第50話 逆転の査問委員会②
◇◇
休廷の間。
グリフォードは、評議室からほど近い、とある人物の部屋をたずねた。
――何かあったら、いつでも来るといい。きっと力になるから。
以前から、そう言われていたからだ。
しかし、出迎えた執事は深く頭を下げた。
「申し訳ございません。ご主人様は留守にしております」
グリフォードは愕然とした。
「いや、そんな馬鹿な! 休廷になって、あの御方がこの部屋に入るのを確かに見たのだ! 必ずここにいらっしゃるはず!」
執事は首を横に振った。
「何をおっしゃられても、答えは同じです」
「うるさい! なら中に入らせてもらう!」
執事の目がギロリと光った。
「馬鹿な真似は辞めて、よくお考えください。今は大事な査問中。あなた様はその真っ只中にいらっしゃる御方ではありませんか。そんな御方と密会していた、と後になって知れたら、それこそあなた様にもご主人様にも、あらぬ疑いをかけられましょう。どうかお引き取りください」
理路整然とそう言われてしまっては、仕方がない。
グリフォードは歯ぎしりしながら、その場を立ち去った。
「……おのれ……どいつもこいつも……こうなれば信じられるのは身内だけか……」
そうぼやきながら、彼は王都の路地裏に消えた。
◇◇
裁判が再開された。
評議室の空気は、まるで冬の刃のように張りつめていた。
委員長が「被告側、続きを」と告げると、エリオスは静かに立ち上がった。
一拍の沈黙ののち、彼は落ち着き払った声音で言葉を紡ぎ始めた。
「そもそも、おかしいとは思いませんか?」
その一言で、ざわついていた空気がすっと引いた。
「私とクロースの精鋭軍が、戦争以外の理由で領地を離れるなど、数年に一度あるかどうか。
その稀有な機会を、まるで見計らったようにラミレス公国軍は攻め寄せたのです。
大軍を整え、我が国境警備が最も手薄になる瞬間を正確に狙って……。
偶然、とは言わせません。
あれは、偶然ではなく、必然。
すなわち、内通者の存在がなければ成り立たぬ侵攻です」
その声は低く、だが明瞭に響き渡る。
貴族席の一部からざわめきが起こり、すぐに委員長が「静粛に」と木槌を叩いた。
グリフォード伯爵が立ち上がり、顔を紅潮させながら怒鳴る。
「ば、ばかばかしい! それは推測にすぎん! 何の証拠もない暴論だ!」
委員長は厳しい眼差しでエリオスを見据えた。
「確かに、今のは推測の域を出ない。証拠はあるのでしょうか?」
エリオスは、ゆるやかに唇の端を上げた。
「そのための、証人です」
会場の視線が証人台へ一斉に向けられる。
「ラミレス公国王弟……いえ、『新国王』とお呼びして差し支えないでしょう。テオ・ラミレス殿下」
騒然とする場内。
テオは静かに前へ進み出て、右手を軽く掲げて誓った。
「神に誓って虚偽の証言はいたしません」
委員長がうなずき、証言を許可する。
エリオスは、わずかに歩を進め、落ち着いた声で問うた。
「国境を越え、我が国を攻めることが決まったのは、いつ頃ですか?」
「昨年末のことです」
「そのきっかけは?」
テオは一瞬、目を伏せた。
長い沈黙ののち、重い口を開く。
「貴国から、ある情報がもたらされたのです」
場が一気にざわめいた。
貴族たちは互いに顔を見合わせ、ささやきが渦を巻く。
委員長が木槌を打ち鳴らす。
「静粛に!」
しかし、騒ぎはすぐには収まらない。
その中で、エリオスの声だけが澄んだ音色で響いた。
「どのような情報でしたか?」
「国境の警備に穴あり。エリオス・リオンハートは王都にて留守、と。具体的な日程や、国境警備の詳細も添えられていました」
その瞬間、評議室が爆ぜたようにざわめき立った。
委員たちの誰もが目を見開き、声を失う。
「静粛にせよ!」
何度も木槌が叩かれるが、混乱は止まらない。
そして。
「一同、お静かにッ!」
エリオスの一喝が響いた。
空気が一瞬で凍りつく。
彼の声音には、戦場を渡り歩いた者の威が宿っていた。
「偽情報、敵の策略とは考えなかったのか?」
「……いいえ。考えませんでした」
「なぜ?」
「その密書の封蝋を見て、高貴な人からの情報だと判断したからです」
エリオスは一歩、踏み出した。
「その封蝋……この印では?」
エリオスはグリフォード家の家紋を紙で示す。
しばらく紙面を見つめていたテオは顔を上げ、明瞭に言い放った。
「はい、これで間違いありません」
重い沈黙。
誰かの息を呑む音すら響く。
百の視線が、一斉にグリフォード伯爵へと突き刺さる。
「そ、そんな……馬鹿な! 虚言だ! でたらめだ! だったらその密書とやらを出してみろ!!」
グリフォードは椅子を倒し、怒声を上げた。
しかし、エリオスは静かに首を振った。
「密書を丁寧に取っておく将がどこにいましょうか?
