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HOPE&PEACE  作者: 麻婆
6/9

6.ぺちとごす(2)

※少々乱暴な文言が出てきますが、極端に苦手でなければ大丈夫だと思います。



「スピード出し過ぎすよ所長!」

 キャロルは轟音を上げ、幹線道路を駆け抜ける。景色が瞬く間に後方へ飛んでいく。遅い車は次々に追い越した。その度に小夜子は「うおッ」だとか「のおッ」だとか、悲鳴ともつかない声を出す。

「一刻を争う」

 私は短く答え、カーブを抜けてアクセルをベタ踏み状態にする。キャロルが心強く応えてくれ、さらに加速した。

「自分たちが死んだら意味ないすよ! 落ち着いてください。所長から落ち着きを取ったら凡人以下すよ!?」

 酷い言いように涙しそうだったが、あながち間違ってはいないと思い、私はアクセルから足を離した。キャロルが一息ついたように速度を落とす。

「ふぅ、生きた心地がしなかったっすよ……」

 小夜子が隣で緊張を解いたちょうどその時、視界右側いっぱいに青い海が広がった。

「おぉ……海だ!」

 小夜子が感嘆の声を上げる。

 波が砕けて所々に白さを見せる海。その開放感は凄い。空の青と、海の青が寄り添う水平線。雲のように白い飛沫を上げる海。海の飛沫のように白い雲を抱く空。どこかの坊さんの名を思い出し、面白い名前をつけたものだと感心した。その水平線上には島が見える。確かに綺麗な景色だ。

「海に来ると必ず誰かが、『海だ!』って言うよね。今の小夜子くんみたいに。原始的欲求か何かなの?」

 返答がないのでチラリと小夜子を窺うと、眉毛がひしゃげ、頬は膨らんで、とてつもない仏頂面になっていた。思わず急ブレーキを踏みそうになった。

「どうしたんだ小夜子くん? トイレならもう直ぐで――」

「自然の景色に感動できないなんて、所長の価値観はどうかしてるす」

 しかめっ面でもごもごと喋る小夜子。

「いや、私も感動はしていたんだよ」

「ところで、夢おばちゃんと渚ちゃんは似ても似つかないすね」

 やっぱり小夜子は話を聞かない。

「そ、そうだな。佐山渚はお母さん似だな」

「所長は、いつから渚ちゃんが夢おばちゃんの孫だって気が付いてたんです?」

「彼女の名前を聞いた時にもしかしたら、と」

「なんで言ってくれなかったすか」

 小夜子の声は低く早口で、私を責めている感がたっぷりだった。

「結局は分かったんだから良いじゃないか」

「そうやって直ぐごまかす……」

 小夜子がむくれました。

 やがて、海辺に白い半月を埋め込んだみたいなホテルが見えてきた。空の雲に届けとばかりにそびえ立っている。この海辺の街には高層ビルが乱立しているが、そのホテルは飛びぬけて高い。日差しを受けて鈍色に輝くビル群の中で、真っ白に赫耀(かくやく)する様は神々しくさえ思えた。

「自分、ああいうホテル好きなんすよねぇ」小夜子は独り言のように呟いた。「どうしてだ?」と聞かずにはいられない。高級感が良いのだろうか。

「まるであのホテルは、自分が優等生だと言ってるみたいじゃないすか。そういう声が聞こえてきそうすよ」

「そうだな。それが?」

「自分のことを優等生だと言う奴は、その実、けっこう良い奴なんすよ。認めてもらいたいだけなんすよ」

「ほう………。なるほど、面白い自論だな」

 小夜子は頭脳明晰、というよりは視点が独特なのだろう。もちろんそれなりの頭脳も持っているが、独特ゆえに視野が狭くなって、うまく力を発揮できていない。そういう印象を受ける。

「無事だと良いすね」

 小夜子は急に真剣な声を出した。

「そうだな。ブログのコメントに反応は?」

「ないすね……」

 失踪人探しを本人の無事を確認したことで成功とするならば、調査業全体での成功率は五分である。半数が無事に見つかり、それと同じくらいに無事では済まなかった人たちがいる。だからといって、毎回五分の気持ちで取り組んでいるわけでは決してない。必ず無事に見つける、という気持ちで動いている。

