74話 敗北の代償
縁も酣、賑やかだった店内も空きが目立ち始め、酔いつぶれた仲間を助け起こして店をあとにする客を見送った頃だろうか、その男は近づいてきた。
「やぁ、遅くなりました。お二人の素晴らしい友情を祝して、気つけに一杯奢らせてください」
「んぁ?」
若干寝かけていたのか、カルギスが調子の外れた声をあげる。
「ありがとう。そろそろお開きにしようかと思っていたのだが…」
「まぁまぁ、そう仰らず。一杯だけでもお付き合いください。なんせお二人共歴戦の勇士だ。英雄とは酒と色を好むもの。そうでしょう?」
いかにもキツそうなにごり酒を注ぎ、男は印象的な笑顔を見せる。
コトリ、コトリ、とヘリオンとカルギスの前に盃を置き、最後に男は自らの盃を持ち上げて音頭を取った。
「お二人の友情と健康を祝して!」
盃をそれぞれに軽く上げ、酒を口にしようとしたヘリオンに、片眉を上げて睨みつけるカルギスが手を伸ばして制した。
「待てヘリオン」
「はて、どうかしましたか?」
「知ってるか?盃を打ち合わせて乾杯する作法のルーツってやつを」
「乾杯のルーツ?」
なにやらウンチクを語りだしたカルギスにヘリオンと男の視線が集まる。
「そうさ。なみなみと注がれたエールを打ち合わせてお互いの酒を混ぜる。そうやって毒殺を防いだそうだ」
「見かけによらず博識…なのですね」
「つまりだ…」
「つまり?」
祝いの席には似つかわしくない話題に訝しむ二人をよそにカルギスは続ける。
酔っているとはいえ、気遣い屋の彼にしてはかなり珍しい。
「お互いの酒を交換するのもまた、厳かな儀式というわけさ」
語り終えるか終わらないかの内にカルギスは立ち上がり、ヘリオンの酒をひったくるように取り上げてその酒を煽る。
あっという間に飲み干し、ドンッ!と空にした盃をテーブルに叩きつけた。
「カルギス?何を…」
「ひいぃっ!」
カルギスに睨みつけられた男は、見る間に顔を蒼白にすると腰を抜かしたように床へ転がり落ち、ヒィヒィと呻きながら退散した。
「まさか、その酒に…」
「あいつはウェスパシア訓練所で、議員の執務室によく出入りしていた男だ」
「カルギス…毒は…体調は大丈夫か?なぜそんな酒を飲んだ?」
心配するヘリオンに、カルギスは彼らしい豪快でさっぱりとした笑顔を向ける。
「あぁ…ヘリオン、お前に会えて本当によかった。お前と同じ道を歩く者に卑怯者はいらない。そうだろう?」
声を震わせ、瞳を潤ませて、気の良い大男は巨木が切り倒されるように、その場に崩れ落ちたのだった。
「きゃあぁぁ!」
「店主!」
テーブルの上の食器はおろか、テーブルごと引き倒して派手に倒れたカルギス。
その物音で異常を察した数人が声を上げる。
そのただ中で匠はパニックを起こしていた。
ど、ど、ど、どうしよう!
カルギスが死ぬ!
落ち着け、落ち着け…
毒を飲んだ時の対処法は…誤飲した場合、まずは119番!いや、待て待て、ここにそんなものは無い。
人工呼吸…は、違う。
解毒の民間療法、解毒の民間療法…知らねえぇぇ!
「ヘリオンさん、落ち着いてください」
倒れているカルギスの傍らで慌てふためく俺の耳に、柔らかくも凛とした声が響く。
パティアが酔いの冷めた真剣な表情で、俺の横に膝をつき、痙攣するカルギスを丁寧に見分する。
「マンティさん!清潔な水と牛乳を!」
「かしこまりました!」
いつの間にやら傍らにいたマンティさんが素早く応じた。
こういう時、女性というのは本当に肝が据わっているな…
「ご主人!炭はありますか?」
「へ、へぇ…炭?炭っていうと…」
「竹か、とうもろこしの炭があると助かりますわ」
「炭ねぇ、とうもろこしの炭なら無くはないが…」
「急いで!」
「は、はいぃっ!」
頭をボリボリ掻き、そわそわ逡巡していた店主に檄を飛ばすパティア。
うむむ…人の事は言えないが、やはり男はダメだ。
「ヘリオンさん!カルギスさんの顔を横にして、指で舌の奥の方を押してください。吐けるうちに吐かせないと!」
「えぇ?シタって…舌の事?」
「早く!」
「は、はいぃっ!」
その後の事は正直あまり覚えていない。
恐る恐るカルギスの口に指を突っ込んで吐かせて以降、俺に出来ることはほとんどなく…というか役に立てず、テキパキと指示を出すパティアと斐甲斐しく動き回るマンティさんを心のなかで応援し、ぐったりしたカルギスに声をかけていたような気がする。
炭を刻んで飲ませ、牛乳を飲ませ、吐かせて、治療院に人を走らせ、吐かせて、水を飲ませ…
ともあれ、パティアのおかげでカルギスが一命を取り留めたのは間違いなかった。
「パルテナスは医療も進んでいるんですよ」
カルギスが治療院に運ばれて行くと、一息ついたパティアは自らを落ち着かせるように、動物が炭を食べて毒を排出する事や二日酔いを和らげるのに牛乳が有効な事などを丁寧に説明してくれた。
匠としては、現代日本でも有効とされるような治療法が、顕微鏡すらない2000年近く前に既知のものという事実に驚いたわけだが…
「パティア、カルギスを救ってくれてありがとう!君がいなかったら大変な事になっていた。本当にありがとう!君を尊敬する」
たとえ知識があったとしても実践できなければ人の命は救えない。
彼女の深い知識と胆力があればこそ。
心からの感謝と労いを込めて、ヘリオンは彼女の手にそっと触れるのだった。
「カルギスは俺の親友だ。パティア、君はなんて素晴らしい人なんだ!本当にありがとう!君が好きだ」
店主から供されたお茶の入った盃を握るパティアの両手を固く大きな手で優しく包み込み、彼はとても穏やかな表情で彼女に言ったのだ。
「え、えぇと…」
一息ついたパティアは、憧れのヘリオンの前で少しはしたなかったかしら、とちょっとだけ後悔していた。
そんな心境であったから、ヘリオンの不意打ちには意表を突かれ、衝撃を受けた。
衝撃が強すぎて、色々と願望が混ざってしまったのはご愛嬌である。
彼の体温が、脈動が触れ合うその手から伝わってくる。
それは己のそれとは違う不協和音。
なのに、なんて心地良いのだろう…
顔を紅潮させ、ふわふわと夢見心地の彼女は思考する。
これは…これは…もう、プロポーズも同然なのでは?
純粋培養で大切に育てられた貴族のお嬢様、結婚適齢期のパティア大使の脳内では、故郷パルテナスに咲く美しい花畑が、吊り橋効果とアルコールを伴ってどこまでも広がり、二人を祝福するウェディングベルが厳かに鳴り響いていたのだった。




