32.親子の初日
俺は不安で泣きそうになりながら、ひたすら待った。
おもちゃなどはとっくに飽きており、やって来る人の中にアイツがいないか必死に探していた。
迷子センターに行くことも考えたが、五年生にもなって迷子だと名乗り出るのが恥ずかしかった。
それに自分は迷子ではない。
ここで待ってるように言われただけだ。
迷子の館内放送なんてしたらあの女の機嫌が悪くなるかもしれないと恐れていた。
それでも流石に遅すぎるので、近くだけでも探してみるかと思ったときだった。
「凛ちゃんっ!」
喧騒を突き抜けて俺を呼ぶ声が届く。
視線を向けると生物学上の母親ではなく、その妹である近所に住む叔母さんの姿があった。
叔母さんは額に汗を滲ませ、不安げな顔で俺を探していた。
「叔母ちゃん」
俺の声に振り向いた叔母さんと目が合う。
その瞬間、叔母さんは安堵と悲しみを混ぜ合わせた顔をして俺に駆け寄ってきた。
「凛ちゃんっ。遅くなってごめんね」
「どうして叔母ちゃんがここに?」
そう訊ねると叔母さんは一瞬言葉に詰まり、慌てて笑った。
こどもの俺でも分かるくらいの、下手な作り笑顔だった。
「お母さんはちょっと迎えに来られないみたいなの。だから叔母ちゃんと帰ろう」
「え、そうなの?」
今に思えば生物学上の母親が叔母さんに連絡をして一方的に押し付けたのだと分かる。
しかしそのときはまるで分からず、なにか大変なことが起こって迎えに来られないのだろうと考えた。
そしてその日から俺と叔母さんの二人での生活が始まった。
「そのフードコートってもしかして」
「以前雪緒を連れて行ったあの『約束の地』だ」
部屋が暗いことと、恐らく雪緒が俺の涙に気づかないふりをしてくれていることに感謝しつつ、俺は頷いた。
「約束の地っていうのは、その人が迎えに来てくれる約束をした場所という意味だったんですね」
「幼かった俺は、自分が捨てられたんだってまだ気付いていなかった。いつか迎えに来てくれると信じていた。でも、もしかしたら忘れているのかもしれない。そこで『七つの試練』を思い付いた。噂が広がればアイツの耳にも入ると思って」
「地獄雲梯を渡るとか、スマートボールで三列揃えるって、もしかしてその人との思い出だったんですか?」
「その通り。俺との思い出を聞けば俺のことを思い出して迎えに来てくれると思ってな。小学生らしい馬鹿げた発想だろ?」
自分でも馬鹿らしくなって、思わず笑ってしまう。
「笑わないで下さい。可愛いじゃないですか、凜之介少年」
雪緒はムッとした顔で俺を咎める。
不幸な話をすると愛されキャラになるという雪緒の作戦はさっそく成功し始めているようだ。
「それから先輩とお母さんの生活が始まったんですね」
「いや、ちょっと違う。このときはまだ叔母さんとの生活が始まっただけだ」
「どういうことですか?」
「この話にはまだ続きがあるってことだ」
生物学上の母親がいつ迎えに来るのか叔母さんに訊いても、困った顔で「まだ忙しいみたい」とか「もうちょっとかかるらしいの」と謝るばかりで教えてくれない。
叔母さんは嘘をついているんだと、少し警戒さえした。
捨てられたと理解してない俺は『七つの試練』の噂を広め、頻繁に『約束の地』であるフードコートへと出向いた。
しかしそこにあの女がやって来ることはなかった。
まだ忙しくて迎えに来られないのかもしれない。
まだ噂がアイツのもとまで届いてないのかもしれない。
自分にそう言い聞かせ、俺は迎えを待っていた。
来るわけもないあの女を待っているうちに時は進み、季節はすっかり秋になっていた。
そこで俺は気が付いた。
十月三十日、つまり俺の誕生日に迎えに来てくれるんだ、と。
誕生日当日、俺は下校すると大急ぎで『約束の地』へと向かった。
平日の夕方でもフードコートにはそれなりに人がいて、俺は一人ひとり顔を確認しながら歩き回った。
しかしその中に生物学上の母親はいない。
お金も持っていなかった俺はコップに水を入れ、フードコートの入口付近の席に座って待つことに決めた。
しかし一時間過ぎても、二時間過ぎてもあの女は現れなかった。
『お母さんが俺の誕生日を忘れるわけがない』
『必ず今日迎えに来てくれる』
心が折れそうなときはそう唱えながら、徐々に人が減っていくフードコートに座っていた。
不安で泣きそうになったが、涙は必死で押し留めていた。
もし泣いてしまったら迷子だと判断され、迷子センターに連れて行かれると思ったからだ。
ここで待っていなければ、迎えに来てくれない。
俺はすぐに戻って来る親を待ってるかのような、何でもないことのような態度を演じ続けていた。
しかし家族連れの客が楽しそうに食事をする風景を見たり、そんな人たちも帰っていき閑散としてくると、強がりのメッキが剥がれていく。
目元や頬に力を入れ、涙をこぼさないようにするので精一杯だった。
窓の外がすっかり暗くなり、フードコートには疎らな客しか残っていない。