「到着」

 小夜子はホテルの威容を窓に張り付いて見ている。よほど気に入っているのだろう。私はハンドルをきり、ホテルの駐車場へ続くスロープを降りてゆく。このホテルは地下に広大な駐車スペースがあるのだ。スロープは両側に緑が植えられ、ホテルの白と相まって色具合が絶妙だった。

 地下に入り蛍光灯が光を投げかけてくると、無機質で仄暗い駐車場が広がった。幾つもの支柱が並んで影ができていて、昼間だというのに不気味な印象がある。たぶん、地下駐車場というのは何処も似たようなものなのだろう。

 キャロルを駐車し、エンジンを切る。「おつかれさん」と私はキャロルに声をかけた。

「自分にはそんな言葉、殆どかけたことないくせに……」

 小夜子がそう言って私を睨んだが、ドアの開閉音のせいで聞こえてないふりをしておいた。今度からちゃんと忘れずに言ってあげようと思いました。

「けっこう混んでいるんだな」

 見渡せる範囲は大半が車で埋まっていて、思わずそう呟いた。

「高級車が多いすね」

 キャロルから降りると、辺りを見回して小夜子が言った。

「ホテルが高級だからな。仕事以外では縁がなさそうだ」

「ボロいとは思ってましたが、この中で改めて見るとホントにボロすね。良く平気で乗れるすよね、このカロル」

 そう言って、小夜子が私のキャロル(・ ・ ・ ・)を馬鹿にするように眺めている。

「帰りは歩け」

「しょ、所長! 怒ったんすか?」

「ふん……」

「萌え」

 全身に震えが走った。

「ふざけている場合ではない。急ぐぞ」

「了解す!」

 地下駐車場のエレベータを探し当て、私達は駆け足で向かった。不自然な静けさが支配する地下に二人分の靴音が乱反射する。

 エレベータの前に立ち、ボタンを押した。エレベータの扉は教会のような豪華な装飾がついており、いささか派手気味な気がした。

「優等生だって言ってるす」と小夜子が扉の言葉を通訳してきた。

「あぁ、君は優秀だよと言ってやってくれ」

 私は十階から降りてくるエレベータのランプをじりじりと眺めながら答えた。だから早く降りてきてくれ。

「君は優秀だよ。うちの所長が言っているから間違いないよ」

 小夜子は扉に触れながら優しく言った。そんな言葉遣いもできるのかと新鮮だった。

「ていうか、日本語なんだ……」

 私の声は扉に聞こえないのだろうか。

 ランプが地下を示し、ぴんぽーんと大仰な扉と反比例する音色が響いた。オーケストラの交響曲でも期待していたのだろうか、そんなエレベータは聞いたことがない。さっさと乗り込んだ小夜子に続き、私も足を踏み入れて壁に背を預けた。

 地下から二階へ至るエレベータの中の私達は、それまでとは打って変わり無言だった。小夜子が緊張しているのが分かる。手のひらを見つめ、握ったり開いたり、それを繰り返している。失踪人探しの初陣で酷い目に遭わせたくはない。しかし、そう上手くいかないのも事実だ。なんとか緊張をほぐしてやろうと、慣れない冗句を紡いできたが、あまり効果は無かったのかも知れない。

 ランプが二階を示し、豪華な扉や内装と食い違う親しみやすい音で扉が開く。

「覚悟はしておいてくれ」

「はい」

 小夜子は静かな、それでも確かで力強い返答を、先陣を切った私へ寄こした。

 エレベータから一歩踏み出した途端、これが雲の上か、と思うような柔らかい絨毯が敷かれている。足をつく度にふわふわとして、正直歩いている気がしない。私は確かな硬い感触が好きなのだな、と実感する。

 廊下は真っ直ぐ伸びていて、どこからか小さく気にならない程度の音楽が流れている。各部屋のドアは正面に並んでいて、私達が出てきたエレベータはちょうど廊下の真ん中に位置するようだ。エレベータ側は窓ガラスになっていて、外からの陽光が絨毯の淡い色を映えさせる。

