38.垂直坂の試練
垂直とは二つの面や線が交わるとき、その交点の角度が90°である関係を指す言葉である。
『七つの試練』にある垂直坂はもちろん傾斜90°ではない。
というか傾斜90°はもう坂ではなく壁である。
なにかで聞いた話によると日本で一番傾斜がきつい坂だって40°もなかったはずだ。
「ふえー、これが垂直坂ですか……」
雪緒は口をぽかんと開け、サドルを握った格好で垂直坂を見上げる。
「垂直なんて聞いていたから拍子抜けしただろ」
「いえ。想像以上に急でビビってます」
地獄雲梯の時とは正反対のリアクションだった。
「そうか? せいぜい傾斜角度は10°くらいだし、大したことないぞ」
「途中でカーブもあるし、そもそも距離も長そうです」
「まぁな。決して楽ではない」
「電動自転車じゃ駄目なんですよね?」
「駄目に決まってるだろ」
「そんな呆れた顔しないでください。念の為訊いただけですから」
雪緒は不服そうに唇をとがらせる。
それにしても雪緒がこんなに躊躇うとは予想外だった。
「運動神経抜群の雪緒なら余裕だろ?」
「それが、私、自転車はあんまり得意じゃないんですよね。もちろん普通に乗れますよ。でも必死に漕ぐのがあんまり得意じゃないんです」
そう言われてみればこれまでも自転車で雪緒と色々なところへ行ったが、早くてついていけないみたいなことはなかった。
むしろ雪緒に合わせてこちらがゆっくり漕いだこともあるくらいだったことを思い出す。
「やめておくか?」
「そんなわけないじゃないですか」
雪緒は坂に向かってゆっくりと漕ぎ出す。
「だよな。念の為聞いただけだ」
雪緒の背中にそう伝えてから俺も後ろをついていく。
垂直坂の入り口は左右畑に挟まれた、車二台が減速しながらなんとかすれ違える程度の道幅だ。
道は緩やかな傾斜で目の前の雑木林へと続いている。
雑木林に入ったあたりから傾斜がきつくなり、最初のカーブに辿り着く頃には大抵の人は自転車を降りる。
しかしそこはまだこの坂の恐怖の入り口に過ぎない。
すぐにヘアピンのような第二のカーブが待ち構えている。
しかもそこから傾斜は更にきつくなる構造だ。
この試練に挑戦した子どもたちも大抵ここで脱落する。
「結構キツいですね」
雪緒は第一カーブで既に苦悶の表情を浮かべていた。
「まだ始まったばかりだぞ」
「え、そうなんですか?」
立ち漕ぎになった雪緒が第一カーブを過ぎ、木々に隠されていた第二カーブを見て驚愕の表情を浮かべる。
「う、嘘でしょ……」
「ほら、頑張れ。大変なのはここからだぞ」
「はうううっ!」
雪緒は奇声をあげ、ぐいっと体重をペダルに乗せる。
ふくらはぎがギュッと膨らんでいた。
「勢いを殺すな。右、左、右!」
「んぅうううぅーっ」
自転車を無駄に左右に揺らしながら雪緒が登る。
しかし急に曲がりながら角度をつける魔の第二カーブには敵わなかった。
「ああっ! もう、足着いちゃいました」
「残念。やり直しだな」
俺は自転車を転回させ、垂直坂入口へと降りていく。
雪緒も文句を言いながら俺の後に続いた。
「どうだ? かなりキツイだろ?」
「先輩はなんでそんなに嬉しそうなんですか」
「そりゃ簡単にクリアされたらなんか悔しいだろ」
「先輩がドSだなんて知りませんでした」
雪緒は悔しそうに俺を睨む。
「行っておくけどあの第二カーブを曲がった先が本当の恐怖だからな。『垂直』と呼ばれるのはあの先なんだ」
「えっ……そうなんですか?」
雪緒は顔を青ざめさせる。
「もうやめとくか?」
「ありえません。今のは下見。ここからが本番ですから」
先ほどの失敗からの作戦なのか、単に感情に任せたのか、雪緒は勢いよくペダルを漕いで坂へと向かう。
勢いで乗り切ろうとするのは誰もが陥る罠だ。
俺は先ほどと同じペースで雪緒の後を追う。
第一カーブを曲がると、案の定雪緒はヘアピンカーブ中ほどで足をついて立っていた。
「勢いだけで乗り切れるほど甘くないぞ。ここぞというところで踏ん張れる力を残してないと」
「ちょっと油断しただけです」
雪緒は自転車を転回させ下ろうとする。
「ちょっと待て。ちゃんと一度下見しておいたほうがいい。押しながら頂上まで行こう」
「結構です。そんなことしなくても私は登り切りますから」
「強情だな」
雪緒は脚を広げ、気持ちよさそうにスーッと坂を下っていく。
高校生にもなってスカート姿でそんなことするな。
再びスタート位置に戻った雪緒はポンポンと太ももを叩いてからハンドルを握る。
「この坂はカーブが多い。はじめに勢いをつけたところでどうせカーブでスピードが落ちてしまう。無駄な力は使わず、一定の速度をキープして第二カーブまで行け。ヘアピンカーブが終わったら緩やかなカーブがある。そのカーブが過ぎたらかなりの傾斜になるんだ。そこから全力で立ち漕ぎしろ」
「了解です」
俺のアドバイス通り、雪緒は焦らずに第二カーブまで登る。
なんとかヘアピンカーブを抜け、緩やかな第三カーブを曲がった。
「ええーっ!? こんなに急なんですか!? 無理無理ムリ!」
最大の難所を目にし、雪緒は目を丸くしながら立ち漕ぎを始める。
「だから下見しておけって言ったのに。頑張れ。止まったら動かなくなるから休まず左右のペダルを踏み込め!」
「そんなこと言われてもっ!」
雪緒は全身を使うようにペダルを漕ぐ。
「いけるぞ、その調子だ!」
「ひぃぃいいぃぃぃ〜」
ゆっくりと伴走するのが難しく、俺も全力で漕いで一気に駆け上がる。
頂上に着いてから振り返ると、雪緒はふらふらしながら八割程度のところまで登ってきていた。




