67話 絶望を祓う一筋の羞恥
「さぁ、ショーを始めようじゃないか」
視力を失った匠は、ラナンキュラスの非情な宣言に心底から恐怖していた。
(匠!どうした?!落ち着け!落ち着いて奴に備えなくては!)
信じるべき相棒の声も今の匠には届かない。
殺し合いの最中に目が見えないんだぞ?
これが落ち着いている場合か?
真っ暗になってしまった匠の世界を覆い尽くすのは、歪な発達を遂げた古代ローマ帝国と思しき闘技場に迷い込んだ、場違いな現代人をあざ笑う観客の嘲笑だ。
「これだから平和ボケした日本人は…」
「最近の若い奴はこれだから…」
「見ろよ、あいつ親に捨てられたらしいぜ…」
目を閉じても、耳を塞いでも、布団に潜り込んでも、その忌々しいヒソヒソ声は匠に囁やきかけてくる。
嫌だ、嫌だよ……姉ちゃん。
匠が困った時にはいつでも近くにいて頼りになる姉も、両親が亡くなってしばらくは思い詰めていたのか、彼をかまう余裕などはなかった。
視力を失った剣闘士の戦い方とて、きっと教えてはくれないだろう…
暗闇に一人取り残され、周囲から後ろ指を刺され、小さくなって震える匠を突如照らし出したのは一条の光明。
「ヘリオン!後ろー!」
その声は姉によく似て、似て非なるもの。
本来であればうっとり聴き惚れたくなる美しい声音。
それが自分のために懸命に喉を枯らして呼びかけてくる。
この声は…パティア…さん?
彼女がこの試合を見ているのか?
いつから?
パティアの存在を意識した途端、あっという間に猛烈な羞恥が匠の心を塗り替えていく。
こ、こんな情けない姿を彼女に見られていたなんて…穴を掘って埋まりたい。
心中で赤面した顔を手で覆い隠す匠の耳に、周囲から投げつけられる中傷などもはや届かず、何の意味も成さなくなっていた。
(惚れた女に救われたな、匠)
…ほ、惚れ……たって、ヘリオンさん?
(あぁ、男ならいいところを見せてやれ)
男なら…か。
俺は姉ちゃんに守られてばかりで、これまでに“いいところ”なんて一度でも見せた事があっただろうか。
せめてこちらの世界でくらいは、パティアさんやオドリーにいいところを見せて安心させてやりたい。
(落ち着いたな?)
もう大丈夫。すまなかった、ヘリオン。
(よし!私と匠が力を合わせればあの程度の輩など物の数ではない!)
応!
(目が見えなければ、聞けばいい。そうだろう?)
お、応!
(我らには視力なぞ不要である事を教えてやれ!)
お?
視力なぞ、ふ、不要?
本気?
ザワザワ…
その時、観客は目の前で起きている事態に理解が追いつかず瞠目していた。
「お、おい!なんであいつは目を瞑ったままで剣をかわせるんだ?!」
「俺が知るか!全部見えてるようにしか思えんぞ!」
「演武でも披露しているように滑らかな動きだ…」
ラナンキュラスによる背後からの一撃を、パティアの叫びに合わせてわずかに避けたヘリオン。
それだけでも称賛ものの動きであったが、そこから先は誰の目にも驚嘆すべき光景が繰り広げられていた。
致命傷となるはずの強襲をかわされたラナンキュラスであったがその動揺を隠し、ヘリオンの目が開いていない事を確認するや、今がチャンスと見て猛然と追撃を敢行。
だが何度剣を振ろうとも、剣筋を変えようとも、全て寸でのところでヒラリとかわされてしまう。
まるで約束組手のように。
一体、何が起きている?
攻め手であるはずのラナンキュラスは焦燥と怯えを抑える事ができない。
(目が見えなければ音を聞き、風を感じるまでの事…)
風を感じるまでの事…と、澄まし顔で言われてもなぁ…これってヘリオン以外にできるのか?
ハハ…とつい呆れ笑いが漏れてしまう匠であったが、できている以上は仕方がない。
まして、それを行っているのは己の肉体だ。
(剣とは踏み込みが肝要。なれば、その踏み込みを耳で察知すれば位置とタイミングは計れる)
できるかできないかはともかくとして、言いたい事はわかる。
(次は、勢いと剣筋だ。相手が強く振り上げるのか、風を切って突いてくるのか、それは己に触れる少しの風を感じとれば判ろうというものだ)
これに関しては全くもって理解不能。
もはや開き直っておまかせするしかない。
「なぜだ!なぜ避けられる?なぜ当たらない!」
息を切らして問いかけてくるラナンキュラスにたいして、当然とばかりに反駁するヘリオン。
「お前にはわかるまい。遠き故郷に残した姉妹を思い、想い人の声に応えんとする思慕の念の強さが」
ヘリオンさん?!
ちょ、ちょっとこれは恥ずかしいっす!
「思慕の念だと?そんなものが役に立つものか!」
(匠、頭に血が上った敵というものは御しやすい。奴の性格からして、最後に狙ってくる箇所は)
それなら俺にも判る。
首だ。首をはねようとしてくるはず。
その瞬間、確かに俺にも感じることができた。
ラナンキュラスの怒りの熱気を纏った剣風が横薙ぎに迫るのを。
迫りくる風をギリギリで屈んで交わし、ザビア訓練士長に何度となく振らされたスパタを教わった通りの速度と角度で、がら空きになったラナンキュラスの胴へと滑り込ませる。
「だから、お前にはわからぬと言ったのだ」
珍しく饒舌なヘリオンの呟きを耳にした時、目の前に広がるのは、ワッと歓声をあげる観客達。
ようやく戻った視界が捉えたのは顔を真っ赤にして、煌めく大粒の涙をポロポロとこぼしながら歓喜に打ち震えるパティアの姿だった。
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