 部屋のドアにはどれも生き物を模したノブが付いていた。イルカだったり、ゾウだったり、人魚だったりと節操がない。

 私達は222号室の前で立ち止まると、互いに顔を見合わせ、頷きあう。小夜子のダルそうな瞳は、覚悟完了した光を宿している。

 私はドアの脇にあるインターホンを押した。ここのドアノブはライオンを模してある。金色のライオンだ。私はライオンの咆哮を期待してたのだが、響いてきたのは、びーッという当たり障りのないビープ音だった。暫く待ってみるも、誰かが出てくる気配はない。ドアは厚そうだったので、それのせいか物音すら聞こえない。

「出てこないすね」

 小夜子の顔と声は無表情だった。感情を押し殺していると言ってもいい。それは来たるべきショックに対応しようとしている風に感じた。

 私はもう一度、強めにインターホンを押した。しかし、強めに押したところで強めに鳴る筈もなく、またしてもびーッと緊迫感を途絶えさすような間の抜けた音がする。まるでこういう状況の者を苛立たせるための音のようだと思ってしまう。

 それでもドアは開かない。カギが開錠される音も聞こえない。「所長……」と小夜子は言葉を詰まらせ私を見つめる。

「痺れを切らすにはまだ早過ぎる。部屋に居ないだけかもしれない。小夜子くん、フロントで事情を説明して鍵を貰ってきてくれないか。部屋に居るのかどうかも聞いてくれ。私はもう少しねばる」

「あい!」

 小夜子は踵を返し、エレベータへ向かって駆ける。長い髪の毛がさらさらとなびいている。

 私はドアへ向き直り、もう一度インターホンを押す。金色の獅子はやはり咆哮ではなく電子音を鳴らすだけだ。

 小夜子がエレベータに消えた時、私は駄目もとでドアノブを回してみる。ライオンの首を捻っているようで心地が悪い。

「あれ……」

 ドアノブを回して押してみると呆気なくドアが開いた。嫌な予感がした。ホラーやサスペンス映画なんかでは、鍵がかかっていると思われたドアが簡単に開くと、良くないことが起きる約束である。

 実際、良くないことが起こった。

「佐山さん!」と言いながら部屋に踏み込んだ私が見たものは、四十代間近のおっさんの全裸だった。

「うわぁ!」

 佐山希は全裸で驚きの声を上げた。そして直ぐに「誰ですか!」と怒りに変わった。

「貴方のお母様から依頼された探偵です」

 私は佐山希のある一部分を極力見ないように話を始めた。部屋には、シャワーを浴びていたのだろうと思わせる香りが漂っていた。

「探偵?」

 佐山希は、夢さんに似た団子っ鼻が目立つ顔を訝しげに歪める。申し訳ないことだが、佐山渚は父親に似なくて良かったと言えるかも知れない。

「探さないでくれと言ったのに……」

 佐山希は豪華なソファの端っこに座る。ソファには太目のロープが置かれている。首でも吊ろうと思っていたのだろう。とにかく、間に合ったようで少しほっとした。

「どうしてここが分かったんですか?」と神経質そうに眉毛を動かす佐山希。

「うちの助手が優秀でしてね。ブログを見させてもらいました」

「そういうことですか……」佐山希は残念とも安心ともつかない表情を見せた。「探偵さんは僕を止めに来たんですか?」

「私は探し出すのが役目です。自殺を止めるのが役目ではありません。が、ここで死なれては夢見が悪い」

「じゃあ……?」

「止めます」

 途端、私の台詞へかぶる形で、叩きつけるように背後のドアが開いた。




「死んだら良いじゃないすか!」




 ぎょっとするような台詞が背中から聞こえた。「アンタみたいな父親、死ねば良いんすよ」

 さすがに佐山希は開いた口が塞がらないようだった。「誰です?」と言いたげに助けを求めて私を見る。

「実に優秀な助手でして……」

「ロープを掛けるところが無くて困っていた、というところすか? だったら、ドアノブにでも掛けて首括ったら良いすよ。それで十分に死ねます。それでも心配だったら、ベッドの脚に縛って窓から飛べばいい。ロープの長さ的に、階下の窓には届かないだろうから、誰かに見つかる前にきちんと死ねるすよ」

