第53話 王の死と世界のざわめき
◇◇
グランヴェル王国の空は、いつになく重く沈んでいた。
黒衣を纏う民たちが、王都ヴァルディアの石畳を埋め尽くし、鐘の音が十度、ゆっくりと鳴り響くたびに、まるで国全体が呼吸を止めるかのように静まり返った。
国王アルフォンス三世……賢王として知られ、三十年以上にわたって王国を支え続けた男。その死は、ひとつの時代の終焉を告げる鐘でもあった。
アルフォンス三世の国葬を執り行うにあたり、セラフィア神聖国から使節団が派遣されることになった。
その中には、若き女性教皇、アストリッド・エリュシアも含まれていた。
わずか二十歳にして教皇の座に就いた奇跡の乙女。
その白金の髪は光を受けて柔らかく輝き、蒼の法衣に縫い込まれた金糸が微かに光を返す。彼女の一歩ごとに、まるで空気そのものが祈りへと変わるようだった。
「神の御前において、この王の魂を安らかに導き給え」
その言葉は、葬儀の宣告であり、同時に世界への通告でもあった。
グランヴェル王国とセラフィア神聖国は固い同盟で結ばれており、王族をはじめ、多くの民がエリュシア教を信仰している。
つまり、セラフィア神聖国のトップが直々に来訪し国葬を執り行うということは、王が去り、秩序が揺らぐ……その瞬間を、神聖国は決して見逃さない、国が安定するまでは自分たちが番人となる覚悟がある、という意思表示だったのだ。
葬儀は十日間にわたって行われ、その間、世界中の首脳たちが王都ヴァルディアに集った。
それはまるで、死した王の遺骸のもとに、新たな時代の覇者たちが集い、次なる秩序の形を探るかのようであった。
同時に、グランヴェルにとって、どの国が味方で、どの国が敵なのかを、はっきりさせる機会でもあった。
すなわち、その国の首脳が弔問すれば『味方」で、誰も寄越さなければ『敵』だということだ。
最初に到着したのは、東方のラミレス公国の若き国王、テオ・ラミレス。
公国はすでにグランヴェル王国の属国であり、実質はエリオス・リオンハート伯爵の盟友であった。
現に、形式的な挨拶を終えた後は、すぐにリオンハート屋敷に入り、王都滞在の間はそこで過ごした。
次に、葬儀への参加を決めたのは西方のカルヴァン共和国。
だがそこに至るまでは、議会で激しい論争が巻き起こっていた。
「いまこそ王国の弱体化を突くべきだ」
そう主張する急進派に対し、
「喪が明けるまでは静観することが、世論にとってもいいでしょう」
そう諭す穏健派。
結果として、共和国の大統領ヘンリー・ランカスターが初日のみ出席することで事態は収束した。
ヘンリーは老練な政治家であり、アルフォンス三世とも親交が深かった。
葬儀の間、彼は誰よりも深い祈りを捧げたが、その裏で密かに国境沿いの軍備強化を命じていた。
祈りと計略が同居する……それがカルヴァンの舵取りであった。
北方のノルデン王国は、食糧と物資をグランヴェルからの交易に頼っていた。
そのため、葬儀への参加と友好の継続は避けられない選択であった。
だが、国王レミ・フォンテーヌはすでに老齢で政務を退き、実権を握るのは王太子エティエンヌだった。
彼は冷静沈着で、父とは対照的な現実主義者。
「哀悼の意を示すことは義務だ。だが、膝を折る必要はない」
そう言い残し、葬儀に参列する道を選んだ。
それはまるで、グランヴェルに対する“限定的な忠誠”を示す政治的な演出であった。
そして、世界の南半分を統べる大帝国、エストリア帝国。グランヴェルとは、王国南の山岳地帯を巡って、激しく戦った過去がある。もう数十年も前のことだ。この時は、アルフォンス三世の姉を人質に差し出すことで、時限的な不可侵条約を結んだ。だが、その姉も病に倒れ、もうこの世の人ではない。
