23.気付く気持ち
家を出ると待ち受けていたかのように夕暮れの風が吹いてきて、俺と雪緒の髪を揺らした。
昼はまだ暑いが、この時間になると少し肌寒く感じる。
季節は確実に進んでいることを感じた。
「先輩のお母様って優しくて面白くて素敵な方ですね」
「優しくて面白いけど素敵かどうかは微妙だな」
「素敵じゃないですかー。なんであんな愛想のいいお母様から先輩みたいな無愛想な人が生まれたのか謎です」
「悪かったな」
「冗談ですよ」
雪緒は俺の二の腕を軽く触って笑う。
不意に『女性が男性の体に触れるのは好意の表れ』という胡散臭いネット記事を思い出してちょっと焦る。
「そんなことより雪緒、今日授業中に居眠りしたんだって?」
「そうなんです。急に発症してしまいまして」
雪緒は気まずそうに苦笑いを浮かべた。
「病気の方だったのか? ただの居眠りじゃなくて?」
ただの昼寝だと思っていたことが申し訳なくて目を逸らしてしまう。
「はい。居眠りと病気の入眠は全然違うんです。発症の方は眠くなってくるという前段階はなく、いきなりすぽんっと落ちるように寝てしまうんで」
「発症しそうな日は何となく分かるから学校を休むんじゃなかったのか?」
「そうなんですけど、今日はそれほど大きな予兆はなかったし、大丈夫かなーって思ったんですけど、いきなりでした」
雪緒は平然と話しているが、俺は不安で鼓動が速くなっていた。
「それで大事を見て早退したのか?」
「はい、そうです」
「大丈夫なのか?」
「家で自習してるから大丈夫ですよ」
「勉強のことじゃない。身体の心配してるんだよ」
「あー、そっちですか。大丈夫ですよ、きっと」
雪緒はあっけらかんとして笑う。
緊張感なんてまるで感じられない。
「いや、でも──」
「考えちゃダメなんです。不安になりますから」
雪緒は笑顔のまま俺の言葉を遮った。
「これからどうなるんだろうとか、またいきなり発症するかもとか、そんなことを考えると怯えて緊張してしまうんです。緊張とか不安は私の病気の天敵ですから。きっと大丈夫、問題ないって思わないと。だから先輩もそんなに心配しないで下さい。私も不安になっちゃいますよ」
呑気にさえ思える態度の裏には、苛烈な理由がある。
俺が心配するほど雪緒を追い詰めてしまう。
俺は慌てて笑顔を作り頷いた。
「そうだな。雪緒はきっと大丈夫だ」
頬の筋肉が上手く動かせているか不安だったが、とにかく俺は必死で笑顔を作っていた。
「心配してくれてありがとうございます。無愛想ですけど、優しさはお母様譲りなんですね」
「ほっとけ」
雪緒の軽口のおかげで、少しは自然に笑えた気がした。
雪緒を家に送り届けてから家に戻る途中、『大丈夫です、きっと』と言って笑った雪緒の顔を思い出す。
あれは作り笑いではなく、とても自然な笑顔に見えた。
病気と共に暮らしていくため、自分を騙すことが身についているのだろう。
「雪緒……」
その名前を口にすると胸がギュッと締め付けられた。
鈍い胸の痛みを感じて、俺ははじめて気が付いた。
いつの間にか俺は雪緒を好きになってしまっているという事実に。
同情とか憐憫ではなく、純粋に雪緒を愛おしいと感じていた。
でも俺は生まれたばかりのこの感情に蓋を閉じなければいけない。
それは今の関係が心地良いからとか、傷つくのが怖いという理由ではない。
雪緒の健康を害してしまう可能性が高いからだ。
異性として全く意識していない相手から思いを告げられれば、雪緒は困惑するだろう。
全く親交のない相手からの告白ならならかぐや姫のようなふざけた理由で断れても、よく見知った相手からの告白ならそうはいかないはずだ。
ましてや俺は雪緒の人生初の友達である。
雪緒は思い悩み、苦しみながら断る事となってしまう。
もし万が一、雪緒の方も俺のことが好きだったとしても、それはそれで雪緒の健康に悪影響を及ぼしかねない。
確かに付き合い始めた頃は心が弾み、毎日に張り合いが増すだろう。
けれど恋人とはただ楽しいだけとはいかない。
不安になったり、嫉妬したりする場面も必ず出てくる。
それに互いの気持ちがいつまでも変わらないという保証だってない。
愛が醒め、別れを告げる時の苦悩は、告白を断る時の何倍にもなるだろう。
一度幸せな思いをしてからの転落は、より辛いものだ。
幸せであればあるほど、そのあとの悲しみは深いものとなってしまう。
その点、先輩と後輩という関係は半永久的に壊れない。
何十年経ってもたった一歳差の上下関係は変わらず続いていくものだ。
進展がないからこそ、転落も絶望もない。
想いを隠し、雪緒の生活が楽しく明るいものになるようにそばで見守っていく。
俺がこの想いに蓋を閉じさえすれば、これからも雪緒は健康に暮らしていける。
雪緒を本当に愛するということは、そういうことだ。
夏の残り香がする夕暮れの空気をすぅーっと大きく吸い込み、ゆっくり吐く。
「よし、大丈夫」
そう独りごちる。
しかし胸のモヤモヤはまるで消えない。
俺はまだまだ自分を騙すことが出来ないようだ。