 小夜子は部屋を見回しながら高圧的な口調で喋り続ける。その手には金属音を鳴らして鍵がぶら下がっていた。指に紐で下がっている鍵が、ゆらゆらと不吉さを表している。

「渚ちゃんは可哀想すね、アンタが父親で」

「なんだって?」佐山希は不愉快そうに目を見開く。しかし、あまり迫力がない。「探偵さん、上司でしょう? この娘の口を塞いでくださいよ」

「この娘は人の話を聞かないのが仕様でして。そこが玉に瑕です」

 佐山希は信じられないものでも見るような視線を私に寄こす。

「渚ちゃんがエンコーしていたことに気付いて、それで逃げ出したんすか? それでホントに良かったんすか?」

 小夜子の半開きの目は気焔を上げている。ここしばらく陰っていたあの射るような目だ。それを直視できないのか、佐山希は視線を外した。無理もない、全てを白日に晒し、己の卑しさごと焼き尽くされそうな視線。本人も気付いていないのだから余計に恐ろしい。

「別に逃げたっていいすよ。死んだっていいすよ。アンタが苦しくて死にたいと思ってるのを、止める権利を持ってる奴なんてほとんどいない」

「はあ!? 何を言っているんだお前は!」

 佐山希は堪らず怒声を張り上げた。

「死ぬなら、逃げるなら、残された家族が幸せになるように死ね、っつってるんすよ! 父親らしいことしてやってから逃げろ、っつってんすよ!! 訊く前にもちっと考えたらどうすか!!」

 考えたって解りっこない。極論というか、既に暴論である。しかし、危うくそれが正論に聞こえてしまうほどの迫力は、やはりあの瞳が放っているのだ。私はコートのポケットを探って煙草を取り出す。

「な、な…なん……、ハァ……。そ、そんなことできる訳ないだろ?!」

「なんだ、解ってんじゃないすか。苦しいときは何したって苦しいんすよ」

 裂帛(れっぱく)の気合が突然潜み、まるで答えを誘導した交渉人みたいなことを言い出す。単純熱血なんだか、冷静策士なんだか、火と氷が共存しているみたいな人間だ。果たして小夜子は、私の手に負える人間であろうか。

「じゃあ、どうすれば……。一体どうしろっていうんだ。小娘なんかに父親を語られたくはない!」

 小夜子はそこでにたりと笑う。

「殴れば良いんすよ」

「は?」

 佐山希は、今日一番の呆け顔を晒した。

 小夜子の結論に、さすがの私も苦笑いする他ない。「失礼」と言ってジッポーを鳴らし、煙草に火を点ける。

「自分が父親だったら殴るす。うちの父親も間違っていたら直ぐ殴るす」と言って小夜子は握り拳を作ってみせる。

「それで解決するのか?」

「少なくとも、自分は間違ったことをしたのかも知れない、とは考えるす。当然、父親のアンタが正しいと思って殴ることが大事す」

 小夜子が父親に殴り倒された時、小夜子は何かを考える(いとま)もなく殴り返したであろうことは黙っておく。私はただ、煙と戯れながら、ことの成り行きを眺めていた。

「それで正しい娘に育つと思うか?」

 佐山希の訝しげな顔を受け、「見本がここにいます」と小夜子は自分を指差す。

「ははっ」

 思わず笑いを零すと「なに笑ってんすか!」と厳しい声が飛んできた。

「とにかくお父さんは、間違っていると思ったなら、渚ちゃんをきちんと叱るべきす。飴だけじゃダメすよ。飴と拳すよ」

「そう……だよな?」

 佐山希は小夜子の剣幕に押されたのか、ぼそりと呟くように肯首した。その時、私の携帯電話が着信した。マナーモードにしてあったので、振動で気が付いた。この振動パターンはメールのものだ。空気の読めるメールだとよいのだが。

