機していた。
兵士はもちろんユーリィを警護する者たちだ。彼らはユーリィの両側に立つと、護りの体制を整えた。
女は世話係のコレットで、濃紺のマントを持っていた。彼女はユーリィに近づいて、おどおどとマントを渡す。ぴっちりとしたメイド服のせいで猫背が妙に目立ち、初対面の貧相さはあまり軽減されてなかった。
ユーリィが自分で上半身に巻き付けると、彼女は不器用な手つきでその端を肩のフックに止める。さすがに十日も世話を焼いているせいか、不慣れな中にも意思疎通は感じられた。
コレットの後ろにいる男は水差し係だという。両手で持っているトレイの上には、水差しとグラスが乗せられていた。
セシャールの王族たちに、コレットのような世話係が付いて回ることは知っていたが、水差し係というのはヴォルフも初めて聞いた。セシャールにおいては、水差し係は廃れてしまったのだろう。シュウェルトの話だと、王宮時代の習わしとのことだった。
ユーリィは渋々と言った様子で、男が差し出したグラスを手に取ると、ほんの一口だけ飲んでからトレイに戻した。
すべてが儀式のように行われ、ユーリィは四人を従えて歩き出す。広い廊下を行く後ろ姿が、以前よりずっと小柄に見えた。
柱と柱を繋げるアーチ飾りを何度かくぐりると、彼は一度だけ振り返った。
しかし、わずかな時間では心を交わせるはずもなく、離れすぎてその瞳がどんな表情を作っていたのかも分からない。本当に行かせて良かったのだろうか?
今日はずいぶん弱気な顔を覗かせていたから、そんな疑念がヴォルフの頭に浮かんでは消えた。
(いや、大丈夫、きっと大丈夫だ)
ユーリィほどの強さがあらば、荷が重すぎるはずはない。彼はいつだって悲しみも苦しみも力に変えてきた。プライドをまとった様子はまさに王者だから、負けるはずはない。
そう信じている反面、ざわざわと胸が騒いでいた。
やがてユーリィの姿が、突き当たりの角を右へと消える。もう二度と彼は振り返らなかった。
妙な脱力感を覚え、ヴォルフはしばしその場に立ち尽くしていた。
すると背後で人の気配がし、続いて聞こえてきたのは知った声だ。
「話があります、ヴォルフ・グラハンス」
おそらく彼はまだ近くにいるだろうと思っていたので、あまりに予想どおりで可笑しくなる。俺もなかなか先が読めるようになってきたではないかと。だからと言って、話す気にはならなかった。
「いや、もう今日は十分……」
「駄目です、今すぐに」
驚くほどの強さで腕を引っ張られ、なすがままに会議室へと連れ戻される。常に沈着な態度を取るアルベルトにしては、ずいぶんと性急な行動だった。
「お、おい、アル」
「大声は出さないでください。外にだれが通るか分かりませんから」
「分かった。だが……」
アルベルトは首を傾けた。
数年前とはいえ相棒だった相手だから、視線だけで“扉から離れよ”という命令を即座に理解した。
円卓の前まで移動してから改めて向き合うと、険しい表情をしたアルベルトの横顔を、夕暮れの黄色い光が照らした。
「いったいなんなんだ、アル」
「ちょっと伺いたいことがあったんです。先ほど貴方と彼がふたりだけの時、彼はなにか言ってましたか?」
「彼って、ユーリィのことか?」
アルベルトが小さくうなずいたので、ヴォルフは少し前のことを思い浮かべ、ユーリィの様子を語ろうとした。
しかし口を開きかけて、あの時入ってきたアルベルトのよそよそしい態度が、警戒心を呼び起こす。もしも彼がなにか企んでいたとしたら……。
そう思うと、軽々しく言えない気がした。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。アルベルトは今日初めて、彼らしい笑顔を見せた。
「私は慎重に事を進めたいだけですよ、ヴォルフ。ギルドの情報を手に入れるために、私がどれほど苦労したか。まだソフィニアに来て十日ですからね。あまり詮索して疑われると、ユーリィ君にも良くない影響が出るかもしれないので」
侯爵ではなく名前を呼んだことで、ヴォルフも少しだけ安堵して、アルベルトへの警戒をやや緩めた。
「それで、彼はなにか言ってましたか?」
「なにかって、別にこれと言って特になにも……。ああ、熱はあったな」
「それだけ?」
他になにかあっただろうかとヴォルフは考えた。
大使の話が出た時は多少の気迫を見せたが、全体的にはぼーっとしていた気がした。でもそれは熱があったためで……。
「では質問を変えましょう。彼はジョルバンニ氏についてなにか言ってましたか?」
「そういえば、あの男は自分を椅子に座らせて、人形みたいに暮らさせようとしてるとか、そんなことを言ってたが……」
「そうですか、では操られるかもしれないという自覚はあるんですね」
それはユーリィでなくても気づくだろう。案外他の者たちもユーリィを目の当たりにして考えるかもしれない。老獪な大人を相手にするくらいなら、人形のような容姿をした彼の方が簡単に御せそうだと。しかし容姿に騙されると痛い目に遭うはずだ。そう思うと、ヴォルフは内心ほくそ笑んでしまった。
だが友の顔は険しいままで、しきりになにか考えている。
「自覚がありながら、ジョルバンニ氏に対して強い抵抗はしていないようですね」
「嫌がってはいるけどな」
「となると、少々危険な兆候ですね……」
「危険な兆候?」
