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第52話 夢を現実にする力

◇◇


 かつてアルベルトだった頃。

 たった一度だけ、恋をしたことがある。


 それは、戦いの合間に咲いた、ほんの束の間の夢だった。

 相手は属国の姫。

 白のドレスがよく似合う、可憐で、どこまでも純朴な女性だった。

 彼女の微笑みは、いつも小鳥のさえずりのように静かで、柔らかかった。


 アルベルトは遠征のたび、どんなに疲れていようとも、必ずその城に立ち寄った。

 彼女の差し出す花茶の香りを嗅ぎながら、たわいのない話をするだけで心が安らいだ。

 戦場では鉄と血の匂いが支配している。

 だが、彼女のもとでは、春の風が流れていた。


 彼女もまた、彼の帰りを心待ちにしていた。

 遠くの丘に立ち、彼が馬で戻る姿を見つけると、スカートをつまんで駆け寄ってくる。

 二人で並んで草原を歩く。

 ふと彼女が口にした言葉。


 ――二人でいるときは、ありのままの私でいたい。そして、ありのままのあなたでいてほしい。だって今だけは、こうして『自由』なんだから。


 その声、その表情、その光景は、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。


 けれど、二人の間には決して越えられぬ境があった。

 彼は宗主国の将であり、彼女は属国の王族。

 互いの立場を理解していたからこそ、決して言葉にはしなかった。

 ただ、黙って手を取り、沈む夕陽を見送ることだけが、二人のささやかな幸福だった。


 それが壊れたのは、あまりにも突然だった。


 属国の王……彼女の兄が、アルベルトへの反旗を翻したのだ。

 理由は、戦に敗れて隠居をよぎなくされた彼の父が息子である王をそそのかしたことによるものだった。

 アルベルトは説得を試みたが、すでに剣が抜かれた後だった。

 戦の火蓋が切られれば、もはや止められない。


 彼は戦場に立ち、剣を振るった。

 その一振り一振りが、彼女との記憶を切り裂くようだった。


 そして、ある朝。

 悲しい知らせがもたらされた。


 彼女は、兄の決断を止められなかった自責と、アルベルトと敵対する運命への絶望から……。


 自らの命を絶っていた。


 湖畔の館の中で、純白のドレスを身にまとい、まるで眠るように。


 知らせを受けた瞬間、アルベルトは言葉を失った。

 何も感じられなかった。

 ただ、胸の奥で何かが静かに焼け落ちていくのを、確かに感じた。


 その後にやってきたのは、遅れて押し寄せるような痛みだった。

 まるで生きたまま炎に焼かれるような、息もできぬほどの痛み。

 彼はその痛みを、どうすることもできず、やがて……


 恨みへと変えた。


 彼女の兄に。

 彼女の国に。

 そして、何よりも「弱かった自分」に。


 アルベルトは軍を率い、属国の王都と王を焼いた。

 燃え盛る炎の中で、彼はただ立ち尽くしていた。

「これは正義だ」と自分に言い聞かせながら。


 だが、誰もが知っていた。

 それがただの復讐だということを。


 夜空を焦がす火の粉の中で、アルベルトは誓った。


 ――二度と、誰も愛さない。

 ――二度と、心を捧げない。


 それはエリオスとして生まれ変わってからでも変わらない……はずだった。


 しかし、今――。

 宮廷を出て王都ヴァルディアの街に降り立ったセレナ・ヴァレンシュタインの微笑みが、どこか、あの姫の面影を映していることに気づいたとき、彼の中で、凍りついていたはずの何かが、わずかに軋みを上げた。