「あの子は――渚は、僕と向き合ってくれるだろうか。一度逃げ出した僕と……」

「それこそ自分で確かめてください」と小夜子が突き放す。

「ちょっと失礼。これを見てください」

 私は携帯電話をかざして佐山希に近づいていく。佐山希はその携帯電話を覗きこむようにして首を前に出す。携帯電話の画面には、佐山渚からのメールが表示されている。

「所…長ぉ……」

 同様に覗き込んでいる小夜子がむっとした顔をする。

 メールの内容は、『それでも愛してる』だった。この案件を受ける前に、小夜子が私の代わりに送ったメールへの返信である。

「どうして……渚が?」

「奥さんに、私の名刺を渡しておきました」

 小夜子は例の仏頂面で私を睨んでいる。

「そうですか。それでも愛してる……か。そんなこと、初めて言われた気がします。こんな父親でも……愛してる……か」佐山希はそのメールの内容を噛みしめるように何度も呟き、仕舞いには泣き出した。

「ちゃんと向き合ってやってください」

「はい……」泣きながら佐山希は頷く。

 小夜子はそんな佐山希につかつかと歩み寄った。低いヒールがタイルを鳴らす。

「やり残したことがあるす」

「ま、待て、小夜子くん!」

 さすがに止めようと思ったが遅かった。佐山希はソファから跳ねるようにして床に倒れた。筋トレしている小夜子のパンチが炸裂したのだ。佐山希は泣き顔を驚愕の表情に変えている。手加減しているにもかかわらず、大人の男性が女性に殴り飛ばされるなど、あまりお目にかかれない。これは確かに、殴られたほうは考えざるをえないだろう。

「間違ったら殴るす」小夜子は佐山希を見下ろし、「それと、かわうそ君はしまってください」とも言った。

「かわうそ?」

 佐山希は頬を押さえ、横たわったまま不思議そうにしている。

「その汚いモノをしまえって言ってるんすよ!!」

 小夜子は佐山希の股間を指差し、頬を真っ赤にした般若の顔になる。

「す、すみません!」

 佐山希は慌ててベッドに置いてある洋服を身に付け出した。彼もまた顔を真っ赤にしている。殴られた、というのもあるが、うら若き女性に全裸を晒し続けたことへの羞恥心だろう。私だったら自殺を考えるレベルの失態である。

「もぉー! セクハラすよ。訴えて良いすか所長?」

「萌えるか?」

「萌えないすよッ!」

 ぷすぷすと頭から湯気を出す小夜子に代わり、今度は私が佐山希に話しかける。

「銀行には何の用事で?」

「へ? 銀行?」とズボンを履きながら佐山希は不思議そうな顔をする。しかし、直ぐに合点がいったようで「それは言えません」と口をつぐんだ。

「強請られている。違いますか?」

「な……ッ!」

 佐山希は絶句した。鎌をかけたのだが、図星だったようだ。

「いったい誰が?」

「秘密にしておいて貰えますか?」

「はい。都合が悪いようにはしません」

 私は都合のよい言葉を選んだ。背後で小夜子の呆れている気配がした。

「娘のことを吹聴されたくなければ、金を振り込めと……。口座名義は長浜愛美(ながはままなみ)、そうなっていました」



 私は一応、佐山希に確認した。家族に会いますか、と。佐山希は確かな声で「はい」と言った。

 先行するオデッセイは佐山希が運転し、助手席には小夜子が見張りとして乗っている。佐山希が土壇場で逃げ出さないようにだ。その後ろを私の運転するキャロルが追っている形だ。

 佐山家へは行きと同じく四十分ほどで到着した。佐山家の居間には、夢さん、佐山七海、佐山渚が揃っていた。佐山渚はぬけぬけと「はじめまして、探偵さん」と言った。

「心配したんだよ! 馬鹿たれが! 怪我までして!」

 夢さんは鼻息荒く息子の生還を祝福した。それは佐山七海も同じだったようで、「良かったぁ……」と腰を抜かした。怪我については小夜子の暴挙であるが、怪我の功名ということで黙っておくが吉だろう。