そのうえずっと美味しそうな匂いを嗅いでいたので、目眩がするほどお腹が空いてきた。
でも一番辛いのはアイツが、もう二度と迎えに来てくれないんじゃないかという不安だった。
いや、もはやそれは不安ではなく、確信に変わりつつあった。
自分は捨てられたのだ。
ようやくその現実を理解しつつあった。
「凛ちゃんっ!」
悲鳴に近い声がして顔を上げると叔母さんが俺を見つけて駆け寄ってきていた。
捨てられたあの日と同じ状況だ。
ただあの時より叔母さんは汗だくで、泣きそうな顔をしていた。
肌寒い季節だというのにそれだけ汗をかいているということは、よほど俺を探して走り回ったということだろう。
絶対に怒られる。
そう思った俺は怒鳴り声に備え、首を竦めて身を固くしていた。
しかし叔母さんの行動は俺の予想と違っていた。
「よかった、凛ちゃん。無事でよかったっ……」
叔母さんは俺をぎゅっと抱き締め、安堵の声を漏らしていた。
叔母さんの体温は熱く、ちょっと恥ずかしかったけどホッとさせられた。
「ごめんね、凛ちゃん。寂しかったよね。辛かったよね」
叔母さんは泣きながら俺の頭を撫で、謝っていた。
俺がなんでここにいるのか、ここで何を待っていたのか、叔母さんは俺を問い質さなくても分かっているようだった。
叔母さんの様子を見て、もう生物学上の母親は迎えに来ないのだとはっきりと理解した。
悲しかったし、叔母さんに申し訳なく感じていたけど、不思議と涙は出てこなかった。
家に帰るとテーブルにはごちそうがところ狭しと並べられていた。
お寿司やフライドチキン、ローストビーフと俺の好物ばかりだ。
更にはバースデーケーキまである。
ケーキには『凛ちゃん十一歳おめでとう❢』というチョコレートで出来たプレートまで添えられていた。
叔母さんは俺の誕生日を知っていて、それを祝おうと必死に準備してくれていたのだと知った。
それを見た瞬間、それまでこみ上げて来なかった涙が一気に溢れ出した。
「ごめんなさい、叔母さんっ……ごめんなさいっ……」
こんなに自分のためにしてくれる叔母さんに申し訳なくて、身体を震わせながら泣いた。
「十一歳のお誕生日、おめでとう。凛ちゃん」
叔母さんは綺麗にラッピングされたプレゼントを渡しながら微笑む。
こんなに贈る気持ちが込められたプレゼントをされたのは本当に久しぶりだった。
もし中身が空っぽだったとしても、そのラッピングだけで十分満足できる気さえした。
「それでね、凛ちゃん。これから中学校、高校と進学していくのに色々と手続きがあるの。調べたら色々と煩雑でね。それで……もし、もしよかったらなんだけど、叔母ちゃんの子どもになってくれないかな?」
「えっ……」
「養子っていうかたちで戸籍上の親子になるの。もちろん凛ちゃんのお母さんは、これからも凛ちゃんのお母さんのままだよ。私は戸籍上だけの親ってことで。もし凛ちゃんがそれでもいいって話ならば、だけど。駄目かな?」
離婚するときも、捨てられるときも、大人から意見を求められることなんてなかった。
全ては大人が決めることだから子どもはそれに従うだけだった。
こんなふうに俺の意思を確認してくれるなんてはじめてだった。
「うん。なる。俺、叔母さんの子どもになる。俺のお母さんになって欲しい」
「いいの、凛ちゃん?」
叔母さんは瞳を潤ませながら微笑む。
勝手な思い込みかもしれないが、その瞳の色は叔母さんからお母さんに変わったように感じた。
「もちろんだよ、お母さん!」
「ありがとう、凛ちゃんっ」
お母さんは目に溜まった涙を指で拭いながら笑う。
これが俺とお母さんが親子になった初日のことだ。
話し終えて雪緒に視線を向けると、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「そんなに泣くなよ。ほら」
テーブルにあったボックスティッシュを渡す。
涙を拭った雪緒は急に笑顔になる。
「やっぱり夢は叶うんですね」
「なにが?」
「『七つの試練』ですよ。先輩はお母さんに迎えに来て欲しいと願って約束の地で待っていたんですよね。そして実際に迎えに来てくれたじゃないですか。叔母さんがお母さんとなって」
そんなふうに考えたことはなかったので斬新な視線だった。
言われてみれば雪緒の言う通り、願いが叶ったように見えなくもない。
「てか俺の話を聞いて第一声がそれかよ」
あまりにも雪緒らしくて笑ってしまう。
俺の生い立ちを聞いた人は大抵同情するか励ますかだった。
俺がお母さんと暮らしているのがどれほど幸せなのか考えもしないで、ただ俺の境遇を憐れむ。
そんな反応が嫌で、俺は他人に自分を分かってもらおうという意思を捨てた。
しかし雪緒の反応はまるで違った。
それがとても嬉しくて、心が温かくなる。
「私も試練、頑張りますね!」
「まあ、ほどほどに期待して、ほどほどに頑張れ」
俺の考えたいい加減な伝説に、本当にそんな不思議な力があればいいのに。
そんなことを強く願いながら、薄暗闇の中の雪緒を見詰めていた。