それに、ここにいるのは、ついこの前まで我が国と戦争をしていた国の王弟殿です。国を背負う身が、危険を冒してまでこの場に立ち、神に誓って証言した――その事実こそが、何よりも重い証です」
場の空気が完全に凍りついた。
誰もがエリオスと委員長の口元だけを見つめていた。
やがて、委員長は深く息を吸い、重くうなずいた。
「……リオンハート卿、これで終いかな?」
「ええ」
「うむ。では、査問委員会にて最終協議に入る」
ざわめきが再び広がる。
わずか数分の協議だったが、永遠にも感じられるほど、皆が長く感じていた。
しばらくして、ついにバルドが結審を言い渡した。
「テオ殿がこの場に来られ、証言されたという事実は重い。
加えて、リオンハート領の侵攻には多くの不審点がある。
これらを鑑み……」
少しだけ間が空く。
これまで、余裕の表情だったルチアですら、祈るように両手を結び、目を閉じていた。
そして……。
「本査問委員会は、エリオス・リオンハート卿を無罪とする」
場が一瞬、息を止めたように静まり返る。
続いて、委員長は静かに、しかし断固とした声で言った。
「それから、ボフミル・グリフォード卿についてですが……」
うなだれたグリフォードの肩が、びくっと跳ねる。
バルドは淡々と続けた。
「ラミレス公国への内通の疑いをもって、改めて審議を行うものとする。
なお、逃亡の恐れがあるため、ただちに身柄を拘束します。
審議の開始は公国と伯爵領の調査が完了したのちとし、それまでの間、ボフミル・グリフォード卿から、すべての権限と特権を剥奪。
また、グリフォード領の統治は、セレナ・ヴァレンシュタイン辺境伯が代行するものとする」
委員長の最後の言葉が響き渡った瞬間、場の空気が激変した。
パッと顔を上げたルチアの目からうっすら涙が浮かぶ。オルハンは、普段は滅多に見せない笑みを浮かべた。
グリフォードは絶叫し、衛兵たちに取り押さえられる。
その騒ぎの向こうで、エリオスは深く息を吐いた。そして、証人台のテオに向き合った。テオの表情が固くなる。
エリオスは穏やかな口調で言った。
「あなたたちが起こした事実は、未来永劫消えることはない。しかし、だからといって、俺はあなたたちを恨み続けたりしない。
むしろ、ここで手を取り合い、友誼を深め、互いの発展を望みたい。
いかがだろうか?」
テオは静かにうなずいた。
エリオスは右手を差し出す。
テオは彼に対して、既に心を許していた。というのも、エリオスは、この証人台に立つことを条件に、陥落させたラミレス公国の王城を無条件で明け渡したうえ、捕虜も解放していたのだ。
本来ならば、城や捕虜を質に取り、強制的に連れてきてもよかったのに。
なぜか、と質問したテオに、エリオスは何でもないように即答した。
――俺はフェアな取引を望む、そう言っただろ?
今度は自分が即答する番だ。
テオは、迷うことなく、エリオスの手をしっかりと握った。
「ええ、私は貴殿を決して裏切りません。どんな時でも、貴殿が困っていれば駆けつけ、敵に襲われれば盾となりましょう」
エリオスは困ったように笑みを浮かべた。
「そこまでしてくれなくていい。俺は……その先は分かっているな?」
エリオスは、テオを伴って壇上から降りる。
未だに興奮冷めやまぬ列席者の群れのなか、奥の扉口に立つ一人の女性の姿を見つけた。
「……セレナ様」
淡い青の正装、金糸の飾緒が微かに揺れる。かすかにピンク色に染まる頬。わずかだが口角も上がっているように見えた。
彼女は「よくやった」と告げるように、目を細めて小さくうなずくと、そっと部屋を出ていった。
その瞬間、エリオスの胸の奥で、長い闘いの終わりを告げる鐘の音が鳴った。
◇◇
夜の王都は、冷たい風に包まれていた。
月は雲の合間からのぞき、王城の尖塔を銀に染める。評決が下された昼の喧騒が嘘のように、夜の城は静まり返っていた。
その静寂の中を、ひとりの男が歩いていた。査問委員長バルド。
普段は厳格で、鉄の掟を重んじることで知られる男だったが、その足取りには迷いがあった。靴音が石畳に響くたびに、胸の奥の不安が増していく。
(やるべきことはやった。命じられた通りに)
そう自分に言い聞かせながら、彼は重厚な扉の前に立った。
扉の向こうからは、静かな音楽とワインの香りが漂ってくる。
深く息を吸い、心臓の鼓動を抑えようとした。
「失礼いたします」
扉を開けると、暖かな灯火の中に一人の人物がいた。
豪奢な椅子に身を預け、机の上のワイングラスをゆっくりと傾けている。
その横顔は柔らかい光に包まれ、言葉にすれば「穏やか」とさえ言える。
だが、バルドの目には違って見えた。