「みんな、心配をかけて申し訳なかった!」

 佐山希は深々とこうべを垂れる。

 それを見ていた佐山渚だけがそわそわと落ち着きがない。そんな娘のところへ父親である佐山希が向かっていく。

 佐山渚は大きな瞳を忙しなく動かし、焦点が定まらない。父親になにを言われるのか、されるのか、不安で仕方ないのだろう。

「渚」

 娘にしか聞こえないような、小さな声で希は話しかけた。

「な、なに?」

「小遣いなら父さんがあげる。……もう、しないと約束できるか?」

 佐山希は娘を前にして、少なくとも立派な父親であろうとしていた。小夜子に殴られていたかわうそ君が別人のようになっている。

「へ? え……。う、うん。や、約束する」

 佐山渚は不安そうに父親を見ている。そして何故か私を一瞥した。その瞳は――。

「そうか。分かった。でも、お前は悪いことをした」

「え?」

 がつ、と音がし、佐山渚が頭を押さえてしゃがみこむ。「いってぇ!」

「なに? なんなの?」と慌てる佐山七海と夢さん。渚とこの二人にとっては唐突な展開だったことだろう。

「これは、父親と娘の秘密だ」と佐山希は言い、娘に向き直り「渚。お父さんを殴りなさい」と言った。

「え? えぇ?」

 瞳に涙を滲ませた佐山渚が不思議そうに父親を見る。その瞳は揺れている。

「お父さんも、悪いことをした。みんなを捨てて、逃げようとした。だから、殴りなさい」

 真剣な佐山希の表情に、ただならぬものを感じたのだろう。佐山渚も表情を固くする。

 ぺち、と可愛らしい音が居間に響いた。

「それ、本気か?」

 佐山希は苦笑いを零しながら娘を見る。小夜子のパンチを食らった後では、佐山渚の非力が妙だったのだろう。

「ほ、本気だよ」

 また、ぺち、と鳴る。

 次に、ごす、と鳴る。

「なんだか分からないけど、おばあちゃんが代わりに殴っといてあげるよ!」と夢さんは腕をぶん回した。佐山希は床に伏している。

 取り敢えず、一息ついても良さそうな雰囲気が佐山家には漂っていた。一人を除いて。

 小夜子はそんな佐山一家を見て、にやにやと相好を崩していた。「自分が殴る必要、なかったすね」

「……あぁ」

 私はどうにも煮えきらずにいた。佐山家を出た後も、脳裏に違和感がこびりついて剥がれなかった。



 事務所に戻り、私は小夜子と現状を整理していた。

「佐山希が強請られ、振り込んだ口座は長浜愛美名義になっている。愛美は長浜洋介の妻、つまり洋介の浮気調査を依頼してきた人物」

 私は頭の中で図を描きながら話す。煙草の先端からくゆる煙は、夕日がかすめて複雑な模様を描いている。

「はい。あの時、自分は長浜センセを強請るつもりじゃないか、と言ったす。けど、現状で強請られていると把握できているのは、洋介ではなく佐山希。つまり――、」

「愛美は身内ではなく、浮気相手の父親を強請るつもりで依頼してきた……」

 私は自分で言っておいて、いまいちピントがズレている気がしてならなかった。窓の外を眺めている私と背を合わせるようにして、事務机に腰掛けている小夜子も同じようだ。「んー……」と唸る声を背中で聞く。

「それだと長浜センセは、奥さんが強請りをしている事実を知らないことに……なるすよね? もちろん調査依頼のことも。筋は通るんすがね……。なんだろ、この違和感」

 小夜子は長い髪で毛束を作り、自分の顔を軽く叩きながら言葉を紡いでいる。パサパサという音が背中でしている。

「素直に考えればそうなるな。知っていたのなら、なにかアクションを起こしていたはずだ。おそらく違和感は、洋介の動きを把握できていないところにあるんではないだろうか」

 煙草の煙は複雑さを抱えながら、やがて天井付近で(もや)へと変わる。

「確かに、長浜センセにだけは直接会ってないすからね。思考が読めない」

「直接……、直接……」

 私は引っ掛かりを覚えた。その言葉を反芻しながら、佐山渚を思い起こしていた。父親に殴れと言われた渚の揺れた瞳。不安にか? 動揺にか? それは何に対する不安と動揺だ?