皇帝マクシミリアン七世は、アルフォンス三世の死報を受けても、まるで風の噂でも聞いたかのように微笑を浮かべた。
「義理は果たした。次は、我が剣が語る番」
それが、彼が宰相に告げた唯一の言葉だったという。当然、弔問客を差し向けることはなかった。
そして翌日には、帝国最強の竜騎士軍団の一部が北方へと再配置され、グランヴェルとの国境、険しい山岳地帯の向こうに、黒き旗がはためいた。
それはまだ宣戦ではない。しかし、明らかなる“構え”だった。
アルフォンス三世という楔が抜け落ち、世界の均衡はひとつずつ音を立てて崩れ始めていた。
もはや誰の目にも明らかだった。
その夜、王宮の奥深く。
黒衣に身を包んだセレナ・ヴァレンシュタインは、静かに祈りを捧げていた。
燭台の炎が揺れ、淡い光がその横顔を照らす。
その瞳には、王を失った悲しみだけでなく、あの夕暮れ、エリオスと交わした、たったひとつの「夢」の記憶が、痛みと共に刻まれていた。
やがて、遠くで鐘が鳴った。
それは王を送る鐘であると同時に、新たな時代を告げる鐘でもあった。
そしてその音を背に、セレナは小さくつぶやいた。
「嵐が来る……」
◇◇
アルフォンス三世の死は、あまりにも突然だった。
王は前夜まで政務をこなし、侍医との定例の診察でも異常は見られなかった。
だが翌朝、寝所を訪れた侍従が見たのは、静かに息絶えた王の姿だった。
まるで安らかな眠りの続きのように、苦悶の跡ひとつない、それゆえに、人々は余計に不安を覚えた。
王宮医師団と治安局による調査の結果、死因は「心臓発作による突然死」。
毒や他殺の痕跡は見つからず、事件性はないと断定された。
だが、王の死にまつわる“静けさ”そのものが、むしろ異様だった。
宮廷の空気は重く淀み、誰もが言葉を選びながら、互いの顔色を伺うように歩いた。
王が最後まで「次期国王」を指名しなかった……それが、この静けさに潜む最大の火種であった。
アルフォンス三世には二人の王子がいる。
第一王子、レオポルド・グランヴェル。
正統な王位継承権を持ち、母は名門ルクレール侯爵家の娘。
慎重で理性的だが、時に冷淡と評される男。
そして、第二王子、ユリウス・グランヴェル。
母は偉大な国王アルフォンス一世の血を引く高貴な血統。
聡明にして穏便、カリスマ性の高い彼の周囲には常に多くの人がいた。しかし、時折側近だけに見せる冷ややかな笑みの奥に、何を思うか計り知れぬ人物。
本来ならば、レオポルドが正式に王位を継ぐのが筋だ。
だが、ユリウスは兄の即位に強く異を唱えた。
「兄上の治世では、国は血で染まる」
そう側近にだけ洩らしたという。
だが、この『国は血で染まる』という表現は、決して誇張ではなかった。
レオポルドの気性は短気にして直情的。とくに自分の物を取ろうとする相手に容赦しない。
自分の妻と談笑しただけで、とある若い騎士が粛清されたという噂すらある。
そんな彼が王になれば、侵攻をうかがうエストリアやカルヴァンとの戦争は避けられないだろう。しかも、こちらから仕掛けることは間違いない。そうなれば、たとえ友好国といえども、援軍は期待できない。むしろ離反の恐れすらある。
その結末は……言わずとも知れている。
そんな懸念は、誰ともなく密かに語られ、すぐに貴族の間に拡がった。
こうして宮廷はあっという間に二つの陣営に割れた。
葬儀の日、王都ヴァルディアの中心にある聖王の大聖堂には、黒衣の群れが波のように押し寄せた。