もしかしたらユーリィがすでにジョルバンニの手中にあるということなのか。そういう兆しはあったとは思えなかったが、彼は本心を隠すところがあるから、実はあの眼鏡にかなり傾倒しているということも、絶対にないとは言い切れない。
しかしどう考えても、ユーリィがジョルバンニを慕っているとは思えなかった。
「まだ分かりませんか? 思い出してください、彼の生い立ちを。彼はずっと支配されていたんですよ、精神的に」
「つまり、あいつの兄エディク・イワノフのことを言ってるのか?」
「ええ、そうです。もしもジョルバンニ氏が精神的に彼を操ろうとしているとしたら、ユーリィ君はその罠にはまりかけているんじゃないかと思うのです。強く逆らえないのも、エディク氏に逆らえなかったことと同じですよ」
「まさか!」
そんなはずはないと思った。
確かに病的なほどの細さと冷たい眼光は、似ていると思えばそう思えなくはない。だからといってジョルバンニにエディクを重ねたことなど、ヴォルフは今の今まで一度もなかった。
「イワノフ城の時に比べて、彼は徐々に弱ってきているような、輝きを失ってきているような感じに見えるんですよ。なんとなくですが、以前の雰囲気もあります。表情が薄くなってきている気がしませんか? けれど本人は気づいていないでしょう」
「だけどエディクからの呪縛は、もう解けているんじゃないのか?」
「本当にそうでしょうか?」
尋ねられ、改めて思い出した。
あの父親がエディクについてこれっぽっちも悲しんでいないと知った時、彼は震えるほど嘆いていた。
「あり得ないことじゃないか……」
「心に受けた傷はそんなに簡単には癒えませんからね。忘れたと思ってもなにかのきっかけでも蘇ることもあります。特に彼は、生まれた時からずっと酷い仕打ちを受けていたのですから。発熱したのも、過去のことが影響しているのかもしれません」
「よく眠れていない様子だった。俺がいないからだって思ってたんだが」
「ジョルバンニ氏に支配されるという恐怖、放棄してはいけないという使命感、貴方を奪わるかもしれないという警戒心など、色々複雑に絡まっているのでしょう」
「怯えている感じがあったかもしれない」
そうだろうと言うように、アルベルトは軽くうなずいた。
もしもそうだとしたら、どうすべきなのだろう。本人に伝えた方がいいのか。
友にそう言うと、彼は首を傾げて、曖昧な表情をした。
「本人が自覚しているのならともかく、ジョルバンニ氏はエディク氏が同じだと言えば、彼はどう思うか……」
「反発するだろうなぁ」
「私もそう思います。ユーリィ君の中では兄エディクはまだ生きているんですよ。しかも自らを犠牲にして世界を救ったことで、神格化した存在となって。なぜならその役目はユーリィ君自身がしようと思っていたのだから」
「確かに」
神格化というのは、まさに言い得て妙だとヴォルフは思った。父親に閉じ込められ、継母に疎まれて、召使いらにも無視された中で、たった一度エディクに助けられたことが、去年までのユーリィには呪縛となっていた。そんな相手がふたたび助けてくれたのだ。ジョルバンニと同格になど考えるはずはない。
「もう少しすれば、俺たちはセシャールに行くことになるんだろ? その間になんとかなるんじゃないか。あの男が同行するとは思えないしな」
「ええ、たぶん行かないと思います。けれど以前のような気楽な旅を想像しては駄目ですよ。公人としての公式訪問ですから、それなりの人数を従えていくことになるでしょう」
「それは……ウザい」
以前はユーリィとふたり、気ままに、足が向くままに、風の行方を追いかけるような旅を思い描いていた。それが叶わないと分かっている今も、ときどき夢を見る。
その夢ではいつも、風をはらんだ金色の髪を陽光に輝かせ、彼は隣に立っていた。
「それにジョルバンニ氏の代わりとして、だれかが付いていくでしょう。それがだれなのかが問題なのですが。会議の時にいたギルドの三人で、面長な男を覚えていますか」
「もう一度会っても、分からないだろうな」
「そうですか。まあ、いいです。まだ先の話ですしね」
セシャールに行く前に、ユーリィはまず裁判を見守り、そしてメチャレフ伯爵と対峙しなければならない。色々な難問を控え、ユーリィが壊れてしまわないか、ヴォルフはそれだけが心配だった。
「そういえば貴方はずいぶん忍耐力がついたようですね、驚きましたよ、ヴォルフ」
「あんなことをしたんだから、俺だって少しは学習するさ」
「でも、たまには羽目を外していいんですよ、たまにはですけどね」
そう言って、友は久しぶりに爽やかな微笑みを浮かべてみせた。
裁判は連日、ガーゼ宮殿にある“審議の間”で執り行われた。初日は量刑が軽い者だったが、徐々に審議は混乱し、怒鳴り散らす者もいた。十日目に当初の予定どおりの極刑が言い渡された時、初老の男はその場で失禁するほどの恐怖を見せた。
ユーリィはただ黙って、その様子を連日眺めているだけだった。“化け物”だの“卑しき子ども”だのと罵られることもあったが、表情一つ変えずに、被告席の者を見つめていた。
心を痛めたのはむしろヴォルフの方だ。彼がそうした罵詈雑言に慣れていることは知っている。けれど慣れたからといって傷を負ってないはずはない。特にジョルバンニのことを聞いてしまっただけに、また彼が過去のような状態になってしまうのではないかと気が気ではなかった。
反面、ユーリィはそんなに弱くないと心の底では信じていた。