 壮絶な違和感。父と娘の間に横たわる絶望的な食い違い。理屈や道理、論理など、そういうものではない探偵の勘が掴んだ手がかり。刑事や探偵を続けている者の勘は、決して侮れない。いくつもの再会、別れ、修羅場、その喜びや悲しみ、憎悪や妬み、そういう類の空気を感じ、感受性がそれに最適化された人間の勘は、恐ろしく当てになる。

「所長? なにか分かったすか?」

 小夜子が押し黙った私から何事かを感じたのだろう。

「小夜子くん」

「な、なんすか?」

「これは推測とも呼べない、ただの勘なのだが――、



 佐山渚は援助交際をしていない」



「え? ……………えぇ!?」

 小夜子は驚きのあまりか、うつむいていた頭を跳ね上げたようだ。それによって、逆に上を向いていた私の頭と激突した。数秒間、私たちは無言で悶絶した。私と小夜子は苦笑いを浮かべながら話に戻った。

「あの時だ。希が渚へ、援助交際をしないと約束させた時だ。渚は私を一瞥した」

 渚は父親との話が、食い違っていることに気が付いた。私に向けた「どういうこと?」という視線。それは父親の行動そのものではなく、父親の行動理由が自分の思っていたものと違ったからだったのだ。

「つまり、お父さんは渚ちゃんがエンコーしてたと思っていたけど、渚ちゃんはそうじゃなかった……ということすね? でも渚ちゃんは、所長にはエンコーしてたと言ったんすよね?」

 小夜子が核心を掴んだ。

「ああ……、そうか。それだ。そういうことか」

「所長?」

「あの夜の渚は、恐らく洋介によって送り出された偵察だった。渚は自分から援助交際の話題は出していない。私の失態で、佐山渚から長浜洋介へと、探偵が嗅ぎ回っている事実が露見した」

 私は自分の迂闊さを嘆いた。今の今まで気付かなかったとは、そろそろ本格的にどうにかしてきたようだ。

 小夜子は色んな感情が混ざって、元の色が分からなくなってしまった絵師みたいな顔をしている。

 あの日、あのコンビニで万引きしようとしていた渚に、私が構わなければ……。まだ真っ当な探偵としての業務範囲で終わらせることができたはずだ。いくら二つの案件が裏で繋がっていようと、それは依頼内容に含まれなければ仕事ではない。だが、既に私は事件の一角にいる。そして、そこから出る気もなくなった。

「所…長……顔、怖いすよ? と、とりあえず、今日はもう帰って、眠ってしまったほうがいいすよ。うん、それがいい!」

「小夜子くん」

「へ?! な……ど、どうしたすか?」

「私は許せないんだ」

「所長……。それは――」

 


 そうして出て行った所長は、ずっと事務所で待っていたけれど、次の日の昼になっても帰ってこなかった。電話も通じず、所長の存在をたちどころに見失った。

 私は、殴ってでも所長を引き止めるべきだったんだろうか。もう、どうしたらいいのか、分からなくなった。所長がいつも吸っている『HOPE』という煙草を、ストック棚から引っ張り出し、同じく置いてあったライターで火を点けた。

 何かの罰なんじゃないかと思うほど、それは臭くて苦しくて、目と鼻に沁みて、咳き込むたびに涙がにじんだ。なんでこんなもの吸うんだろ。なんで居なくなったんだろ。なんで帰ってこないんだろ。なんで、私はこんなに泣いてるんだろ。

 「所長……。小夜子は、所長がわからなくなりました」





 ―― 次話へつづく ――

 最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました!


 次話から更にストーリーが展開していきます。ストーリーの核である主人公にまつわる事件なども明かされます。


 お暇があれば、また是非おこしください。

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