その笑みの奥には、夜よりも暗いものが潜んでいる。
「仰せのままに、グリフォード卿を投獄いたしました」
バルドは頭を深く下げた。
自らの声が震えているのを感じる。
「ご苦労だったな。しかし、エリオス・リオンハートはたいしたものだな」
その人物は、低く静かな声で言った。
穏やかな調子なのに、心の芯を掴まれるような響きだった。
「まさか、あの場で敵国の王族を証人に呼ぶとは……やはりグリフォード卿では手に負えない相手だった、といったところですね」
グラスの中のワインが、ゆらりと揺れる。
光を受けて紅く煌めくその液体が、まるで血のように見えた。
「追い詰められた鼠は何をしでかすか分かりませんから。現に、休廷中に私を訪ねてきたらしいですよ。温かく迎え入れてくれるとでも思ったんですかね? ははは」
その声に滲む笑みには、賞賛でも嘲笑でもない、奇妙な静けさがあった。
バルドは一歩、二歩と下がる。冷たい汗が背中を伝った。そして、彼は声を振り絞った。
「おそらく……グリフォード卿の密告を裏付ける証拠など、出てはきません。となれば、いずれは解放せねばなりません」
「そもそも有罪の判決が出る前に投獄する、ということ自体が、あってはならないことですからね」
「しかし、そうせよ、と貴殿が……」
「ええ、もちろん分かっていますよ」
その人物はあっさりとうなずいた。
「外に出てきたとたんに、『あの投獄は不法だ』とわめかれたら、たまりませんね」
重苦しい沈黙。
バルドは唇を噛んだ。自分が正義を裏切ったという感覚が、胸の奥を鈍く刺す。
だが、その人物は冷静に続けた。
「でも心配はいらないよ」
その人物は立ち上がり、ゆっくりとバルドに歩み寄る。
足音が柔らかく響く。ワインと香水が混ざり合った甘い香りが、妙に鼻についた。
肩に手を置いた。優しい声。だがその手は、氷のように冷たかった。
「きっとグリフォード卿は、今頃自責の念にかられているだろうからね。これ以上は、誰も疑わないし、傷つけない――僕が保証しよう」
耳元に近づいた声は、優しさの形をした毒そのものだった。
バルドは深く頭を下げたまま、一刻も早くこの部屋を去りたいと願った。
その人物はそんな彼の姿を見て、静かにグラスを回した。
瞳の奥には、月の光がかすかに映っている。だが、その光はどこまでも冷たく、底知れぬ闇を孕んでいた。
「さて……エリオス・リオンハート。排除してしまうのは惜しい男だ、ということが分かっただけで、今回は大きな収穫でした。
……ご苦労様、グリフォード卿」
◇◇
同じころ。
城の地下にある湿った監獄では、ひとりの男が鉄格子の向こうを見つめていた。
グリフォード伯爵。
昼間の誇り高い声はもうなく、顔はやつれ、目はうつろだった。
「……私が、愚かだった」
かすれた声が、湿った壁に吸い込まれていく。
彼は両手で顔を覆い、わずかに笑った。
「あの方を信じた私が。あの方の言葉を、疑わなかった私が」
牢の隙間から差し込む月明かりが、彼の顔を照らす。
その光は冷たく、まるで罪を暴く裁きの光のようだった。
「だが、まだ終わりではない」
グリフォードはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、狂気にも似た決意が宿っていた。
「そうだ! 陛下に話してやろう……そうすれば、あの方の企みを明るみに出すことができる。それを事前に防いだ私は、英雄になれるぞ!」
その瞬間、かすかな物音が響いた。
扉の外で、鎖の鳴るような音。
次いで、巨体の影が現れた。
黒い外套に包まれた男が、静かに牢の前に立っている。
その手には、太い麻縄。
「……誰だ」
返事はない。
鍵が回り、錠前が外れる音が響く。
「食事ならいらん、もう休むところだ。出て行け」
グリフォードは声を荒げた。だが男は一歩、また一歩と中に入ってきた。
顔は見えない。息の音もない。
「……貴様、看守ではないな」
その言葉が終わるより早く、巨大な手が彼の口を塞いだ。
「うぐっ!」
鉄のような腕力に、抵抗は無意味だった。
男は無言のまま天井の金具に縄を通し、手早く結び目を作る。
そして、その輪を、グリフォードの首にかけた。
「や……やめ……!」
息が詰まる。
足が宙を掻き、喉からかすれた音が漏れた。
「安心しろ。貴様の家族も今ごろ全員あの世に送られているから」
数瞬ののち、椅子が倒れる音。
そして、静寂。
月光だけが、彼の揺れる影を壁に映し出していた。
巨体の男は、表情ひとつ変えぬまま牢を出ていく。
鍵をかける音が響き、また静寂が戻る。
ただ、月だけがその光を落とし続けていた。
まるで、全てを見ていながら、何も語らぬ証人のように――。




