76話 非公式戦
店を出る頃にぽつりぽつりと降り出した雨は、ヘリオンがブルトゥス訓練所にたどり着く頃にはシトシトと本格的な雨模様を呈していた。
濡れそぼる髪やチュニックを気にもせず、不自然なほど静寂に満ちた訓練所の門を、厳しい視線で見渡すヘリオン。
寸刻前の事、怯えきった様子で居酒屋に走り込んできたケットシーのフーガが震える手で差し出してきた手紙に記されていたのは…
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剣闘士ヘリオン、興行師ダモンとトリトスの命を助けたければ、今すぐに一人でブルトゥス訓練所に来るように。
ヴィクトリウス・アルティウムより
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簡潔にして明瞭な脅迫文だった。
オドリーとニウスをマンティさんに任せ、同行を主張するパティアを保護者であるリヴィアスの下へ報告の名目で向かわせた。
フーガは知り合ったばかりにも関わらず責任を感じたのか、訓練所の近くで結果を見届け、万が一の際のパティアやオドリーへの連絡役を買って出てくれたのだ。
なかなかに気の良い猫である。
ヘリオンはフーガに感謝し、店を飛び出した。
警戒を怠らず門をくぐり、左手に建つ管理棟を見やるも人気は感じられない。
訓練を行う中央広場まで歩を進めると、シュンシュンと雨に打たれながら燃え盛るかがり火が四隅に焚かれている。
そして、炎に照らし出された広場の中央では長剣と盾を携えた男が一人。
雨に濡れた黒髪が怪しく艶めき、燃えるような赤い瞳がこちらを見据えていた。
「はじめまして、ヘリオン君。ヴィクトリウス・アルティウムだ。君の祝勝会を邪魔して悪かったね」
「二人は…無事なのか?」
「ん?あぁ、彼らには傷一つつけちゃいないさ。安全の為にここの地下牢に入ってもらったんだ。
溶接してしまったから出るのは苦労するだろうが、無事だよ」
アルティウムは二人の命にあまり興味がなさそうだ。
ダモンさんとは知合いのはずだから、おそらく無事だろう。
「闘いたいのならそう言えばいい。俺の周りの人間を傷つけたら容赦はしない」
「君はシンプルでいいね」
足元に置かれたスパタと円盾を手に取る。パルマの裏にきっちり投斧までセットしてあるとは…用意の良い事だ。
つまり、俺の戦い方を知っているわけか。
「ゴズウェルさんに見出された同門の兄弟子として、ブルトゥス訓練所の先輩として君に稽古をつけてあげたいと思ったのさ」
よけいなお世話である。
ダモンさんやトリトスさん、ザビア訓練士長が苦労したのは、こいつがウェスパシアに寝返ったからだ。
ゴズウェルからヴィクトリウス(勝利を制する者)の添え名まで受け継いでおきながら…
そんな事を考え始めたらアルティウムが一連の元凶にまで思えてきて…先程からの迂遠な態度も相まって、俺は心底腹が立ってきた。
「さっさと始めよう、先輩」
降りしきる雨粒を切り裂き、二本の剣が火花を散らして幾度となく交錯する。
匠には武道の経験がない。
故に体であるヘリオンに指示を出すにしても技術面や細かな機微はお任せである。
ヘリオンの戦闘様式は斧を前提とした直線的な剛の技。
超人的な身体能力を最大限に引き出し、防御をこじ開け、駆け引きを突破し、粉砕するのが本領。
対するアルティウムの剣技は変幻自在な柔の技。
相手の間合いを外し、攻撃をいなし、陽炎の如く翻弄する。
そうして生み出された隙を見逃さず、打って変わり烈火の如く攻め上げるのだ。
ヘリオンの一撃をいなし、アルティウムが突きで応酬すれば、ヘリオンは強引に体をよじってかわし、その勢いを使って蹴りを放つ。
それを見越してアルティウムは咄嗟に半歩引き、蹴りの威力を殺して盾で受け切る。
そこから体制を崩したヘリオンの隙をつき、アルティウムは素早く横薙ぎを放つ。
「まだまだぁ!」
気合いと共に強引に前に出るヘリオン。
横薙ぎを盾の側面で受け、盾を削られながらもダメージを最小限に抑えこみそのまま体当たりをぶちかます。
「意気軒昂、君の体力は魔獣並だな。だが!」
下がると踏んでいたが、突っ込んでくる事も想定の範囲内。
盾ごと体当たりしてくるヘリオンに対し、アルティウムは盾の側面に食い込んだ剣を足捌きで少しだけ角度を変えて、その力を逃がしてやる。
アルティウムは正直なところ、ヘリオンという新しい弟弟子がここまでやれるとは思っていなかった。
駆け引きはまだまだだが、ゴズウェルさんに見出された5人の中で膂力と体力はトップクラス。
見どころも伸び代もある。
今後が楽しみだ…しかし、この戦いは終いだ。
ヘリオンの盾と体は体当たりの勢いを殺せず、アルティウムの剣をレールのように滑ってしまう。
このままアルティウムの脇を通過し、がら空きになった背中を一閃して決着といったところだろう。
「残念。ここまでみたいだね」
「体が…重いっ!」
ヘリオンの体を得てからというもの、匠はいつだってヘリオンに助けられてきた。
熊の如き腕力に鷹の如き動体視力。
頑健な体でありながら、その動きは飛来する槍を掴み取るほど早く動く。
それなのに、なぜ?
アルティウムとの応酬では常に一歩、遅れを取る。
(頭を冷やせ、匠!)
「反応が遅いぞ、ヘリオン!」
怒りのままに剣を振るい、いなされ、咄嗟の体当たりでケリをつけようとしたものの、あっさりかわされて万事休すだ。
「ここまでみたいだね」
高速戦闘の最中、アルティウムの冷笑を捉えた瞬間にドッと肝が冷えた。
冷静になれば簡単な事。
ヘリオンがアルティウムより遅いわけではない。
俺が、予測なしに戦うから遅れるのだ。
ヘリオンが苦戦するのはいつだって俺の側の問題だ……
(それでも私は…この体は君のものだ)
ヘリオンは、よく俺なんかに愛想を尽かさないなと思うよ。
(体が魂を見限るものかよ。安心しろ)
なぁ…ここからでも立て直せると思うか?
(こう見えて、君の体はなかなか強いからな)
ヘリオンの冗談に勇気づけられ、二人でクスリと笑い合う。
この世界に来て、気づけば俺には仲間や友人がたくさんできた。
その中にあって『相棒』と呼べるのは彼をおいて他にいない。
生真面目で、面倒見が良くて、どんな困難も打開してくれる頼れる相棒。
「頼む、ヘリオン!」
「応!」