 王都の朝は、いつもより眩しかった。

 人々の笑い声と屋台の呼び声が入り混じる中、セレナはフードを深くかぶり、隣を歩くエリオスの横顔を盗み見た。

 王国の新たな英雄。けれど今、彼はただの旅人のように、粗末なチュニックに身を包み、どこか少年のような笑みを浮かべていた。


「なんだか夢みたいだ」


 セレナが小さくつぶやくと、エリオスはわずかに目を細めた。


「ふふ、まぎれもなく現実ですよ」


 ふいにすれ違う人波に押され、セレナの体が傾ぐ。

 その瞬間、彼の手がそっと彼女の手を取った。

 驚いて目を上げると、彼は何事もなかったかのように前を向いたまま、

「はぐれぬように」とだけ言った。


 指先から伝わるぬくもり。

 セレナの鼓動は、しだいに速くなっていった。

 それはエリオスも同じだった。


 王都の市場は、活気に満ちていた。

 子どもたちの笑い声、パン屋の甘い香り、行商人の威勢のいい声。

 どれもが彼女にとって新鮮なものだった。


「これを食べてみてください」


 エリオスが差し出したのは、焼きたてのパイ。

 庶民が好んで口にする安価な菓子だが、セレナは恐る恐るかじると、思わず目を見開いた。


「美味しい」


 エリオスは満足そうにうなずいた。


「でしょう? 私もはじめて食べたときはびっくりしたんですよ」


 セレナは黙って頷き、もう一口、パイを食べた。

 その横顔を、エリオスはふと見る。

 陽の光を受けて、髪が金のように輝く。

 その仕草や表情が、なぜか遠い昔、夢の中で見た誰かの姿に重なった。


 気づけば、二人の距離は少しずつ近づいていた。

 市場を抜け、城下の路地裏を抜け、人目を避けるように小さな橋を渡る。

 通り過ぎる人々の視線が、ただの男女として二人を映していた。

 立場も、責務も、名も、すべてを脱ぎ捨てた。

 その瞬間、二人はほんとうに“自由”だった。


「楽しい」


 セレナがつぶやいた。


「ええ、私もです」


 エリオスは短く応じる。

 セレナの頬が熱くなった。

 それを隠すように、彼女は前を向き、少し歩を早めた。

 その背を、エリオスは穏やかに見守りながら追いかけた。


 二人の胸の奥に、もはや消せない小さな炎がともっていた。


 気づけば、空はオレンジに染まり、街の屋根が黄金色に輝いていた。

 夢のようなひとときの終わりを、二人は無言のうちに悟った。

 夕陽が長い影を地面に落とし、その影が、まるで二人の未来のように、交わりながらも、やがて別々の道へと伸びていく。


「この先の坂を上れば、分かれ道ですね」


 エリオスが言った。

 セレナは頷いた。


「そこでお別れだ……誰かに見られたら、厄介なことになるから」


 そう言いながらも、声がわずかに震えていた。


 坂を登る。

 夕暮れの風が二人の間を通り抜ける。

 手と手が、ゆっくりと離れていく。


 セレナは立ち止まり、エリオスを見上げた。

 その瞳は、夕陽のせいか、ほんのりと潤んでいた。

 次の瞬間、どちらからともなく、二人は顔を近づけ――。


 そっと、唇を重ねた。


 それは短く、けれど永遠に続くような一瞬だった。


 セレナが先に唇を離し、静かに息を吐いた。


「これは夢……明日になったら、忘れてほしい」


 エリオスは、穏やかに、しかし力の入った口調で言った。


「嫌です、と言ったら?」


 セレナは俯いたまま、唇を噛んだ。


「互いに傷つき、不幸になるだけ……分かっているはずだ」


「ならばなぜ、今のようなことを?」


 彼の声は低く、けれどまっすぐだった。


 セレナは顔を上げた。

 夕陽の光を受けて、その頬に涙が光った。


「……一度くらい。たった一度くらい、夢を見ても罰は当たらない、そう思った」


「夢を、夢のままで終わらせるおつもりですか?」


 セレナは、かすかに笑った。


「私は神ではない。ゆえに、夢を現実にする力など持ち合わせていない」


 エリオスは足を止め、真っ直ぐ彼女を見つめた。

 そして覚悟を決めたかのように、ぐっと腹に力を入れて言った。


「私は、国王陛下と約束しました。セレナ様を支えると――その誓いに、偽りはありません」


 その声には、まるで神への祈りのような静かな強さがあった。

 セレナは背を向けた。

 そして、その背を見られぬように、大粒の涙をこぼした。


 すべてをさらけ出したい。

 すべてを投げ出して、彼の胸に飛び込みたい。


 ……でも、セレナを取り巻く、あらゆる現実が、鎖となって彼女を縛り付けている。

 彼女にそれを断ち切る勇気はなかった。

 でも感情は、正反対。だから涙が止まらないのだ。


 風が吹き、彼女の髪が揺れる。

 背後で、エリオスの声がもう一度響いた。


「この先、いかなる困難が待ち受けようとも、どんな嵐が襲おうとも、私は進み続けます。しかしセレナ様、どうか忘れないでください」


 もうこれ以上は言うな……そう止められるはずなのに。

 理性は、早く彼の口を止めよ、と命じているのに。

 セレナは何も口にできなかった。

 その間も、エリオスの感情と理性の二つを伴った、真実の言葉は続いた。


「私の心は常に、あなたと共にあります。

たとえ運命が私たちを引き裂こうとしても、私の心は必ず、セレナ様のそばを離れません。

もし、セレナ様に、夢を現実に変えるご覚悟ができたなら……その時は、どうかこの手を取ってください。

その時こそ、もう二度と離しません」


 セレナは静かに息を吸い、そしてただ一言だけ残した。


「今の私はそんなに強くない」


 それだけ言うと、彼女は背を向け、歩き出した。

 長い坂道の先、夕陽の中にその姿が小さくなっていく。

 エリオスは、見えなくなるまで、ずっとその背中を見つめていた。


 そして、運命は二人にさらなる試練を与えることになる。

 そのはじまりは、一週間後のことだった。



 国王アルフォンス三世が、突然、静かにこの世を去った――。



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