葬儀長を務めるのは、第一王子レオポルド。
彼の姿は沈痛で、威厳に満ちていた。
その点だけは、誰も異を唱えなかった。
だが、葬儀後半、国賓を王宮に迎える儀式の場面で、空気は一変した。
王宮の大広間。
中央の玉座は、深紅の絨毯の先に静かに鎮座していた。
黄金の装飾が施され、天蓋にはグランヴェル王家の象徴たる鷹の紋章。
通常ならば、葬儀長であり第一王子であるレオポルドが座るのが慣例であった。
だが、その瞬間、第二王子ユリウスが穏やかな声で言った。
「兄上。父上の玉座は、王の玉座です。
王位継承の決定もないまま、座すことは……不敬にあたります」
周囲の廷臣たちは息を呑んだ。
だがユリウスの瞳には微塵の揺らぎもなかった。
むしろその声音には、確固たる“覚悟”すら漂っていた。
レオポルドはしばらく無言のまま立ち尽くした。
やがて静かに一歩引き、玉座の前で立ち止まる。
「……そうだな。玉座は王のものだ。
いまは、我ら兄弟がそれを守るのみ」
その言葉に、わずかながらユリウスの口元が動いた。
微笑とも冷笑ともつかぬその表情を見た者は、皆、背筋に寒気を覚えたという。
こうして、国賓を迎える儀式は、空席の玉座を中央に据えたまま行われた。
左右に立つ二人の王子。
その均衡は、まるで糸一本で保たれているかのような危うさを孕んでいた。
列席する賓客たちは、その異様な光景を前に、誰もが表情を崩さなかった。
だが、内心では悟っていた。
“この国は、嵐の前夜に立っている”と。
葬儀の十日間が終わると、教皇アストリッドは、静かに王都を去った。
彼女の法衣が風にたなびき、まるで天へ帰る女神のように人々の目に映った。
だがその直後から、王都の空気は一変する。
沈黙が破れた。
それはレオポルドの耳に、『例の懸念』が直接入ったことがきっかけだった。
しかも亡き国王を偲ぶ宴席で、酒に酔ったユリウス派の貴族の口から告げられたのだ。
レオポルドは激怒した。
「無礼者! 俺を侮辱したな!!」
そして有無を言わさず、その場でその者を斬り捨てた。
相手は丸腰だった。
その事件を耳にしたユリウスは、顔を真っ赤にして声を荒げたという。
「やはり兄上には任せられない! かくなるうえは、私が玉座につく! それが父上が大切にしてきた我が国を守る、唯一の道だ!!」
一方でレオポルドも黙っていなかった。
なぜなら
長く抑え込まれていた緊張が、いまにも爆発しようとしていた。
王位継承をめぐる駆け引きは裏から表へ……まさに一触即発の情勢だった。
各地の貴族たちは態度を明確にしはじめ、王都には日ごとに兵の数が増えていった。
街角では、レオポルド派とユリウス派の衝突が頻発。
血の匂いが、まだ葬儀の香の煙が残る石畳に混じり始めていた。
そんな中。
ただ一人、冷静にこの混乱を見つめていた者がいた。
辺境伯セレナ・ヴァレンシュタインである。
彼女は、内乱を防ぐため、わずかな希望に賭けた。
両王子を直接会わせ、王都の評議室で話し合いの場を設ける。
互いの意志を、言葉でぶつけさせる。
それが、最後の手段であり、唯一の和平への道であった。
セレナの提案に、王宮の老臣たちは口々に「無謀だ」と止めた。
だが、彼女の瞳には一切の迷いがなかった。
「この国を守るために、血ではなく言葉を使わねばならぬ時がある。
今がその時です。」
こうして、王都ヴァルディアの中心、王宮北棟の大評議室。そこでついに、二人の王子が対面することとなった。
王国の命運を左右する、最初の会談が……いま、始まろうとしていた。




